日替わりげしょ定食

バックナンバー

[先月] [目次] [来月] [最新版] [トップ]


1999/11/1 237 テレビじゃわかりません (テーマ:野球vsサッカー)

食わず嫌い、という言葉がある。イメージだけで嫌いになってしまうというやつだ。そういう人に限って嫌い嫌いと言いふらしておきながら、実際に食わせてみると「○○はいいぞ〜」といいふらして回るほうになってしまう。特に、野球とサッカーの好みについては、この傾向が強い気がする。

もちろん、野球が嫌いな人もサッカーが嫌いな人も、それなりに見ているつもりなのであろう。しかし、テレビ中継以外で生で試合を見たことがあるか、と聞くと、たいていはNOという答えが返ってくる。で、好きなほうのスポーツはしっかり生で見ているのである。テレビ中継と生の試合を比べたら、生のほうがおもしろいに決まっている。こういう比較をもとに「○○はつまらん」と判断されてしまっても困る。いや、わたしは困らないが、もったいなくはないだろうか。

わたしは今年、野球とサッカーとそれぞれの生の試合を見ることができた。ついでにテレビの中継も見た。そこで持った感想としては、「野球もサッカーもテレビで見るとつまらない」というものだった。テレビの中継は、まず解説がうるさい。さらに、視点が固定されてしまって、自分の見たいところが見られない。CMのタイミングも不満だ。たしかにテレビで見る野球は冗長でだらだらしていて、テレビで見るサッカーはボールを追いかけるだけの人間の集団のようで緊張感がない。これでは嫌いになる人がいてもしかたがない。

サッカーや野球を嫌いになってはいけない、と言っているのではない(ただし、けなすのは問題外。選手もファンも一生懸命なのである)。嫌いだと言うからには、両方の試合を生で見て、それで比較してから嫌いだと言ってほしいのだ。嫌いだという先入観があるから行きにくいかも知れないが、野球もサッカーも2000円ほどあれば生で観戦できるので、行ってみる価値はあると思う。

ただ、いちど生の試合を観戦してすっかりはまってしまい、仕事をさぼってまで試合を見に行くようになる危険性もあるので、気をつけよう。わたしは実際そうなってしまった。こうなるともう手遅れで、かたぎに戻るのはなかなか難しい。何事もほどほどに。



1999/11/8 238 旅行者の義務でしょう (テーマ:みやげ)

どこかに旅行に行くとき、または旅行から帰ってくるとき、知人のためにみやげを買ってくるのが普通だ。この習慣はだいたいどこにいっても共通のものらしい。たとえ品物を提供できなくても、みやげ話という形で旅行先の雰囲気を伝える場合もある。「行ってきた」だけでは、周りの人の顰蹙を買うことは間違いない。ともかく、旅行に行ってきたことをアナウンスする以上は、みやげ物は必須のものである。

かく言うわたしも、去年エジプトに行ってきたときは大量のお土産を買って帰ってきた。別に心に決めた大事な人とかはいないので、安いばら撒き用のものを買ってきただけであるが。それでもエジプトならではのものに絞ったので、そこそこに喜んでもらえた。特にパピルス製のしおりは非常に好評だったのだが、実はこのしおり、わざわざエジプトで買わなくても日本でエジプト展などをやるときに売っているものらしい。しかし、こういうもののほうが、現地でしか売っていないチョコレートなどよりも喜ばれるのが現実だ。

エジプトならこのように地域独特のものがあるので良い。しかし、その地域で有名なものがない場合、海外旅行の定番的なおみやげを買うことになる。どこへ行っても売っているチョコレート、どこへ行っても売っている酒やタバコ、どこへ行っても売っているブランド品や化粧品、などなど。国内旅行の場合も、どこへ行っても売っている菓子や、どこへ行っても売っているキーホルダーやちょうちんなどを買わざるを得なくなる。そういえば今年の春頃はどこへ行ってもだんごが売っていた。食べ物や飲み物はともかく、キーホルダーなどはもらっても非常に困る。と言いつつ自分が土産を買うときはつい買ってしまう。

最近は土産の宅配サービスなどというものもあるらしい。旅行社にパンフレットが置いてあって、リストから選んで贈りたい人に贈る、というシステムらしい。しかしこれでは旅行に行けなくても買えてしまうではないか。しかも、旅行先のイメージが伴わないので、もらった人も困ってしまうのではないだろうか。それに、みやげと言うものは直接手渡しでないとその価値も半減する。以前にしかたなくみやげを郵送したことがあったが、贈ったほうとしては非常に味気なかった。受け取ったほうの感想は聞いていないが、感想すらなかったということはやはりありがたくなかったのだろう。

そういえばこの夏に韓国に行ったときは、みやげはほとんど買ってこなかった。ピンバッジやTシャツなど、自分用のものばかりであった。なぜかというと、旅行中さんざんみやげ屋に連れて行かれて、逆にみやげを買う気をすっかりなくしてしまったからである。いま韓国旅行のことを思い出しても、みやげ屋のことしか記憶に残っていない。あとは食べ物の記憶くらいか。だからみやげ話もない。わたしは韓国になにをしに行ってきたのだろう。



1999/11/9 239 意外と個性が出ます (テーマ:手帳)

この時期になると、文房具屋に来年用のカレンダーや手帳が並び始める。ちょっと早すぎるんじゃないかとも思うが、けっこうな数の人が足を止めて品定めしている。もちろん、売り場にいる全員が買っていくわけではないが。しかし、多くの人が手帳を見て回るのも納得がいく。とにかく種類が多いのだ。スタンダードなつくりのものでもけっこういろいろなタイプがあるし、その他にもシステム手帳やキャラクター物などもある。見ているだけでも飽きないのはたしかで、わたしも買いもしないのにずっと手帳売り場を見ていたことがあった。ともかく、来年の手帳やカレンダーを見ると、今年も終わりが近いな、と実感されてくる。

高校生の頃までは手帳の重要さはあまりわからなかったが、大学に入って自分で手帳を買ってから、重宝するようになった。高校生のときも生徒手帳を持っていたはずなのだが、全然活用していなかった。毎日毎週同じようなスケジュールで動いていたからだろう。生徒手帳のつくりがあまり使いでのないものだったこともあるのかもしれない。すでに何が書いてあったかも覚えていない。唯一使う機会があったのは、入学式や卒業式のときに校歌を歌うときだけだった。

大学に入ってから自分で手帳を買ったのだが、その手帳を今でも使っている。毎年買い換えるのは面倒だったので、システム手帳にしたのだ。中身を自分の好きなように入れ替えられるのも、わたし好みであった。手帳を買ってすぐにいらないものはさっさとはずし、一番使いそうなメモ用のページを増強した。大学に入ってすぐで知り合いも増えそうだったのでアドレス帳の紙も買い足した。しかし、その後普通の手帳とは違う路線を確実に歩き始める。

現在の手帳の構成を見てみると、最初に予定が書き込めるカレンダー、次にメモ用ページ、そしてちょっとだけアドレス帳。これでまだ半分いかない。残りの半分以上は地図と路線図である。JRの路線図に高速道路の地図、東京主要部の地図ときて日本地図や世界地図まで入っている。これでは手帳と言うより地図帳だ。ちなみにカレンダーへの書き込みはほとんどない。直前に入る予定が多かったり、書き込まないといけないほど予定が立てこんでいないためである。メモページもそろそろ整理する必要があるかもしれない。あと、クリアポケットには顔写真、臓器提供意思表示カードなどが入っている。

昔と大きく変わったのは、アドレス帳の部分である。携帯を持つようになってから、アドレスを書き込むことがなくなってしまった。たまにアドレスを書き留めることもあるが、専用のページを確保しておく必要はないほどに少ない。おそらく他の人もそうなのではないだろうか。市販の手帳も、もしかしたらアドレス帳の部分は減っているかもしれない。ちゃんとチェックしていないからわからないが。まあ時代とともに手帳のスタイルも変わる、ということで。



1999/11/11 240 111111111111.... (テーマ:ぞろ目)

今日は全国的に1がそろう日であった。なぜそれだけのことで無意味に盛り上がれるのかは不思議であるが、わたしもしっかり盛り上がってしまった。こんなエッセイを書いているのがいい証拠である。しかし11年11月11日11時11分11秒はたしかにめったにないものだが、3年8月12日15時47分31秒だって同じ確率で存在したのである。なぜぞろ目になる日だけ特別扱いしなければならないのか。

だが、ぞろ目を特別視するのは昔からのことなのだ。スロットマシンは7のぞろ目が一番出るし、77歳や88歳の誕生日にお祝い事をしたりもする。重陽の節句も一種のぞろ目だ。西洋では666が不吉な数字とされていたり。他にもいろいろ例があることだろう。挙げていたらきりがない。というよりこれ以上の例が思いつかない。

宗教に占い、おまじないや縁起かつぎなど、人は自分に有利に働く(かのように見える)超自然的な力のしるしを欲するものなのだ。と決め付けてしまうと人類学の先生に怒られてしまうかもしれないが、少なくともわたしが知っている範囲ではそうである。日本語で言えば「めでたい」や「ラッキー」(これは英語だが)と思われるもの、これに無意識にすがってしまうのだ。だからこそ人はぞろ目の数字に群がる。ゲームなどでもぞろ目が出ると特典を与えたりする。

しかし、「平成11年11月11日11時11分11秒」という数字をよく見てみると、実は非常に内輪的なめでたさしかないのである。たしかに1ばかりが並んでいる。しかし年まで1がそろっているのは日本だけであるし、イスラム暦などでは11月11日ですらない。こんなローカルなことで騒いでいるなんて、日本人は不思議だな、と思われてしまうかもしれないとが、そう思っている人も実はローカルなことで騒いでたりする。

要するに、めでたいということは非常に主観的なのだ。ぞろ目がめでたいというのも元々は主観的な印象で、みながそう思うから主観的でないように錯覚してしまうのである。数字自体は客観的だが、数字から受ける印象と言うのは主観的なのだ。というわけなので4年前の平成7年7月7日7時7分7秒に友達と騒いでいたのも、まあ良かったことにしよう。しかもたしかあの時は、徹夜で飲んでいたら偶然その時間になっただけだった。飲んで騒ぐときはなんでもネタにしてしまうものだ。



1999/11/16 241 買う価値なし (テーマ:買ってはいけない)

大きなお世話だ。

と、この一言で終わらせてもいい気がするが、それではWebに載せる意味がないので、もう少し何か書かなければいけない。

内容は人から聞いたのでだいたい想像がつく。おそらく普通に新聞や本を読んだりしていれば特に読む必要がないことが書いてあるに違いない。どうせ買ってはいけないものの最後に「この本」というのがあるのだろう。出すほうも買ってはいけないと思うものを売ってどうする。まあ、出すほうが買うなといっているので、買って読む必要もないのだろう。

おそらくこの本の中にも書いてあるのだろうが、一番の問題は、本来は買ってはいけないようなものに囲まれて暮らしていかなければいけない、という現代社会なのだ。実はわれわれの消費活動は生産側によって完全にコントロールされている。「この製品は実はやばいよ」という話を聞くたびにそう思う。われわれはまだ知らないが、実は健康や環境に悪影響を及ぼすもの、というのもまだまだたくさんあるのだろう。だから一つや二つ有害物質が見つかったところで、それだけに気をつけても仕方がないのではないか。わたしにとっては、今日食べた食べ物に有害物質が含まれているかよりも、駅の禁煙部分でタバコを吸う奴や、車を運転しながら携帯で雑談してる奴のほうが気になる。

そういえば、「買ってはいけない」は買ってはいけない、という題名の本もついに出たらしい。これこそ大きなお世話だ。批判したい気持ちはわかるが、これは単なる便乗商法ではないのか。この本で儲けた金で買っていいものを作って欲しいものだ。これはだめ、あれはだめだと非難するだけでは無責任である。本当に消費者が求めているものは、買ってはいけない品物リストではなく、買ってもいい品物なのだ。



1999/11/20 242 願い事は? (テーマ:流星)

この間の水曜日は流星群を見ようと多くの人が夜中に繰り出したようだが、不発に終わったらしい。次の日の晩、晴れていたので外出してみたら流星がたくさん見えた。しかも人も少なかったのでラッキーだった。世の中は天体観測ブームらしいが、ちゃんと勉強している人はけっこう少ないらしい。まあブームというものはそんなものなのだろうが。

スポーツや芸能界などで「彗星のように現れて…」という言葉をたまに聞くが、流星というとなぜか思い出してしまう。彗星のように現れたスターは、彗星が去っていくときのように、いつの間にかいなくなってしまうものである。いわゆる一発屋と言われる人はもっとはやい。まさに流星である。なんだかかわいそうな気もするが、ブレイクすらしない人よりははるかにましだ。

流星が流れたら願い事を3回繰り返せというが、普通の流れ星が流れている時間では、それほど複雑な願い事は言えない。わたしなどは「おお〜」と歓声を上げるのが精一杯だ。はっきり言って願い事を言っている余裕などはない。願い事が叶ったとしても王様になれるくらいだろう。

そこで役に立つのが先に述べた「流星のような」人たちだ。そういう人を見つけたら願い事を3回言ってみよう。登場した当時は流星のようにすぐ消えるかどうかはわからないが、そこはあなたの眼力の見せどころだ。もっとも、これで願い事が叶うかどうかはわからない。しかしこれも簡単な方法で解決する。夜空で流星を見たら、「こないだの願い事がかないますように」と3回繰り返せばいいのだ。

どちらにしても、まずは流星を見つけないと何もできない。見るだけでも綺麗なのでがんばって探すのがいいだろう。ただし、本業には支障をきたさないように。わたしのように流星を見た次の日に仕事を休むようでは、願い事以前の問題である。



[先月] [目次] [来月] [最新版] [トップ]

Powered by Akiary v.0.42