日替わりげしょ定食

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1998/5/5 167 何もしないのも良し (テーマ:ゴールデンウィーク)

今日でゴールデンウィークも終わりである。この休みを利用して、さまざまなところに遊びに行った人も多いことだろう。また、一人暮らしを始めたばかりの新入生や新入社員は、入学あるいは入社して以来始めての帰省をし、家族に無事な顔を見せることができたことだろう。逆に、ゴールデンウィークは働きっぱなしだった、という人も中にはいる。アルバイトなどで自発的に働いている人はよいが、強制的に働かされている人もいると思うと、休んでいるのが申し訳ないような気分にもなる。

しかしなぜみんなが、この時期にまとめて休みを取らなければいけないのか。休みを取ったらなぜ長期旅行に出なければならないのか。今年のゴールデンウィークの特徴は安・近・短ということだが、逆に言えばいままでは金をかけて遠出をするのが当たり前だったのだ。バブル時代にできてしまった常識がいままでひきずっているというのも、考えてみれば悲劇的な話である。金を使いたくなくても使わなければいけないことになっている。

わたしはどうしたかというと、ほとんど出かけることなく家でゴロゴロしていた。知らないうちに多忙になっていた身としては、4日連続でゴロゴロできるというのはこの上ない贅沢である。29日から4日にかけてオフ会に3度ほど顔を出したが、まあこれはゴールデンウィークだから出かけたというわけではない。本当は勉強をしたかったのだが、テレビを見たりパソコンに向かっていたりするうちにいまの時間になってしまった。はっきりいってやばいのだがこれから挽回するしかない。

以前に比べて休暇が増えたのはいいのだが、休暇が集中してしまっている傾向があるように感じる。休みが同じ時期に集中してしまうと、どこへ出かけるにも人だらけになってしまい、逆に疲れてしまう。会社で疲れているのに、ゴールデンウィークの家族サービスでよけい疲れてしまう、という人も多いようだ。これでは何のための休暇なのかわからない。あまり長い休暇だとレジャーラッシュで疲れてしまい、1日だけだと寝ていても疲れがとれないし、出かける余裕もない。以前のゴールデンウィークのような、2〜3日の連休がいちばん良かったのかもしれない。



1998/5/6 168 ノーテンキに行こう (テーマ:プラス思考)

人間ストレスがたまるとろくなことはない。ストレスがたまるとたいてい体のどこかがおかしくなるし、そのせいでさらにイライラがつのってしまうこともある。ストレスを簡単にためこんてしまうような人は、その適切な発散手段を持っていなかったりして、泥沼におちいってしまう場合もある。そういう人が精神科のお世話になる羽目になってしまったりするわけだ。最近は精神科も色めがねで見られることがだんだんなくなってきており、メンタル面で悩んでいる人にとってはありがたい状況(本来これがあたりまえなのだが)になってきていると言えよう。

しかし一番よいのは、ストレスをためないようにすることだ。外からの働きかけに対しある程度のストレスを感じるのは、しかたのないことである。問題はその後の心のもちかただ。なんとかプラス思考に持っていくことができれば、もうこっちのものである。これが簡単なことではないことはいうまでもないが、無理だと最初から投げ出していては、前進は望めない。最初はうまくいかないのは当たり前である。とにかく試行錯誤していくのだ。

わたしも「そういう思考回路持ってるやつは出世する」といわれるほどまでになったが、最初からプラス思考の人間であったわけではない。なにか一つの出来事でいろいろと考えすぎてしまうたちで、ちょっとでも心理状態が悪いと、どんどん悪い方に考えが行ってしまったものだった。いまでも多少その傾向はあり、そのせいで人付き合いもあまりうまくないが、とくに気にはしていない。いろいろ考えすぎるのは研究者としてすぐれた素質であると考えればよいわけだ。

1浪してどこの大学にも受からなかったときはかなり落ち込んだ。落ち込むというよりは、パニック状態だったのかもしれない。どうしていいのかまったくわからなくなったのである。今考えてみれば視野の狭いことこの上ないが、このまま就職してなんとはなしに生きて行くしかないのかなどと、よくわからないことを考えていた。そこでふと思ったのである。大学に落ちたからと行って死ぬわけではない。あと1年がんばって大学に行けるのなら、それでもいいではないか。勉強しないで落ちたのだから、勉強すればいい。そう思って心を入れかえて受験勉強にはげんだのであった。

今ではかなり楽天的にものごとを考えられるようになった。まったく悩みがなくのほほんと生きてている、と見られることもあるくらいだ。そう思われるのは望むところなのでとくに否定はしていないが、くちが悪い方なので、相手によけいなストレスを与えてしまうことも多いらしい。この口の悪さ(というよりデリカシーがないのかもしれない)はどうにかしたいのだが、どうすればよいかわからないので放ってある。いつもくよくよ悩んで周りに暗さをふりまくよりはましだろう。



1998/5/7 169 紙の上で旅をしよう (テーマ:地図)

いつのことだったか忘れたが、暇つぶしに地図をながめていたら、そんなものを見ていて何が楽しいのかと聞かれたことがあった。その時は自分でも何が楽しいのかよくわからなかったので、適当に受け答えしてすませてしまった。そのとき地図をながめていたのは、暇つぶし以外のなんの意味もなかったわけである。

その後こういうエッセイを書いているうちに、地図を見る楽しさがだんだんと分析できてきた。前も説明書かなにかの時に書いたが、データ中心の本を本来の用途以外の目的で、つまり読み物として読んだりするとけっこう楽しい。道を調べるなどのちゃんとした目的があって地図を見ていても、ついつい脱線してしまうこともある。この道や鉄道はどこまで続いているのか、突如気になりはじめてしまったりするのである。

そんなわけで大学に入った時の最初の専攻希望も文化地理学だったのだが、わたしは高校で地理の授業を受けたこともなく、地域分析の話などが難しく感じてしまったので、文化人類学に専攻を変えてしまった。卒論も人々の生活を中心にやりたかったのだが、生活空間や住居のほうにテーマがシフトしてきてしまって、だんだんとまた文化地理学的な方向に戻ってきた感がある。もっとも、学科の雰囲気からしてあまり学問分野にこだわらなくていいようなので、これ以上専攻を変えるつもりはない。

以前実習で国土地理院に見学に行った時、地図作成の現場も見せてもらったりしたのだが、非常に手のかかる作業を行っていてびっくりしたものだった。最近は地図作成もデジタル化していて、地図作成もだいぶ楽になったそうだ。それでも測量などは実地で行わなければいけないことに変わりはない。2万5千分の1の地図の作成が完了するまでには、何年もかかってしまったそうである。いまは1万分の1の地図の作成を行っているそうだが、完成はだいぶ先になりそうとのことだ。当たり前のことだが、地図を作る人がいるおかげで地図を見て楽しむことが出来るのだ。



1998/5/8 170 大丈夫と思っても… (テーマ:交通事故)

交通事故といえば、むかし神奈川の厚木に住んでいた頃のことを思い出す。厚木の家は四つ角の一角にあったのだが、その四つ角は見通しは非常に悪く、出会い頭の事故が後を絶たなかった。狭い道なので車もあまりスピードは出せず、また一角が空き地(といってもむこうがわが見えないくらい草がボーボーに生えていた)だったので見通しが悪く見えなかった、ということが油断を生んだのであろう。一番多い時期は一月に一回くらいの割合で車がぶつかっていた。

ある日家族で横浜に遊びに出かけ、帰ってきたら家の塀がなくなっていた、ということがあった。出かけているうちに車がつっこんだらしい。家族全員出かけていたので事故の状況はだれも知らなかったのだが、近所の人はみな詳しく知っていた。わたしは学校で友達に事故の状況を教えてもらったのだが、いまいち実感がわかなかった。確かなことは角の塀と家の門が壊れた、ということだけだった。そのままにしておけば事故も減るのではないかとも思ったが、大家さんは塀をきれいになおしてしまった。

そういえば前に書いた電気屋の前で、車3台の正面衝突にバイクが巻き込まれた事故というのを見たことがあった。あれも渋滞のために見通しが悪くなっていて起きた事故だった。まあ話題をもとに戻すと、交通事故は一見なにごともなく大丈夫そうなシチュエーションでおこることが多いようである。スピードのだしすぎにしても、居眠り運転にしても、大丈夫そうだと思ったからスピードを出したり運転したりしたわけである。酔っぱらい運転だってそうだ。酔っぱらっているとなんでも大丈夫だと思ってしまいがちである。ばれると免許を取りあげられる理由もわかると言うものだ。

大きな事故を起こすと、肉体的、経済的(これは保険に入っていればなんとかなるかもしれないが)打撃だけでなく、精神的打撃も大きい場合もあるらしい。運転が慎重になるなどいい方向に出ればいいのだが、事故を起こしてから車の運転がこわくてできなくなった、という話も聞いたことがある。まあとにかく事故は起こさないにこしたことはない。巻き込まれ事故だとどうしようもないが…



1998/5/9 171 いろいろなあせ (テーマ:汗)

わたしの住んでいる船橋市は、スポーツ振興都市、ということになっているらしい。とりあえずは、市立船橋高校などがスポーツ関係では有名である。スポーツ振興のシンボルとして、はちまきをして走っている子供のマスコットがあるのだが、その名前がすごい。なんと「あせいっぺい」というのである。漢字にすると汗一平でなかなかにいやな感じである。たしかこの名前は公募で決めたはずなのだが、これを考えた人と採用した人の両方のセンスを疑ってしまう。

基本的に汗は嫌われ者の存在である。汗という字からして、汗が背中を伝っていういやな感覚を連想させてしまう。暑い日に座っていても出てきてしまう汗などは、とくに気持ち悪い。思い浮かべるだけでもいやだ。ここまで読んでいやな気分になってしまった人、ごめんなさい。申し訳ないがもうちょっと続ける。ふとんやベッドの中で、眠れないときに出てくる汗も気持ち悪い。また、汗をかいた後のにおいも、なんともいえずいやである。蒸し暑い日などは、シャツのえりの間から汗くさいのがたちのぼってきたりして最悪である。

しかし、気持ちのいい汗、というのもある。いい天気の日に思いっきり体を動かして出てきた汗、というのはなかなか気持ちがいい。汗くさいのは運動の後シャワーを浴びるまでの我慢だ。この汗を洗い流すという作業もなかなか気持ちがいい。サウナに入っていてどんどんと出てくる汗も、心地のいいものである。こういった汗は、健康的な汗というような感じがする。最初に挙げたのが不健康な汗かどうかは、よくわからないが。

汗は人間が生きていく中で不可欠なものである。体温が上昇しすぎたとき、汗の蒸発による気化熱で体を適温まで冷却するのだ。汗が出ない病気、というのもあるらしいが、絶えず体温管理に気を使わなければならず、大変だそうだ。ラジエータの壊れた車のようなものである。また、あの汗のにおいは、汗とともに体の老廃物が排出されている証拠でもある。たしかに出てきたものは気持ち悪いが、それを出してくれるという機能はありがたいものなのだ。

わたしは体質的には汗かきな方なので、ちょっと暑い日にはすぐ汗が出る。それでいて水やお茶をがぶ飲みしてしまうので、よけい汗をかいてしまうのだった。通勤ラッシュの時なども、やはり多少の汗はかく。この間はベースの演奏中に腕がつって、冷や汗をかきまくった。これは本当に気持ち悪かった。たまには気持ちのいい汗もかいてみたいのだが、かいて気持ちの良くない汗ばかりである。最近ずっと運動不足で、体を思いっきり動かして汗をかく、という機会がない状態が続いている。これでは不健康が促進されるというものである。



1998/5/10 172 興味本位もたまには役立つ (テーマ:教職)

今日は休日だが、大学の図書館まで行って勉強をしていた。まあ勉強というよりは、教育実習のための下調べ、といった方が正しいだろう。大学で教職課程を履修しているわたしは、6月から教育実習をするのである。科目は高校の世界史で、近世ヨーロッパのあたりを受け持つことになっている。あまりわたしは詳しくない部分なので、せっせと図書館に通って指導案を書かなければいけないハメになっている。

わたしの大学は元教育大ということもあって、教職課程を履修する人も多く、また教採試験などでのOB会によるサポートも熱心に行われている。わたしがこの大学に決めたときも、わたしが教師になると思った親戚も多かった。実際に教師になれなくても、とりあえずは教職課程をとってみる、という人も多く、わたしもそのような感じで教職課程をとっている。

一般教養を付けるくらいの気持ちで教職課程をとりはじめたのだが、周りの友人がどんどん離脱していく中で、教育実習までこぎつけてしまったのだった。本気で学校の先生になるつもりはなかったので、授業態度もきわめてふまじめであったし、聞いた話もほとんど覚えていない。そんな状態でも単位だけはそろってしまうのだから、大学教育もしれているものである。やる気がなくても免許が取れてしまうことはそれなりに問題になっているらしいが、まあいまの大学教育体制ではどうにもならないであろう。

それでも、3年間教職課程を受けてきたことは、無駄にはならなかったと思っている。普通に自分の専攻に関係のある科目を受けていただけでは得られない知識や視点を得られたのは確かである。いままで読み飛ばしていた新聞の教育欄も、一応目を通すようになった。教職科目の講義を通じて、学校の先生も楽ではないことを再認識した。まあ、教師の本当の大変さを知るのは、もうすぐ始まる教育実習を体験してからであろう。



1998/5/11 173 鳥の立場も考えよう (テーマ:トリ)

きのう母の日のことを書きそこねてくやしがっている間に、世の中は愛鳥週間に突入してしまった。今週に限っては、鳥をかわいがらないといけないらしい。ゴールデンウィークがやっと終わったというのに、人々は鳥を見に出かけたり、鳥のための巣箱を作ったりして愛鳥週間を楽しみ、この週だけ動物愛護の精神を発揮した気になる。このことを知ってかどうかは知らないが、そのへんにいるカラスもいつもより異性がよい気がする今日このごろである。

しかし1年のうち1週間だけ動物愛護の精神を発揮しても、その効果は疑問である。普段開発や公害で鳥たちを追い払ったり、釣り糸やタバコの吸い殻を放っておいて鳥たちに悪影響を及ぼしている、ということも、この1週間はすっかり忘れ去られる。愛鳥週間が過ぎれば、巣箱も放っておかれるようになり、なんとなく避けられていた鶏肉もみな平気で食べるようになる。やがてはかわいがられるのは公園のハトだけになってしまう。

わたしの父は数年前突如バードウォッチングに目覚め、休日は鳥を見に出かけていったりする。わたしも何度か鳥を見るためのドライブにつきあわされたことがある。バードウォッチングをする人達のための駐車場もちゃんと整備されていて、鳥を見るための小屋や望遠鏡もきちんとおかれていたりするところもあり、なんのためのバードウォッチングなのかと思ってしまった。まあ、なにも考えずに山や湿地帯を踏み荒らすよりはいいのかもしれないが。

話は変わるがわたしは鶏肉料理が大好きである。もちろん愛鳥週間など関係ない。そもそも、バードウォッチングでにわとりを観察する人など、聞いたことない。むしろ鶏肉が余って無駄になってしまう方が、自然にはよろしくない。そういえば最近焼き鳥を食べていない。高校時代は良く焼き鳥を食べていたのだが。まあこの話はまた次の機会にしよう。



1998/5/14 174 こっそりつけてみました (テーマ:カウンタ)

IRC普及委員会のページにカウンタを設置して明日で丸1年になる。カウントはもうすぐ5万に届こうとしている。この数はわたしも驚くほどの多さであった。Yahoo!にも登録されていなかったIRC普及委員会のページに、これだけ多くのアクセスがあったのは、積極的にリンクしてくれたIRCの知り合いのみなさん、そしてIRC上でも解説ページとして紹介していただいたおかげである。ひとことで言うと、おひきたてありがとうございます、ということになる。やはり自分のことをかかなかったのが成功の秘訣のようだ。

IRC普及委員会をはじめとするわたしのページに、カウンタが設置されていることを知らない、という人も多いようである。ページのすみっこに小さく数字が出ているだけのカウンタなので、まあ気づかないのも当然である。いまはプロバイダ提供のカウンタを利用しているが、いちばん目立たないやつを選んである。プロバイダを変更する前は自前のカウンタであったので、いちばん小さいサイズのテキストにしていた。ちなみにこのページにもカウンタは設置されている。ほかのページよりは見つけやすい場所にあるのだが、気づいた人はどのくらいいるだろうか。

目立たないカウンタにしているのは、大した理由があるわけではない。たんに、アクセス数を誇示するというのが嫌いだったからである。ではなんでカウンタを設置したかというと、周りの人の薦めがあった、というのもあるが、自分のページにどれくらいの人が来ているのか知りたかったからである。たくさんの人が来てくれているのなら、ページの更新をどんどんしよう、という気にもなるものだ。自分がアクセスした分子かカウントが増えない、というのも悲しいものである。冗談でどこかの政治家みたいにカウントを100万から始めてもよかったのだが、ばかばかしいのでやめにした。

カウントがきりのいい数字を突破する瞬間というのは、なんとなくどきどきするものだ。そういうときは、思わずチャットなどで宣伝してしまう。しかし忙しいときなどは、そういう瞬間をうっかり見逃してしまうこともある。最近ではIRC普及委員会の44444アクセスを見逃したのが悔しかった。また、きりのいい数字を自分でとってしまうのも、なんとなく悲しい。実はこのページの1000アクセス目は、わたしがとってしまったのであった。アクセス数が増えるのはうれしいのだが、なんとも複雑な気分である。

今日Yahoo!からメールが来た。やっとIRC普及委員会のページが登録されたらしい。おそらく一気にアクセスのペースが増えると予想されるが、さてどうなることやら。



1998/5/16 175 普通免許だけです (テーマ:資格)

世は就職活動シーズン真っ盛りである。もっとも、就職協定が廃止されてしまったので、いつが真っ盛りのシーズンなのかはよくわからない。早い人は去年の暮れあたりから動き始めているし、就職希望なのにまだ何もしていない人もいる。わたしの就職活動については、前にこのエッセイでかいた。とりあえずは進学希望であるし、就職させてもらえそうな先はひとつ確保できてしまったので、就職活動とは無縁の生活を送っている。仕事に就く気がないということだから、これは決してえらいことではないのだが。

ともかく就職活動と切っても切れない関係にあるのが資格である。ものによってはアルバイトに有利な資格などもある。ガソリンスタンドなどでは運転免許や危険物取り扱いの免許を持っていると、かなり有利になるらしい。一般的な就職活動だと何が有利になるのだろうか。職種によっても違うだろうから、一概には言えないのかもしれないが。技術職で調理師許などを持っていても、意味はないであろう。

何々がしたいからこの資格を取る、というのはよくあるだろうが、就職のために取れる資格は取っておく、という人もいる。就職するのが大変な時勢であるので気持ちは分からないでもないが、なにかちがうのではないか、とも思ってしまう。細かい話は忘れてしまったが、持っていてもなんのメリットにもならない資格というのもあるらしい。履歴書を飾るためだけ、というのもさみしい気がする。やはり、資格は実用的なものの方がいいように思う。

資格があるということは、その資格に該当するなにかができるということの証明になるはずだが、資格を持っていてもそれができないということもある。ペーパードライバーなどがいい例である。逆に、資格を持っていないからといってそれが絶対にできない、ということでもない。そう考えるとわたしはあまり資格をどんどん取ろう、という気にはならないのだった。資格で飾りたてられた自分というのもぞっとしない。



1998/5/17 176 福は来ましたか? (テーマ:笑い)

人を笑わせる、というのは実はけっこう難しい。テレビを見ているとお笑いタレントがたくさんでてくるが、あの人達は実はすごい人々なのである。まず、笑わせるには一種の才能のようなものが必要である。どこで何をいうか、というタイミングが非常に重要になってくるが、これはセンスのない人はいくら訓練してもどうにもならない。しかし人を笑わせることに成功すると、なんとも言えない満足感を得られるのも確かである。だからこそうけないギャグを連発するような人もいるわけだ。

しかし、中には人を笑わせることと人に笑われることを混同している人もいる。人に笑われるたぐいのギャグを売りとするお笑いタレントもいるが、こういう人はたいてい知らないうちにブラウン管の世界からいなくなってしまう。いつまでも同じことをやっていれば、当然見る人に飽きられてきてしまうのだ。笑いはそのうちあきれになり、やがて無関心へと移り変わっていってしまうのである。

人を笑わせるもの難しいが、自分自身が笑う、というのも難しい問題であろう。場所をわきまえずに声を出して大笑いしてしまえば、周りの人に迷惑をかけてしまう。接客業の人などは、とくに笑いには気をつけていることと思う。お客に気持ちのよい印象を与える笑顔を、意識して作らなければならない。某ファストフード店にはスマイル0円などと書いてあるが、混んでいるときなどは余裕がないせいか、あまり笑顔が見られないこともある。

また、一人で笑っていると気味悪がられることもある。以前電車の中で思い出し笑いが止まらなくなって困ったことがあった。周りの人はなんだこいつと思ったにちがいない。本やマンガを読んでいて吹き出してしまい、あわてて周りを見回して恥ずかしい思いをすることもある。チャットをしていて笑ってしまっても、気持ち悪がられる。電子メディアの場合は特に気味悪がられる傾向が強いような気がする。テレビや本などでうけてしまうのと、なんの違いもないと思うのだが。

精神的に落ち込んでしまったときなどは、やはり笑うのがよい。笑うような気分になれないときは、いままででいちばんおかしかったことを思い出してみたり、いちばん笑えるテレビ番組を見てみたりして無理矢理にでも笑ってみるのがよいと思う。しょぼくれた顔をしているよりは、無理をしているように見えても笑っている顔の方がよっぽどましである。から笑いがそのうち本当の笑いになるときがきっと来る、と信じて笑うしかないのだ。



1998/5/18 177 ときどき最難関 (テーマ:エッセイのタイトル)

エッセイを書くときにいつも苦労することが2つある。エッセイのテーマと、タイトルである。テーマのほうは思いついたものをメモしてあるのだが、そのストックもだんだんなくなってきた。ずっと書けずに化石化してしまったテーマもある。テーマ不足はつねに深刻な問題なので、これを読んだあなたは、ぜひテーマのリクエストをメールなり掲示板なりにしていただくことをお願いしたい。最近は本当にネタが尽きかけているので、このままだと日替わりエッセイ終了ということになってしまう。

まあテーマの話は置いておこう。テーマや内容によっては、タイトルがなかなか決まらないことも良くある。とりあえずテーマだけは決まっているので、本文は書けるのだが、アップロードする前にさあタイトルを書かねば、というところで止まってしまうのである。タイトルが決まらずチャットをしたりしているうちに1時間たってしまう、なんてこともときどきある。こうなってしまうともうおしまいで、タイトルが決まっていないのを忘れてHTMLをアップロードしてしまう、などということもしたことがある。

不思議なもので、タイトルは決まるときはあっさり決まってしまう。書く前に内容がほぼできあがっているような時はタイトルもすぐ決められることが多いが、必ずしもそうとは限らない。逆に、本文を書いている途中で突然タイトルが思い浮かぶ、ということもある。最悪なのは本文も進まずタイトルも決まらないときである。エッセイを書いているときはたいていどこかのチャットに入っているのだが、こういうときはチャットをする気も起きなくなる。

書き始めてしまった以上やめるのもなんだか悔しいので、苦しみつつエッセイを書き続けるのだが、そういうときに投げやりにつけたタイトルがうける、ということもあるので世の中はわからない。もっとも、こういう日に書いたエッセイは、本文がとても読めるものではなかったりすることが多いのだが。文章を書きつづけるということは本当に大変なことだと思う。



1998/5/19 178 まだ行ったことないですが… (テーマ:インド)

いま、インドが熱い。暑いのは前からそうなのだが、このような注目のされ方をするのは久しぶりであろう。秋葉原でインド製のハードディスクが話題になったと思ったら、とつぜん地下核実験を強行して国際世論を沸騰させている。まあこの2つには関連性はないのだが、今度の出来事で、インドが核保有国であるということを初めて知った人も多いことだろう。カレーでインド人をびっくりさせていた日本人だが、こんどはびっくりするほうにまわってしまったわけだ。

とにかくインドに対しては誤解が多い。インドは仏教が生まれた地であるため仏教とが多いようなイメージを持っている人もいるだろうが、実際は仏教徒の数は決して多くはない。インドの社会にもっとも深く根付いているのはヒンドゥー教であり、熱心な仏教国はむしろインドの周りに多い。なんとなく平和そうなイメージがあるが、地方では暴動が起こったりもするし、パキスタンとの対立に象徴されるような宗教対立も深刻である。シク教徒過激派のテロなどは有名であろう。

最近はインドへの一人旅が流行っているようで、わたしの友人でもインドに1ヶ月ほど行っていた人がいる。ところがこの一人旅というのが結構リスキーであったようで、旅行者の行方不明事件もたびたびおこっているようだった。結局その人は、体調を崩したほかはなにごともなく帰ってこられたのだが、帰国予定日を過ぎても大学に現れなかったので、生きているかどうか心配になったものだった。治安の面でいうとヨーロッパの国だって十分あぶないのだが、インドはやはり気軽に一人旅にいけるような国ではないような気がする。

そしてインドといってはずせないのは、あのなんともいえないあやしげな雰囲気である。いっぺんだけ見たインド人もびっくりのCFも、めちゃくちゃあやしかった記憶がある。昔はやった「あの」格闘ゲームのインド代表のキャラもかなりめちゃくちゃであった。手が伸びたり火を噴いたりと、あれはもう人間ではなかった。マンガなどで書かれる中国人もかなりめちゃくちゃだが、インド人も負けずおとらずである。こういうデフォルメが誤解や差別を生んだりしてしまうのではないだろうか。



1998/5/20 179 保護しているのは何? (テーマ:環境問題)

環境問題がクローズアップされはじめてもうどのくらいになるのだろうか。今でこそ環境対策をするのがあたりまえになっているが、昔は環境への配慮など全く気にせず、開発やら生活やらをがんがん行ってきたものだった。環境問題よりも先に公害問題があったが、この2つがどのように関連しているかは、わたしはよく知らない。

それにしても、環境問題がどのように理解されているのか、というのはやや疑問である。なんのために地球環境を守らなければいけないのか。こたえは簡単で、人間が生きていくためである。人間が快適に生きていくためには、程度の差こそあれ自然環境をなんらかの形で破壊しなければならない。ものを食べるにしても、服を着るにしても、どこかに住むとしても、自然環境に何らかの影響を与えないわけにはいかない。その程度がひどいから、現在問題になっているのだ。われわれが保存しようとしている「自然環境」というのは、人間が生きていけるような環境を意味しているのである。

自然は人間が破壊しつくせるほどやわなものではない、とわたしは思っている。いま環境問題が発生しているのも、自然が人間を邪魔者と判断して排除しようとしているのではないかとさえ思う。人間が自分の住めない環境に自然環境を変化させてしまって滅んでしまえば、自然環境はそれなりの形で再生するだろう。再生するまでに何年かかるかはわからないが、数万年かかったとしても、すでに人間はいないので別に気にする必要はなかろう。

環境問題に関心がない人々というのは、たぶん環境保護イコール人類保護である、という認識がないのであろう。経費節減のため変なところに廃棄物を捨てる企業などは論外だ。賢いからという理由で狂ったようにクジラやイルカを守り続けるような人々も、環境問題の本質がわかっていないと思われる。まあ動物愛護と環境問題もまた別な問題であるから、まあいいとしよう。しかし、環境問題が自分の生命にもかかわってくるかもしれない、ということがわかれば、すこしは環境対策もましな方向に向くのではないかと思う。



1998/5/21 180 素質と才能と天才 (テーマ:才能)

才能というものは人間に最初からそなわっているものではない。生まれつきそなわっているものがあるとしたら、それはセンスとか素質とかいうものであり、センスとか素質とかをみがくことにより、才能として開花するのである。そしてその才能をさらに磨けば、天才と呼ばれるようになるかもしれない。天は何もしないものには才能を与えたりはしないのだ。

あえて才能と呼べるものがあるとすれば、素質を磨くのに面倒くささを感じない能力がそれにあたるのだろう。わたしもそこそこ文章が書けるようになってきたが、これは文章を書くのが好きで、高校の頃からいろいろと文章を書いていたから、いまくらいにかけるようになったのだ。絵のうまい人も、昔から絵が好きでたくさん絵を描いたという人がほとんどだろうし、音楽などにしても同様であろう。練習が好きでたくさん練習したから、うまくなったのだ。

しかし、天才としか思えない人というのもたしかにいる。わたしの周りにも、音楽の天才としか思えない人がいたりする。しかしその天才さも、おそらく音楽にどっぷりと浸かってきたからこそあらわれてきたものなのだろう。そういう点は他の人には絶対にまねできないところであり、尊敬すべきところでもある。

ずっと後の時代になってから天才と認められる人もいる。自分は才能があると信じていても、結局周りに認められない人もいる。自分に才能があるとまったく意識していないですごいことをやってのける人もいる。人が持っている才能というのは、その人によって方向性がさまざまに違う。人の才能をうらやむよりも、がんばって自分の素質を伸ばそうではないか。



1998/5/31 181 試験続きの人生 (テーマ:試験)

わたしの父はいま、退職後に備えて技術士の資格を取るために受験勉強を続けている。この間は現在習っている太極拳の試験を受けていた。50歳を過ぎてまで試験を受けないといけないのか、と驚いてしまったが、これもとりたてて珍しいことでもないらしい。不況と高齢化社会が重なって、資格でもないと将来食べるのに困ってしまう可能性もあるのだ。

昔に比べれば、ひとが試験を受けなければいけない機会というのはぐっと増えた。わたしが子供の頃までは中学受験をしない人もまだまだ多かったが、いまではお受験だかなんだか知らないが幼稚園や小学校の入試を受ける人も少なくないという。高校や大学に進学する人も、昔に比べればずっと増えている。就職する際にも入社試験は受けないといけないし、就職したあとにも研修などで試験が課されることもあるそうである。

わたしも大学に入学して、これでしばらく試験を受けずにすむとほっとしたものだが、世の中はそれほど甘くない。大学の講義の試験もあるし、就職するにしても進学するにしても、なんらかの試験を受けなければならない。アルバイトで採用試験をやらされたこともあった。車の免許を取るときも試験が必要であった。

このように試験がたくさんあるのも、試験というものがひとの実力をはかるのに手軽で有効な手段だからであろう。しかし、実際には一夜漬けでなんとかなってしまうような試験も多い。こういう試験は、知識の修得度をはかっているのか、一夜漬けをする集中力をはかっているのか、判断に苦しむ。その一方で、司法試験のようにいくら勉強しても受からない人は受からない、という試験もある。試験に通った際の特典もピンキリなので一概には言えないが、試験ではかれる実力というのもたかがしれていると思う。

ほんとうにすごいことになると、試験は意味をなさなくなってしまう。漫画家や小説家には試験はないし、学問の世界でもノーベル賞をもらうのに試験をするわけではない。音楽でもCDをだすための試験があるわけではない。業績がそのまま実力に反映する世界では、試験は意味をなさないのだ。わたしも試験では実力がはかりきれないような世界の人間になってみたいものだ。



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