第一話 そろそろと手折や梅の含(つぼみ)より

 いでや仏も外面似菩薩、内心如夜叉と説かれしも、婦人は表向きは美しゅう見ゆれども、心の底は夜叉のようなと釈迦如来の仰せられ、すでに近いためしは玉藻前は那須野の原の古狐、紅落狩の女性は皆、戸隠山の鬼の化けたのじゃと、聞き伝え、言い伝えも、眼の前に当世の解け髱(つと)に霞鬢(かすみびん)、首筋もとの美しさ、物好きの派手衣裳紅の二布蹴りはらし、白き脛見せかけたところはどうも鬼神とも狐とも思われず、男の迷うはよくよくよい物持っているゆえと自慢心から、わが身の年寄るも知らずうかうかと浮かれ歩き行く女ほど心許なきものはあらじ。幼きときは親に養われ、夫を持っては男に従い、老いては子に任すを女の三従と言うとかや、姿かたちの化粧よりは、心のうちの気配、身仕廻りを一生忘れず、心を美しゅう持って縫針うみつむぎさえまめやかならば、年寄りても夫に疎まれるるもなう、身を終わるまで安楽に暮らさるるは誠に女の徳ぞかし。それに引き替えて今時の娘は、まだ幼少より歌舞伎芝居、操りの文句の悪性のみを聞き習い、人に惚れらるるばかりをよいことと、遊女同然の身持ちより、果ては浮き名を流すのみか。小野小町器量自慢の身の果ても多かりけらし。

 ここに難波の東堀とかやいうほとりに、播州の浪人、餝磨(しかま)源内とて、女房は島原の前のよし野太夫、この女ゆえに主人の勘当受けて年久しゅう大坂住まい。夫は手跡の指南、女房は琴三弦、豊かにはなけれど食いかねぬ世躰に、二人が中にお雛とて今年十三の娘、生まれつき美しゅう両親の寵愛大かたならず、手習い読み物はもとより、琴三弦諸芸抜け目なう教え込み、手の内の玉とかしずかれけるに、この娘、生まれついてのませ者、近所の問屋、近江屋の何某の子息、富次郎とは小さいときから仲良き友だち。いまの子ども遊び油断がならず、二階の隅の隠れん坊、蔵のうしろの草履隠しも終いに夫婦事の稽古、まだかや粒蜆貝のわけなき同士をいい合わせ、愛し可愛の手習い。

 頃しも極月中旬、近江屋の年忘れ、親子とも呼ばれて行き、内儀は例の琴三味線さまざまの手事づくし、座敷の客は酒盛りのざざんざ、子ども同士の富次郎お雛は、小座敷のこたつに百人一首の本見ていたりしも、いつか寝転ぶ蒲団のうち、十五と十三ませ者同士、あたりに人目なきうちについ筆下ろしのことさえ覚えて、きゃ、きゃ、きゃとおる最中、「お雛、お雛」と母親の呼ぶ声。はっとびっくり起き上がれば見合わす顔。はや、座敷の客も皆、立ち出でて「今晩はご馳走さま」と、「さあさあ、お暇を申しやいのう」と言われて娘は眼をすりすり眠たい顔を見せても、粋のはてとて目水晶の母親、子どもじゃ、子どもじゃと思うても、もはや油断もならぬぞと、それからめっきり気をつけて一人遊びには出さぬようにすれど、さすが時代が違うて、よもやまだ、めったにひびりは入るまいぞ、入るまいぞと思わるるは世間一統、愛にあまりし両親の油断なることや。


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