日替わりげしょ定食

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1998/10/2 213 どこまでこだわるか (テーマ:用語)

こうやってエッセイを書きつづけていると、書いてある内容や用語の使い方がおかしい、という指摘を頂くことがたびたびある。この間のアニメの話でも、最近はジャパニメーションという言葉は使わない、ということを言われた。japのanimationという解釈もできてしまうためだそうである。また、"japanimation"と"anime"は違う、ということも指摘された。たまたま周りにアニメ事情に詳しい人がいたためにわかったことだが、ほかのエッセイについてもなにかありそうでこわいものだ。

その道に詳しい人にとっては、用語の使い方ひとつでその人がどれだけの知識を持っているかわかってしまうものである。たとえ用語のミスがひとつしかなくても、そのミスが初歩的なものであれば、文章全体の評価ががた落ちしてしまう。文章を書く人間にとってもっとも恐れるべきものがこの用語の使い方である、と言えるのだろう。

そういう点では、わたしのエッセイはかなりお粗末なものであろう。毎日追われるように書いていて、用語の吟味や内容の確認などをせずにアップロードしてしまうことも多い。この間過去のエッセイを読み返していたら、漢字の誤変換が目立って恥ずかしかった。それでも読んでくれる人がいる、というのはありがたいことである。最初は文章の練習などといって始めたこのエッセイであるが、今では読んでくれる人たちの存在がなかったらもう続けられないだろう。

WWWで個人的にやっているエッセイなら読んでくれてありがとうですむが、もっと正式かつ厳密な文章だとそうはいかない。わたしが今取り組んでいる卒業論文などは、用語の使い方ひとつが本当に命取りになってしまう。なにしろ用語の定義ひとつで論文が1本書けてしまう世界である。だからこそ十分な執筆期間が用意され、先生方のサポートも受けられるわけである。

こうした用語の使い方に対する感覚は、もちろん時と場合によって使い分けるべきである。雑談の場で用語1つにこだわっても、場の雰囲気をこわすだけであろう。しかしインターネットでは、この感覚の差による衝突がしばしば見られる。ただでさえ言葉というのは人によって受け取り方が違うのに、コンピュータのフォントだけの世界のインターネットでは、場の雰囲気をつかむのがなかなか難しい。用語の間違いについ口を出してしまう人はできるだけ寛容に、逆にどうでもいい用語のことを指摘された場合も怒らずに謙虚に受け止めるべきなのだろう。まあそれができるなら苦労はしないが。



1998/10/5 214 結論についての結論 (テーマ:結論)

このエッセイも文章としては気楽な形式のものである。思うままを書いているだけなので、起承転結だとか問題提起だ考察だ結論だという文章構成を気にしないですむ。テーマによっては日ごろ考えていることを書くだけなので、自然とそのような文章構成になることもあるが、たいていはテーマだけを決めて行き当たりばったりで書いている。この方法だと、時には書き終わるのに数時間かかってしまうこともあるが、なぜか評判はいいようだ。

結論のない文章に意味があるのか。答えはイエスだ。きっちりとした構成が必要な論説文ばかりが、文章であるわけではない。webでもあるような日記に結論があるとは思えないし、小説などもしかりである。論説文ですら、問題提起をして終わるものもある。わたしは大学受験の時に小論文漬けになり、大学でもレポートなどは結論がないと意味がないので、この事実を見失ってしまった。このエッセイのページを始めるのも実は大変な勇気が必要だった。

しかし、結論というものを安易に扱ってはいけないとも思う。なにかと結論を急ぐ人もいるが、これにはやはりかなりの慎重さが必要であろう。いい例がいまやっている和歌山の事件だ。保険金詐欺の容疑で逮捕されたのに、カレー事件の犯人のような扱いである。本当に犯人かどうかを結論づけるのは裁判所だ。その前に容疑者を「犯人」扱いするのは、やはり先走り過ぎであろう。結論はいったん出てしまうと、なかなか変えられないものなのだ。

一度決まってしまった結論をどうやってくつがえすか。これは非常に難しい。結論まで持っていく論拠を、より強力なものにしなければならない。学術論文が非常にややこしくて読みにくいことがあるのはこのせいであろう。もちろん論理は単純明快であるほうが強力だが、単純明快にするほうが複雑にするよりも難しいのが文章の世界である。

さて、この文章も題名に反して結論がなくなってきてしまった。いろいろと書いてみたが、結論というものに結論はいらない、というのが結論になるのだろうか。



1998/10/11 215 がらりと一新 (テーマ:衣替え)

10月といえば衣替えである。このエッセイを始めてから6月にも衣替えの時期があったのだが、そのときはすっかり忘れていた。教育実習先が制服のない学校だったので、仕方がないといえば仕方がないのだ。なんだか季節もののエッセイは時期を逃してばかりだが、タイムリーに書くのと後から書くのとではエッセイも違ったものになるだろうし、まあいいだろう。

というわけで衣替えの話だ。日本ではどういうわけかある時期に衣装の一斉交換をする。ほかの国でどうしているかは知らないが、まあ気候も違うところと比較してもしかたがないだろう。では日本の気候はどうかというと、夏と冬の寒暖の差がはっきりしている。湿気が多い。また、1日や2日で気温が大変動することはない。それなのにたいていの学校や会社は、6月1日だとか10月1日に一斉に着る服を変えさせる。見た目はきれいでいいが、気候ではなく日付を優先させるというのは不思議な話だ。

しかも、衣替えの時期は決まって天候不順だ。5月下旬に暑かったのになぜか6月4日くらいから急に寒くなったり、寒い9月の後に10月5日くらいに蒸し暑い日が来たり、ということも珍しくはない。で、結局夏服ワイシャツの上に上着を着たり、衣替えの意味がないような服装になってしまう場合もあるが、たいていはその日の気候に合わない服装を強制される。

わたしは中学、高校といわゆる学ランの制服だったのだが、これがまた暑かった。わたしはわりと汗をかくほうなので、冬でもちょっと蒸す場所にいると学ランが邪魔になってくる。ましてや衣替えの時期をや、だ。中学校では前後1週間は移行期間であったが、秋などは移行期間中はもちろん、それが過ぎてから数日間も気づかないふりをして夏服を着ていた。

わたしももう少ししたら、フォーマルな服装としてスーツを着なければならなくなる。これは学校の制服に増して、気候よりもTPOにしたがって着る服を決める世界だ。よく真夏の暑い中スーツ上下を着ている人を見るが、わたしはあんなのに耐えられるだろうか。実はこれも私がスーツを着たがらない理由だったりする。



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