第五話 我からや油に浸る夏の虫

 世の例えにも暑さ過ぎれば影忘るると、お蘭もここ、二、三年は栄耀に誇って、旦那の目をかすめ、あるまじき身持ちも多く、おりおり立鉄が妙針にそそのかされて悪性も、根が心底の柔こいゆえと下女どもが憎しみそしるも、鼻毛読まれてからはさしもぬからぬ鴨仙も夢にも知らぬ様子。

 その年も暮れ、明くればお蘭二十二の春、女の脂の乗る最中とますます寵愛も甚だしく、折りからここ、四、五日は、旦那も見えぬと待ちかねる夕暮れ、鴨仙立鉄同道にて入りきたれば、「なぜこの頃はうとうとしきこと。人の心も知らずにむごい男」と、あまえてかかる上手者。旦那、涎を三尺も流して、
「さればされば、聞きてたも。そなたもかねて知ってのとおり、京の伯父貴、『娘を嫁に迎えよ』とだんだんの催促。これまで突き伸ばして置きたるに、そなたのことを聞き伝えて伯父の立腹。『お蘭という寵愛の女あるゆえ、このほう、いいなずけの嫁を嫌うからは一分立ちぬ。一ツ家のなかも義絶』などと難しゅう言い越したるゆえ、番頭はじめ手代どもの言うは、『このほうも意地づく、いったん京の伯父御の言い分を立て、しばしのうち、そなたをいずかたへも片付けたぶんにして、京の嫁入りを変えがえし、その上にては本妻になりともご勝手になされよ』と評議なれど、計略にもせよ、そもじを外へ片付けること大の迷惑。そなたとても一日も別れている気はあるまいと、かねてから知恵者の立鉄老同道したは、改めてお頼み申させばならぬ筋。日頃から御心底の堅いところを見込んで貴殿へ一生の頼み、なにとぞ、表向きはお蘭を女房分と名付けてお引きとりくだされ。内証は妹にしてしばしの間、預かって下されたら、相変わらず我らが妾宅、これまでのとおり、毎日、毎夜、ないない通うことなれば、貴公のお宅もどこぞもそっと広う奇麗な家へ宿替えして、釜もかかる、小座敷も前栽もあるところ、ご得心も下さらば急々に普請に取り掛かり、物入りなんかは我らより何程なりと入り用次第。男と見込んでお頼む、ぜひぜひ、お飲み込み下され」
 と押し付けての平頼み。
 立鉄は空いた口へもちかけた幸せ、わざと頭をかき、
「これはまた思いも寄らぬ、年来御恩の旦那。何なりとも命にかけてうけたまわりうちのこと。しかし、こればありはあっと申されぬと申されぬは、眼前、お蘭さまのお心の落ちぬこと。たとえ計略にもせよ、拙者が女房分の妹分の、いやいやもったいないこと」
 と尻目で知らせばお蘭も「これはあんまり早却な思い付き。ほかに思案はないことか」と涙ぐんでみせれば、
「はてされ気の弱い。ちっとの間の計略、京への意地づくさえ済めば、さっぱり嫁入り変替して、その後は天下晴れての奥さま。気遣いすな」
 と背中たたいて得心させ、まず何よりは立鉄変宅取り急ぎ、幸い、堀川あたりに間口、四、五間の隠居家、急々の宿替え。鴨仙も毎日見えて庭の飛び石すえたり、小座敷の指図銀の入ることに構わず、世の中はそれ次第。三、四日経たぬうち、れっきとした玄関つきの下屋敷、鴨の池家の手代が袴いためつけ、いよいよ今晩、表向きからお蘭が引っ越し。世間は嫁にもらう分、立鉄が思う壷。一ノ富と突き留とを一度に取った心にて天にも上がる勢い。酒より肴と大きに張り込み下男はきりきりまい。はや暮れ過ぎて鴨池家の出入り頭、袴、羽織に駕籠つらせ、下女のおりんが介添え役。樽肴一荷、挟箱、後から箪笥三棹に長持ち二つは浮き世小路からおいおい運ぶはず、何もかも持ち込んだ上へ祝儀の盃ゆるゆるご馳走下さりょう。まず本樽をご来臨、我らは宰領やら仲人やら、内証はかねて申し合わせのとおりと言いつけ、今晩中に運ぶつもり、後の荷物を急くと、とつかわとして出て行く。

 駕籠を明ければすらりすらりと座に直るお蘭が風俗、今夜はひとしお着飾った美しさ。綿帽子かずいたところは天人の影向(ようごう)かと立鉄見とれて、
「ほんに我らは夢のような。いやまたこう作りたてたところは、妹分、内証お内儀さま。ほんに夢ならさめぬうち、ちょっと抱き寄せ、口、口」
 とはや我が物顔のたわむれ。胸のあたり手を差し入れればお蘭も微笑み、
「おお、せわしない。台所からりんや男衆が見ている。後にいなぁ」
 と言い言いも、好きならばじっといらわしている体。
「さあ、我らも日頃の念願成就、後までは待たれぬ。まあこう」
 と、いたずらしかかれば、
「ああ、せわしない。また後で」とお蘭、美しい顔にしわ寄せ、「ええ、つつともう、それ、それ」と立鉄が手のひらへ打って押しのける。
 その手をなでつつ、
「ほんにそれよ、この後荷遅いこと。三助、ちょっとひとっ走り見てこい」
 と自身も門口へ出て上下見れど、提灯も見えぬ。門違いはせまいし、あほうらしい、と一人ぼやいているところへ走りて戻る三助。
「もうし、もうし。浮世小路の家へ行ってみましたら、表の戸が閉めて、貸し家と札が貼ってござります」
 何をあほうめが取り違えたものであろうか。何にもせよ、遅いが不思議。まず狭箱開けてみれば中は空きがら。何か封じた上書に去り状のこと。これはどうじゃと心せわしくて開けて読めば、
『一つ、その方、勤めの身を引かせ、段々の恩を忘れ、立鉄と不義いたし候こと、確かに見届けおき候。立鉄がこと、年来出入りの義理も思わず、言語道断不届きの致し方もこれあり候えども、宥免(ゆうめん)をもって離縁勘当致し申し候。もっともこの度の意趣により、衣類はもちろん、妾宅づきの諸道具、残らず取り上げ、追い出し申し候。立鉄がこと、宿替え入り用出しやるべきことも偽りに候。この後、鴨の池一統へ一切立入り無用のこと』
 二人はびっくり、開いた口ふさがれもせぬわが身の罪、頭をかいても皆、後へん。この沙汰、世間へぱっとなりては、ますます顔だしならぬ仕儀。
 とつつ追いつのその翌日からは、材木屋はじめ大工日雇いが作料の催促。下女下男はこの様子を聞いてこそこそと抜けていく。東堀の親里へも寄せつけず、いまは大坂にたまりかね、二人連れにて京へ夜脱けに上りたとの噂なり。


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