終 話 雪霜の清きがうへに冬の月

 君子は一人いるときいよいよ慎む、とはよう言うたもの。見るに目の毒、触るに煩悩。お雪も浮世のことはとんと思い忘れていたりしが、思いもよらぬ旅の寝覚にあられぬものを一目見しより、仏の道に入りながら浮き勤めせし昔より食べつかぬ珍物に心動き、寝太郎を幸ひにものせしも、ようよう半ば過ぎぬほどにて何とやら心残り、末来の迷いにもなりなんものと勝手づくな了簡なり。
 せめて今宵、も一度、思いの限りをとげてみたら、それを一生の名残りにして、ふつふつ男女の煩悩は思い切らんと心に誓い、その明けの夜の泊りは我も酒など呑み下女男にも強いて呑ませ、なおなおよう寝入らせて目覚ぬようと巧みすまし、下女が寝入りを待って何やらたくさんに用意して、そろそろ次の間へきてみれば、酔い倒れて死んだも同然。嬉しやと心落ちつき、我がでに帯紐解くを、六助、ふっと目を覚し、びっくりせまいものか、仙台生まれの正直さ。
「こりゃまあ、御主人さまを、やれやれ、とんだことだもさ。真っ平ご免」
 と起き上らんとするを押さえて、
「ああ、これ。何も言いやんな。いまが大事のところ。これ、拝むわいの」
 とのぼせきり、何言わるるやら言葉もしどろ。
「ぜひ言いつけを聞きやらぬと勘当しようか」
「さあ、それは」
「さあ、さあ、さあ」
 と主従しきりに押し問答の科白もはてぬ最前より、後ろに立ち聞く道連れ男。始終見すまし、つかと駆け寄って、帯解き広げて理詰め言うていたまうお雪どのをひん抱かえ、奥の間さして駈け入ったり。
 六助はあまりのことに、渡辺が鬼の腕取り返されたように呆れ果ててぞいたりける。件の男は己が座敷の蒲団の上へおろすやいなや、この間からつけまわした願い、お礼は後で申さんと、六助にも劣らぬ大の背高。会釈ものう押し伏せる。後室お雪は夢かとばかり、はっと心も消え消えに、「何国の人かしらねどもこれはあんまり無体なことなり」。

 はや告げ渡る明けの鐘、名残り惜しむも宿屋の朝めし。供の手前も気の毒と何喰わぬ顔、膳にすわるうち、いつの間にやら先へ旅立ち男は見えず、あられぬものを盗まれたごまの灰よと憎まれ、はや翌日は善光寺の町へ着き、荷物預けて三人連れ。本堂へかかるところに何やら人立ち、押わけて見れば夕べの道連れ男、立ちづくみにしゃきばり返っている体は、「仏さまの罪を受けた盗人めじゃ」と口々笑うも胸にこたえ、見捨てあげるきざはしにて、「何とかしけん、お雪殿。一足も引かれぬ」と立ち寄る六助。同じく釘で打ち付けたごとくうろうろするは下女ばかり。「そりゃこそ、ここにも罪の深い女よ」とばらばらと人だかり。
 なかにも寺僧とおぼしくて、「いとしや女中。罪の覚えあるならば、包まず懺悔しられよ」と、詞にお雪は恥しさと悲しさに大声上げて歎かれしが、このとき誠の仏心起こり、若いときから身持ちのよしあし、人知れず作りし罪の数々、道中のしだらまで、ありしことども、こまごまと懺悔の言葉の下よりも不思議や両足自由になり、本堂へ上がるとすぐに二つ髷根元から押し切って、御刺刀いただき、名も妙雪と尊き姿。
 ここに不思議は六助が身長、じくじくじくと雪霜のごとく世間並みより小さきくらいになりけるは、これ皆、仏の方便にて菩提を進める種ならんと皆一同に手を合わせ、ありがたかりける話なり。
 それより故郷の難波津にて、天王寺の片あたりに奇麗なる庵をしつらい、行ないすまして一生をめでたく送りけるとなり。


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