日替わりげしょ定食

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1998/6/13 182 ボールは友達 (テーマ:サッカー)

きのうまで教育実習をしていたのだが、週の中頃から急に授業中に寝る生徒が増えた。そう、ワールドカップのせいである。授業をするときもワールドカップの話をしないと聞いてもらえない。テレビをつけても、ワールドカップの話をしていないのはNHK教育くらいだ。スポーツ新聞を見てもワールドカップ。電車の中にいても、誰かがワールドカップの話をしている。

以前にも書いたが、わたしは球技が苦手である。サッカーもその例にもれない。小学校の頃はキャプテン翼などでサッカーが流行っていて、友達とよくサッカーをやっていたものだった。しかしわたしの場合はボールを蹴っても狙ったところに飛ばないし、すぐに敵にボールをとられてしまうというなさけない状態であった。ボールはわたしの友達にはなり得なかった。友達と遊んでいても自然とボールが回ってくることもなくなり、サッカーはわたしにとって非常にいやなスポーツとなった。

Jリーグが創設されたときも、周りで盛り上がっているのをさめた目で見ていた記憶がある。サッカーのルールもわからないような人までがなにがなんだかわからないままに盛り上がっている、という印象を受けたものだ。数年先にどうなるか楽しみにしていたのだが、思った通り人気も低下し、チーム誘致も経済効果ばかりが注目されている。弱いチームがリーグからはずされると言っていたのも、うやむやになったままである。このままチーム数がむやみに増えていったらどうなることやら。

サッカーは観戦するのも疲れる。野球やテニスならなにかをしながら見る、ということが可能なのだが、サッカーは45分間のいつ何がおこるかわからない。前後半の90分間目が離せないというのは、わたしにとってはかなりつらい。しかもテレビ中継だとよくわからない時間にコマーシャルが入る。コマーシャルが終わったら点が入ったあとだったりして腹が立つ。サポーターは外国のサポーターの悪い部分だけをまねしているように見える。どうもわたしにとってはサッカーは印象が悪い。

それでもサッカーは世界中のいろいろな国で支持を受けている。それだけわかりやすいスポーツである、ということなのであろう。また、うまいへたは別にして誰でもすぐにできるスポーツである、ということも言える。言葉がわからなくてもサッカーで国際交流ができる、というのもすばらしいことである。こう考えると、サッカーが苦手である、というのはとても損な話だ。



1998/6/14 183 顔と第一印象 (テーマ:顔)

人づきあいに関してはいろいろな意見があるだろうが、やはり第一印象というのは重要である。あとでその印象が覆されるとしても、それは第一印象があってこそのことである。そして、第一印象で大事なのが顔である。まずひとつは顔とその表情、そして体型や服装、そしてしゃべり方などによって決まってくるのだろうが、やはりそのなかでいちばん重要なのは顔であると思う。

なぜ顔が重要なのか。それは、顔に少なからずその人の性格や思想、あるいは人生といったものがあらわれてくるからである。別にきれいなのやかわいいのがいいと言っているわけではない。それはまったくの別問題である。顔を見ただけでこの人はおもしろいことを考えてそうだ、とかこの人はガリ勉っぽい、とか、いろいろ推測がつく。もっとも、それが正しい推測であるとは限らないのだが。そのあたりで「人を見る目」がものを言うのである。

だからこそ人は顔に気を配る。女性は化粧をする。男性もする人はする。気を配らない人は気を配らないが、それは男性でも女性でもそうである。化粧をするのは第一印象をよくするため、ということなのであろう。人にきれいに見られたい。きれいでない(と自分では思っている)ところは見せたくない。そう思って人は化粧をするのだ。まあ化粧にもいろいろあるから、別の日にまたあらためて取りあげようと思う。

なぜ顔が重要なのか。それにはもう一つ理由がある。まったく同じ顔をしている人は2人以上はいないからである。双子や三つ子や六つ子は、この際例外として置いておこう。みんな同じ顔なら見てもしょうがないし、化粧をするのもはがしたら同じものがでてくるのでは意味がない。10人いれば10通りの顔がある。だから人は他の人の顔を見るのだ。そして、第一印象を得る判断材料となりうるのである。

ちなみにわたしの顔は、このサイトに置いてある写真の通りである。これを見てみんなはどういう印象を抱くのか。多少は気になるが、わたしは顔に気を配らないほうなのであまり期待はできないだろう。わたしにとって、相手が持つ第一印象は覆すためにあるのだ。わたしはこんなことを考えているので、人の顔は結構覚えるのがはやい。しかし、名前を覚えるのが苦手で、なかなか顔と名前が一致させられないのであった。まったく失礼なやつだ。



1998/6/15 184 駄のようで駄でないかもしれない (テーマ:駄菓子)

日本の高度成長期に子供の文化を支えたもの、いろいろあるがその一つが駄菓子屋である。駄菓子屋ではいろいろな駄菓子が売られていて、妙に色がきつかったり、味も濃かったりもするが、子供心には本当においしいと思った。食べ物のほかにもおもちゃやくじなども売っていた。店の番をしているおばあちゃんもセットのうちだろう。しかし今ではすっかりノスタルジーを誘うような存在になってしまい、文化遺産のような形で残されるまでになってしまった。

だいたいの人が駄菓子を見て懐かしいと思うようである。大学1年の時に宿舎祭の出し物で駄菓子屋をやったのだが、通りかかる人は品揃えを見てけっこう懐かしがっていた。やはりみんな子供時代を駄菓子とともに過ごしたのだろう。いろいろな理由で品数が限られてしまったのが少し残念だったが、準備の時に駄菓子の問屋に行くことができたりして、なかなか貴重な体験ができたものだった。

しかし今でも駄菓子屋は探せば結構ある。土浦で見つけたときはそれほど驚かなかったが、三鷹で見かけたときはびっくりした。古そうなゲーム機なども置いてあって、時代の移り変わりを感じつつも、やはりあの雰囲気は変わっていないという感慨を覚えたものだった。駄菓子そのものも、スーパーなどでけっこう売っている。わたしも、ときどき駄菓子を衝動買いしてしまうことがある。あの濃い味が、酒のつまみにちょうどよかったりするのだ。それになんといっても懐かしい。

駄菓子を食べる世代というのはまだとぎれてはいない。しかし子供の経済力も上がり、手に入る菓子の種類も昔と比べるとはるかに多くなった今、子供の中の駄菓子の地位も変わってきていることだろう。わたしが中学の頃は、遠足に持っていくおやつの量を増やすために、安い駄菓子を山のように買っていったものだったが、今はどうなのだろうか。放課後に子供たちがコミュニケーションを取る場も、駄菓子屋ではなくて塾になってしまった。今後は果たしてどのように変わっていくのだろうか。



1998/6/16 185 雨は降るもの (テーマ:梅雨)

今年の東京は、平年に比べて雨が多いような気がする。まず、1月から大雪が降ったし、3月4月も雨ばかりであった。ここ数年は4〜5月に雨が多くて梅雨時には降らない、というパターンが多かったが、今年は6月もしっかり降っている。関東は6月頭に梅雨入りしたそうだが、それよりずっと前から梅雨だったような感じがする。このまま1年中降り続けたらいやだな、と思う今日この頃である。水不足になるのとどっちがいいか、ときかれると悩んでしまうが。

雨が長いこと続くと、やはりうっとうしくなってくる。雨が降る、という現象はもうしょうがないとしよう。しかし雨が降っていると、洗濯や掃除はめんどうになるし、外出するのもおっくうになる。車に乗っていてもすぐに窓がくもってしまう。それになんといっても、じめじめした空気がとても不快である。不快指数などというものもあるが、高い数字を見て逆にうんざりしてしまうので、やめてほしいと思う。

ジューン・ブライドとかいうことで、6月には結婚式が多い。である。ヨーロッパなどでは6月は気候もいいし雨が少ないので、結婚日和だということで6月に結婚式が多いのだそうだ。ところが日本の6月は、雨の多い梅雨時である。なぜこんなうっとうしい時期に結婚式などをやらねばならないのか。主催側も雨はいやだろうし、招待される方だって雨となれば出かけたくないであろう。高い衣装が雨でぬれてしまう、というのもよろしくない。もっとほかの時期にやったほうがいいと思うのだが。

6月にはもう一つ行事がある。衣替えである。これも実に不条理である。6月1日にいっせいに着ているものを夏用に変えるわけだが、どう考えても梅雨入りする前の5月のほうが気温が高い。それなのに5月は厚着をしなければならず、6月にはいると逆に薄着でいなければならなくなる。とくに中学・高校などではこのへんが厳しく、日本の気候を恨んだものであった。衣替えの時期が5月中旬から7月にかけて、などというようになれば、現実に即していていいのではないだろうか。

まあいくらいっても結局人間は自然には勝てない。自然に勝とうとした結果が、いまの環境問題なのだ。梅雨がうっとうしいからといって、6月に雨が降らないようにすることはできないのである。梅雨がうっとうしく感じられないような環境が作れればいいのだろうが、なかなかそれも難しい。雨が降らないよりましだ、と考えてあきらめるしかない。



1998/6/17 186 誤用の嵐 (テーマ:インターネット)

ここのエッセイではホームページやチャットの話はしたが、よく考えたらインターネットそのものの話をしていなかった。わたしがインターネットを使い始めたのは大学1年の冬になる。インターネット歴というものを考えるとすると、2年半くらい、ということになるだろうか。 ちょうどWindows95がでた直後になるが、それとはあまり関係はない。単に大学の授業で習っただけである。

それまでは通信は金がかかるという先入観があったので、とてもネットに足をつっこむ気は起きなかった。ところが大学にいれば、インターネットにはただでつなぐことができる。アパートからでも大学の回線につないでメールを読んだりチャットをすることもできる。テレホーダイを使えば、深夜はつなぎ放題である。というわけで、意外と金をかけずにインターネットを楽しむことができるということがわかり、すっかりはまってしまったのだった。

2年半の間にインターネットもすっかり変わった。もっと前からインターネットを利用している人は、さらにこの感慨が強いことだろう。技術革新が進み、WWWでもいろいろなことができるようになった。インターネットの利用者も爆発的に増え、いろいろな人が電子メールやWWWを利用し、自分のページや掲示板を作成したりしている。そうした中でさまざまな用語の誤用などもでてきた。

いちばん有名な間違いが、「ホームページ」という言葉であろう。これは「HP」という略語まで含めてそうだ。日本で「ホームページ」というと、WWWで表示するページすべてを指すが、英語の"Home Page"という用語の用法は全く異なる。ブラウザを開いて最初に表示されるページ、またはあるWWWサイトのトップページを指すらしい。ましてや"HP"などというと、ヒューレットパッカードという会社の名前になってしまう。ほかにもこのような誤用をあげるときりがなくなってくる。

しかし、こういった間違いが起きるのも、ある程度しかたがないような気もする。欧米の文化が大量に入ってきた明治時代もそうだったのだ。いまでもwhite shirtはYシャツだし、sewing machineはミシンであり、アイロンというと服のしわを伸ばす機械であり、鉄はアイアンである。異質な文化が入ってくるときの対応は、100年前と全く変わっていないわけである。それを考えると、「HP」という単語は"Web page"という英語の日本語訳だとでも思うしかないのかな、とも思う。



1998/6/20 187 人それぞれ、なのですが… (テーマ:人の好み)

今日もサッカーが盛り上がっている。どうやらワールドカップで日本がクロアチアと試合をする日らしい。これを書いている今、その試合の中継の真っ最中であったりする。街にでて大勢で応援をしている人もいれば、家で静かにテレビを見ている人もいる。周りの迷惑を考えず部屋で君が代を合唱する人もいれば、非国民と言われるのがいやで文句を言わず我慢している人もいる。ちなみにわたしは、あとでハイライトだけ見るつもりである。

日本チームを応援している人だけ見ても、その応援のしかたはさまざまだ。とにかく善戦してくれればいいという人、勝たないとダメだという人、好きな選手が活躍してくれればいいという人、など、挙げていたらきりがない。このようにサッカーの応援に限った話でも、ひとの見方はさまざまである。チームや選手に対する好み、サッカーに対する好み、スポーツそのものに対する好み、お祭り騒ぎに対する好み、ここにはそうしたものが反映されているわけである。

好みが人によって異なるのは、サッカーに限った話ではない。これはこの世界に存在するすべてのものについて当てはまるのかもしれない。ひとびとがそれぞれ異なる好みを持ち、異なる価値観をもとに異なる目的を見つけ、異なることをしているから人間社会は成り立っているのだ。現代は価値観が多様化した時代だというが、価値観が多様なのは決して現代に限った話ではないと思う。現代のすぐ前の時代、近代という名の下にさまざまなものが統一されていった、という事態がむしろ異常だったのではないか。

サッカーが嫌いだからといって、ワールドカップの応援をしている人を否定することはできない。逆に、日本を応援しない人を非国民だと非難することもできないはずだ。好みは人それぞれだとわかっているはずなのに、自分の好みを平気で人に押しつける、という人が最近増えているような気がする。せっかく多様な価値観が認められている時代である。自分の好みを守るためにも、人の好みを否定してはいけない。



1998/6/21 188 たくましく見えますが… (テーマ:体格)

わたしの身長は見た目より低い、ということは以前にエッセイで書いた。つまるところ、実際の身長よりも背が高く見える体格をしているわけである。また、スポーツをなにかやっているのか、と聞かれることもよくある。以前に書いたとおりわたしはスポーツはまったく苦手である。運動神経は全くないのだが、体格だけでスポーツをやっていそうに見えてしまうのである。

具体的にどういう体格かというと、まず頭が小さく見える。大きさ自体は標準的なのだろうが、なぜか小さく見えるのである。これは肩幅が広いせいもあるだろう。というわけで肩幅は広い。かなり広い。なにせ、身長が10cm高い人向けくらいのサイズの服を着ても、肩がきつかったりすることもある。学生服は既製のものが着られず、仕方がないので高い金を払ってわざわざ作ってもらっていた。というわけでわたしは制服否定論者である。体格が標準の人からはずれる人に多くの出費を強制する、というのはどう考えても公平な話ではない。

たくましく見えるのは肩だけではない。胸板も身長に比べるとそこそこ厚い。とうぜん背中も広い。いわゆる逆三角形である。おしりもぽん、と出ている。足もがっしりして見える。これは高校時代に自転車通学をしていたせいもあるだろうが、まあ生まれつきのものが大きいだろう。しかし、スポーツはもちろん、体を鍛えたり、ということはしていないし、力仕事に従事しているわけではない。父親も同じ体格をしているので、もともとこういう体格になるようにできていたのだろう。

総合してみると、かなりがっしりした体格、ということになる。体格だけで運動部に誘われたこともあったが、当然すべてお断りした。それはともかく、体格ががっしりしているからこそ、背も実際より高く見えるのだろう。まあ実際よりも低く見えるよりはいいだろう。こういう体格のメリット・デメリットはよくわからないが、ひとつだけ言えるのは、腹が出ていてもわかりにくい、ということである。もちろん腹は出ていないにこしたことはない。というわけで明日はダイエットの話でもしよう。



1998/6/22 189 食べてやせる (テーマ:ダイエット)

ダイエット。この言葉は単にやせることのみをさして使われることが多いが、本当は「食事療法」という意味である。もとの英語だと、「食生活」などという意味でも使われるようである。病気を治すために食事制限をしたり、特別メニューをとったり、などということがもともとのダイエットだ。たんにやせるだけなら、減量とでもいうべきであろう。さいきん言葉の用法にうるさくなってしまって申し訳ないが、これはもとはと言えばわたしがゼミでいろいろつっこまれたせいだったりする。

まあそういうわけで、ダイエットは食べることが前提になっているものである。食べる量を減らすのは確かにダイエットだが、食べないダイエット、というのはちょっと矛盾しているとも言える。食べなければやせることはできるだろうが、ちょっと不健康なやせかたになってしまう。不健康にやせているよりは健康に太っている方がいい、と思うのはわたしだけだろうか。ものを食べては吐く、などということをやっている人もいると聞くと、ぞっとしてしまう。

やせる、ということに論点をしぼってみよう。ものを食べないだけでは、きれいにやせることはできない。すでについてしまった脂肪は、運動して燃焼させればいちばんきれいに落ちるそうである。さいきんはこのことも理解されてきたようで、部屋でできるダンベル体操などもはやっている。運動するとなると、ある程度は食べないわけにはいかない。脂肪を落とすためにも、バランスのよい食事をとらなければならない。というわけで、やせることとダイエットはやはり切り離せない。

わたしもここのところ運動不足で、だんだんとぜい肉が増えてきた。普段はわからないかもしれないが、あまり食べ過ぎたような日は、おなかがでていると家族に笑われてしまうまでになってしまった。筋肉もベースを弾くのに必要なひじから先以外はほとんどついていない。少しはやせたほうがいいのだろうが、わたしの場合まず運動しなければ始まらない。ただ食べる量を減らすだけでは、スタミナが落ちてしまって運動どころではなくなってしまう。

ダイエットといえば忘れてはいけないのが体重計だ。なんkg減った、なんkg増えてしまったと1の位で一喜一憂する姿はマンガやドラマでよく見るが、きっと本当に一喜一憂している人が多いのだろう。しかしこの体重もただ少なければいい、というものではない。人にはベストの体重というものがあるのだ。これを計算する式もあるが、おそらく個人差も結構あることだろう。もっとも健康に過ごせる体重、ダイエットではそれを目指すべきなのだろう。



1998/6/24 190 これでも減ったんです (テーマ:文字コード)

インターネットで使われる日本語の文字コードは、現在3種類が認められている。iso-2022で認められたJISコード、WindowsやMacで主に使われているSJIS、UNIXで主に使われているEUCである。ほかにもいろいろな種類があるが、とりあえず標準はこのインターネットで使用できるのは3つ、特にメールやIRCではJISを使うようになっている。初心者の人などは、なんでこんなに種類があるのかと混乱してしまうことうけあいであろう。

3種類というのは、実はかなり厳選されたものである、と考えてもよいのである。昔はそれこそシステムによって文字コードはまったく違っていたそうだ。いまでもWindowsなどではフォントによって微妙に違っていたりするところもある。これを統一しようと出てきたのがJIS漢字コードで、SJISはその亜流である。EUCはUNIXのシステム上で漢字を扱うための標準コードだそうだ。うろ覚えで書いているので、間違った記述があったら申し訳ない。

ちなみにこの文章はSJISで書いている。昔はSJISでページを書くだけでおしかりをうけたそうである。いまでもSJISで書かれているページにはいい顔をしない人がいる。IRC、とくにIRC普及委員会で紹介しているIRCnetでは基本的に日本語はJISのみである。SJISやEUCで発言するとブーイングが巻きおこる。電子メールもまあ基本的にはJISだ。最近のHTMLメールはSJISでもよいらしいが、わたしはあまりHTMLメールをやりとりしたことがないのでよくわからない。

文字でいつも問題になるものに、半角かたかながある。今ではだいぶ頑丈になったようであるが、昔のシステムだと半角かなを処理するだけで止まってしまうサーバもあったそうである。Windowsだけ使っていると別に深刻なことはなさそうに見えるが、半角かなというのは非常に危険な存在だったのである。パソコン通信の世界では半角かなも普通に使われていたので、チャットでつい半角かなをだしてしまう人も多い。半角かなはどのシステムにも通用する文字ではない。これは気をつけるべきであろう。

実は文字コードの種類が複数あるのは、日本語に限った話ではない。アラビア語なども文字コードは4〜5種類あるそうである。これからさらに統一が進むことであろうが、はたしてどの文字コードに統一されることやら。文字コードについての解説が不要になる日がはやく来てほしいものだ。



1998/6/25 191 インターネットブーム影の立て役者 (テーマ:テレホーダイ)

インターネットを利用している人なら、一度はテレホーダイというサービスを聞いたことがあるはずだ。実際にテレホーダイを利用している人も多いことだろう。聞いたことがないという人は、電話代を気にしないでいいほどの金持ちか、大学などから24時間タダでつなげる人か、柳沢教授みたいな人のどれかであろう。

あらためて説明の必要もないと思うが、格安の定額料金で市内または隣接区域の指定した番号に午後11時から午前8時まではかけ放題、というサービスがテレホーダイである。もともと電話回線が使われることが少ない時間帯、ということでこの時間設定になったのだろうが、普通の社会生活を送ろうとする人には、少々つらい設定ではある。テレホーダイの時間設定が寝不足の人を増やしてしまっているのはほぼ間違いないだろう。

インターネットが急速に普及した背景として、テレホーダイの存在は見逃せないであろう。昔パソコン通信しかなかった頃は、いまインターネットにつなぐのとは比べものにならないほどの料金が必要だった。しかし現在ではインターネットにつなぐのに、プロバイダとテレホーダイ合わせて月5000円を切る料金ですむ。テレホーダイ24時間運動などというものもあるようだが、これはテレホーダイ利用者の多さを物語っている証拠でもある。

普通の社会生活とは縁の遠い者。それが学生である。かくいうわたしも学生であるが、ひとり暮らしをしていた頃は、テレホーダイの時間をめいっぱい使ってインターネットにつないでいたものだった。テレホーダイを使っていない場合と仮定した場合の通話料金が、25000円を超えていた月もあった。8時に電話回線を切って、そのまま学校に行って授業中寝ているのだ。学校が終わったら、部屋に帰ってきて11時まで寝る。いま考えてみるとおそろしい生活である。

今はわりと朝の早い生活をしているので、むちゃな夜更かしはしなくなった。遅くてせいぜい午前2時か3時、といったところだ。それでも軽くテレホーダイ料金のもとがとれるくらいの時間はつないでいる。テレホーダイ時間以外はバイト先や学校からつないでいるので、通信費は非常に安くすんでいる。この安さがあるからこそ、わたしもインターネットを使えるのだ。



1998/6/26 192 ふとん or ベッド? (テーマ:ふとん)

わたしは小さいときから畳の部屋で暮らしてきた。とうぜん寝具も小さいときからふとんであった。というわけで、ふとん派とベッド派、どちらかと聞かれたらわたしは迷わずふとん派のほうに加わる。やはり小さい頃からの生活体験のせいなのであろう。ホテルなどに泊まっても、ベッドで寝るとどうも落ち着かない。ふとんで寝ても落ち着かないときはあるが、それはふとんが高級すぎる場合である。

それなのにわたしが高校3年生の時、わが家で購入したマンションは、和室が1室しかなかった。LDK以外で唯一の南向き部屋である和室は、当然のように両親の寝室となった。わたしと妹は北側の洋室2部屋に割り当てられた。わたしはいずれでていくということで、狭いほうの部屋になった。洋室でふとんを敷いて寝ようかともおもったのだが、湿気もこもるしふとんをしまう場所もない。というわけで、ついにおそれていたベッド生活が始まってしまったのであった。

最初のうちはまったく落ち着かなかった。枕が変わると熟睡できない、という人もいるが、この場合枕どころの騒ぎではない。朝まで寝られない日も多く、その影響は授業中や部活の時の居眠りにもろに現れた。しかしそのうちだんだんと慣れてきて、今度は読書や勉強もベッドの上でするようになってしまった。まあ、ベッドと机を置いたらほかにスペースがなくなるような部屋なので、しょうがない。

大学に入学してすぐの頃は学生宿舎に入っていたのだが、「6畳相当の4畳半」とも呼ばれる部屋に備品としてベッドと机が置かれていて、非常に邪魔であった。しかし備品なので捨てるわけにもいかず、みな苦労してベッドや机を使いこなすのである。わたしは仕方がないのでベッドの下にブロックを積んでベッドの高さを上げ、下を収納スペースとして利用していた。そのあとアパートに引っ越したのだが、ふとんで寝られる和室の部屋にしたのは言うまでもない。

今は実家に戻ってきてベッド生活に戻っている。ふとんが恋しい今日この頃であるが、しかたがないのでベッドの上にふとんをしいて寝ている。よく考えたらこれは万年床と変わらないではないか。



1998/6/27 193 いろいろ難しそうですが (テーマ:UNIX)

このあいだ文字コードについてエッセイを書いたら、UNIX使いの人にいろいろつっこまれてしまった。SJISもEUCも漢字の割り振りなどはJIS規格に従っているとか、JISはエスケープコードで漢字の処理を行っているのに対して、SJISやEUCは8ビット目を使っているので7ビットのキャラクタを通さないサーバによろしくない、などなど。やはり中途半端な知識で文章を書くと、あたりさわりのないことを書いてもいいかげんな記述になってしまう。

IRCをしていると、UNIXに詳しい人によく出会う。わからないことなどを教えてもらえて大変ありがたい。UNIXという言葉がなんの略かは忘れたが、たぶん調べればすぐわかるだろう。めんどくさいので各自で調べていただきたい。とにかくWindowsやらMacやらよりも汎用性がずっと高いのは間違いない。ただし設定は手動でなんとかしないといけないので、WinやMacよりも面倒くさい部分も多いのだが。また、ものによってはUNIXのOSは無料で手に入れることができる。学術方面で開発された強みであろうか。NTも顔負けの値段のOSもあるが。UNIXとひとくちに言ってもいろいろあるのだ。

インターネットを支えてきたのも、UNIXのシステムだ。サーバの多くもUNIXベースで動いている。Windowsなどは最後の最後にインターネットに参入したほうなのである。UNIXが使えない人も、UNIXの恩恵を知らないところで多大にうけているわけである。IRCをしていると、知識が少ないことで人を馬鹿にする人や、説教じみた話をしてくれる人もいるが、それだけコンピュータ関係のいろいろなことを知っているということなのだから、けむたがらずに勉強させてもらうのも手である。ただし彼らと話をするときは「初心者」という単語は禁句である。

実はわたしも某所でUNIXマシンの管理をしないといけなくなったのだが、すでにカスタマイズがされているシステムである上、前管理者が多忙で、さらに資料が少ないので、どういじればいいのかほとんどわからない状態である。オンラインマニュアルもあるのだが、文章がわかりにくい英語で書かれていてあまり参考にならない。こういう環境でも世の中のUNIX使いの人々は自力でなんとかしてきたのだ。このくらいで音をあげていては、馬鹿にされてしまうにちがいない。



1998/6/28 194 人文系のくせに (テーマ:文学)

わたしの所属している学科(正確には学類という。これだけで大学名がわかってしまう)は、比較文化という名称の人文系学科なのだが、とんでもない数の専攻コースがある。たしか全部で16あるのだが、すべての専攻を言える人はほとんどいない。とりあえず大きく3つの専攻分野に分かれているのだが、そのひとつが文学である。残りの2つは、地域研究、現代思想となっている。

そういうわけで、この学科にいる人は文学方面に強いのではないかと思われている向きがあるが、実際はまったくそんなことはない。現代思想の人はともかく、地域研究の人には文学にうとい人も多い。わたしもその一人であり、文学分野の授業はほとんど取っていない。自分の専攻である文化人類学に関係することを話す、ということである文学の授業を取ったのだが、レポートで好きな文学作品をとりあげなければならず、結局断念してしまった。

以前に読書が趣味などと書いてしまったが、自分がほとんど本を読んでいないことに気づき、履歴書に書くのをやめてしまった。暇があれば本を開く、ということはないし、本屋に行ってもいちばん長くいるのは人類学や中東関係の本のコーナーと、マンガのコーナーである。小説はたまに読んでいるが、すぐに読み終わるようなファンタジー系のものばかりである。城山三郎とか堺屋太一を読んでいた時期もあったが、最近はまったく読んでいない。

ましてや文学作品と認められているものなどは、ほとんど読んだことはない。うちの学科などはリベラルなほうなので、場所によっては論外にされてしまいそうな作家でもレポートに書けるのだが、その基準でもわたしは論外だろう。せいぜい中学・高校生のころ好きだった吉川英治や司馬遼太郎くらいだろう。SFも一時読んでみようかと思って母親の蔵書をあさったりしたが、結局はまることはできなかった。

べつに無理して文学作品を読むこともないのだろうが、文学作品がモチーフであろうと思われるギャグなどがわからなくて、さみしい思いをすることがたまにある。ある程度の文学的知識は、教養として必要なのかもしれない。それよりもまず、のんびり本を読めるような時間がほしいのだったりする。



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