日替わりげしょ定食

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1998/8/2 208 あなたは見ませんでしたか? (テーマ:アニメ)

先日、IRCで日本のアニメのファンであるという外国人と話をした。彼はどうしても日本人の友達が欲しかったらしく、わたしにさかんにメールを送ってきた。日本のアニメ放送を数本録画して送ってあげたら大喜びで、ぜひまた送ってほしい、とメールで頼まれた。かなり忙しい中で録画や発送をしたので、もうかんべんしてほしいというのが正直なところだったのだが、結局断りきれずにいる。

日本のアニメーションというのは、世界に誇れる技術水準であるそうだ。実際に、日本で制作されたアニメが世界中の国々で放映されている。もちろんそれぞれの国の言葉に翻訳はされているが、放映しているものはまぎれもなく日本のそれだ。輸出できる文化的要素という者が少ない中で、日本のアニメは頑張っているのだ。日本のアニメを指す「ジャパニメーション」とかいう言葉もあるとか。

そういった評価とは裏腹に、日本国内における一般的な評価はそれほど高くない。この間のポケモン騒動の時もそうであった。このときの問題はてんかんを引き起こすような演出効果だけであったはずなのに、アニメそのものが子供たちに与える悪影響まで論じる人が出てきたりして、あきれてしまったものだ。なぜアニメだけが暴力シーンなどで問題になるのか、まったく理解しがたい。映画やドラマでまったく問題にならないものが、アニメだというだけでやり玉に挙げられてしまう、というのはおかしな話ではないか。子供はアニメしか見ない、とでも思っているのだろうか。

さらに不思議なのは、ある程度年齢のいった人がアニメの話をしていると、変な目で見られることである。いつだったか忘れたが、ラーメン屋で友人とむかし見たアニメの話で盛り上がったことがあったのだが、そのとき隣にいた知らない人(おそらく年齢はわたしと同じくらいである)に、おまえらはオタクかと言われたのを覚えている。おそらくこの人も、小さいときはテレビのアニメを一生懸命見ているはずである。そういう時代を懐かしがって話をしていただけなのに、なぜオタク呼ばわりされなければならないのだろうか。

オタクと呼ばれるまでにアニメにのめり込む人もたしかに存在する。しかし、それよりもはるかに多くの人がアニメに親しんできているはずなのである。アニメを子供向けのものだと思っている人も多いが、決してそうとは言い切れないところもある。一度先入観を忘れてアニメを見てみると、まだ違うものが見えてくるかもしれない。



1998/8/3 209 皮+肉=? (テーマ:皮肉)

皮肉、というのも不思議な言葉である。分解すると皮と肉。よけいわからないが、くっついていてもやはりよくわからない。非難を内に込めた言い方だとか、うらはらの状態になることとか説明はあるが、それがなぜ皮と肉なのか。もしかしたら故事成語かなにかなのかもしれないが、あいにくわが家にはそういったものを調べる資料がない。辞書だけはくさるほどあるのに、どういうわけか故事成語事典はないのである。

世の中にはもってまわった言い方が好きなやつ、という人種がいるものである。これに皮肉というスパイスが加わると、クール、あるいはハードボイルドな印象を与える物言いに仕上がる。ハードボイルド小説を読んでみると、こうした言い回しのあまりの多さにあきれてしまう。恥ずかしくなって途中で読むのをやめてしまうので、わたしが読破したハードボイルド小説はほとんどない。なんてことはない。わたしが使っている言い回しが似ているのである。

わたしの勘では、皮肉な言い方やもってまわったいいまわしが好きなのは、ハードボイルド好きか、照れ屋かのどっちかである。わたしがどちらに属するかというと、たぶん後者である。どうもそのものずばりな言い方は照れくさいのだ。ネット上ではクールな人間に見えるかもしれないが、別にかっこつけようとしているわけではない。実際のわたしは、そうした象からはほど遠い。

しかし皮肉というものは会話の潤滑油にはなり得ない。皮肉をうまくギャグに使えばうけはとれるかもしれないが、たいていは会話の相手に距離を感じさせるものになってしまう。とりあえずひねくれた人間だと思われることはうけあいだ。うまく使えば異性にもてたりもするかもしれないが、一般うけするものでは決してない。よほどのセンスが必要だ。

まあ皮肉など言わないにこしたことはない。言ってもろくなことはない。などといっている時点ですでに皮肉だ。ここまでしみついてしまうともうどうしようもない。



1998/8/4 210 でも気になる (テーマ:高校野球)

夏の風物詩といえば列挙しきれないくらいたくさんある。そのひとつが高校野球だ。テレビ局を持っている新聞社が協賛しているおかげか、テレビや新聞、その他のいろいろなメディアで盛り上がってくれているので見逃す心配はまずない。そしてそういった騒ぎを見て甲子園を目指そうと練習に励む人もいれば、応援にはげむ人もいる。マンガにする人もいる。こういった人達の高校野球に対する思いには、おそらく共通のものがあるのだろう。

ではわたしの高校野球に対する思いはどうかというと、どうでもいいというのが正直なところだ。まあ実際はこれが大多数の人の考えで、たまたまテレビでやっているので見る、というのと、興味ないので見ない、という差くらいしかないのだろう。夏祭りや花火と同じで、高校野球を見る、ということがすでに季節の行事として組み込まれている。要するにそういうことなのだ。

高校野球は昔からのスポ根的要素をよく残している。いまだに部員は丸刈り、というところもある。練習方法などはどうなっているかわからないが、なんとなく泥くさいイメージがつきまとってしまう。いままでさまざまな高校野球マンガが書かれてきたが、さわやか系の野球マンガはあまり存在しないような気がする。ヒットしたのは『タッチ』くらいであろうか。今度古本屋ででも、他になにかあったかどうか調べてみることとしよう。

しかしいろいろと言ったところで、高校野球をやっているのを見るとちょっとのぞいてみたくなってしまうのであった。特に自分の母校がどうなったかなどは、気にしていないつもりでもついチェックしてしまう。今年は2戦目でコールド負けだった。ただ負けるだけならしょうがないなで終わりだが、さすがにコールド負けはなんとなく悔しい。



1998/8/6 211 エッセイ書かせていただきます (テーマ:高校野球)

以前に敬語は尊敬語に近い機能を果たしている、と書いたが、今回はその丁寧語の話だ。もちろんこれには敬語も含まれる。

わたしは就職活動はまったくしてこなかったわけだが、それでも以前より社会人の人と交わる機会は増えた。大学やチャット以外にもいろいろなところに接触している(それでも他の人にくらべたら少ないかもしれないが)おかげであろう。このため、敬語や丁寧語を使ったり、使われたりという機会も以前よりずっと増えた。しかしこの丁寧語、最近は耳にするたびに違和感を覚えてしまう。

この間テレビのニュースを見ていたら、「〜すると考えられると思います」と言っていた記者がいた。なんともいえない印象を受けたのだが、この言い方がへんであることはたしかだ。この記者に限らず、語尾に「〜と思います」とつける人が多いような気がする。断定を避けたいのだろうが、これでは単なる責任逃れにも聞こえる。パソコンのサポート電話でこの口調をつけられたときはおどろいた。とくに人にものを教えるようなときは、この言い方は避けた方がいいのではないだろうか。

もう一つ何度聞いても違和感があるのが、「〜させて頂きます」というやつだ。わたしの感覚からすると、この言い方がへりくだっているのかそうでないのかわからない。敬語や尊敬語も、あまりにくどいと慇懃無礼な印象を与える。とくにこの表現を何度も使うと、くどさも倍増である。そもそも「〜させてもらう」という表現には、あまり主体性が感じられない。「〜いたします」「〜申し上げます」などの簡潔な表現もあるのだから、うまく使い分けるべきだろう。

ほかにも言い出せばきりがない。自分が社会人になっても、こういう言葉は使いたくないと思っているが、もしこういう言い方でないと失礼に思われてしまうのだったら、ちょっと困ってしまう。自分の感覚よりも周りの感覚に合わせなければいけない。社会人になってしまうとこれがめんどうだ。



1998/8/7 212 人が作った人の道 (テーマ:人道)

きのう8月6日は何の日だったか。ハムの日だという人はまあ置いておくとして、そう、53年前に広島に原爆が投下された日である。ハムと広島とは奇遇な組み合わせである。まあハムの話はいい。本当はこの話はきのう書く予定だったのだが、エッセイを1日休んでしまったので今日になってしまった。まあエッセイよりも自分の体調が優先なので仕方がない。

話を本題に戻そう。本題とは原爆だ。知っての通り、現在は世界中で核軍縮の動きが進んでいる。インドとパキスタンであいついで核実験が行われ、世界中の非難をうけたことも記憶に新しい。なぜ核兵器が批判されるかというと、非人道的な兵器だとされているからだ。細菌兵器や毒ガスが禁止されているのと似たようなものだ。なぜ非人道的なのかというと、実際に使用してみたら広島や長崎のようなとんでもない結果になってしまったからであろう。

人道的・非人道的という区切りは、非人道的なものがあるからこそできるのである。人道的などうのこうのという話も最近はあるが、おそらく人道を持ち出した最初のきっかけは、非人道的なものの方だ。つまり、人の道にはずれた人や出来事こそが、人の道をつくるのだ。過去にさまざまな宗教家や思想家が人の道を説いたが、それも人の道をはずれるものがいてこそだ。

インターネットは無法地帯ともいわれるが、これはこれからさまざまなルールができてくる、ということでもあるだろう。その際に、なにがしてもよくてなにをしてはいけないか、という枠組みは、ここでしてはいけないとされる行為が基準になってくるのだ。自分でも何をいっているかわからなくなってきたが、まあ基本は前の段落に書いたとおりだ。

おそらく人道というものがある限り、そこからはずれる人はいなくならないだろう。戦争にしても、核や毒ガスがなくなってもそのうち新たな非人道的兵器が登場することであろう。しかし人道がどうのといって始める戦争が、どうも正当なものに見えないのはわたしの気のせいであろうか。



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