日替わりげしょ定食

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1998/4/5 144 敬語の敬は何の敬 (テーマ:敬語)

4月といえば新入生、新入社員である。新入生はまだだろうが、新入社員のみなさんはすでに新天地で働き始めていることだろう。もっとも、まだ研修中だと思われるが。その研修でも、社会人としてのマナーをいろいろとたたき込まれていることだろう。とくに敬語については、ことこまかに指導されていることと思われる。面倒くさいことだが、身につけておいて損はない。あの気持ち悪い営業口調がマスターできればあなたも立派な社怪人だ。

しかし、敬語とは言うものの、実際に敬意を込めて敬語を使う、ということはあまりないような気がする。新人研修で習う敬語は単なるマナー以外の何者でもない。取引先やお客など初対面の人間や、会って日の浅い上司に、どうして敬意が込められようか。現在使われている敬語は、機能的には丁寧語とほとんど変わりがないのである。

この話題になると、むかし小学校の先生としたやりとりを思い出す。理由は忘れたが、クラス全員が先生にこっぴどくしかられたときだった。6年生でちょうど敬語を習ってすぐの頃だった(と記憶している)のだが、敬語のことをすっかり忘れていたわたしの不用意な発言で、先生をよけいに怒らせてしまったことがあったのだ。なぜそんなことだけでわたしだけが怒られなければならなかったのか。ほとんどとばっちり状態で、いまだに納得のいかなかった出来事である。

しかし、おかげでわたしの敬語に対する観念も変えることができた。前に述べたように、敬語という名前は名ばかりで、その実体は単なる丁寧語なのである。敬語が使われても、それは単に話している相手との立場の違いを表すだけで、ほとんどの場合敬意はともなわない。相手を尊敬しているから敬語を使うのではなく、相手が自分より上の立場の人だから敬語を使うのだ。

予備校の古典の先生が、敬語法の説明をするときにうまいことをいっていた。尊敬語や謙譲語、丁寧語は、話者間の「距離」をあらわしている、というのである。これなら、敬意のともなわない敬語も、初対面の人に敬語を使わなければいけない理由も説明できる。というわけで、冒頭に書いたような結論に行き着くのであった。



1998/4/6 145 もうシーズンも終わりですが (テーマ:おでん)

おでんといえば飲み屋の屋台。というイメージだった時代はとっくに過ぎた。いまではおでんといえばコンビニであろう。コンビニのおかげで、おでんも気軽に食べられるものへと変化した。コンビニでおでんを扱うようになった以前のことはわたしもよく知らないが、テレビで見る限りは、おでんといえばやはりガード下の屋台である。主に食べるのもくたびれたサラリーマンであり、決して学生や主婦ではない。

おでんのこうした性格上、おでんに妙にこだわるおじさんなどもいるようである。まあ、味にうるさいおやじというのは、ジャンルを問わず昔から各地に分布していたのであるが。それも年齢不詳、職業不詳、たぶん近所に住んでいると思われる人であるようなイメージがある。一般的な中年のサラリーマンがおでんについてうんちくをたれても、いまいち説得力がない気がするのはわたしだけだろうか。

おでんに入れるものが地域によって大きく違うのは、有名な話であろう。よく言われる例が牛すじであろうか。わたしはコンビニで見るまで、おでんにこのようなものを入れるところがあるとはまったく知らなかった。ほかにもいろいろと違いがあるらしいが、わたしもくわしいわけではないのであまり言及しないでおこうと思う。

最初に書いたように、おでんもいまではコンビニで気軽に買えるようになっている。コンビニで売られている食べ物にも当然賞味期限というものがあって、作られてからある程度の時間が過ぎてしまうと廃棄処分にしないといけない。おでんのそれは中華まんやからあげにくらべればずっと長いにしても、普通のおでんの食べ頃から考えるとちょっと短いような気もする。わたしがバイトをしていたコンビニでは、おでんの賞味期限は12時間であった。せっかく味がしみてきておいしくなってきたところで、廃棄になってしまうのである。もったいないかぎりである。

わたしも一人暮らしをしていた頃は、たまにコンビニでおでんを買って食べたりしていたが、基本的には家で煮込んで食べる以外ではあまりおでんを食べない。しかしやはり、おでんといえばガード下の屋台で食べるものである。一度そういうところでおでんを食べてみたいのだが、将来就職すれば、いやでも行くことになるのかもしれない。



1998/4/7 146 色々ありますが (テーマ:色)

日常生活を送っていく中で、色、すなわち色彩をまったく気にしない、という人はまずいないだろう。これはある意味当然のことで、われわれは小さい頃から色を意識するように教育されているのである。もちろん色盲や色弱の人の存在も無視することはできないが、これらを障害扱いすることからも、色というものが重要視されていることがよくわかるとも言える。まあこういったことは、どこかで学術的研究もされていることだろう。

どんな人にも色の好き嫌いはあるだろうが、その人の好みの色がどこにいちばんあらわれるかと言ったら、それはやはり着ている服であろう。その人の持ち物も見逃せない。中にはなにからなにまで自分の好きな色に固めてしまう人もいる。わたしが知っている中では、そういう人はなぜかみな好みの色が黄色である。部屋に遊びに行くと黄色だらけだったりして、びっくりしてしまったこともある。部屋中赤や茶色で固めた、という話はあまり聞かない。黄色という色にはなにか特別な効果があるのだろうか。

もう1つ不思議なのは、スポーツ関係のものはなぜあんなに派手な色使いなのか、ということである。ウェアにしろ道具にしろ、普通の服や道具にはこんな色は使わないのではないか、と思うような派手な色を使っている。これには流行もある程度影響しているのだろうが、あんなに蛍光色をちりばめて何が楽しいのかと疑ってしまう。地味なウェアを見ると安心してしまうくらいだ。

しかしわたしの好みの色は何なのか、これが自分でもよくわからない。部屋の中や着ている服をざっと見た限りでは、モノトーンや淡い中間色が好みであるようなのだが、あまりにいろいろな色がありすぎていまいちよくわからない。あまりどぎつい色でなければ何でもいいのかというと、そうでもないような気もする。もしかしたらいろいろな色が混在しているのがいいのかもしれない。



1998/4/8 147 でも好物 (テーマ:カップ焼きそば)

今までこのエッセイでもさまざまな食べ物を取り上げ、いろいろとおちょくりたおしてきたが、それらに負けず劣らずの奇想天外な食べ物がまだ存在した。それこそが、「カップ焼きそば」である。

この手のインスタント食品はまったく食べない、というひとも中にはいるだろうが、多かれ少なかれカップ麺にお世話になっている人のほうが多数派であろう。今ではカップ麺の種類も、ラーメンはもちろんうどんやそば、ちゃんぽんや油そば、さらにはスパゲッティまでいろいろ増加している。その中でもカップ焼きそばはわりと昔からあるほうで、好んで食べる人も多いのではないかと思われる。

しかし、この「カップ焼きそば」には大いなる矛盾がある。カップ焼きそばは、麺をお湯で戻し、そのお湯を捨ててソースをかけて食べる。そう、食べるまでに「焼く」という作業が存在しないのである。原材料を見てみても、麺をあらかじめ焼いてある形跡はない。われわれは焼いてもいない麺を、「焼き」そばだといっておいしく食べてしまっているのである。もしかしたらすでにJAROに苦情でも来ていたりしているのかもしれない。

しかし苦情を送る前にもう少し考えてほしい。焼いていないという事実にも関わらず、実際にはこれは「焼きそば」であると社会的に認められているのである。人々はこれらが「焼きそば」と銘打って売られていることに何の疑問も持たず、また焼きそばを食べているつもりでカップ焼きそばを食している。わたしは統計にうといのではっきりしたことは言えないが、もしかしたら本物の焼きそばよりもカップ焼きそばのほうが消費量が多いのかもしれない。

ここでピンと来た人もいるだろう。そう、カップ焼きそばは焼きそばを疑似体験できる食べ物であり、「バーチャル焼きそば」とでも言うべき食べ物なのだ。ここで責められるべきは焼きそばのふりをした食べ物ではなく、簡単にまねされてしまった本物の焼きそばのほうなのではないだろうか。ペヤングのあのCMを超える宣伝ができなかった、本物の焼きそば側の広報の責任も考えられるだろう。なんといっても、これを言ってしまうとみもふたもないかもしれないが、そこそこにおいしいのだからいいではないか。わけの分からない味のついたポテトチップよりはるかにましだ。



1998/4/10 148 所詮は伝聞 (テーマ:貧困)

これを読んでいるみなさんはすでにご存じであると思うが、わたしは学生である。学生といえば、昔から貧乏と縁が深いことで有名である。だが、学生貧乏という言葉も、最近では意味的に大きく変わってしまい、金欠病とほぼ同じ意味になっているように思われる。要するに、当座の生活はなんとかしのげるが金がない、という状態なのである。しかもその金がない理由も、コンポやパソコン、女性なら服や化粧品、さらには車といったようなものが原因である。本当に貧乏な大学生は意外に堅実だ。

これに対して貧困はどうだ。いや、比べること自体失礼であろう。こちらは本当に生活に困っている。しかも、へたをすると明日生きていられるかさえわからない状態なのだ。なんと言っても学生と決定的に違うのは、助けを望めないことである。とくに難民になってしまった人々などは、食べ物だけでなく将来に対する望みもなく、絶望の中でそれでも生きて行かねばならない。こんな状況をぬるま湯につかりきっている日本の学生が理解できるのだろうか。

しかし、この問題について深く考えられる余裕があるのは、もしかしたら学生のうちだけなのかもしれない。日本の社会は豊かではあるとはいえ、決してきびしくないわけではない。忙しさにかまけて、他の国の人々の生活などには目を向ける余裕がなくなってしまうかもしれないのだ。ましてや、ボランティアで現地に行ってみるなどと言うことはまず不可能である。可能ではあるかもしれないが、社会人としての信用は保証されない。マスコミが取り上げてくれなかったらおしまいだ。

しかしやはり最大の問題は、貧困の苦しみはおそらく体験してみないとわからない、ということであろう。日本にいたままで何を叫んでも、それは単なる机上の空論、あるいは偽善でしかない。だからといって貧困はそう簡単に体験できない。貧乏なら簡単だろうが、貧困はそうはいかない。そうなると、リポートや実際に貧困に苦しんでいる人の話を聞いて、最大限に推測するしかない。そこからさらに解決への道を探らないといけない。先の長い話だが、だからといって放っておいていい問題ではない。



1998/4/12 149 読めれば十分 (テーマ:字)

自分の書く字がきれいであると自分で思っている人は少ないようだ。字がきれいだとほめても、いや、自分の字は汚いと否定されたり、字が汚いという人になにか書いてもらうと実はきれいな字だったり、ということも多いような気がする。もちろん本当に字が汚い人もいるが、なぜかそういう人は自分の字は汚い、と主張することは少ないように思える。

わたしの書く字はどうかというと、他の人の評価はともかく、自分では汚いと思っている。ときどき自分でも解読不可能な字を書いてしまうこともある。以前試験の時に「インドシナ」と書いたのが「インド汁」としか読めず、試験中なのに笑いをこらえられなかったこともあった。もっとも、たまに自分でも信じられないくらいきれいな字が書けてしまうこともある。こういうときはなんとなく気分も良くなる。

自分の書く字が気に入らなく思ってしまうのも、まあ納得がいく話ではある。字というものには、書いた人の性格がでるものだ。字でする性格判断もあると聞いた。自分の性格などに気に入らないところがあれば、その性格がよくあらわれる自分の字も気に入らないと思ってしまうこともあるだろう。また、自分の字は数ある字体の中でもいちばんよく見ているものである。それだけに良い点よりも悪い点のほうが目に付いてしまうのも、当然といえば当然だろう。

まあ、たぶん自分の字を必要以上に気にするべきではないのだろう。重要なのは、気持ちよく読める、ということである。これには必ずしも「きれいな字」である必要はない。字が上手でも読みにくいこともある。わたしはきれいでなくてもいいから、読みやすい字を書くように心がけている。もっとも、メモやノート(眠いとき)は別だが。

ワープロの普及で手書きでなくても文書を書けるようになってきており、最近は字のきれいさはあまり気にしなくてすむ。字の汚い人間としてはありがたい限りである。しかし、手紙などの私的な用事ではやはり手書きである。ワープロで手紙を書いて出したら、相手から味気ないといわれてしまってからは、よほどのことがなければ手書きにしている。手紙のメッセージというのは、文章ではなく字そのものも重要な意味を持つ。筆無精なだけに、手紙を出すときは伝えられるだけのことを伝えたいのだ。



1998/4/15 150 もっと盛り上げ方考えましょう (テーマ:イッキ飲み)

入学式シーズンも一段落つき、世は新歓コンパまっさかりの時期である。わたしの大学でも連夜コンパが繰り広げられているらしいが、わたしはなかなかつくばに来られないし、酒を飲んでから車で帰るわけにもいかないので、まったく顔を出していない。しかし、新入生の人々は、受験以来ほぼ初めて馬鹿騒ぎができるときがやってきたわけである。そして、大学のコンパといえば、必ずやらされるものがある。それが、イッキ飲みだ。

毎年毎年どこかでイッキ飲みによる死亡事件が起きているにもかかわらず、このイッキ飲みは全くなくなる気配がない。よく懲りないと思うが、毎年やってるからとか、伝統だからとかいっているが、要するにほかに盛り上げ方を知らないだけである。まあ、大学に入るまで宴会などやったことのない連中だから当然だ。宴会芸をするなどという発想は、全くでてこないらしい。

さらに、なにを勘違いしたか、酒を飲んでつぶれたり、病院に送られたりするのがえらいと思っているらしい。とにかく量を飲めばすごい、と思っている人もいる。これは勘違いもはなはだしい。確かに飲んでつぶれないならすごいかもしれないが、結局つぶれてしまっては、一杯だけ飲んでつぶれる人と大した差はない。わたしはイッキばかりの飲み会がいやで、ある団体を辞めてしまった。

大学に入って酒を初めて口にする、という人も少なくない。しかし、限界を知るのと無茶をするのとは違う。初めての飲み会でイッキ飲みをしてつぶれてしまって、その後しばらく酒を飲めなくなった友達もいた。酒で身をほろぼすという話はよく聞くが、酒造側以外で酒で成功したという話は聞いたことがない。酒を飲んで盛り上がるのもいいが、イッキ飲みは最悪の盛り上げ方だと思う。もっとも、この認識からほかの盛り上げ方を考え始めることになるのかもしれないが。



1998/4/16 151 あれば便利だけど… (テーマ:携帯電話)

くどいようだが世の中は新歓の季節である。キャンパスには新入生があふれ、学生食堂がめちゃくちゃ混んでしまうので、こうして昼休みにエッセイを書き出す人まで出る始末である。しかしこの部屋もやや混んでいたりする。新入生はまだほとんどいないはずなのだが。きっと全体的な人の量が多いのだろう。

新入生がやってくるのは正課の活動だけでなく、サークルにも多数の新入生が現れる。わたしはすでに4年生であり、サークルの方でしか新入生に接する機会はないのだが、そこでたまたまあった新入生のほとんどは携帯電話もしくはPHSを持っており、驚いてしまったものである。自己紹介の後に番号を教えあっていたりしているのを見て、ジェネレーションギャップのようなものを感じてしまった。

はずかしい話だが、わたしも携帯電話を持っている。1年ほど前は、周りの人たちに絶対持ちたくないと言っていたので、宗旨変えしたのかとあきれられるかもしれない。いちおうこれには理由がある。千葉、東京、茨城とあちこちに行っているので、なにかと連絡が付けられない可能性があるのである。もともと電話は苦手なので、めったにかけないいし、それゆえに当然めったにかかってもこない。携帯の料金プランも、基本料が一番安いものにしてある。

しかしどういうわけか、電話がかかってくるのはあまりかかってきてほしくない状況下であることが多い。電車の中や車の中ならまだしも、ゲームセンターやカラオケボックスにいるときなど、あまり行かない場所にいるときにねらったようにかかってくることがままあるのである。一番困るのは、家で電話していて携帯にかかってきたときである。まあ、かける方に非はないのでしょうがない。

それにしても携帯を持つ人がほんとうに増えた。ほんとに必要なのかわからない人もたくさんいるが、まあ遊び道具として持っているのだろうから、あまり文句を言ってもしょうがない。ただ、電車の中では電源を切る(せめて発信しない)など、最低限のルールは守ってほしいものである。



1998/4/17 152 雑誌雑考 (テーマ:雑誌)

世の中は新歓の季節・・・とは関係のない雑誌の話である。ひとくちに雑誌といってもいろいろあり、コンビニやふつうの本屋にあるような週刊誌や月刊誌から、同人のものや学術研究関係の雑誌など、さまざまなものがある。その種類は想像よりもはるかに多い。以前コンビニでアルバイトをしていたとき、配達されてきた雑誌を並べたりしていたのだが、その種類多さに驚いたものである。意外だったのは、アダルト関係の雑誌がかなり多かったことである。コンビニであれば売場の4分の1を占めてしまうほどの量だ。どんなジャンルであれ、アダルト関係のものは出せば売れてしまうらしい。

わたしはここ数年でかなり読書量が増えたと思うのだが、雑誌を読む量は逆に減っていったような気がする。小学校から高校にかけては、ゲーム関係の雑誌や、ジャンプやサンデーなどの少年向け漫画雑誌、あとはちょっとオタク方面に踏み出したような漫画雑誌も読んでいたが、現在はさっぱりである。漫画を定期的に読むような余裕がない、というのが正直なところである。

現在わたしが定期購読している雑誌は、実はたった1つしかない。日録20世紀という雑誌で、20世紀の各年を1週間に1年ずつ取り扱っているものである。つまり100冊でたらそれでおしまいなので、集めてみようと思って毎週買っているのだ。自分の生まれた日になにがあったかとかを知ることができたり、むかし流行ったものを思い出したり、なかなかに楽しいものがある。自分が1974年生まれであることが残念に思えるくらいだ。自分の記憶の中にあるものが、どうがんばっても全体の5分の1程度しかでてこない。

こういう永久保存したくなるような雑誌ならいいが、漫画雑誌などはすぐにたまってしまってなかなか難儀することがある。捨てるきっかけもなかなかなくて、しらない間に枕どころかベッドが作れるくらいまでになったりもする。電車のあみだなに置いていってしまう人の気持ちも、なんとなく分かるような気がする。わかるような気はするが、せめてゴミ箱に持っていくくらいはしてほしいものだ。

邪魔だろうが暇がなかろうが、雑誌のメリットを考えるとやはり無視することはできない。ぱっと買ってさっと読める。安い。いろんな人の文章や作品が読める。話題のタネや情報源になる。というわけで最近は本屋の立ち読みでいろいろな雑誌をみていたりする。本屋の人ごめんなさい。



1998/4/18 153 「エリツィンってけっこうはっぴ似合うね」「ハッピーニューイヤー」 (テーマ:だじゃれ)

タイトルを見ただけで読むのをやめてしまう人もでそうだが、まあ辛抱して読んでほしい。ちなみにこれは、わが家で今日の会話で実際に出てきただじゃれである。

実生活でもチャットでも、わたしは周りが対応に困ってしまうようなだじゃれを言ってしまうことがある。言ってしまうたびに申し訳ないと思うのだが、ほとんど条件反射的に出てきてしまうのでしょうがない。ときどきつっこみを入れてくれる人がいると、心の底から感謝してしまう。静かになるよりは「0点」とかいわれた方がまだ救いがある。

ちなみにわたしの妹も似たような状況にあるらしい。友人などと会話をしていてぽろっと出てしまっただじゃれで、場を凍らせてしまう、というのである。家で言うのと変わらないだじゃれなのにあきれられる、と妹は不満そうに言っていた。わたしも妹も、家でしているそのままの会話でするようなだじゃれを言っているだけのはずなのである。けっして受けをねらって言っているわけではない(うけなければそれはそれでつらいが)ということは、どうやら一致しているようだ。

そう、このどうしようもないだじゃれのセンスは、家庭環境が大きく影響しているのだ。ただし親の影響かどうかはよくわからない。母親もときどきどうしようもないだじゃれを言うが、これはむしろわたしや妹の影響かもしれない。まあ、家で読んでいるマンガや見ているテレビなどが影響していることは間違いないだろう。いちばんあやしいのが「一撃必殺玉砕倶楽部」というどうしようもないマンガだが、これが主な影響だとしたら、家庭よりもむしろ友人の影響、ということになる。

どっちにしても、現在わが家の団らんではどうしようもないだじゃれがとびかう、という事実には変わりはない。にわとりが先か卵が先か。それはもはや誰にもわからない。



1998/4/19 154 学校だけではありません (テーマ:いじめ)

学校でのいじめを苦にした自殺事件は、なぜか2月や3月に多いような気がする。まあ、4月に一番多かったらそれはそれでこわいが、もうちょっとで学年も変わって友人関係も変わるかもしれないのに、不思議な話である。まあ、これにはやはり何らかの理由があるのであろう。

しかし、近年伝えられる学校のいじめは、とても「いじめ」という単語でくくって良いとは思われないものも多い。殴られたり使い走りをさせられる、無視などの嫌がらせを受けるというのならまだしも、金品をまき上げられる、などというのは立派な犯罪である。これをいじめと認めてしまうと、金を取られたほうも人に話しにくくなってしまうのではないだろうか。犯罪の被害にあったと思えば、警察などにも話しやすいと思うのだが。

とにかく、マスコミなどにより伝えられる「いじめ」には、少なからず疑問がある。マスコミのあの伝え方では、まるで学校以外の場では日本にいじめが存在しないみたいではないか。あとはせいぜいが姑による嫁いじめくらいである。会社や社会全体によるいじめに関しては、ほとんど取りあげられることはない。このあいだも某国会議員がいじめを苦に自殺したが、自殺したほうが逆に悪者扱いされる始末である。まあ、いじめの先頭に立つことも多いマスコミには、あまり期待してはいけないのだろう。

会社や社会におけるいじめに比べると、学校のいじめなどかわいいものである。学校でいじめられる理由も、クラスで浮いているからだとか、きたないとかくさいとか、きわめて単純なものだ。本能的にいじめやすそうな人を判断していじめている場合もあるが、基本的にはとても幼稚な理由である。筋を正せばいじめる理由がないこともすぐわかる。しかし、社会のいじめはそうはいかない。がちがちに理論武装されていて、まるでいじめるのが正当であるかのようにされてしまう。いじめられる側も本当に逃げ道がない上に、学校とちがいよほどの大事件がない限り反論の場は与えられない。

おそらく、いまの日本人の多くは、誰かをいじめないと生きていけないのだろう。まったく根拠のない仮説なのだが、人が密集しすぎるといじめも多くなるのではないだろうか。これはストレス云々とは直接の関係はないように思われる(もちろん、人が密集すればそれだけストレスも増えるが)。これだけ密集すれば誰かを排除しなければいけない、と本能的に思い、誰かをいじめることにより、自分は排除されずにすむという安心感を得るのである。

こうして書いているとまるでいじめには縁がないように見えるだろうが、わたしもいじめらしきものを受けたことがある。いじめだと気づかないうちにやんでしまったが、あれはたぶんいじめだったのだろう。しかしいじめが行われているのに見て見ぬ振りをしたこともある。あのころは「いじめ」自体に関わり合いにならないようにしようと思っていたのだが、いま思えばそれは間違っていたのかもしれない。



1998/4/20 155 学問の第一歩 (テーマ:卒論)

わたしは学歴社会などくそ食らえと思っているが、大学卒の人に対しては、あるひとつの点で尊敬の念を抱いている。彼らのほとんどは、ちゃんとした論文を1本書いているのである。最近は卒論のない学部もあるが、まあそれはこの際おいておこう。ともかく、書いた本人がどう言おうと、正式な論文であることは間違いないのだ。先生に代わりに書いてもらったとしても、1本の論文をでっち上げたという点では称賛に値する。

そして、今年はわたしがその論文を書かなければいけない。すでに去年の暮れあたりから卒論指導は始まっているのだが、バイトやバンドでへんに忙しくなってしまったわたしは、1回目の卒論指導から現在までほとんど進展のないままである。ほかの人たちは就職活動の合間を縫って着々と準備を進めている。いままでは3都県を飛び回っていたわたしがすごいといわれたが(といっても実はそれほどすごくはない)、今度はわたしの方が周りの人をすごいという番になってしまった。卒論が進んでいないのに進学の準備などもする気が起きるはずがない。あせりだけがつのっていく。

この間の卒論指導も適当に準備していって適当に発表したら、予想通りいろいろ言われてしまった。自分でこれではいけないと思っていた点も、見事に指摘された。本屋で手に入るイスラム関係の本などたかがしれている。そのため(といったらいいわけになるが)わたしは概論書ばかり買ってきては読んでいたのだった。概論書ばっかり読んで、先生の研究室参りもしない。これで果たして学問をやっていることになるのか。答えは否だ。

恥ずかしい話だが、ここで初めて学問の世界の入り口が見えたような気がした。いままでわたしがやっていたのは、ままごとのようなものだったのだ。しかし本当に大変なのはこれからだ。卒論も大変だろうが、進学するとなると当然論文1本ではすまされない。そう考えると、やはり卒論は学問の世界への第1歩なのだろうと思う。

これだけ書いた後でいうのもなんだが、えらそうな話はやはり卒論を書いてからにしよう。



1998/4/21 156 言葉は変わるもの (テーマ:ら抜き言葉)

いつの時代でも、年寄りの人は「いまの若い者は」と怒ったり愚痴を言ったりしているのだという。同じように、「言葉が乱れている」と嘆く人がいるのは、今も昔もどこの世界でも変わらないらしい。これはすなわち、風俗や言葉はつねに変化していくものである、ということを意味しているのであろう。だからこそ文化や言葉を研究するのはおもしろいのである。

すでに旬も過ぎてしまった感があるが、最近の乱れた言葉の代表としてやり玉に挙げられているものがある。そう、ら抜き言葉である。わたしにはなぜこんなものが取りあげられるのかは理解できないが、おそらく1度気になりだすと、もうどうしようもないのであろう。わたし的には敬意の方向性がめちゃくちゃな敬語の乱れの方が気になるのだが、ジャーナリズムやマスメディアは耳について気になる言葉の方を重要視したらしい。

しかし、可能を示す表現に"ら"を省略するのは、べつに突然でてきた用法ではない。わたしの母親は、小さいとき(関西に住んでいた)からこのら抜き表現を使用していたそうである。 それが東京の話言葉に入ってきたからといって、それほど大騒ぎすることもないではないか。関西弁にコンプレックスでも持っている人がいるのだろうか。

それよりも問題は、話し言葉と書き言葉の区別がまったく付いていない人が多いことである。これは使う方と批判する方の両方に言えることで、書くのも話すのもら抜き表現を使ってワープロにおこられる人がいるかと思えば、話し言葉だけをみて日本語全体が乱れているかのような物言いをする人もいる。現在の日本語が、話し言葉と書き言葉が非常に近くなっているせいもあるのかもしれないが、それでもやはり話し言葉と書き言葉は違う。そして話し言葉はたえず変わっていくものである。その中のらの1個や2個で大騒ぎするものでもないだろう。



1998/4/22 157 散髪といいながら床屋の話 (テーマ:散髪)

そろそろ髪の毛がうっとうしくなりはじめてきたのだが、どうも床屋に行くのは面倒くさくていけない。ふだんの生活サイクルに入っていないので、ついつい忘れてしまう。暇もあまりないし、唯一余裕のある日曜はたいてい家で寝ているし、床屋はやたらと混むのであまり行く気がしない。しかし髪の毛がうっとうしいと、どうも生活にも張りがでない。というわけでいいかげん床屋に行かないといけないのだが、行けないままでいるのだった。

床屋で髪を切ってもらうようになったのは、中学に入ってからだった。それまではずっと母に髪を切ってもらっていたし、床屋に行くようになってからもたまにそうしていた。我が家では父も母に切ってもらっていたので、ずっとそれが当たり前だと思っていたのである。このことを友達に話したら驚かれてしまった記憶がある。常識の話はともかく、そういうわけなので床屋に行くということが日常生活の中に組み込まれないまま今に至ってしまったわけである。

こうしてプロではない人に切ってもらう機会があると、やはりプロはプロだ、ということがよくわかる。耳の周りの処理や刈り上げなどは、素人にはとてもできない技である。床屋なら洗髪や顔そりもしてもらえる。しかも腕のいい床屋は話術もうまい。客を飽きさせない技術を持っている。床屋に行くまでは本当に面倒くさいが、行ってからはなかなか楽しいものである。

わたしが普段利用している床屋は、前にも書いたが家の裏手にある、あのヘアーサロン大仏である。住宅地の真ん中にあるだめ、料金はちょっと高いが、髪を切るためだけにわざわざ遠出する気にはならないので、妥協している。ヘアーサロン大仏にはなんと最新鋭のロボットが導入されていて、頭皮のふけやかゆみを軽減してくれる。また、やたらとでかい画面のテレビがあったり、やたらと高そうなオーディオがあったりと、客のためなのか店の主人の趣味なのかわからない装備がいろいろとある。しかし終わった後にたばこをくれる(これがノンスモーカーでもやられる)あたりから考えると、おそらくはサービスのためなのだろう。

しかし散髪をすると、やはり気分がすっきりする。頭がすっきりするだけでなく髪型も多少変わるので、気分転換にもなる。といろいろ書いていたら本当に散髪したくなってきた。だが、今日は本当はこんなエッセイを書いているような暇はないはずなのであった。当然散髪などをしている時間もないのである。とりあえず今週末のライブはこのぼさぼさ頭のままで出ないといけなくなりそうだ。



1998/4/23 158 いまだから書けるスキー嫌いのたわごと (テーマ:スキー)

今年のスキーシーズンもとっくに終わって、スポーツ用品店の売場の主役はすでにキャンプ用品である。こんな時期になってスキーのことを扱いだしたのには、一応の理由がある。その理由は後で述べよう。

冬と言えばスキー、というくらいに、スキーはやたらと人気のあるスポーツである。冬になるとスキーに行かなければならない、とでも言わんばかりに、人々はスキー場に殺到する。板などの用具を自前で持っている人も多い。自分の道具を持つのが当たり前のスポーツというのは、ほかにはテニスやゴルフと釣りくらいしか思いつかない。あのやたらとかさばる道具を持って、雪が積もっている中をがんばって山奥のスキー場まで出かけていくのである。

で、スキー場に行って何をするかというと、山を登って降りる。それだけである。邪魔なスキーを履きながらリフトの行列に並び、10分くらいかけて上まで登ったとしても、滑って降りてくる時間はせいぜい3分くらいだ。非効率きわまりない話ではないか。また、メジャーなスキー場はどこも混んでいて、思い通りに滑ることはとてもできない。最近は、まったく原理の違うスポーツであるスノーボードとの葛藤もある。スノーボードとスキーを同じゲレンデでやらせるのは、どう考えても無理がある。

しかもスキー場でかかる料金というのが、これまた法外ではないかと思われるくらい高い。けっこうな値段のする旅館でも、狭い部屋で収納スペースはわずか、というところも多いと聞く。リフト台もやたらと高い。なんでスキー場を登っていくだけなのに、一日に1万近くの金を払わなければいけないのか。缶ジュースが110円で飲めるところは珍しいだろう。食べ物も値段の割には味も量も不満があるようなところが多い。まあ、スキーが好きな人ならこれでも納得がいくのだろうし、本当は良心的な場所もあるのだろうから、あまり料金面で文句を言わない方がよいのかもしれない。

また、スキーが好きな人というのは、スキーというものは誰がやっても必ず楽しいものである、と考えている人が多いようである。今年の冬もスキーに何度か誘われたのだが、嫌いだから行かないと言うと、宇宙人をみるような目で見られてしまったこともあった。そして信じられないことに、嫌いだとわかるとさらに熱心に誘うのである。いわく、「絶対楽しいから行こうよ」 勝手に決めつけられても困る。そういうわけなので、スキーシーズンにスキーが嫌いであることを書くのは避けていたのだった。

そうだ。スキーが嫌いな理由をまだ書いていなかった。実はこれには理屈はない。とにかく無条件に嫌いなのだ。将来スキーに無理矢理連れて行かれることもあるだろうと思い、大学の授業でスキーを習ったのだが、やはり好きにはなれなかった。「嫌いだから嫌い」という場合は、どんな理屈や体験も無力であるらしい。



1998/4/25 159 読んでない人も多いらしい (テーマ:説明書)

読み物としての目的で作られたものでない文書を、通して読んでみると非常におもしろい、ということがよくある。よく言われるのが時刻表や電話帳で、書かれている無機質なデータからいろいろと想像力を働かせて楽しんだりする人も多いようである。辞書の挿し絵や言葉の並び方をみて楽しむ、という人もいるらしい。そして、商品の説明書でも似たような楽しみ方ができるのである。

ここでは電化製品を例に挙げてみよう。まず説明書を開くと、目次の後に製品の説明が書かれている。セールスポイントとなる特徴などが主に書かれているのだが、そんなものは買った時点でわかっているはずである。さらに次には製品各部の説明が書かれている。しかしこれも、製品そのものを見たほうがわかりやすい。こういったものは前置きとして書かなければいけないのだろうが、やはり間抜けで笑えてしまう。

実際の使い方の説明のところも、見てみると普段使っていて忘れていた機能や、知らなかった使い方などが見つかることもある。こういうものを見つけると非常に得した気分になる一方で、いままで知らなかったということがくやしかったりもする。日常生活の中で、使用する電化製品はけっこうな数にのぼる。それぞれの使い方を把握しているつもりでも、意外と忘れていたり知らなかったりすることもあるのだ。

しかしなんといっても、説明書でいちばん笑えるのは「故障かな?と思ったとき」の項である。たいてい電源関係のところから始まり、コンセントがささっているか確認することを要求される。思わず笑ってしまうが、実際にコンセントがささっていないこともままあるという笑えない事実もある。CDプレーヤーやビデオデッキなどでは、必ずテープやディスクを交換して試してみるというトラブルシューティング方法が載っているが、聞きたいCDや見たいテープが見られないのでは、根本的な解決にならない。この場合機械の故障ではないのだから仕方がないのかもしれないが、もうちょっとなんとかしてほしいものである。

製品をいったん取り出すと説明書は捨てたりしまったままになったり、という人が多いであろう。しかしこうして説明書を見直してみると、思わぬ発見をしたり、間抜けな絵や記述を見かけたりと、けっこう楽しむことができる。ただし、パソコンやその関連機器の説明書だけは例外である。内容は設置の仕方やハードの解説などがほとんどで、はっきり言っておもしろくない。さらにパソコン本体などの場合は、まず説明書の量がはんぱではない。ひまつぶしに笑いながら読むには、ちょっと適さない感がある。これはおそらく、説明書として洗練されていないからであろう。今後の発展に期待、である。



1998/4/26 160 ちょっと叩いてみたくなる (テーマ:打楽器)

楽器の店で一番人気があるのは、おそらく打楽器、パーカッションのたぐいであろう。ギターやピアノ、管楽器などは、置いてあってもさわろうという気は起きないが、打楽器が置いてあると叩いてみたくなってしまう。ほかの楽器のところに触るなという注意書きがないところでも、打楽器のところにはまず間違いなく注意書きがある。書いていないところは、基本的には触っていいということなのだろう。

しかし打楽器というのは実は奥が深い。叩けばとりあえず音は出るので、これは簡単なのではないかと思ってしまうが、たいていの場合はちゃんとした音は出ていない。これは本職(?)の人に叩いてもらえばすぐわかる。さらに、そのちゃんとした音でちゃんとしたリズムを刻まなければいけない。リズミカルに叩けなければ、いくら叩いてもだめである。打楽器はリズム感が命なのだ。

いまではベースしか弾けなくなってしまったわたしであるが、昔は打楽器をやりたくて仕方がなかった。小学校の時になにかの行事で一度ドラムを叩いた記憶がおぼろげにあるのだが、はっきりしたものではない。転校した先の小学校では学年全体で鼓笛隊を組んでいて、小太鼓をやりたかったが女子ばかりであきらめてしまった、という記憶がある。しかしその後パソコンで音楽をやるようになってからは、打楽器からは遠ざかってしまった。

ちなみに打楽器の難しさを知ったのは、大学でジャズ研に入ってからである。ジャズ研にはドラムのほかにもパーカッションが少し置いてあって、自由に叩いても怒られることはない。見よう見まねで叩いてみたりもするのだが、やはり本物には及ばない。うまくいくと「たたける」人に教えてもらうこともできるが、わたしはそれで奥の深さを思い知ったのであった。

まあ、打楽器を叩いてみる人も、本気でパーカッショニストやドラマーになろうという人はほとんどいない。ちょっと叩いてみたい、というだけである。ほかの楽器では、まず音を出せるようになるまでが大変である。そういう意味では、打楽器はひやかしでやってみるのに最適な楽器ではある。



1998/4/27 161 わたしはこれでパソコンを買いました (テーマ:アルバイト)

いままでいくつかのアルバイトをしてきたが、初めてアルバイトをしたのは高校2年生の夏休みであった。今日のエッセイではそのときの話を書こうと思う。

わりとなじみの電気屋であった。個人経営に近い株式会社で、こぢんまりとした店であったが、ものによっては大型ディスカウントショップよりも安かった。わたしもファミコンのカセットや音楽テープ、フロッピーディスク(当時は5インチ2Dなどという代物を使っていた)などをよく買っていた。わたしの高校では、長期休暇中なら届け出さえすればアルバイトができた。そこで、なじみのその電気屋でアルバイトをしたいと思い立ったのである。

わたしの顔を覚えていてくれたのか、履歴書を持っていったらあっさり採用となった。時給は700円。高校生だということを考えると、まあ高くも安くもない。仕事の内容は店のレジ打ちや掃除から商品の陳列、あとは外回りで配達や工事の手伝いに行くことも多かった。当時はバブルがはじける直前で、電化製品もとにかく売れに売れていた。なにかと作業があって暇な時間も少なかったが、息抜きにちょっとテレビを見ることくらいはできた。

一番多かった仕事は、やはりエアコンの取り付けの手伝いであった。目の前で札束が動くのでなかなかに緊張した記憶がある。また、テレビの取り付けなどの簡単な工事は、わたしが工具を持って自転車で一人で行くこともあった。作業を終えて料金を受け取ると、自分がした仕事で報酬がもらえたことで、なんともいえない満足感を得たおぼえがある。

店にはいろいろな人がやってくるし、配達先にも当然ながらいろいろな人がいる。こうしたことを通じて、客商売のおもしろさと大変さを実感することができた。配達先のいろいろな家を見ることができたというのも、いま思うとなかなかおもしろかった。力仕事も多かったので、筋肉もかなりついた。おそらくこのアルバイトをしていたときが、いちばんたくましかったに違いない。パソコンを安く買うこともできたし、実りの多いアルバイトであったといえよう。

その後家の引っ越しをしてその電気屋も遠くなってしまい、ふらっと寄ることがなかなかできなくなってしまった。大学に入ってしばらくしてからその電気屋に行ってみたところ、不況の影響か店に置いてある品物も少なく、客の数もわたしが働いていた頃に比べると少なかった。それでもさすがにわたしの顔は覚えてもらっていて、暖かく迎えてくれた。あれからもう3年近くたつが、社長や店長は元気でやっているだろうか。



1998/4/28 162 やっぱり見てるだけ (テーマ:球技)

前にも書いたかもしれないが、わたしは運動が全般的に苦手である。原因はだいたい分かっている。小さいときから、あまり外へ出て体を動かすことをしなかったのである。運動神経と音感は、小さいうちに鍛えないとどうにもならない。そういうわけで、わたしも運動音痴に近い状態になってしまったのである。

数あるスポーツの中でも、とくに苦手なのが球技である。ボールを使う競技は、野球やバスケ、サッカーやテニスなどからボウリングやパチンコまで、とにかく下手くそである。いちばんまともにできる球技は、おそらく中学でやっていた軟式テニスと高校時代によくやっていたボウリングであろうが、それでも人並み程度かそれより下手なくらいである。

小学校の頃からいろいろ球技にも挑戦したが、ことごとくだめであった。野球ではボールをねらったところに投げられない。サッカーではボールを前方に蹴ることができない。テニスも始めたときはラケットがボールにかすりもしなかった。中学の時、社宅で運動会みたいなものをやって、ソフトボールにかり出されたのだが、ボールを顔面でキャッチしてしまったのはいまでも鮮明に覚えている。

しかし、そのことを知らない人の中には、わたしがそこそこ運動神経がいいと勝手に思いこんでしまっている人もいるようである。おそらく見た目だけはたくましく見える体格のせいであろう。まあ、この話は別の日にエッセイで取りあげることにしよう。とにかく、わたしは球技が苦手なのである。野球やテニスそのものは嫌いではないが、やはり見ているだけである。見ているだけなら顔でボールをとらなくてもすむ。



1998/4/30 163 発掘されたあとは… (テーマ:遺跡)

履歴のところに小学校で遺跡が発掘された事を書いたが、これはべつに珍しい事ではないらしい。日本の場合、平地の使えるところはほとんど人が住んでいるというのは昔からの事なので、開発などのために地面をちょっと掘ると、なにかしら出てきてしまうらしい。最近発見される遺跡は、たいていが土地開発中に出てきたものである。

そういうわけで遺跡が出てきたのが、わたしのいた小学校の新校舎建設予定地なのであった。なにせ入学したての頃の話なのでよく覚えていないが、6年生の人たちが竪穴式住居を復原させたとかで新聞の地方版にも載ったらしい。しかし、やがてその遺跡の上には計画通り新校舎が建ってしまった。発掘された遺跡や復原した竪穴式住居の痕跡は、今はどこにもない。たぶん、あの学校には発掘された石器や資料程度しか残っていないことだろう。

4年生のときに転校したのだが、そこの校舎の図書室の脇には、石器やら土器やらがいろいろ展示されていた。実は転校先の学校でも昔遺跡が発掘されたらしい。こっちの学校の場合は、遺跡が出てきたので校舎を建てる場所を変更したそうである。しかし遺跡のあった方は校庭になっていて、毎日生徒が踏み固め続けているのだからあまり意味がないような気もする。

こうして身近で遺跡が出ているわりには、自分自身が遺跡にかかわることがあまりなかったりする。遺跡が発掘されたのも、復原作業をしているのも、見ているだけである。他の遺跡に行ったこともほとんどない。記憶があるのは、九州旅行に行ったときの吉野ヶ里遺跡だけである。あそこはひどかった。まるっきり観光地である。まあ、もともと工業団地を作るつもりで開発したのに遺跡でおじゃんになったのだからせめて金づるにしたい、という気持ちはわからないでもないが、それにしてもあんまりである。



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