2 二十を越えたが囲いには面白い床柱

 げにや枯れたる榎にも吹き付け紙の花ぞ咲き、誓いはしるき日ごとの賑わい。野寺あるてふ昔にひきかえ、石の枕は宮戸橋にその面影を残すのみにて、姥が池に泡も立たねば、茶筅もいまは買い人少なく、変わらぬものは楊枝見世。白歯を磨いて出しておけば猿より人を呼子鳥。人丸堂のほとりまで水茶屋は軒を並べ、輪出しに結い、銀杏に結び、つぶし芸子やのめし髷。鼈甲は太きを尊び、銀かんざしは細きをいとわず、長い煙管に短い前垂れ。新造年増のよりどりみどり。小間物、絵双紙、貝細工。能代まがいのガラスは出来合い扇の箔紋とその光を争えば、縮緬紙の紫は紅丈長(べにたけなが)の朱を奪えり。
 赤玉の薬屋は並びの数珠の看板で間に合わせるかといとおかしく、お多福の名を着せたる弁天の向こう店に見面(みめ)よりを製すも興あり。これは皆様ご存じの、はねたりとんだりよいよいの、拍子は後の大神宮の、拍手の声に混じ、名代の榧(かや)の砂糖漬け。鬼がちゃんちゃん打ち鳴らす鉦鼓は六部の回向にまがえり。されば手遊び屋に見世を張り、くだりのおやま人形も緋縮緬の二布でなければ人の目につかぬが浮き世。松風を鬮(くじ)でとらせる鼠は人の詞を聞きわけ、酒といえば銚子をくわえ、女郎といえば土木偶の姉さまを持ってくる。嗚呼、生きとし生けるもの、淫酒の二つは離れがたし。

 ここらあたりの茶見世の奥は蒲団も敷かず、かいまき代わりのどてらをすそへ引っ掛けて天の岩戸にあらねども、簾(すだれ)おろした床闇に昼を夜なる二人寝にぽつぽつ話している。
 女はこの家の娘分、お初という浮気もの。はや、鉄漿(かね)をくいたがるとか。白歯はうるみ、眉毛も立ち、顔は少しあらびたれども、抱えてさてどうかにするには面白い真最中。男は三十余りに見え、田町辺りのちょっとした呉服屋の旦那株。松田屋の徳兵衛とて苦みばしった色男。
「こう、先度から次郎吉がてめえに誰かを世話しようと骨を折っているそうだ。いつまでも俺が世話になっていても詰まらねえ。相応な者ならば家へ入れるがいいじゃねえか」
「嫌だよ」
「そりゃあ、はや俺が前(めえ)で『うん』とも言われめえが、相談づくにするがいい。ご婚礼のお支度のご注文はうけたまわろう」
「ええ。嫌だと言うにひつっこい」
 と、ちょいと男の肩を食い付き、
「家の小指がやかましいもんだから親切ごかしに『長棹のその手じゃゆかぬ。出直して』と浜村屋が言ったならじやじやがこようけれど、私じゃあ収まらねえ。ねえ、徳さん、そんなにびくびくしなさんな。なんぼこんなとんちきでも、『女房去らせてわしがなる』と古い台詞は言わねえよ。こうしているが気楽でいい」
 と男をぐっと引き寄せて、
「いま、黒丸子を呑んだから、ちょっとにがきゃ堪忍おし」
 と、たっぷり口を吸わせ、股(もも)の間へ男を挟んで仰向け様に体をひねれば、男は女の下前をかきのけながら乗りかかり、
「濃浅黄の大幅を三筋だけよこしたに、一筋おろして締めればいい。水へ入(へえ)った縮緬はざらざらして、膝っ小僧へあたり心が悪(わり)いもんだ」
 と栄耀に餅の皮ならで剥くように二布をまくれば、女はそこへあたるようにそっくりと持ってくる。
 嗚呼、このお初という娘、革羽織とか世にうたう摺りがらしのように見ゆれど、子どものときより小癪にて、逃げ隠れはせしかども、すぐさま親に取り戻され、亭主は持たず、商売はせず、近年までは六十余の老人に囲われて、堪能をするほどに男に会いしことなければ、打ち見のすごきにひきかえて、まだかの心は顔ほど荒らびず。
 お歯向き心で吸わせた口で己が味に気が変わり、門口ばかりあしらわれるがもどかしく、訴えるごとく身は畳に落ち着かず、風に漂う海女小舟、浮きつ沈みつするほどに、枕に楫(かじ)の音聞こえ、満ちくる潮は藻屑を伝いてあふれ、男の体を両足に引き締めては緩め、また引き締めては我身を引き、腹をつかせ、すりつけ、男の攻めも待たず、己一人で秘術を尽くし、ようやく正気に立ち戻り、
「ああ、もう、暑い」と目を開き、「なんだな。人の顔を見ておかしいことがあるものか」
 と言うに徳兵衛笑いを含み、
「なぁに、ひがみこんじゃうな。誰がおめえを笑うものか。何もこれが隠れ忍んでこうしているというではなし。静かにしてもいいことになったろうにあせるから、これ、びっしょりと汗になった」
「そうかの。どうりで肌が冷たい」
「馬鹿な。そりゃあ汗じゃあねえだろう。どれどれ、どこが何だ」
「あれさ、話をおいちゃあ悪(わり)いわな。なんだかどう暗くしても、こう昼は気が散って、しんみりとしねえようだ」
「それじゃあ、このくれえならしんみりしただろう。お初さん、おらあ、おめえに頼みがある」
「なんだな。人を馬鹿にして。早く言ってお聞かせな」
「願いといってほかでもねえ。おめえのややを」と。
 女はわけなく嬉しがり、「男の情を移すときが、わっちゃあ、いっち嬉しい」と夢のようになっている。

 表へ雪駄の音せわしく入りきたるは道具屋小七。茶くみ女のお福に向かい、
「徳さんはいなさるか」
「いいえ」
「なあに、しらを切んなさんな。俺と一緒に一昨日買った唐丸の雪駄があらあ」
 と、奥へ行くのをお福が止め、
「何だかいま、用があるから誰がきてもよこしちゃあわりい、と言っておきなさった。私がちょっとそう申して」
「はて。野暮を言いなさんな。用はたいがい知れたもんだ。俺に隠すこたあねえ」
 と、障子を開けてずっと入り、
「もう、ええ加減、痴話んねえ」
 と言われてお初は帯をとり、ぐるぐると巻きながら、
「おや、小七さん。案内もせず、ずかずかと。不躾でも何でもないよ。お福さん、お茶を三つ。二つはうめてぬるいがよいよ」
 と、ちょいと火入れへ手をかざし、
「さあ、一服おあがりな」
 と差し出せば、小七は煙管を取り出しながら、
「こう、徳さん。ちと欲張った話だが、うんとさい言いなさりゃあ、まんざらでねえことがある」
 と言われて徳兵衛は、図々しく寝ながら振り向き、
「うまくいくなら乗りもしようが、まあ、筋を言ってみねえ」
「さあ、狂言の発端は、舞鶴屋の菊里が夜具は大丸(まる)でできたっけが、京機(きょうばた)の鴛鴦(おしどり)ぎれえ。いいころにふるびがついて、私が見ても古金襴(こきんらん)さ。さて、それからの思い付き、回り遠いようなこったが、あの聖天へ日参でいつもここへ寄り付けの江戸神のきたり喜之助。あいつを玉に」
 と、言いかけるを見世からお福が飛び出て、
「もし。喜のさんは先しがた、また例ののたまくで、それ、そこへ転げ込んで縁側に寝ていなはった。めったなことをお言いでないよ」
 と言うに、お初はいまの騒ぎを洩れ聞かれしかと呆れ顔。
「おや、お福さん。なぜ私にそう言っておくれでない」
 とこわごわ障子を開けてみて、
「なあに、白川夜船でさ、遠慮はないさあ。お話し」
 と笑えば、お福は口小言。
「喜のさんがおいでだとあれほどさっき言ったのに、自分が夢中になっていて、知らせてくれぬもよくできた
 と尻目に見やって立っていく。
 小七は少し小声になり、
「おめえは心安い人だが、俺はほんの見知りごし。いい旦那について歩いて、おつう座敷も持つそうだ。もし、あの人に」
 と耳に口。
「ね。よしか。そうするとあの先生が、どこかの旦那へ働きぶりに話しかけると欲の世の中、ぜひその夜具を取ろうと思って乗り込んできたそのときに、菊の井にのみ込ませ、代わりの夜具はおめえのところへ来るように働かせる」
 と聞いて徳兵衛、にこにこ顔。
「そいつはどうかいきそうだ」
 と、お初のほうを振り返り、
「主(ぬし)と俺は知らぬ顔で見世に腰をかけているから、喜印を起こしてみな」
 と言えばお初は笑みを含み、
「ここへはよく聞こえましたよ。それができると小七さん」
「しっかり奢りやす。おめえ何でも口まかせ。相槌を打ってくんな」と。

 二人が外に立ちいずれば、お初は茶碗に水を取り寄せ、
「喜のさん、喜のさん、日が暮れるよ。水を一杯おあがりな」
 と揺り起こされてびっくり飛び起き、
「いやはやとんだ夢を見て、心持ちが味になった
 と茶碗をとってぐっと一息。
 呆然としたる顔、差し覗き、「何の夢を見なはった」
 とお初に問われて吐息をつき、
「観音様の本堂で通夜をしていたところが、額に描いた頼政が抜けて出たと思いねえ。古法眼の馬が夜よる、草を食いに出たそうだが、頼政も浅草餅でも食いにゆくのか、けだしまた大∴(だいみつ)へ矢大臣と出かけるのかと見ていると、天上から紫雲が下りて天人が降りてきて、ことかいなあの御姿。ころりと寝ると頼政は心得顔にして近寄り、蜀江錦の二布に触れれば、霊香四方に薫じ、むくむくとしてうまそうな無明の酒の酒太り、雪の肌(はだえ)ということも天上よりや言いそめけん、木にさえ餅のなる世界、股(また)の間の饅頭もあるであろうと、好ましく頼政は目を細くして、
『あれ、あれ、家臣猪の早太は鵺(ぬえ)をとらえて九刀(ここのかたな)。俺はそもじを切り通す、どうじゃ、どうじゃ』
 と、ややしばらく何からやらどきから起こる霓裳羽衣(げいしょううい)の天上楽に、袖を翻して三度まで舞い返されて天人は、ただ『はあ、何』という声も、簫(しょう)、笛(ちゃく)、琴(きん)、箜篌(くご)。夕日ほど顔はほんのり赤くなり、極楽中がひときりよ。それよりはいなと肌も天衣も八功徳池の波に濡れて、
『こういうところを菖蒲(あやめ)さんが見てなら腹をお立ちだろう』
 と、男の顔へうちかける足高山や風市(ふじ)三里。もうもう、いつかそのときも幽かになりて天津乙女(あまつおとめ)の極楽のところをありあり見て、ああ、もう、どうもよい夢を見た。お福さんでも貸してくんな」
 と言われて、お初は傷を持つ足。いま、取り乱せしわが声を聞きてのことかと笑いも出でず、「おやもう、いかな」と言ったばかり。
 喜之助は小首を傾け、
「蛇の交尾(つるむ)を見てさえも仕合がよいという。天人の遊牝(さかる)を見たらいいことが吹き付けよう」
 と一人で祝っている面(おもて)に、小七が声にて高々と、
「徳兵衛さん、ちっと金さえ働くと、儲かることがありやすね。舞鶴屋の菊里が夜具をよく見なすったか」
 と問えば徳兵衛、真顔にて、
「あれはこの前、長崎の客人がこしらえてやらしった古金襴」
「そうさ。本圀寺の鴛鴦裂(おしどりぎれ)にちっとも違ったこたあねえ。茶入れの袋だけあると捨て売りでも七十両。夜着と蒲団が丸であると立派な地面が四、五か所買える。禿(かむろ)育ちで人がいいから、この夜具を古くなったと気にしているところへつけ込み、あいつをこっちへ巻き上げて、といったところだが元手がねえ。いや、だいぶ陽が傾いた。徳兵衛さん、おゆるり」
 と立ち上がるを押しとどめ、
「どうで、今夜もあっちだろう。一緒に中の前まで行こう。お福坊、気をつけな」
 と小七とうち連れ、徳兵衛も忙がしそうに立ち返る。
 喜之助、これを洩れ聞きて酒の酔いもさらりと醒め、
「お初さん、いま、おもてで噂のあった菊里は見世だっけの」
「とんだことをお忘れだ。付け回しでいい女郎衆さ。そのくせに下総の五分一で田左衛門という百姓の娘だっさ。七つのときに売れたが、ぜんたいが貰い子でほんの親を探していると、それを文使いの七どんが詳しく話して聞かせた」
 と、茶汲みのお福が親里を思い出すまま菊里が生まれ故郷にとりなして、口から出まかせ言うとは知らず、己が渾名(あだな)のきたりと手を打ち、暇(いとま)もこわず走り出す喜之助。その行き先は次に見えたり。


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