日替わりげしょ定食

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1997/12/1 45 自慢ではないですが (テーマ:眼)

わたしはこう見えても目はいい方である。今年の春に計ったときは左右ともに1.5であった。もちろん矯正はなしである。しかし実はこれでも悪くなった方である。昔は左右2.0あったものだが、どうも浪人時代に悪くなってしまったらしい。大学に入った後に、大教室の最後列から黒板の字が読めなかったときは少しショックだった、と言ったら友人にどつかれた。

おかげで、めがね、コンタクトレンズのたぐいとはまったく縁がない。友人のめがねを借りてかけてみたこともあるのだが、目がくらくらしてたまらなかった上に、似合わないと笑われてしまった。劇で役者をやったときに、めがねをかけようかという話もあったのだが、どうもなじめない上に、そもそも似合わなかったのでやめにした。

問題はサングラスの方である。もっとも視力とはあまり関係はないのだが。とにかく、妙な似合い方をしてしまうのである。ほとんどの場合、怖がられる。「売れないミュージシャンみたいだ」と言われたこともある。これは当たらずともいえども遠からずかもしれない。とにかくサングラスをかけると人相が悪くなってしまうのは確かなようである。

しかし不思議なものである。小さいときからテレビばかり見ているし、暗いところでマンガは読むし、ファミコンなどのテレビゲームやパソコンに至っては、一時期狂ったようにやり続けていた。ところが視力はまったく落ちない。小学校低学年の頃は両目1.2だったので、むしろよくなっているくらいである。逆に浪人、大学1年と、目をあまりそちら方面で酷使しなかった時期に目が悪くなったというのは、さらに不可解なことである。

ちなみに両親は最近視力が急に落ちてきたとぼやいている。出かけるときにも老眼鏡(?)を持ち歩いているようである。わたしも数十年後にはそうなるかもしれないのだ。現在目がいいからと言って油断してはいけない。



1997/12/2 46 変人といわれたくて (テーマ:変人)

以前このコーナーでマイペースな行動の仕方について書いたが、これに対してメールで反論をくれた人がいた。他人と逆の行動をとるということは、その時点で他人に影響されていて、いわゆる「マイペース」とは違うのではないか、ということだった。

言われてみれば確かにその通りである。しかし、周りのことを完全に気にしないで行動する人間というのは、マイペースと言うより社会不適応者ではないか、とも思う。まあ、マイペースかどうかはともかく、自分が自分の行動原則を持っていて、それにそって行動している自信はある。

いつからそうなったのかはわからないが、わたしは基本的に自分が変人に見られるようにと行動している。高校時代はまだそういう行動の取り方が下手で、単なる馬鹿のようなこともしていたが、大学に入った頃はかなり変と言える行動をとれるようになってきた。こいつは何を考えているのかわからない、とひとに思わせられるのは変わらないのだが、あきれられるような行動は減ってきたと思う。

こういった行動原則が他人を気にしつつのものであることは認めざるをえないが、わたし個人の性格によるものであることも間違いない。かりに「普通」というのが1パターンだとすると、そこからはずれるパターンというのはいくらでも存在する。どんな人でもどこか変わっているところがあると思うが、どのようにはずれるかというところに、そのひとの人間性が出てくるのではないだろうか。

わたしの理想の自分像は、ひとことで言うと「つかみどころのない人」である。すでに、他の人がわたしを色や動物にたとえようとしてもできない域までは到達しているようである。さて、エッセイだけ読んだ人などには、わたしはどのような人物に映っているのだろうか。



1997/12/3 47 実はギリギリ (テーマ:単位)

わたしの大学には学部というものはなく、学群・学類という名称で組織分けされているのだが、わたしの所属している学類で卒業に必要な単位数は134である。教職課程も履修する場合は、教職科目の19単位などが別に必要になってくる。

わたしの修得単位数は、一昨年、つまり1年生の時のものが62.5単位、2年生の時は77単位である。合計139.5単位。よくもまあこんなにとったものである。もちろんこれはきちんとまじめに授業や演習に出席していたからできたことである。二重申請などのずるはいっさいしていない。

時間割は当然びっちり詰まっていた。月曜の1限目から金曜の6限まで、空いている時間の方が少ないくらいだった。それでもしっかりチャットの方には顔を出していたので、睡眠時間などはつらかった。バイトも満足にできなかったほどだったのだが、おかげでこれほどの単位数が確保できたのである。

なぜこんなことをしたのか。わたしの目指す専攻はイスラム研究なのだが、これを専攻するにはわたしの大学で開講されているイスラム関係の授業があまりに少ない。これは他の大学にでももぐって聞きに行くしかない。しかしそのためには時間が必要である。そこで1,2年のうちに単位を取れるだけとってしまおう、と考えたのである。

というわけで単位数だけは取れた。しかし細かい単位区分で行くと足りないのがまだあったりする。間抜けなのが去年体育を落としたことである。1年生の時にも普通なら絶対通る必修の単位を1単位落としていて、カリキュラム変更のために2年生の時に該当科目3単位を取らなければいけないはめになった。細かい区分は省略するが、いらないところであふれまくっているくせに、肝心の主専攻単位が足りなかったりしているのである。

そして今年。いまのところ申請単位数は23.5単位である。2年までで足りなかった分をくろうして木・金曜日に詰め込んでいる。実は落とせる単位は一つもない。ついでに言うと体育の単位がまだ0.5足りない。無事全部とれれば4年生は卒論と教育実習のみで済ませられるのだが…。



1997/12/4 48 ソロもとるんです (テーマ:ベースソロ)

総じてベースというのは地味なパートである。ジャズも例外ではない。サックスやトランペットやピアノやギターがソロを繰り広げる後ろで、ひたすらコード進行とリズムをキープし続けるのがジャズのベースである。リズムキープ、という点でがドラムも一緒だが、ドラムの場合は適宜小技を入れることで目立つことができる。ところがベースはそうはいかない。たとえ小技を入れても、気づいてくれるのは同じベーシストだけである。慣れないうちは逆に進行を壊してしまって迷惑なだけである。

しかし、いったんソロをとるとなると、ジャズのベースはほかのどんな楽器よりも目立つパートになる。ほかの楽器の場合はバックでピアノやドラムやベースが鳴っているが、ベースソロの場合は、通常はドラムとピアノがごく控えめに鳴っているだけである。ドラムソロの場合はほかの楽器はいっさい入らないが、見せ方がベースとはまるで違う。ドラムソロはドラムをたたきまくって聞き手の注意を誘うわけである。しかしベースソロはそうではない。

ほかのパートのソロが終わった直後、一瞬の静寂が訪れ、ベーシストがおもむろにソロを弾き始める。聞き手はもはやベースに注目せざるをえないのである。かすかに流れるドラムとピアノが逆に静けさを意識させてくれる。また、オーケストラでコントラバスをひくときと同じ弓を使ってソロをとる場合もある。これは指で弾く場合とまったく違った雰囲気をかもしだすことができる。ジャズのウッドベースのソロは、ほかのジャンルの音楽のベースソロにはないような独特の柔らかさがあると思っている。

ちなみに、わたしのソロはどうかというと、自分でもからっきしだめだと思う。まずソロの理論をきっちりとやっていない。フレーズのコピーなどもやっていない。なによりも練習の絶対量が足りない。サークルで毎週セッションをやっているのだが、何も言わないとベースにもソロがまわってきてしまう。まわってきたからには少しはソロを弾かないといけない。見よう見まねで適当にソロを弾いてさっさとドラムソロにまわしてしまっているようにはしているが、そのソロも聴けたものではない。自分でそう思ってしまうのだから、他の人はわたしのソロを聴いてどう思っていることやら。



1997/12/5 49 辞書だらけ (テーマ:辞書)

わが家には辞書がたくさんある。英和、和英、英英のほか、漢和、仏和、独和、羅和などなど、ちゃんと数えたことはないが30冊以上あると思われる。もちろん使っていないものの方が圧倒的に多い。しかしちょっとした調べものの時にラテン語や朝鮮語の辞書があるのは便利ではある。

わたしが自分で持っている辞書は15冊である。内訳は、英和2、和英2、英英2、国語1、古語1、漢和1、仏和1、西和1、英−西1、英−伊1、アラビア語−英語1、英語−アラビア語1である。こう書くといろいろな言語をやっているように見えるかもしれないが、別にこれらの言葉を全部マスターしているわけではない。この中でまともに使えるのはたぶん日本語だけである。

おそらく母親の影響であろう。わたしは言語(コンピューターのプログラム言語ではない)に対する興味はわりとある方である。もっとも興味が読み書き会話能力と関係があるわけではない。とりあえず高校までは英語くらいしか外国語に接することはなかったが、大学に入ってからは実にいろいろな外国語に手を出しては失敗している。その結果がこの辞書の数なのである。

去年などはおそろしいことに一度に6カ国語もの講義をとっていた。英語、スペイン語、フランス語、ラテン語、イタリア語、そしてアラビア語である。しかしこのなかでものになったのは一つもない。ラテン系の言語を一度にやってしまったので、逆に混乱することの方が多かった。最終的には一度にいろいろ手を出さない方がいい、という教訓を得ただけであった。

現在学習しているのは英語、アラビア語、スペイン語の3つのみである。スペイン語は1年生の時からの第2外国語ではあるが、今年の秋に久しぶりに再開したので、かなり忘れていてはっきり言ってやばい状態である。アラビア語ももぐっている授業のペースがきつくて出席するだけでやっとである。英語も読み書きは上達したかもしれないが会話はいまいちである。辞書は一応持ち歩いてだけはいるので、使ってもいないのにどんどんぼろぼろになっている。



1997/12/6 50 子供時代の変な趣味 (テーマ:漢字)

小さい子どもというのはテレビが好きなのが普通である。テレビが映ってさえいれば時間を気にせず見てしまうものである。子供時代のわたしも例外ではなかった。しかし、他の子どもと違っていたのは、興味を示した番組であった。アニメなどには最初あまり興味を示さず、なんと天気予報ばかりを見ていたらしい。

当時の天気予報というのは、どこかの映像などをバックに○○地方晴れ、○○地方晴れ時々曇り、というように字幕が表示されるだけのものであった。わたしはこの字幕にいたく興味を示したらしい。正確に言うと、表示されている字に興味があったのである。なぜそんなものに興味を持ったのかはわからないが、赤ん坊が興味を示すものとしてはあまりに変なものであった、ということだけは言えるだろう。

言葉も話せないくらいの歳から始まったこの興味は、それ以降も続いた。幼稚園に入る前くらいの頃に、親が小学校4年生くらいまで向けの漢字字典のようなものを買い与えてくれたのだが、これを飽きることなく毎日見ていたらしい(「読んで」いたのかどうかは、今となっては不明である)。

その字典を本の装丁がバラバラになってしまうくらいまで読みまくった後、わたしはこともあろうに一般向けの漢和中辞典に手を出した。幼稚園児が漢和辞典を読むの図を想像すると、あまりに異様であるが、本当だったのだから仕方がない。わたしの記憶では、1週間くらいかけて漢和辞典を読破(?)し、そのあと熱をだして寝込んでしまったらしい。

小さいときから漢字なんかに興味を示すとはなんてすごい、という人もいるが、よく考えてほしい。子どもにとってはそれが勉強に役立つか、ということはまったく関係がないのだ。実際、わたしは小さい頃にいろいろな漢字を見てきているはずなのに、現在の漢字の知識にはまったく反映されていない。おそらく赤ん坊のわたしは、いろいろなところで見かける不思議な図形に興味を示しただけだったのだろう。妙な方向に興味を持つというのはこの頃からのものであるようだ。



1997/12/7 51 わたしの海外遍歴 (テーマ:海外旅行)

こう書くとわたしは海外のいろいろな国に行っているかのようであるが、現実はまったくそうではない。実を言うと本州を出たこと自体数えるほどしかないのである。初めて本州を出たのは中学の時だったか、完成したての本四連絡橋を家族と車で渡ったときであった。ちなみにそのときは即折り返して本州に戻ってきた。本格的に本州を出たのは、高3の時に九州旅行に行ったときが初めてだと思う。

去年初めて海外旅行、正確に言えば日本を離れて外国へ旅行をしたのだが、それまで海外旅行をしなかったのに特別な理由があるわけではなかった。単にお金と機会がなかっただけである。どうしても行きたいと思うような国がなかった、というのは一つの理由ではある。周りの人がなんとなく海外を志向する、というのは不思議に思えた。国内にも旅行して面白いところはたくさんあるではないか。

そんなわたしもついに海外に旅行することになる。去年の8月のことであった。右も左もわからないまま適当に旅行の準備をして指定された集合場所に集まる。乗り込む飛行機はパキスタン航空。離陸前にコーランが流れるというすごい飛行機会社である。パキスタンの首都イスラマバードでいったん飛行機を乗り換える。そう、わたしが外国に降り立ったのは、実にこのときが初めてだったのである。そして目的地はエジプトのカイロ。ここがわたしが初めて滞在した外国になった。ちなみに旅行の目的はアラビア語研修であった。

もしもクウェートの語学留学の選考に通れば、それが2度目の海外となる。われながらぶっとんだ海外旅行歴になってしまうとも思うが、他に行きたい国があるわけでもなし、仕方がないだろう。アメリカやヨーロッパはどうせ将来いやでも行くことになるだろう。だから、比較的自由な今のうちに、普通はなかなか行けないような国に行ってみたいと思っている。



1997/12/8 52 目民しヽ (テーマ:夜更かし)

わたしは基本的に夜型人間である。眠いのを我慢して起きつづける、というのはあまり苦にならない。勉強をする時なども、とりあえず寝て起きてから、というよりも、とにかく終わらせてから寝る、というふうにしたほうが能率がよい。寝起きが悪いので、起きてからしばらくは使い物にならないのである。これは試しに寝てみて何度も失敗しているので、はっきりしている。

夜が遅かったのは赤ん坊の頃からであったらしい。まず朝おきる時間からして遅い。午前10時とか11時ごろに起きてきていたらしい。親にしてみれば家事と世話が重ならないのでやりやすかったそうだが。昼寝も数時間ずれて夕方から宵にかけてである。昼寝から起きると夜の11時過ぎまで起きていたそうである。なぜだかはわからないが、とにかくそういう生活サイクルができてしまっていたのである。

その後意識して夜更かしをするようになったのは、やはりテレビゲームをするようになってからであった。もっとも、親がゲームで夜更かしをしていたから、つられてするようになったのであるが。ちなみにゲームで徹夜をしたのは小6の時が初めてであった。もっともこの時は友人数人と交代でゲーム(何のゲームだったかは記憶にない)をしていた。一人で徹夜をしたのは中3の時が初めてだろうか。

受験生時代は、勉強する時もさぼって遊ぶ時もかなり遅くまで起きていた。しかしこの頃になると、目覚ましさえなってくれれば朝も起きられる、という技能を身につけることができていた。おかげで予備校の授業に遅刻することもほとんどなかったが、体に負担がかかったことは間違いない。本当に体調が悪い時はドリンク剤でしのいでいた。睡眠時間が足りない時は、つまらない授業の時間や、昼休みなどの空き時間に予備校の教室で寝ていた。

本格的に夜更かしを続けるようになったのは、やはり大学に入って一人暮らしをするようになってからであった。特にインターネットの世界に足を踏み入れてからがひどかった。テレホーダイの時間めいっぱいつないでいる日も少なくなかった。コンビニで深夜バイトをしていた時期もあり、このころは夜型というよりもはや明け型とでも呼ぶにふさわしい生活であった。

現在は朝が早いスケジュールになっていて、あまり夜更かしはできない。それでも午前2時〜3時まで起きているというのはざらである。いつ寝ているのかとよくきかれるが、電車で移動中の時間や大学の授業中、バイトの昼休みの時間などが睡眠時間の補充に当てられていることが多い。丸一日あいている日などがあると、1日中寝ていることもある。それでもやりたいこと、しなければならないことの半分も片付かない。やることが多すぎるのか、時間の使い方が下手なのか。この両方である可能性も高い。



1997/12/9 53 テレビとともにあった生活 (テーマ:テレビ)

父親がテレビ好きであるせいかどうかはわからないが、わたしもテレビはよく見る部類に入るだろう。家にいて手持ちぶさたになるととりあえずテレビをつける。そして結局なにもせずテレビの前でぼーっとしているのである。これはわたしが見る休日の父親のパターンとよく似ている。やはり親子なのである。

つくばで一人暮らしを始めた当初、わたしの部屋にはテレビはなかった。暇つぶしのためにあるのはラジカセと本のみであった。そのまま数日過ごしてみて、テレビがなくても暮らしていける、という手ごたえは感じたのだが、結局ある日ふらっと電気屋に行ってテレビを買ってしまった。英語の勉強もしたい、と思い副音声付きのを買ったのだが、副音声機能は結局あまり使わなかった。

わたしの場合、テレビはつけているだけでなにか他のことをしている、ということも多い。とくにチャンネル権を争う必要のなかった一人暮らし時代はそうであった。テレビをつけっぱなしでCDをかけながら電話をする、というようなことも平気でやっていた。家からインターネットにつながるようになってからは、チャットをしながらテレビを見ることも多かった。チャットに熱中していて、気づいたらテレビの番組が終わっていた、ということもよくあった。

ところでわたしがよく見る番組であるが、これがまた見事に偏っている。まずドラマはほとんど見ない。見るとしたらNHKの朝のドラマや大河ドラマ、そのあたりにとどまる。民放のドラマはあまり見る気がしない。バラエティ番組も特定のものしか見ない。とくにお笑いメインのものはけっこう選んで見ている。わたしにダウンタウンやとんねるずの番組の話をしても通じないので注意してほしい。スポーツ中継やスポーツニュースはわりと好きなのでよく見る。歌番組は見ないが音楽番組は見る。

千葉の実家に戻ってきてからはテレビを見る時間がぐっと減った。理由は単純で、テレビを見る時間がないのと、わたしの部屋にテレビがない(狭くて置けない)からである。毎週欠かさず見る、という番組はもはやなくなってしまった。まあ、大した番組を見ているわけでもないので、テレビが見られなくて困ると言うことはないのだが。



1997/12/10 54 関西コンプレックス (テーマ:関西)

わたし自身はずっと関東地方を転々としながら育ってきたのだが、実は血統だけは関西人なのであった。父親は広島生まれ広島育ち。母親は大阪出身である。親戚も広島や大阪を中心に西のほうに住んでいる人が多い。両親がともに大学を出るまで関東に住んだことがなかったのに対し、わたしがいままで関西に住んだことがないのが不思議なくらいである。

そういうわけなので、父方の田舎に帰省したとき、親戚の家に遊びに行ったときなど、関西の文化にはわりと昔から触れてきている。つねに触れてきたわけではないので、慣れ親しむ、というレベルまでには達していないが。母親からも大阪にいたころの話を聞いたりしたので、他の関西方面にゆかりのない人よりは関西にはくわしいという自信はある。

関西、とくに大阪には、東京圏にはないエネルギーのようなものがあるような気がするのである。東京も活気はあるはずなのだが、どこか空虚で無機質な印象を受けてしまう。この間の冬に大阪に遊びに行ったのだが、雰囲気のあまりの違いにびっくりした。建物の外装や看板、道行く人々の服装なども含めて、街の色調が何となく明るい。飛び交う言葉は当然関西弁。周りのテンポも何となく違う。東京と大阪はまったく違う世界であることを改めて実感した。

現在も周りに関西出身、あるいは関西在住の知り合いは何人もいるが、東京に対する地元の劣等感というものを持っている人はほとんどいない。吉本などのお笑い文化や、たこやきなどの食文化など、関西には誇るべきものがたくさんあるのは確かである。長い間首都圏に住んできたわたしの目から見ると、東京にはこれがあるんだ、と自慢できるものはあまりないような気がする。そういう意味でも大阪出身の人がうらやましかったりする。



1997/12/11 55 芸術の秋は過ぎましたが (テーマ:アート)

芸術といってもいろいろあるが、今日はわたしの気に入っている絵画や建築などについて書こうと思う。

大学に入る前くらいまでは、芸術作品にはあまり興味はなかった。そもそも美術作品にふれる機会というものがほとんどなかったし、好きな画家などもいるわけではなかった。美術館なども当然いくことはなかった。大学に入った後、現代文化論などの授業で美術関係の話題をあつかったりしているうちに絵画などにも触れる機会が増え、興味もだんだんと湧いてきたのであった。

最初に興味を持った芸術家は、おそらくM.C.エッシャーであろう。以前からエッシャーのことは知っていたのだが、最初は「だまし絵の人」というイメージしかなかった。しかし彼の著作を読んだり、親が買ってきた画集を見たりして、それだけの人ではないことがわかってきたのである。一つだけ確かなのは、ほかの有名な画家とは違った方向性を持っていたということであり、それがわたしが興味を持った一つの理由であった。

似たような理由で気に入ってしまったのが、建築家のA.ガウディであった。バルセロナオリンピック以来すっかり有名になってしまったが、わたしが彼の建築のことを知ったのは、それにおくれることしばらくしてからであった。曲線を多用したデザインや独特の色調は、ほかでは絶対に見られないものである。ちなみに今年のカレンダーはガウディのものを使っていて、部屋を訪れる人に気味悪がられたものであった。

大学1年のときに授業でポストモダンの芸術について学生が発表する、ということがあったのだが、絵画のことがまったくわからなかったわたしは先生の言うなりにシュプレマティズムを担当することになった。そこで出会った画家がカンディンスキーであった。まったくの抽象的な絵というのをまともに見たのはこの時が初めてであった。よくできた抽象画は見ていて飽きないし、部屋に貼ってあっても邪魔にならないので、カンディンスキーはわりと気に入っている。

最近では一時話題になったA.ミュシャなども好みであるし、天野喜孝なども以前からイラストなどで好きであった(芸術家としても評価が高いことは最近知ったのだが)。しかしまだまだこの方面は詳しくないので、わたしにとってはまだこれからの趣味である。



1997/12/12 56 お世話になってます (テーマ:自転車)

小学校以来、わたしの主要移動手段はずっと自転車であった。電車で行かなければ行けないような遠い場所を別にすれば、どこへ行くにも自転車を使ってきた。かなり無茶と思われるようなこともしたことがある。本当にお世話になっているの一言に尽きる。

いちばん自転車のお世話になったのは、中3から高2にかけてのことであったと思う。家から高校まで5キロちょっとあり、そこを30分くらいかけて毎日自転車で通っていたのである。電車でも行けないことはないのだが、大回りをすることになるので自転車の方が早かったりしたのである。雨の日は仕方がないので1時間近くかけてバスと電車で学校に行っていた。

もちろんただ往復をしていただけではない。高校から自転車で15分くらい行ったところに津田沼というちょっとした街があるのだが、そこに寄って遊んでから40分くらいかけて家に帰る、ということもよくしていた。15km離れたボウリング場に1時間以上かけて行ったこともあった。ちなみにそのころ使っていたのは、ベルトではあったが普通の、いわゆる「買い物チャリ」であった。

高校3年になって引っ越してから大学に入るまでだけは、自宅及び通学先が駅に近かった、自転車が盗まれたなどの理由で電車メインであった。引っ越してからはあまり近所に出歩くこともなく、なにか用事があると電車で出かけてしまっていたのである。

大学に入ってからは再び自転車を使うことになる。大学の敷地があまりに広くて、自転車がないと学内の移動すらつらいのである。使っているのはつくばのダイエーで買った、なぜか外装6段変速がついている普通の自転車である。学内の道路は制限速度30kmなのだが、それを超えた速度で走り回ったりしていた。2時間くらいかけて筑波山に行ったこともあった。

現在は自動車で家から通学しているわけだが、いまだに学内の移動はその自転車を使っている。手入れもきちんとせずかなり酷使したので、もうぼろぼろである。鍵をかけておかなくても誰も盗まないのではないだろうか。



1997/12/13 57 CM考 (テーマ:CM)

テレビを見ていて、CMに入ったり番組が終わったりするとさっさとチャンネルを変えてしまう人も多い。こういう人もCMをまったく見ていないわけではないだろうが、けっこう面白い映像作品も見逃してしまうということになるのだから、もったいないような気がする。

そういうわけでわたしはCMを見るのはけっこう好きなのである。当然のことであるが、CMというのはなんらかの宣伝を目的として作られたものである。CM制作側はできるだけ効果的な宣伝ができるように知恵をしぼっているわけである。どこで見せようとしているのか、あるいはどこで買わせようとしているのか、ということを気にしながら見ると、CMもなかなか面白い。

大学の現代美学の講義でCM(ここではCFというべきか)を扱っていたのだが、先生はひとつの映像作品としてCMを見る、という見方を教えてくれた。普段テレビをぼーっと見ているだけでは気づかないような、それでいて受け手に知らず知らずのうちに影響を与えているようなこまかい芸当などにも、ある程度気づけるようになった。

今まで見た中でいちばんインパクトのあったCMは、やはり湖池屋ドンタコスのCMだろうか。「うれしい、あと少しでドンタコスが食べれる〜」というやつである。湖池屋のCMは商品名連呼ものが多いのだが、ドンタコスのものはその中でも秀逸だった。ここまで意味不明さに徹しきれているCMはほかにはないだろう。あといくつか面白いCMもあったのだが、パソコンの前に座っているとあまり思い出せない。困ったものである。

最近はテレビ自体あまり見ていないので、残念ながらここのところのCMの動向には詳しくない。最近のとしまえんのCMなどはどうなのだろうか。写るんですのCMもだんだん面白くなくなってきたと聞く。なにか面白いCMがあれば見てみたいものであるが。



1997/12/14 58 文字コミュニケーションの限界 (テーマ:喧嘩)

ネット上では喧嘩がよく起こる。Flameという用語まであるくらいなので、わりとよく見かけると思ってよいだろう。もちろんネット上といっても場所による。IRCであればチャンネルによって違うし、ネットニュースであればニュースグループによっては平和なところもある。まあこれは喧嘩を起こすような人がいるかどうか、ということが大きいのだが。

ネット上の喧嘩はささいなことで発生することが多い。発言した方はどうでもいいと思っていることをこまかくつっこまれて切れる、ちょっとした言葉のあやで誤解が起こる、というケースが多いように思われる。ところが当事者同士は自分が間違ってるとはまったく思っていないので始末が悪い。怒りを抑えた言い合いがだんだんと罵倒合戦に発展していく様は、もうあきれて見ていられなくなることもある。泥沼化すると仲裁に入った人までが怒ってしまうことすらある。

こういった喧嘩が人間関係まで及んでしまうと大変である。ネットでは関係を絶つことはわりと簡単である。喧嘩が泥沼化したあとなどは、謝罪もないまま喧嘩の起こった場所から去っていったりすることもままあるようである。片方に謝る気があっても、相手に無視されれば関係正常化は望めない。相手がどのくらい怒っているかというのも把握しづらいということもあり、ネット上で謝る、というのは本当に難しい。

わたしはごたごたに首を突っ込むのは嫌いなので、できるだけ喧嘩は起こさないように気をつけているが、人の気分を害してしまうこともあるし、逆にわたしがぶち切れてしまうこともたまにある。しかし喧嘩になってしまったあとは後味の悪い思いをしてしまう。ネット上の喧嘩は何も教訓が残らないことが多いような気がする。

とかくネットでは、相手が人間だということを忘れて言いたい放題してしまいがちである。「ネチケットなんて知るか!」などという人もいるようだが、普通の社会で人間相手に持たなければいけないような節度くらいはネット上でも守ってほしいものだ。



1997/12/15 59 見上げてごらん宇宙の星を (テーマ:宇宙)

今の季節は関東地方はちょっと寒いが空はきれいである。星を見るのにはとても適した条件ではあると言えるだろう。とくに大晦日から正月三が日にかけては、都内の車も少なくなるので空が本当にきれいになる。この時期に東京にいる人はぜひ夜空を鑑賞してみることをおすすめする。

おもえば宇宙に興味を持ったのは幼稚園時代までさかのぼる。覚えているのは幼稚園であまり人と遊ばずに科学の宇宙関係の本(もちろん子供向けのやつである)をよく読んでいた、ということであった。なぜ興味を持ったのかわからないが、たぶん星や星雲の写真がきれいだと思ったのだろう。

小学校に入ってからは、子供向けの科学雑誌などはほとんど読まなかった。しかし両親が宇宙関連のことやSFが好きだったので、家にはニュートンなどの雑誌やブルーバックスなどがあり、わたしも難しいながらもがんばって読んだりしていた。漫画などから知識を仕入れる、ということはあまりなかったような気がする。科学好きなのに手塚治虫などの影響は受けていないというのは、ちょっと珍しいかもしれない。

しかし小学生のときにスペースシャトルの爆発事故があってから、宇宙とわれわれとの距離がやたらと遠く感じられてしまい、だんだんと宇宙方面への興味を無くしていってしまった。SFなどは今でもわりと好きだったりするのだが、サイエンス・フィクションよりもスペースオペラ的なもののほうがどちらかというと好みであるのは、やはりハードなものよりもおとぎ話的なもののほうが現実感が乏しくて安心して読めるからなのだろう。いまは星空は見上げて楽しむだけで満足なのである。



1997/12/16 60 料理というか自炊の話 (テーマ:料理)

実家に戻ってきてからはまったく料理をしなくなったが、つくばにいたころはわりとまめに自炊をしていた。それなりに忙しかったので、料理が趣味でばりばり作る人の足元には及ばない。普通の人より少しはよく作るかな、という程度である。自炊の一番の理由は経済的な問題からだが、料理くらいはある程度できたほうがいいだろう、という考えもあった。

大学の宿舎にいたころは、部屋に調理設備がなく、共用の補食室まで行かないと火が使えなかった。ちなみに宿舎の設備は男子棟と女子棟で天と地ほどの差があり、女子棟は6部屋に1つくらいのコンロがあったのに、わたしの棟は30人に1つしかなかった。しかもわたしの部屋は補食室からとても遠く、炒め物をして戻ってくる途中でさめてしまう、というまぬけな事態が起こるほどであった。しょうがないので部屋でカセットコンロや電子レンジを駆使して料理をしたものだった。アパートの台所は広くてよかったのだが。

よく作ったのは、やはり時間がかからずかたづけも簡単な炒め物であった。ふつうの炒め物では飽きてしまうので、にんにくを入れたり、味噌を入れてみたりと味付けでバリエーションをつけたりしていた。ちなみにわたしのもっとも得意な料理はやはり炒め物系の麻婆豆腐である。ちまたの麻婆豆腐の素などは使用せず、辛さはトウガラシの量で調節しているので、甘党の人から激辛マニアまで楽しめる。ほかにもチンジャオロースーなど中華系の炒め物はよく作った。

その次によく作ったのが、実は揚げ物であった。これは人に驚かれることもあるのだが、揚げ物はかたづけが面倒くさいだけで、わりとすぐにできるのでそれほど難儀なものではない。初めてとんかつを揚げたときは、作りすぎて近所におすそ分けしたりもしたものだった。本当は油にやさしい料理の順番などがあるのだろうが、そんなものはおかまいなしに作っていた。とんかつを作って、あまった卵でとじてカツどんを作るなど、わりと無駄のない献立もできるのでなかなか良かった。

試験期間中は長期戦用メニューとなる。試験期間に入る前に肉や野菜を買い込んできて、鍋2杯分くらいのカレーかシチューを作るのである。そして試験勉強なりレポート書きなりをしながら延々と煮込みつづける。飽きてこようがなんだろうが試験期間中だし、食べに行く時間ももったいないので、試験が終わるまでは同じメニューで我慢するのだ。最後のほうはよく煮込まれておいしかったりもするので、よしとしているのである。

問題はかたづけである。恥ずかしい話だが、これがわたしはからっきし苦手なので、料理をした後しばらく放りっぱなしにしてしまったりもしていた。洗い物は料理の直前、なんてこともしばしばであった。買ってきた野菜を余らせてだめにしてしまったことも2度や3度ではすまなかった。やはり一人分だけの料理するのは無駄が多い。



1997/12/17 61 最近の漫画購読傾向 (テーマ:漫画)

漢字ばかり追っていた時期はどうだったか忘れたのでわからないが、わたしは漫画を読むのもかなり好きである。いや、大好きである。まあ最近は忙しいのであまり漫画は読まなくなったが、それでもちょっとした時間ができたときは、活字メディアよりも漫画のほうに手が伸びる。もしかしたらこういうところで時間を使ってしまうのがいけないのかもしれない。

昔はジャンプなどの少年漫画をよく読んだものであったが、そのジャンプの勢いが落ちてきた頃からだんだんと漫画の好みも変わってきた。ファンタジー関係にはまっていた頃は、やはりそっちの系統のものを読むことが多かった。オタクといわれたこともあったが、あえて否定しない。もう過去の話であるし、趣味については人の評価は気にしてはいけないと思っている。

昔から現在までずっと好みであるマンガ家というのは意外と少ないかもしれない。あえて挙げるとすればゆうきまさみであろうか。ゆうきまさみは「究極超人あ〜る」の頃からのファンである。あの間の取り方がなんともいえないのである。ちなみに「げしょ」の出てくる漫画は、連載されていた雑誌がなくなってしまったが、気に入っているのでよく読み返したりしている。

ここしばらくはアフタヌーンという雑誌の系列の漫画を好んで読んでいる。わたしの好みの作品は別として、有名なものとしては、「寄生獣」「ああっ女神さまっ」「ツヨシしっかりしなさい」などがある。この雑誌のほかの作品になると、オタクなどとは別の次元でマニアックであるような気がするので、挙げるのはやめておく。。わたしは雑誌自体のあやしい雰囲気が好きなのだが。

さらに最近は、島本和彦という漫画家にはまっている。「燃えるマンガ家」というあだ名は本人が言い出したものではないらしいが、まさにその言葉がぴったりの暑い漫画を書く人である。絵のタッチやノリは熱血系なのだが、それを逆手に取ったギャグがなかなか気に入っているのである。この間島本和彦メーリングリストというものを見つけたので入ってみたら、なんと島本和彦の編集者、アシスタント、さらには島本和彦本人までメンバーに入っているというものすごいメーリングリストであった。

そういえば最近人気の漫画は何なのだろう。漫画雑誌をほとんど読まなくなってしまったし、本屋では自分の興味のある本以外のコーナーにはあまり行かないので傾向がわからない。同じ系統の漫画の趣味の人がいたら、なにかおもしろい漫画があったら教えてほしい。



1997/12/18 62 禁煙、嫌煙、いや苦煙 (テーマ:たばこ)

苦しみながらたばこを吸っているのではない。わたしはたばこは好き嫌い以前に苦手なのである。どうも煙関係全般には弱いらしく、たき火などの煙はもちろん線香の煙すら受け付けない。麻雀をする時などは、閉め切った部屋でみんなたばこを吸うのでつらくてしかたがない。そういうわけなので、好きか嫌いかと聞かれれば嫌いな方だと答えるしかない。

実際にたばこを吸ったことはまだ一度もない。煙全般が苦手なので、吸ってみたいと思ったこともない。ほかのひとがどういう経緯でたばこを吸い始めるのかまったく想像がつかないのだが、もしかしたら好奇心などで簡単に試してみたりしているのだろうか。わたしはとてもそこまでしようとは思わない。

このようになったのは父の影響が大きいのだろう。父はヘビースモーカーで、昔は1日に3〜4箱くらい吸っていたらしい。さすがにこれだけ多いと健康に悪いのはもちろん、家計にも大きく響いてくる。さらにたばこの副流煙は周りの人に良くない。副流煙が健康に悪いということも最近は言われているが、迷惑であることは前からわかっていたはずである。父はそういうことはあまりかまわずに吸っていた。こうはなるまいと思っていたら、たばこは嫌いな方になったのである。

実はたばこに分類されるものを数回だけ吸ったことがある。といっても一般的な紙巻フィルタ付きたばこではなく、中東でよく吸われる水たばこである。エジプトに行った時の経験であることは言うまでもない。インテリアとしてもなかなかだったので水たばこのセットも買ってきたのだが、いろいろ準備が面倒くさいので、友人が遊びに来た時などなにか特別な時しか出さないようにしている。だいいちあんなものを一人で吸っていたら限りなくあやしい。



1997/12/19 63 花よりだんご だんごよりお茶 (テーマ:飲み物)

花や食べ物ではなくて飲み物の話である。といっても清涼飲料のことではなく、家で作って飲めるようなもののことである。飲み物についてはコーヒー党やお茶党など、人によって好みが分かれるところであろう。わたしが一番よく飲むのはコーヒーでも紅茶でもなく、またもちろん酒でもなく、日本茶である。

のどがかわいて何か飲もう、ということになるとたいていは日本茶をいれる。またレポートを書いたり、家でパソコンの作業しているときなどは日本茶を飲みながらであることが多い。よく飲むお茶は玄米茶か煎茶である。これは安く手にはいるから、また家で他の人もよく飲むから、ということが大きい。すぐ入れられる、また味は落ちるが何度か同じ葉で入れられるので面倒でなくてよいのである。まあ一番の理由は口に合うから、ということなのだろう。

一人暮らしを始めたときには、ほかの調理器具よりも先にきゅうすと湯飲みを購入し、また電子レンジよりも電子ポットの方を先に買った。そして音楽をかけてお茶を飲みながら本を読んで暇な時間をつぶしていたりした。お客がきたときも出すのはお茶である。コップは人数分ないのに湯飲みだけは大量にある、という状態であったときもあった。お茶ばっかりがぶがぶ飲んでいたのでトイレが近くなって難儀した。

コーヒーもよく飲むことは飲むが、恒常的に飲むというよりもむしろ、気分転換に利用することが多い。我が家にはインスタントコーヒーはないので、飲みたいときはドリッパーでいれるしかない。そうなると飲みたいと思ってから実際に飲めるまでに多少の時間がかかる。さらにわたしは風呂にお湯を張るときはずっと見ていないと落ち着かない、というタイプなので、コーヒーを入れながらほかの作業をすることもできない。これを逆に気分転換に利用するのである。朝出かける前に飲むこともあるが、これはカフェインよりもコーヒーの苦みで目を覚ますためである。

紅茶は昔は割と飲んでいたのだが、いまは全く飲まなくなってしまった。何か入れないとあまりおいしくない、というのがわたしにはちょっといただけないのである。コーヒーはブラックでも飲めるが、紅茶はブラックだと何か寂しい。ケーキなどを食べるときは砂糖もなにも入れなくてもちょうどいいのだろうが、あいにくわたしはケーキ類はほとんど食べないのであった。

うちで飲める珍しい飲み物としては、トルココーヒーがある。トルココーヒーは一般的なコーヒーよりも焙煎が深く、細かく挽いてあるもので、専用のポットでとろ火で煮詰めるものである。うちのコンロでは火力が強すぎるので、アルコールランプを使用している。はいるまで20分はかかるので、気分転換というよりもなにか一つの行為という感じである。いまは粉(豆というよりこう言った方がしっくりくる)がもうないので飲めないが、日本で手に入るもので何とかなるらしいので、また挑戦してみようかと思っている。



1997/12/20 64 お酒の銘柄とは違います (テーマ:筑波山)

天気のいい日は、わたしの大学からは筑波山がよく見える。まあ、つくば市内なら大抵のところから見えるのだが、大学内はそこそこに高い建物が多いので見晴らしがよいのである。授業中に窓際の席に座っていると、筑波山を眺めていて気づくと話がはるか先に進んでいる、ということもしばしばである。

うちの大学を語るには筑波山は欠かせないものであるらしいが、いまいちぴんとこない。つくばに住んでいた頃も、気軽に行けないところなのであまり筑波山のことは意識しないでいた。やはり車を持っていなかったせいだろうか。わたしにとっては筑波山より東京の方が近い存在だった。

筑波山には中学生の頃に家族でドライブしに行ったことがある。細かいことはあまり覚えていないが、つくばの学園都市地区に「東大通り」という通りがあり、「とうだいどおり」と読んでしまい恥ずかしかったことだけは覚えている。そういえば山頂まで登ったのはこのとき一度きりかもしれない。頂上からの眺めは、見下ろすとどこまでも田園風景であったのが印象として残っている。

このあいだ、11月のとある平日の午後に、山道での運転練習を兼ねて筑波山まで行って来た。筑波山に行くこと自体が実に1年ぶりであった。ふもとの方はまだ紅葉していてきれいだったが、頂上近くまで行くとすでに常緑樹とすでに葉の落ちた落葉樹しかなかった。しかし筑波山の道はきちんと整備されている上に道幅が広く、とても走りやすかった。あまり山道走行の練習にならなかったかもしれない。むしゃくしゃしたときなどは事故でも起こしてしまいそうであった。

わたし自身は筑波山には数えるほどしか行ったことがないのだが、わたしにとって筑波山はつくばが田舎であることを思い起こさせる存在になっているような気がする。



1997/12/21  65 薔薇色だった生活 (テーマ:浪人)

大学入試のときある大学で面接を受けたのだが、そのとき「他の人がしていないような経験があったら教えてほしい」と言われたので、迷わず「2浪しました」と答えた。面接官の方々は大うけである。おそらく向こうはなにか自慢できるような経験を期待していたのだろうが、みごとに(?)裏切ってさしあげた。

自慢できるかどうかはともかく、わたしが2年間の浪人生活を送ったことは動かしようのない事実である。浪人生活が2年間に及んだ理由はきわめて単純で、2年間どこの大学にも合格しなかったからである。なぜ合格しなかったかというと、これまた理由は単純で、勉強しなかったからである。

高校3年生の頃は文化祭やパソコン、ゲームなどにあけくれていて受験勉強をする暇などなかった。だが、よくつるんでいた友人たちは、同じような生活だったはずであるにもかかわらず、そこそこの大学に現役で合格していった。おそらく受験に対する心構えの差が出たのであろう。つまり、最初から1浪するつもりであるのとできれば現役で合格したいと思っているのとの差である。周りですべると言われようが落ちると言われようがわたしはまったく意に介していなかった。

わたしは第1志望の大学に落ちると、第2志望として出願していた大学には行く気にならず、試験すら受けずにさっさと予備校の入学手続きを済ませてしまった。そう、薔薇色の浪人生活の始まりである。

1年目は高校時代の友人なども周りに多くいたので、ついつい授業をさぼって話し込んだり、つるんで遊びに行ったりしてしまっていた。その友人たちは家に帰ってからもちゃんと勉強していたのであろうが、わたしはパソコンでゲームや音楽をして逃避に走ってばかりいた。偏差値も徐々にではあるが下がっていった。センター試験を受けた後、さすがにこれはやばいと気づいて勉強を本格的に始めたがておくれで、本試験は全滅。親をおがみたおしてもう1年浪人することにした。

今度は前年度とはうって変わってまじめに勉強した。1浪時代の蓄積もあり、最初の模試でいきなり偏差値70をたたき出した。受験勉強というのは単純なもので、勉強すればするだけ偏差値の上昇という形で成果が現れる。なにも考えず先生の言うとおりに勉強していれば良かったのである。実際の試験のほうにもしっかり成果は現れ、1学部をのぞいて全部合格という親の財布には迷惑で予備校だけがうれしい結果となった。

この浪人生活が現在のわたしにプラスに働いたかマイナスに働いたかは、まだわからない。いろいろ考える機会と時間が多かったのは確かだが、それは浪人してもしなくても同様であったはずである。同期の友人たちは卒論を書いたりすでに就職してしまったり、結婚をした人までいるのに、わたしはまだのんきに大学の学部生のままである。わたしが社会に出て彼らに追いつき追い越すことができるか。そこで浪人生活の効果が初めてあらわれるのかもしれない。



1997/12/22 66 夜行列車にあこがれるのこと (テーマ:夜行)

わたしの旅好きの度は年々高まっているように思える。昔はどこかへ出かけるにしても旅程よりも目的地が目当て、という感じであった。ただ、いくら乗り物酔いがひどくても電車に乗ることは好きで、電車でいろいろなところに出かけるのは好きであった。まあこの場合は旅程よりも目的地よりも、電車に乗ること自体が目的だったような気がする。

しかし、列車による旅にしても、新幹線を利用する旅はなにか情緒が欠けているような気がしてあまり好きではない。あっという間に目的地に着いてしまうのでなにかずるをしたような気がするし、電車の窓の外の風景は、ぼんやりと眺めるには流れていくのが速すぎる。やはり遠いところにはそれなりの時間をかけていくのが、旅先の地への礼儀でもあるだろう。

わたしが夜行列車にあこがれるのはこういった考えによるものである。基本的にはまず鈍行列車への志向がある。新幹線をはじめとする特急の旅行は何かつまらない感じがするのだ。まだ学生の身分であるわたしは、それほど急いで移動する必要性はない。ついでに言うとお金もあまりない。しかし旅行中の夜の間、寝ているだけで移動しないのはなんだか時間がもったいないような気がする。というわけでわたしの交通手段は自然と鈍行の夜行列車に決まってくる。

鈍行の夜行といえば、有名なのは東海道線の東京発大垣行きの列車であろう。いまでは座席指定の快速列車になってしまったが、混み合う時期には昔と同じ車両の臨時便が出ている。じつはわたしが乗ったことがある夜行はいまのところこの大垣行だけである。初めて乗ったのは3年前の夏、関西地方の大学を見に行ったときである。大垣行き夜行の実情を知らなかったわたしは、発車時間の30分ほど前にのこのこと駅に向かい、そこにいる人の群れに愕然としてしまった。もう帰るわけにも行かず、名古屋近辺まで5時間立ちっぱなしであった。

それ以来何度か長距離の旅行をしているが、なかなか夜行に乗るチャンスに恵まれないでいる。時間をとって鈍行でうろうろするような余裕もなくなってきたし、夜行の本数自体も減ってきている。ブルートレインにも乗ってみたい気もするが、料金がやたらと高いのでちょっと敷居が高い。夜行でもバスのほうはまだ健在のようだが、やはり旅は列車でしたい。こういうことを言っていると貧乏性かわがままのように思われてしまうかもしれないが、実際にそういう旅ができないでいるからこうして長々と書いているのである。



1997/12/23 67 圧倒的に足りていません (テーマ:運動不足)

最近自分でもまずいのではないかと思うくらい運動をしなくなった。これほど運動をしていないのは浪人時代以来であろう。浪人時代は肉体的なピークをだらけて過ごしてしまってもったいないことをしてしまったと思っているが、今はただもったいながっているだけではすまない。すでに齢23を数えるわたしの肉体は、もうあとはただおとろえていくだけである。運動不足はわたしの健康にとっての死活問題となりつつあるのだ。

つくばに住んでいた頃はもうちょっと体を動かしていた。アルバイトではどちらかというと肉体労働寄りのことをしていたし、またやはり自転車でそこらじゅうをうろついていたのが大きい。思えば1年生の頃は自転車で筑波山まで行ってしまうほどの元気があったものである。実家に戻ってくるまでは、山登りはしないにしても、東京へ出るときなどは高速バス代をケチって10km近く離れた最寄りの駅まで自転車で行ったりしていた。

車に乗るようになると状況は一変した。実家からはどこに行くにも電車か歩き、もしくは車となってしまう。わたしは都内に出ることが多いので交通手段は自然と電車になる。つくばにいるときも自転車はめったに利用しなくなってしまった。バイトに出かけるときなどは通勤ラッシュにもろにぶつかっている。これが運動になるかと思いきや、単に体力を消費するだけでなんの運動にもなりはしないとすぐわかった。逆にスタミナの低下を思い知らされるだけである。

体育の講義で運動不足に気をつけろと口を酸っぱくして言っていた理由がよくわかった。学校の授業や行事などで、いままではなにかと日常的に運動をする機会があったが、機会が与えられないとまったく運動をしないで済ませてしまうのである。浪人時代も機会がなかったので運動はしていなかったのだが、運動不足はあまり気にしていなかった。しかし腰や肩を痛めたのがこの時期であることを考えると、やはり運動不足は体に良くなかったのである。

わたしの大学では運動不足による体力の低下をできるだけくい止めようと、一生楽しめる「生涯スポーツ」を学生に身につけさせる試みを行っている。今年度の体育では水泳とスケートを履修したのだが、幸いこの2つは今や一年中楽しめるスポーツとなっている。運動不足をできるだけ防ぐためにも、この2つは今後とも続けていかなければならないと思っている。



1997/12/24 68 クリスマスはあしたです (テーマ:クリスマス)

ゆうべチャットをやっていたときだった。午前0時を過ぎて24日になった瞬間に、いくつかのチャンネルで「メリークリスマス」の歓声(?)が上がった。日付は12月24日であるし、今は夜であるのだからクリスマスイブだ、というのが彼らの主張である。それが絶対に間違っているとは言いきれないが、やはり釈然としないものが残った。さわぐ理由がほしいだけなら別にいいのだが、やはりクリスマスイブというのはキリストが生まれたとされる晩だけに限定したほうがいいような気がする。

いつ頃からクリスマス当日よりも前日のほうが重要な位置を占めるようになったのだろう。キリストの生まれた晩を祝うのは、宗教的に見ればなんらおかしいことはない。ほかの国ではどうかは知らないが、日本では前日の昼から25日に日付が変わるまで騒いで、かんじんの25日の24時間に何もしないという風潮があるような気がする。クリスマスのミサをいつやるかは宗派によって違うそうだが、わたしはいちおうキリスト教徒であるくせにミサには行かないのでわからない。

一般的にどうかはまったくわからないが、クリスマスが単に「サンタがプレゼントをくれる日」であった子供時代は、確かに24日の晩にもごちそうは出たが、やはりメインは25日のプレゼントとケーキであった。パーティをするにしても25日のほうが多かったような気がする。プレゼントの送り主が親になり、夜遅くまで起きているようになってからイブのほうに比重が移ってきたと考えられるが、それよりも周りが「今日はクリスマスイブの日だ」と24日の昼のうちからいろいろするようになった、というのが一番大きいのかもしれない。

それにしてもわたしが理解に苦しむのはクリスマスには恋人と過ごす、あるいは恋人とすごせないのでさみしい、という考えである。恋人と一緒にいたいのというのは、別にクリスマスでなくてもいつも思うことであるはずだし、クリスマスが特別な夜だからといって恋人とすごさなければいけない必然性はまったくない。天皇誕生日の前日や彼岸やお盆などに恋人とすごす、という話は聞いたことがない。まあほかの人がどうしようとわたしにはあまり関係はないのだが。

わたしは今までクリスマスは家族とすごしてきた。実家にすんでいたときは当然のことであるが、つくばに住んでいたときもクリスマス前後は家に帰ってきていた。しかし今年は父親は単身赴任で赴任先にいて、妹は彼氏とどこかに出かけるらしく、ぞっとしない話であるが母親と二人きりでイブを過ごすことになりそうである。友人たちと一緒に騒ぎたい気もするのであるが、みな予定が入っていて、わたし自身もバイトで忙しく、遠出も夜遅くまで遊ぶこともできない。たまにはこういうクリスマスもいいだろう。



1997/12/25 69 映画について (テーマ:映画)

伊丹十三、そして三船敏郎と、ここ1週間で日本映画界の著名人がたてつづけに世を去ってしまった。まったくもって惜しい話である。この二人はわたしが名前を知っている数少ない映画俳優でもある。わたし自身は映画は見ていないほうではないと思うが、なにせ人の名前を覚えるのは苦手なのだ。それはともかく、今回はこの二人とはまったく関係なくこのテーマを選んでみた。

映画を見るといっても、わたしは映画館にはほとんど行かないほうである。テレビの映画番組で目についた映画を見る、という程度のことにとどまっていたのである。しかも映画をテレビで流しっぱなしにしてほかのことをしている、ということも多い。これで映画を見ているというのかどうかは疑問であるが、映画そのものが嫌いということはまったくない。テレビドラマなどと違って1話ではなしが完結しているので、見るのも楽であるし、予算の額が違うのでなにかと豪華である。つまるところ、飽きる前に終わってくれるのがよいのである。

アニメなども含めると、映画は小さいころからわりと見ていた。しかし本当に映画がおもしろいと思い始めたのは、ごく最近になってからのような気がする。大学に入ってから、英語の授業や大学主催の上映会などで映画を見る機会がぐっと増え、講義などで映画を取り扱ったものをとった人の話を聞いたりしているうちに、自分からすすんで映画を見たりするようになってきた。一人暮らしのころは、ビデオデッキを持っていなかったので友人の家で映画のビデオを見せてもらったりしていた。

もっとも、映画が好きであるといっても特定の映画、あるいは監督や俳優が好きである、というのはあまりない。見ている映画の絶対数が少ない上に、ふだんは監督や俳優などはあまり気にせずに見ているからである。あまり派手なSFXを駆使した映画や、ホラー・スプラッタ物はあまり好きではない、ということははっきりしているのだが。記憶に強く残った映画、というのはいくつかある。古くはチャップリンの「独裁者」、最近のものであれば「いまを生きる」などが印象に残っている。

大学に入るまでは金がなく、大学に入ってからは近くにいい映画館がなかったので、映画館にはめったに行かなかった。住まいも実家に移り、東京に頻繁に出るようになってからは、毎月始めの映画サービスデー(1000円で入場できる)をねらってよく映画館に行くようになった。映画館の良さについては、テレビと違って大迫力である、などいろいろな意見もあるが、注意力散漫なわたしにとっての最大の利点は、とりあえず集中して映画を見ることができる、ということであるかもしれない。逆に家にいるときは映画を見なくなってしまった。かなり前に録画した映画をまだ見ていなかったりする。

最近はビデオに加えて衛星放送やケーブルテレビ、さらにはMPEGのCD-ROMなど、家にいながら好きな映画を見られる機会はどんどん増えている。こうした背景からか映画産業は衰退しているという話だが、逆にこうしたメディアの広がりにより、映画に接する機会は昔よりずっと増えているはずなのである。映画が衰退しているとすれば、それは見る側でなく作る側のほうにも大きな原因があるのではないかとも思う。



1997/12/26 70 忙しさ不均質性の法則 (テーマ:暇と多忙)

マーフィーではないが、こういう法則が世の中には間違いなく存在すると思う。客商売のアルバイトなどをしている人はわかるだろうが、お店などでもなぜか客がやってくるのには波がある。混雑しているかぜんぜん客がいないかのどちらかで、中間が存在しないのである。わたしも以前コンビニでアルバイトをしていたことがあったが、お客が集中しないでもっとばらけて来てくれないものかとよく思ったものだった。これはお店に限ったことではなく、デスクワークや出かける予定などにも当てはまるだろう。

暇なときと忙しいときのギャップの程度はまちまちであろうが、わたしの場合はこのギャップがとても大きい。とくに最近はその傾向が強く、とてつもなく暇であるかとてつもなく忙しいかどちらかの状態しか存在しないような生活になりつつある。バイト中も本当に何もすることがない時間が数時間あったかと思うと、急な仕事が立て続けに入ってきてしまったり、週末なども予定のないことが数週間続いた後にいくつもの予定が一日に入ってきてしまうようなことが最近はかなり多い。

今日などは相当の忙しさで、オフィスの引越し中でネットワークができていないにもかかわらず、まだ移転元にいる人から仕事を頼まれたりしている上に、マシンの前で作業をしているとときどき力仕事などにかり出されることがある。本当はエッセイを書いている時間などないはずなのである。そういうわけなので、今日のエッセイは短いがこれでおしまいにしておく。こんど暇なときには長々と書くことにしよう。



1997/12/27 71 わが家の宗教事情 (テーマ:宗教)

わたしがイスラームに興味を持っていることは前にも書いたが、別に身近にムスリムがいたから、というわけではなかった。むしろ周りはキリスト教徒のほうが圧倒的に多い。もしかしたら仏教徒より多いかもしれない。わたし自身幼稚園はキリスト教系のところに通っていたし、まっとうなキリスト教徒にならなかったのが不思議なくらいである。

両親はともにキリスト教である。入信したのはまったく別々だそうだ。母親はプロテスタント。父は家がなぜかイギリス国教会だったので、同じく国教会の信者だそうだ。ちなみに父方の家をさかのぼると神主の家系であるらしい。ハイブリッド宗教家族とでもいうような家に、わたしは生まれてしまったらしい。

広島にある父方の田舎に行くと、もっと面白いものが見られる。当然田舎はイギリス国教会なのだが、キリスト像と祖父や曾祖父などの写真が、なんと仏壇に納められているのである。デザインは仏壇ぽくはないのだが、あれは絶対仏壇だ。ちなみにお祈りの時には線香ではなくろうそくをつけるのはいうまでもない。信仰心さえあればどういう形でもいいとは思うのだが、やはりこういう具体例は面白い。宗教学の先生にこの話をしたら、卒論のテーマにしたらどうか、などと言われてしまった。わたしは宗教学は副専攻でしかないのだが。

今のわたしは立場的には無信仰というのがいちばん近いのだろうか。ただ、イスラム圏やヨーロッパでは無信仰だというと相手にされない場合もある。これらの国では入国書類に宗教欄があったりするのである。キリスト教徒やムスリムに宗教はなにかと聞かれたときは、いちばん親近感のあるキリスト教だと答えているが、一般的なキリスト教徒とは考え方がかなり違うのは確かであろう。キリスト教にだっていろいろあるのだから、そのあたりは勘弁してほしいものである。



1997/12/28 72 年賀状 (テーマ:年賀状)

前にも書いたがわたしはものすごい筆無精である。年賀状以外で手紙をもらったことのある人はあんまりいないはずだ。もしもらったことがある人がいたら、その人はものすごくラッキーかもしれない。まあ、手紙一般の話は前にも書いたからいいだろう。

筆無精のわたしではあるが、年賀状はできるだけ出すようにしている。なにせ引っ越しが多いので、あまり会わない知人というのがたくさんいるのである、電話もしないし手紙も出さないので、せめて年賀状くらいは出さないと本当に音信不通になってしまうのである。引っ越すと住所も変わるので、そのお知らせもしないといけないのである。

もっとも、そういった相手から年賀状が先に来る、ということはあまりない。こっちから年賀状を出すと、向こうが返礼を書いてくれる、といった感じである。たぶん年賀状を見るまでわたしの存在を忘れているのだろう。影の薄い存在であったし、引っ越しの多いやつというのは、たいがいそういうものである。

もとが筆無精なので、年賀状のデザインの考えるのは非常に苦労している。毎年出すのが遅くなるのは、主にこれが原因である。筆無精だけならともかく、絵心はないし、デザインなども苦手である。案が何も思いつかないので、取りかかることができないのだ。いろいろ考えてどれにしようと悩んでいる人がうらやましい。

今まではカット集などから絵をつけたりしていたのだが、今年の年賀状はついに絵がなくなってしまった。筆ペンで勢いだけで書いたのが結構出来がよかったので、そのデザインにしたのである。今年はめずらしく年内に書き上がって、あしたバイトに行くときにでも出すことにしようと思っている。



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