日替わりげしょ定食

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1997/11/1 20 過去の趣味シリーズその6 コンピューターミュージック (テーマ: コンピューター音楽)

音楽そのものは昔から今までずっと趣味であるが、その趣味をコンピュータを使って楽しんでいた時期があった。きっかけはやはりテレビゲームであった。わたしが中学に入学した頃は、ちょうどゲームミュージックの黎明期で、非常に質の高い音楽がゲームで聴けるようになってきていたのであった。しかもBASICでプログラムを組めばそれを再現することもできる。これがわたしの音楽魂に火をつけたのである。

最初によくやっていたのが、ファミコンのゲームのBGMをアレンジする、というものであった。ファミコンのものよりは質のいいパソコンの内蔵音源でやっていたので、そこそこ良いものができた。雑誌についているプログラムなどを入力して聴いたりもしていた。音源の音色データなどはこういったプログラムから盗んだりもした。もっとも、このころに作ったものは、再生する本体を人に譲ってしまったので、もう聴くことはできない。

そんなある日に秋葉原でデモをしていたMIDIによる演奏は衝撃的であった。今まで使用していたものとはまるで音質が違うのである。高校時代にパソコンを新しく買ったときには、迷わず同時にMIDIのシンセサイザー音源(安物ではあるが)も購入した。ちょうどそのころにフュージョン系の音楽も聴き始めたので、そっちの方面の曲も打ち込むようになった。このころになると自分で作曲もするようになった。高校3年の時の音楽の授業は自由課題だったので、自作の曲をパソコンで打ち込んで持っていったりもした。

今は自分で曲データを作る方は全くやっていない。理由は簡単である。楽器が弾けるようになったから、そしていまよく聴くようなジャズの音楽は、わたしが持っているような機器やソフトでは再現するのが大変だからである。それにジャズは即興でやった方が楽しい。もっともMIDIの曲データは現在もよく聴いている。ネットワーク上にころがっている曲データもかなり集まった。よくこんなすごいデータを作れるものだと感心することもしばしばである。しかし今は演奏させるよりも演奏する方がずっと楽しいと思っている。



1997/11/2 21 過去の趣味シリーズその7 ファンタジー小説 (テーマ:ファンタジー小説)

ファンタジー小説を読むようになったのは高校に入ってからであった。高校の友人がその手の本をいろいろ貸してくれたのである。新聞などを別にするとそれまであまり活字媒体のものを読まなかったのだが、文章の軽さ、世界がファミコンのロールプレイングゲームなどの世界と似ていたことなどから、わたしにとっては非常に読みやすく、かなりどっぷりとはまってしまったのだった。授業中にまで読んだりしていたのだから、相当の重症である。

ファンタジーの世界そのものとの出会いは、小学校時代にさかのぼる。まだファミコンを持っていなかったことだと思う。映画「ネバー・エンディング・ストーリー」で展開されていた世界。これがわたしに多少なりとも衝撃を与えたのは確かである。なにせ原作の日本語訳まで読んだのだから。もっとも、原作を読んだときの記憶はあまりない。今読んでみたらまた違うのかもしれないが。

わたしのファンタジー好きを決定的にしたのは、やはりゲームであった。ゲームにしやすいということか、舞台をファンタジー世界にしたゲームがいくつも発売された。それも当初はアクションゲームが中心で、そのころはわたしも宇宙世界などが舞台のシューティングゲームの方が好きであった。小学校6年生の時、そんなわたしのゲームの好みを変えてしまったソフトが2本立て続けに発売された。ちなみにそのうちの1本はあの「ドラゴンクエスト」である。そしてわたしの興味はファンタジーの方にぐっと偏るのだが、それもゲームの範疇に限った話であった。

その後友人を介してファンタジー小説の世界を知ることになる。日本のものだけでなく、外国の小説もいくつか読んだが、訳のせいか内容のせいか、面白いと感じるものはあまり多くなかった。結局日本人の目で見たファンタジー世界の方が理解がしやすかったのだろう。SFの世界を舞台にしたものも多く読んだが、サイエンス・フィクションよりもスペース・ファンタジーのほうが好みであった。

このようなファンタジー好きを一変させてしまった世界には、浪人時代に出会うことになる。そう、イスラーム世界である。といっても千夜一夜などのような世界ではなく、実際のイスラーム世界のほうである。たしか1浪の秋だったか。ある日なぜか突然イスラームの世界について知りたくなり、図書館に行ってその関係の本を何冊も借りてきて読みふけったのである。どうして突然興味がそちらに向いたかはわたしにも全くわからない。とにかく空想の世界よりも奇想天外で生々しい世界がそこにはあった。これはファンタジーよりもずっと面白い、とわたしには思えたのである。

いまでもファンタジー関係の小説は読んでいるが、昔ほど熱心ではないし、読む量も減っている。しかも、以前から読んでいてまだ続いているシリーズなどが中心である。勉強やパソコンに時間を吸い取られている、というのもたしかであるが、ファンタジーそのものへの興味が薄れたことも事実である。



1997/11/3 22 もののあふれている風景 前編 (テーマ:部屋)

その人の人となりを表すものというのはいろいろある。その人の服装、読んでいる本、書く文章、文字、などなど…。部屋の様子、というのもその一つであろう。とくに自分の部屋を持っている場合は、持ち物や服、そのレイアウトや内装などがその人の人物というものを雄弁に語ってくれる。

わたしの部屋はどうかというと、これもまた雄弁すぎるほどにわたしの人物を語っている、といえよう。まず部屋の広さ。これがまた狭い。4畳半あるかないかの洋間である。広さの感覚的にはわたしの大学の宿舎が一番近いが、流しがないだけましかもしれない。我が家はマンションの一室であるのだが、ここを買った当時はわたしはさっさと家を出ていって一人暮らしをする、というプランであったので、わたしの部屋には一番狭いところが割り当てられたのである。両親にとっては、今わたしがその部屋にいる、というのは完全に予定外の事態なのであった。それはともかくとして、その狭い部屋に大量のモノがひしめいているのである。

まず部屋に入ろうとすると目にはいるのが、やたらと高くしてあるベッドである。先ほども話に出た大学の宿舎では、収納スペースの確保のためにコンクリートブロックの上にベッドを置いたりしている人が多かったのだが、この部屋でもそうしている。ベッドの下には衣装ケースが4つおいてある。思えば大学に入ってから服も増えたものである。いまではこの数の衣装ケースでも間に合わないくらいで、ズボンなどはベッドの上に突っ張り棒を据え付けてそこにひっかけている。衣装ケースのわきにはCDが大量に入った木の箱がおいてある。これは中学校の技術の時間に作ったものである。その奥にはとりあえず使わない本や扇風機などがおいてある。

さらに本棚。現在わたしの部屋には2つの本棚がある。一つはあまり高さはないが幅のあるもの、もう一つはそれほど幅はないが高さは十分にあるものである。その2つの本棚に文庫、新書、漫画、研究書、ハードカバー、辞書、卒業アルバムや画集など、様々なものがひしめいている。冊数的に一番多いのは文庫である。これは昨日も書いたファンタジー小説の影響が大きい。ファンタジー小説については、もらった本も少なくない。今まで手に入れた文庫本はほとんど捨てたり売ったりしていないのだから、多いのは当然といえば当然であろう。次に多いのは漫画である。どんな漫画があるのかは、別の機会に書くことにしよう。10冊を超える数の辞書があることも、特筆すべきことだろうか。

視線を右に移すと、やたらと大きいパソコンデスクがある。これは普通に作業したり本を読んだりもできるように、わざと大きなものを買ったからである。だからパソコンやディスプレイが占めている空間というのはそれほど大きくない。どちらかというとパソコン関連の本や紙(プリンタ用紙や大学で配られたプリントなど)のほうが場所をとっている。せっかくある4つの馬のぬいぐるみも、フロッピーやCD-ROMの山の影になっている。

長くなりそうなので続きは明日にしよう。



1997/11/4 23 もののあふれている風景 後編 (テーマ:部屋)

パソコンデスクの下には古いオーディオコンポがある。CDプレーヤーだけあとで買い足したので、色に統一感がない。チューナーなどは今のところアンテナ線をつないでいないので、単に場所をとっているだけである。このコンポのアンプもすでに左のチャンネルが死にかけている。はやくなんとかせねばならない、とは思っているのだが、先立つものがないのでそのままになっている。コンポの脇にはキャスター付きの小さな3段引き出しケースがおいてある。ここにはパソコン関係の小物やウォークマン、工具などが入っている。

部屋の中に所在なげにおいてあるものが2つ。2本のベースである。こういう形の特殊なものは置き場所に困る。かといって他の部屋に置くわけにも行かない。というわけでエレキベースの方はギタースタンドを買ってきて立てかけてあり、サイレントベースはスタンドもないのでベッドの方に立てかけてある。ベッドの上でへたに動くと立てかけてあるベースがずるずると倒れていってしまうので恐ろしい。もっとも、結果的に手を伸ばせばすぐ届く場所にベースを置くことになったので、ふと練習したくなったときなどは便利である。ちなみにベースアンプはベッドの脇のデッドスペースにおいてある。

壁にはポスターやカレンダーなどが貼ってある。カレンダーはアントニオ・ガウディの月めくりタイプのもの。そのほかには、アルフォンソ・ミュシャと天野喜孝の非売品ポスターと、M.C.エッシャーのジグソー、コーランの一部が書いてある陶板、イスラム協会のシンポジウムに行った時にもらったエジプトのポスターなどが壁にぺたぺたと並んでいる。昔はゲーム関係のポスターも貼ってあったのだが、部屋の模様替えをした時にはがしたままになっている。壁にかかった時計は、飾り気のない実用一辺倒のもの。背の低い方の本棚の上にうずたかく積まれているカセットテープも、すでにほとんど壁の一部である。

今のところ床にもいろいろなものが転がっている。たんに散らかしているだけ、という説もある。普通に散らかっているのと違う点は、散らかっているものを片づける場所がない、ということである。本棚はすでにあふれている。ベッドの下に押し込んでも根本的解決にならない。なにせ家全体で収納スペースがまったく足りないのである。しかたがないので床に積んだままになっているのだが、これだけで部屋の見た目の混沌度は倍増している。

とまあわたしの部屋を簡単に説明するとこんな感じである。わたしのひととなりもこの部屋の通り混沌としている、というのは言うまでもないことである。昨夜IRCで「男の部屋なんて紹介されてもおもしろくない」ともいわれたが、始めてしまったものは仕方がない。こんなどうでもいいことまでエッセイに書いてしまう、というところにもわたしの性格は出ているのであろう。



1997/11/5 24 くるまのはなし (テーマ:車)

きのうはなにも考えずにエッセイのテーマを出したのだが、われながらかなり苦しいテーマを出してしまった。まあ、せっかくテーマを設定したのだから、これにそって何か書くことにする。

高校時代は自分が車を運転する、ということはまるっきり想定していなかった。だから免許を取るつもりもまったくなかった。一浪時代は時間があったので、免許も取ろうと思えばとれたし、家に古い車があったので免許さえあればもらえることになっていたのだが、そんなわけで実現はしなかった。

そして時間は一気に飛んで大学に入学。つくばは車がないと暮らしていけない、という話もあったが、そんなことはかまわずに自転車とバスと電車だけで生活していた。実際それで困ることもなかった。周りに車を持っている人がいたからである。数人と足契約を結んでおけば、大きい荷物を運びたいときなど必要なときにもすぐ車を調達できた。車持ちには悪いが、つくば近辺の中途半端な距離、つまり車以外に交通手段がないところにはあまり用事がなかったのである。

事情が変わったのはこのあいだの冬である。1,2年生のうちに単位を取りまくるという計画がほぼ成功しつつあり、次年度の授業開講計画をみたらなんと週休5日が実現できそうである。そうすると授業のない日にはどこかほかの大学にもぐりに行きたい。というわけで実家に生活の拠点を移したいと考えた。そうすると筑波にアパートを借りっぱなしだと金銭面できつくなってくる。実家から筑波までは電車より車の方が安く、しかも速くいける。というわけで急遽免許を取ることにしたのだった。

自動車学校に入学してから免許が交付されるまでが40日。これはわたしが通った教習所では道路交通法改正以来の最短記録だったそうである。そうして自宅から家の車でつくばへ向かい、つくばのアパートは週1〜2日寝るためだけに使っていた。これはやはり効率が悪いし、ちょうど契約期限も切れるところだったので思い切って解約することにした。

ちなみに家からつくばまでの距離は約50kmある。時間にして約1時間半である。毎週この往復を繰り返すので、運転もそれなりに上達した。残念なのは、家で車をAT車に買い換えてしまったので、MT車の運転をする機会がなくなってしまった、ということである。車がほしいとも現在ちょっとだけ思っているのだが、それはひとえにMT車を運転したい、ということにつきるのである。まあ、金もないし、車庫もないし、いろいろな意味で無駄が多そうなので、しばらく自分の車を買うことはないであろう。



1997/11/6 25 おいでませつくば (テーマ:つくば)

今このエッセイはつくばで書いている。もうつくばにきてから3度目の秋である。街路樹の葉の色もすっかり変わってしまい、道には落ち葉が散らばっている。見た目はきれいではあるとも思えるのだが、掃除するのが大変だろうな、と思う今日この頃である。

もともとつくばの大学に行きたいと思ったのも、「つくばに住んでみたい」と強烈に思ってしまったからだった。初めてつくばを訪れたのは高校3年の夏、大学の説明会に行ったときであった。直線的で広い道路、やたらと多い街路樹、密度の低い建物と、どこをみても人工的で異様な雰囲気に、なぜか惹かれてしまったのである。

実際つくばに住んでみてからは、さらに異様な情景を目にすることになる。大学の方の設備などは、開学してすぐに建てられた建物などもあり、古くて汚くなってしまっているところも多い。とくに宿舎の男子棟は汚いことこの上ない。よくもまあこんなところに半年も住んだものである。また、大学の中を歩行者専用のペデストリアンが縦断していて、学生はそこを自転車で通っているのだが、坂が多い上になぜかタイル張りで、雨が降った日などはなかなか危険である。

学外の方はさらにおもしろい。学園地区として計画・整備されてきた地区以外は、まるっきり田舎なのである。その境目になっている道路を歩いてみると、道路の片側は近未来都市のようになっているのに、反対側は田園風景が広がっている、という風景もあったりする。ちょっと変な道に迷い込むと、狭くてくねくねした道になってしまって、車がすれ違うことすらできない、などということも珍しくない。こういった地区は古くからの集落で、やたらとでかい民家が並んでいて、ネイティブランゲージである茨城弁を話す人々が行き交っている。通訳がないので学生は地元の人たちとのコミュニケーションに不自由することが多い。

ちなみに、わたしはつくばに初めてくる友人を案内するときは、あえて常磐線の土浦の駅のほうにきてもらうようにしている。土浦駅周辺は再開発が進んだとはいえ、まだ古い町並みが残っている。つくばの学園地区にはここからバスで行くのだが、その道だけきれいに整備されているが、周りは見渡す限りの田んぼである。しばらく行くと学園地区が遠くに見えてくる。田舎の中にぽっかり浮かび上がる近未来都市といった風情に驚かない人はまだいない。学園地区に入ると、見た目だけはきれいなのでまた驚いてくれる。極めつけは大学の敷地に入ってからである。学内に入ってからバスの終点まで10分以上かかる。ほんとうは初めて訪れる人を驚かすフィーチャーはまだたくさんあるのだが、とりあえずこの程度にしておかないとつくばの異様さだけを印象に残してしまう。

最近はつくばから離れて住むようになったので、以前は気づかなかったような、つくばのほかと違うところも目に付くようになってきた。街路樹があまりに多いとかえって変に感じる、というのも東京をうろつくことが多くなってきてから気づいたことである。おそらく、今後わたしがつくばに住むことは二度とないと思われる。やはりつくばの学園地区は、長期間定住するところではないような気がする。

住むかどうかは別として、人工都市というものを見たことがない人は、つくばは一度訪れてみる価値があるかもしれない。ちなみにこのエッセイのタイトルは、わたしがみんなにつくばに来て欲しいと思っているかどうかとは無関係である。



1997/11/7 26 東京散策のすすめ (テーマ:東京を歩く)

東京都内に出ると、地下鉄やバス、タクシーなどさまざまな交通手段があるので、移動にはついそちらを使ってしまうものである。東京は道が入り組んでおり、地理に詳しくないとうろつくのには勇気がいるので、ある程度は仕方のないことであろう。ところが思い切ってうろついてみると結構面白いものである。

最初に街中をうろつく楽しみを知ったのは去年の秋頃、大学の実習で東京都内を巡検したときであった。築地から銀座、東京駅を経由して日本橋、浅草、上野と徒歩で回ったのであるが、地下鉄に乗っていては絶対に見られない風景なども見られたし、いままでそれぞれまったく別の地点として考えていたこれらの場所が意外と近い、という発見も出来たのであった。

それ以降は、日和のいいときなどに東京都内のいろいろな場所を徒歩でうろついてみるようになった。うろつくのはおもに東京の東側である。多少道が入り組んでいたりもするが、西側よりも古い町並みが残っていたりすることも多くてなかなかおもしろい。わたしが一番気に入っているのは、本郷あたりから根津・鴬谷・日暮里方面の一帯である。このあたりを歩くと昭和40年代にタイムスリップしたかのような気分になれる(もっとも、昭和40年代が実際にどんな感じだったかは知らないのだが)。郊外の住宅地では八百屋や魚屋、豆腐屋などはめったにお目にかかれまい。

もちろん東京の西の方にもそういった地区はある。わたしは西新宿の方でアルバイトをしているのだが、ちょっと脇道に入るとそこは根津界隈に似た光景が広がっている。新宿にあるとは思えないようなたたずまいの床屋や食堂、お茶を売っている店などが並んでいて、その向こうに西口の高層ビル街が見える。このアンバランスさがたまらないのである。

いままで1度に歩いた最長時間は約3時間である。新宿で飲み会があったのだが、終電を逃してしまい、泊めてもらうあても思い付かなかったのでオールナイトの映画でも見ていようと思ったのだが、どういうわけかもののけ姫と失楽園しかやっていない。タクシーで家に帰るほど財政的に余裕があったわけではないので、歩いてかえることにしたのである。この辺の決断はやはりアルコールのなせるわざであろう。結局上野にたどり着いたところで力尽き、上野公園でちょっとだけ寝てから電車で帰ったのだった。これはすでに散策の域を越えているという説もある。

こういう極端な例は別としても、ちょっとした距離のところなら歩いて移動してみるのも結構良いものである。道に迷ったら大きい通りに出て適当に歩けば地下鉄の駅やバス停があるので、それを利用すればよい。ただし、地下鉄に乗るだけでも迷ってしまうような方向音痴の人はやらないほうがいいかもしれない。



1997/11/8 27 わたしのアルコール度数 (テーマ:酒)

とりあえず酒は弱い方ではない。どちらかというと強い部類にはいるだろう。「いける口」であることは確かだが、のんべえというほどに酒を飲むわけではない。酒を飲むこと自体が目的の飲み会は好きではない。飲み会のアルコールは、あくまで話の潤滑油だと思っている。

アルコール類を飲んだのは、たぶん小学生の時に梅酒をちょっとだけ飲んだのが最初であろう。一緒に飲んだいとこは思いきり酔っぱらっていたが、自分がどうだったかは記憶にない。おそらく記憶がとんだということではないと思われるが。それから大学にはいるまでは、酒を飲むことはほとんどなかった。誰がどう言おうとこれは事実である。

最初のうちは無茶な飲み方をしたものだった。最初は本当に限界を知らなかった。初めて飲みつぶれたときは前後不覚のひどい状態になり、記憶も半分とんでしまったものだった。未成年時の出来事なので詳しいことは割愛させていただく。大学に入り立ての頃も吐くまで飲んでしまうことがしばしばあったが、本格的につぶれたのは、今のところはその最初の1回だけである。普段は介抱する方に回ることが多い。ちなみに二日酔いになったことも一度だけである。

ちなみにビールはあまり飲まない。昔は本当にビールは苦手だったが、恵比寿ガーデンプレイスのビアホールでおいしい地ビールを飲んでからは、ジョッキ2杯くらいまではいけるようになった。一時は日本酒ばかり飲んでいた。誕生日プレゼントに一升瓶の酒をもらったこともあった。本気でのんべえだと思われていた証拠であろう。しかしなかなかうまい日本酒が手に入らなかったのと、金がかかってしまうことからあまり飲まなくなってしまった。

現在好んでよく飲んでいるのは蒸留酒系の酒である。カクテルなども捨てがたいが、やはりウイスキーやブランデーをストレートやロックで飲むのが良い。ウイスキーについてはソーダ割りなども意外といける。しかしやはり最大の贅沢は、チョコレートをつまみにブランデーをストレートでちびちびとやることであろう。一人で飲みたくなったときなどは、これが一番経済的でもある。

しかし、ここまでいろいろこだわっているというのは、やはり酒飲みである証拠なのだろうか。酒は確かに嫌いではないのだが、これだけいろいろこだわるのはアルコール自体に執着はない証拠だと思いたい。少なくとも酒に飲まれる状態ではないと言えよう。



1997/11/9 28 良くも悪くも… (テーマ:マイペース)

マイペース、である。誰のことであるかは言うまでもないであろう。

とにかく今までは人とは全く違ったペースで行動してきた。他の人の考えや行動に合わせる、ということもあまりしてこなかった。むしろ、世間一般の動きをあえて無視した、あるいはそれとは逆の行動パターンをとる、というようなあまのじゃくなことをしてきたような気もする。

というわけで、自分がマイペース人間であることは自らも認めざるを得ないのだが、ひとに「君はマイペースだねぇ」と言われると少々複雑な気持ちになる。ほめられているでもなし、けなされているでもなし。どう対応していいのかわからなくなってしまうのである。自分でもそう思います、とでもしか答えようがない。

良い方にとれば、多少のことでも動じない、人の意見に左右されない、などということであろう。しかしこれは裏を返せば周りにあわせた行動がとれない、すなわち協調性に欠ける、ということでもあるのだ。そうする必要がないときはそれでも良い。しかし人生を送っていく上では周りに合わせることがどうしても必要になってくることがある。わたしの場合そうした時ですら周りに合わせた行動をとることができない。こうした場合ひとに悪印象を与えてしまうことも多いのである。

マイペース人間がうらやましいと思う人もいるかもしれないが、意識してマイペースを保ち続けるのは決して楽なことではない。ひとの気をひきたいとか思うこともあるし、場を盛り下げてはいけない、ということもある。そういった、ひとに合わせることが必要な場合でも、プライドやらあまのじゃくな性格やらが邪魔をしてくれてしまう。ほかのマイペースな人がどう考えているかどうかは知らないが、マイペースだからといって気楽にやっているわけではない、という人間もいるのである。



1997/11/10 29 慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において… (テーマ:イスラム)

いきなりこのタイトルで驚いてしまった人もいるだろう。「アッラー」という単語でぴんと来た人もいるかもしれないが、これはイスラム圏でなにかを始める時に唱えられる言葉である。コーランを唱える時もまずこの言葉(もちろん、アラビア語だが)からである。というわけで今日はイスラムの話をしようと思う。

イスラムに興味を持った経緯は以前このエッセイで書いたと思う。とにかく突然であった。当時は世界史もとっていなかったし、新聞の国際欄に熱心に目を通していたわけでもなかった。なぜ突然イスラム世界に興味を持つようになったのかは、まったくの謎である。これがきっかけで志望の学部まで変えてしまったということを考えても、これは単なる浪人生活からの逃避とは思えない。大学入試の面接の時イスラムに興味を持った理由を聞かれたのだが、その時は「わからない。しいていえばアッラーのお導きです」と答えた。今考えてみるととんでもないことを言ったものだが、やはりこうとしか答えようがなかった。

イスラムに興味を持ったきっかけについてはまったくわからないが、自分がイスラムのどこに興味をひかれているかはなんとなくわかる。とにかくイスラム世界が持っているエネルギーというのは、ただものではない。巡礼月のメッカや断食明けの祭の熱気は、ほかでは絶対に見られないものであろう。世界中のムスリムは、信仰しているものが同じということ、そのたった一つの理由で団結できるのである。そしてモスクや市場などでかわされる活発な会話。日本社会にはない生命力が、イスラム社会にはある。

さらに、イスラム世界の歴史の奇想天外さも、わたしをひきつけたものである。ムハンマドとその周辺の数人から始まったイスラム。最初のうちは日本の某真理教のように奇異の目で見られたに違いない。それが現在のように巨大な世界を形成するまでに至ったのである。これだけでもすごいことであろう。さらにさまざまな宗派や王朝が繰り広げる争いなどは、下手な物語もはだしの迫力である。

ちなみに現在わたしが一番興味を持っているのは、イスラム社会に生きる人々の生活である。実はイスラムというのは単純な信仰形態ではなく、生まれてから死ぬまで、いや死んだ後までのすべてを規定するものなのである。ところが実際の生活にこのイスラムがどのような形で反映されているか、それは地域によってさまざまである。現在のムスリム(イスラム教徒)人口は10億ともいわれるが、極論をいえばムスリムの数だけ、すなわち10億通りのイスラムがある、ということになってしまうかもしれない。

大学の卒業論文もこの線で行こうと思っているのだが、具体的なテーマが決まらない。結局はまだ勉強不足、ということなのだろう。なかなか勉強する時間が取れないでいるが、もっと頑張らなければならない。ちなみにわたし自身がムスリムになる、という気はいまのところない。わたしが目指す研究分野では、ムスリムにはできないような研究があるはずである。ムスリムにしかできない研究がしたくなったら、その時にムスリムになれば良い。いまのところは学問的興味が勝っているので、宗教的態度は保留にしておきたいのだ。



1997/11/11 30 通勤電車における人間観察 (テーマ:通勤電車)

わたしが現在通勤に使っている電車は、通勤時間帯にはとんでもなく混む。朝からバイトにいくときはJR常磐線の快速。東京の大学にもぐりに行くときは営団千代田線を使うのだが、どちらも一番混む時間に一番混む区間を利用せねばならない。とくに朝の千代田線は地獄のような混雑である。とても混み合っている様を「すし詰め」ということがあるが、あんなに詰められたらすしも食べにくいであろう。

それだけ混み合っているのに、車内では会話一つない。新聞を読んでいる人、本を読んでいる人、ヘッドホンステレオで音楽を聴いている人、なにもせずぼーっとしている人、などなど。人一人分ないスペースの中でそれぞれが自分の世界を形作っている。これはある意味不思議な現象である。あまりに混みすぎた結果こうなったのかもしれないが。

朝の電車はあまりに混んでいるせいか、それとも朝なので皆テンションが低いのか、朝の電車ではあまりおもしろいことは起こらない。信号故障や列車の遅れで電車が止まってきつい思いをする、くらいのこと程度であろう。

一方、夕方電車に乗っているときは、ときどきおもしろいことがあったりする。仕事が終わった後であるせいか、乗客のサラリーマンたちの会話も弾む。朝は自主フレックス通学の高校生も、この時間にはよく電車に乗っている。車内で痴話喧嘩を繰り広げるカップル、というのに一回遭遇したことがある。わたしを含めて皆見てるしかない。こわれたらかっさらってやろう、という殊勝な心がけの人もいない。二人とも途中で降りていったのでその後の経過はわからない。池袋の駅のホームで殴り合いの喧嘩をしているのも見たことがある。喧嘩もびっくりしたが、山手線で日本の政治と社会について演説を始めた人がいたときはどうしようかと思った。どうもしらふだったようなのだが。

いちばんまいったのは中央線の吉祥寺駅で、変なおばさんに金を貸してくれと頼まれたときである。横田の方にすんでいるというのだが、そのわりには荷物が多く、服も何日も着替えていないようであった。なぜか財布に住民票の写しを入れて持ち歩いていた。とりあえず1000円どぶに流すつもりで貸しておこうとすると、むこうは財布の中をのぞき込んでくる。そのとき偶然1000円札ばかり持っていたので、大量の札が財布に入っていて、それを見た彼女は「これだけあるのに1000円だけなんて、けちだ」とのたまった。彼女はそれからわたしがお茶の水で乗り換えるまでずっとつきまとってきた。適当に話を聞いてあしらっていたのだが、なんともまいった。

普段は乗り合わせた乗客と話をすることなどはまずないし、無味乾燥な通勤電車であるが、ときどきこういったイベントにでくわすのであまり退屈はしない。大学の先生で、電車で乗り合わせた酔っぱらいと人生について語り合ったことがあった人がいるそうだが、わたしもそういう出来事に出くわしてみたいものである。



1997/11/12 31 書こう書こうとは思えども (テーマ:筆無精)

意外に思う人もいるかもしれないが、わたしは実はひどい筆無精である。こんなエッセイを毎日書いているし、チャットでも発言をしまくっている上にときどき投稿系のサイトに投稿したりもしているので、当然電子メールや手紙も頻繁に書いているんだろう、と思う人もいるであろう。

しかし実際は手紙を出す、ということはほとんどしない。要するに、特定の個人あてにまとまったメッセージを送る、ということをあまりしないのである。用事がないときに手紙を出さないのはまあ良いとしても、手紙を出さなければいけない時も、結局出さないですませてしまったりしてしまうこともままある。

用事もないのに自分から誰かとコンタクトをとる、ということにどうもなじめないのである。手紙を書くにしても、用事がない時は何を書けばいいのかわからない。近況やら何やら書けばいいのかもしれないが、内容がなくなってしまうような気がしてつまらないのではないか、と考えてしまう。インターネットでこうして自分の考えや近況を書き連ねてしまうとなおさらやりにくい。

ちなみに、向こうからコンタクトが来た場合はなぜかきちんと対応できる。電子メールにしても普通の手紙にしても、きちんと返事を書いている。メッセージを受け取ったことを知らせないといけない、ということもあるし、相手から話題が提供されるために書きやすいということもある。とにかく手紙関係に関しては、わたしはまったくの受け身である。

ところがこちらから手紙を出さなければ行けない相手、というのもいたりする。去年の夏大学の実習で米沢に行った際にお世話になった人には、今年の夏やっと礼状を出した。今ごろ出すのはかえって失礼かとも思ったが、出さないよりはましに違いないと考えての選択だった。去年エジプトに旅行した際に知り合った人々に住所を聞いたりしたのだが、まだ手紙をかけずにいる。それとは別に手紙を出したいと思う相手もいるのだが、なんとなく書けないでいる。この筆無精がいきなり手紙を出したら怪訝に思われるかもしれない、と思ってしまうのである。たよりがないのも良いたより、という言葉で自分を納得させてしまっている。

今年の夏は引越しをしたのに全然手紙を出さなかった。わたしが引越しをしたということは、おそらく実際に顔を会わせる人とチャットで会ってよく話す人しか知らないだろう。今年の年賀状ではきちんと通知しなければならない。ああ面倒くさい。



1997/11/13 32 祝1ヶ月

もうこのエッセイを始めて1ヶ月が経過してしまった。よくもまあ飽きもせずに続いたものである。最初はアルバイトの勤務中に空き時間が多かったので暇つぶしに始めたのだが、最近はこれを書くために時間をとらなければいけないような状況が続いている。そこまで忙しいのにやめずに続けているのは、もはや意地の問題である。

1ヶ月で都合31本のエッセイを書いたことになる。ジャンルは・・・様々かと思えばそうでもない。自分についての話ばかりである。このあたりネタ切れ寸前状態になっているのがよくわかる。普段はいろいろテーマも思いつくのだが、いざパソコンの前に座るとなにもでてこなくなってしまうのである。テーマさえ決まっていればすらすらと書けるのだが。テーマは引き続きメールで募集している。これを読んでいる人は、なにかいいテーマを是非メールで送ってほしい。

エッセイを書こうと思いついたのは、わたしが日記を書いてもつまらなくなりそうだ、と思ったのがきっかけである。しかしせっかくだからわたしについて何か知ってもらえるような何かを作りたい。IRC普及委員会だけではIRCがわたしのすべてだと思われてしまう。かといって変化のある生活を送っているわけでもない。というわけでこのエッセイを始めたのであった。その後日記のようなものも始めたが、予想通りわれながらつまらない。エッセイにして正解だった。

で、エッセイなのだが、わりと好評らしい。IRCのほうでときどき感想をいってくれる人もいる。「読んでます」というだけのも多いが。実際に読んでいる人はもっと多いのだろう。しかし残念ながらIRCでした話は覚えていないことが多いので、ここに反映するのは難しかったりする。ちなみにメールは1通だけ来た。大学の友人からであった。ゲームの話を書いた日だったので、メールもゲームの話であった。しかしもうちょっとメールも来ると思ったのだがそうでもないらしい。もっと大々的に感想などのメールを募集するべきなのだろう。

ちょっと残念なのは、エッセイの批評をしてくれた人がいないことである。このエッセイは文章の訓練もかねているので、ちょっと批評も期待していたのだが、よく考えたらこれがつまらないと思った人は読まなくなるだけである。とりあえずもうちょっと反応を期待したいな、と読者の人に遠回しにお願いして結ぶことにする。日替わりエッセイの企画はまだ続くのでご安心を。



1997/11/14 33 肩の凝(ってい)る話 (テーマ:肩こり)

学校などで友人の肩をもんであげている人をよく見かける。もんでもらっている人も気持ちよさそうにしているが、これは主に親愛の情を示す行動であるといえるだろう。わたしもひとの肩をもんであげたりすることがあるが、これは自分の肩がこっているときは、人の肩をもんであげたい衝動に駆られてしまうからでもある。そのあたり他の人はどうか知らないが、友人に肩をもんでもらったときは、お返しに相手の肩ももんであげるのが礼儀なのかもしれない。

ちなみにわたしの肩はとんでもなくこっている。文字通り「筋金入り」である。あまりに肩がこっていて、普段は肩がこっているという感覚もないほどである。ひどく疲れたときなどは肩の重さもいやというほど実感できるのだが、それが疲れのせいか肩こりのせいかはわからない。確かなのは、少々肩こりがほぐれたときなどは、逆に頭が重くなってしょうがなかったりする。

ふつうの人にマッサージをしてもらっても、全くほぐれない。もんでくれること自体はありがたいのでもんでもらったらお礼はしているが、申し訳ないことに全く効いていないのである。ふつうの肩たたきもほとんど無力である。たたくこと自体は気持ちがいいので自分でもよくやるのだが、気持ちがよいのはたたいている最中だけで、肩がほぐれるということは全くない。一度鉄アレイで肩をたたいてみたこともあるのだが、結果は同様だった。

マッサージが得意だという友人に、以前つくばまできてもらってマッサージをしてもらったことがある。ちなみに報酬は夕食1回であった。なぜわざわざつくばまできてくれたかというと、以前肩を少しもんでもらったときに、あまりの肩こりのひどさに、これは自分がなおしてあげねばならないという使命感を持ってくれてしまったらしい。ちなみに、その時はツボがどこかさえもわからなかったらしい。一晩かけてマッサージをしてもらおう、ということだったのだが、2時間以上かけても肩がちょっとほぐれただけで、友人はあきらめてさじを投げてしまった。全く申し訳ないことをしてしまったものである。

というわけでわたしの肩こりは今のところ全く改善していない。原因ははっきりしている。パソコンと長年の受験勉強、さらにベース弾きと、肩に負担をかけることばかりしているからであろう。特にパソコンについては、キータイプだけではなく、モニターを長時間みて目が疲れることから肩にきてしまう、という相乗効果が出てしまっている。さらに運動不足が肩こりに拍車をかけている。なにか肩こりにいい運動やマッサージなどがあったら教えてほしいものである。



1997/11/15 34 げしょってなんでしょう? (テーマ:げしょ)

わたしはチャットの方で「げしょ」という名前を使用している。IRCのほうでは現在はほかの名前ではいることも多いが、古い知り合いはわたしをいまだに「げしょ」と呼んでいる(ちなみに学内のIRCでは全く別のnickを使用している)。一見すると意味が全く不明なので、名前の意味はなんですか、とよく聞かれる。

「げしょ」という単語自体の意味はわたしも知らない。というより、言葉自体にはなんの意味もないのだろう。げしょというのは、ある漫画のキャラクタの名前なのである。それもあさりよしとおというマイナーな漫画家の宇宙家族カールビンソンというこれまたマイナーな漫画の、やっぱりその中でもマイナーなキャラクタなのである。

IRCを初めてやるときに、自分の名前をどうするか悩む人も多いことだろう。実はわたしもそうであった。furukawaやkenichiだと、なんだかありきたりでつまらないし、すでに使っている人がいそう(IRCではすでに使用されているnicknameは使えない)なので避けたかった。わたしは7月生なのでJulioという名前を考えたのだが、やはりこれもすでに使っている人がいたらしくて使用できなかった。そこで今度は絶対に誰かと重ならない名前を考えることにした。そして思いついたのが、Geshoだったのである。なぜこれが浮かんだのかは謎である。

まあ、この名前にしたのはとりあえず成功だったのではないかと思う。なんといっても、名前だけでとてつもないインパクトを与えることができた。こうして名前についての話題もできる。それにしてもカールビンソンを読んでいる人が意外と多かったので驚いたものである。大多数は「それ何?」という反応だったのだが、げしょという文字列を見て即座にカールビンソンとわかってくれた人もいたので、そのときは少しうれしかった。

もちろんデメリットもあった。オフ会などでチャットの知り合いに会うときは、呼ばれる名前も当然ネット上のものである。電話するときも当然そうである。実際にあっているときはまだいいとしよう。しかし電話などで「もしもし、げしょですが…」などというのは結構恥ずかしい。駅や町中などだとその恥ずかしさも倍増である。ちなみに、IRC普及委員会の「変なnicknameをつけると以後ずっとそれで呼ばれることになるので、覚悟しておきましょう。」という記述は、こういった実体験に基づくものである。



1997/11/16 35 わがマシンの履歴 (テーマ:マイマシン)

初めて我が家にパソコンがやって来たのはわたしが中学生の頃。すでに10年近く前のことになる。それ以降マシンの買い替えなども行い、現在使っているのは3代目、ということになる。

最初のパソコンは親に買ってもらったものである。機種はNECのPC-8801MAという8ビットパソコンだった。わたし自身はゲームやら音楽やらにばかり使用していたが、一応ワープロなどとしても活躍してくれた。親の住所録用にカード型のデータベースも購入したのだが、機能的にはなかなかだったがとにかく処理に時間がかかりすぎるのが困りものだった。また父の麻雀専用マシンでもあった。結局このマシンは3年間わが家のメインマシンとして活躍した。

次に買ったパソコンはいきなり32ビットのものにジャンプアップする。機種はPC-9801DS。わたしがアルバイトでためた金で初めて買ったものである。新しいマシン用に買ったワープロやデータベースソフトの処理の速さには驚いたものであった。しかし32ビットとは言ってもまだまだ性能は低く、現在のパソコンのように大容量のメモリやハードディスクが搭載されている、ということはなかった。その後メモリとハードディスクは新たに増設したりもしたが、それでもウインドウズを動かせるような環境とはほど遠かった。

そして現在使っている3代目。これは去年の2月につくばで購入した。ウインドウズ95が出た直後で安くなっていたウインドウズ3.1マシン(機種はPC-9821Xa7e)を買ったものである。前のマシンから4年。パソコンの性能は飛躍的に上昇していた。それでもちまたのコンピュータの性能はまさに日進月歩の状態で向上していく。それと同時にパワーアップ用のパーツの値段も安くなっていき、わたしも調子に乗ってチューンナップを続けている。しかしそろそろチューンナップにも限界が近づいてきた。現在はこのマシンのパーツを流用してパソコンを自作してしまうことを画策中である。

昔は自分のマシンくらいしかいじるパソコンはなかったのだが、現在では様々な場所でパソコンを利用している。まずわたしのものとは別に家で購入したマシン(これも98である)。バイト先で使っているDellのマシン。学校の情報処理センターで使えるFMV、さらに学類コンピュータ室のCOMPAQ、などなど。友人にたのまれてマシンの設定を手伝うこともしばしばある。しかしこれらのマシンも家に自分のマシンがあって、いろいろいじれるから使えるのである。自分が持っていないMacintoshなどは、操作の仕方がわからなくてとまどったりしてしまう。必要かどうかは別として、どこかでマックの使い方を習熟したいものである。



1997/11/17 36 いい湯だな (テーマ:風呂)

もう季節は晩秋。日に日に寒くなってきているが、そのため風呂がとても気持ちのいい季節でもある。夏は暑くて風呂に入ったら汗だくになってしまう。冬は寒くて風呂に入るまでが大変である。もちろんどの季節でも風呂に入る必要はあるのだが、風呂をもっとも楽しめるのは今の時期ではないかと思う。

風呂場は多少古くても昔ながらのタイル張りのたたずまいが落ち着く。最近は強化プラスチック製のものも増えたが、あれはどうも息苦しい感じがする。ユニットバスなどは論外である。バスタブの脇に洗面所やトイレがあるだけで落ち着かなくなってしまう。風呂のお湯も風呂釜で沸かすタイプのものが好みである。給湯器でお湯が入れられてしまうタイプのものは、なにか手続きをとばしてしまったような気がしてしまう。お湯をいったん入れてしまうと沸かしなおしができない、というのもつらい。

ここまで書けば、わたしがシャワーよりも風呂を沸かして湯船につかる方が好きである、ということは察しがつくであろう。つくばでアパートを借りる際も、風呂場はひそかに重要な決定要素にしていた。住んでいたアパートの風呂場が上の条件を満たしていたことは言うまでもない。シャワーがついてなかろうが、多少古くて汚かろうが、ナメクジが出ようが、沸かして入れる風呂がよかったのである。

風呂につかると、体中リラックスし、疲れが風呂のお湯に溶けだしていくような感じが味わえる。風呂の醍醐味は、この疲れが抜けていく感覚に尽きるであろう。これはシャワーでは絶対に味わえないものである。もちろんシャワーにはシャワーの長所がある。入れるようになるまで待つ必要はないし、お湯が体に当たる感覚もそれなりに気持ちのよいものである。しかしシャワーでは風呂のような疲れのとれかたは感じられないような気がする。

今年の夏からアパートを引き払って実家に住んでいるが、実家の風呂は残念ながらプラスチック製の風呂場で、お湯も給湯式のものである。しょうがないので普段はシャワーを浴びるだけで風呂を済ませている。肩こりはシャワーのお湯を肩に当てたりしてほぐしているのだが、やはり風呂につかるようにはいかない。たまにバスタブにお湯を溜めて入ったりもするが、バスタブも細長くて浅いので、お湯につかっても何となく落ち着かない。友人のアパートの風呂などを見ても、風呂はこういった形態のものが一般的になってしまいつつあるのがわかる。これがなげかわしいと思っているのはわたしだけだろうか。



1997/11/18 37 なつかしき日々 (テーマ:小学生時代)

このサイトの履歴のところに小学校時代のことを詳しく書かなかったのには理由がある。2〜3行ではとても書ききれない、ということ、そして一番楽しかった時期なのでせっかくだからこちらのエッセイの方で書こうかと思ったからである。

おそらくわたしが一番活発に活動していたのは小学生の頃であろう。小学生だけに行動範囲はかなり限られているのだが、それでも自転車などで友達といろいろなところに行ったものである。いちおう生徒だけでは学区の外には出ては行けないことになっていたのだが、そんなことはかまわずにどんどん動き回っていた。

東京にいた頃に一番良く遊びに行ったのは、家から2kmくらい行ったところの玉川上水沿いにあった古い公園だった。もちろん学区からは大きく外れたところである。その公園にはぼろぼろになったアスレチックのようなものがあり、そこでよく遊んでいたのである。玉川上水の周りは道の舗装もなく、木々が良く繁っていたので、ちょっとした冒険感覚を味わえたのである。玉川上水は水位もすっかり下がっていたのだが、親に「ここに飛び込んで死んだ人がいる」と脅かされたものだった。今考えてみると太宰治のことである。

小学校4年の頃神奈川の厚木の方に引っ越したのだが、こちらは東京よりもずっと自然が豊かであった。田舎だっただけである、という説もある。人目につかないところに秘密基地などを作ったりもしたものであった。近所に駄菓子屋などもあり、駄菓子を買って食べたり、かんしゃく玉などのおもちゃを買って遊んだりもした。しかし高学年になってくるとテレビゲームがはやりだし、だんだんと屋外より屋内で遊ぶようになっていった。それでも、ゲームをやるにしても友達の家に遊びに行ったり、逆に遊びにきたりして遊んでいて、一人さみしく遊ぶ、ということはほとんどなかった。

大学で友人と話をしていても、小学生の頃は友達と外に出るなりゲームをするなりして遊んでいた、という人が多い。子供が外で遊ばなくなった、ということが問題化するのは、わたしが小学校を出て少したった頃であったと思う。ちょうど子供を取り巻く状況が激変しつつある頃に育ってきた、ということになる。今の子供たちがこのような遊び方ができないでいるとおもうと、気の毒である。



1997/11/19 38 逆・電話魔 (テーマ:電話)

このタイトルからもわかるように、わたしはほとんど電話をしない人である。電話魔と呼ばれる人の対極に位置している、といえるだろう。

何でもない時にこちらから電話をかける、ということは皆無である。話をすること自体は嫌いではないので、かかってきた時は楽しく話もするのだが、意図的にとらないこともごくたまにある。用事がある時、連絡を取らないといけない時などは仕方がないので電話もかけるが、気が進まなくて延び延びになってしまうこともざらである。

人に電話をかける時、どうも気後れしてしまうのである。特に見ず知らずの相手にかけなければいけない時はその傾向がひどい。電話の前で30分ほど固まっている、ということもある。相手が電話に出た後も緊張しっぱなしである。用事を済ませて電話を切った後しばらくしてから、大事なことを伝え忘れたのに気づく、というのもよくあることである。

なぜ気後れしてしまうのか。一番の理由は電話の相手の邪魔をしてしまうんじゃないか、と考えてしまうことである。また、声だけのコミュニケーションというのにどうもなじめない、ということもあるかもしれない。電話していて会話が途絶えた時に感じる恐怖感はなんとも言えないものである。何時間も電話で話してしまう人などはわたしには信じられない。何回か長電話にトライしたこともあったが、なんだか疲れるので結局あきらめた。

こういう性格のせいなのかどうかは知らないが、わたしに電話がかかってくることはめったにない。一人暮らしをしていた時などは、家に帰ってきて留守番電話にメッセージが入っていると、うれしいよりも何事かと驚いたものだった。もしかしたら、かけてくる方もわたしが相手ということで気後れしているのかもしれない。

4月につくばと実家の二重生活を始めた時に、わたしにいつでも連絡をつけられるように携帯電話を買ったのだが、当然のごとくめったに使用されていない。一番安いコースにしたので通話料の方が高く、自分からかける時は公衆電話からである。かかってくることはまずない上に、バイト中や授業中は電源を切っている。自分にかかってきたことに気づかないこともあった。それなのに車に乗っている時に限って電話がかかってきたりする。まあ、いざという時のため買っただけなので、普段役に立っていないのはそれほど気にしないことにしている。



1997/11/20 39 引っ越しの話 (テーマ:引っ越し)

わたしの父の会社は転勤が多い。だいたい3年に1度くらいのペースで転勤がやってくるようである。会社の人からの転勤の便りもしょっちゅう届く。やっと仕事場になれてきて仕事も軌道に乗った、という時期にもう次の勤務先のことを考えなければいけないのは大変なことだろう。われわれ家族も父の転勤に伴ってたびたび引っ越しをしてきた。

履歴のページにも書いたが、わたしはつごう8回引っ越しをしている。いままで仙台から水沢、東京、厚木、船橋、つくばと東日本の各地を転々としてきた。残念ながらと言うべきなのだろうか、西日本の方にはまだ住んだことがない。ただ親戚が西日本の方に多いので、西の方にはちょくちょく出かけている。ちなみに、わたしが中学に入ってからは父は単身赴任で大阪、大分と出向いている。現在は東京に戻ってきているが、家から通える距離ではないので事務所の近くで一人暮らしである。

引っ越しが職場の変更を意味する父は引っ越しの度大変そうにしていたが、わたしは引っ越しが決まると、新しい家に住むことができ友達もまた増えると脳天気に喜んでいたものだった。それに引っ越しの作業自体も嫌いではなかった。今までの家から出るときに、家にある物をあらいざらいひっくり返して荷物にまとめる、という作業は、大変ではあるがなかなか楽しいものである。さらに新しい家の物の配置などを考え、実際に格納していく、という作業もまたしかりである。もっとも、本当に大変な部分は両親が全てやっていてくれた、ということも一人暮らしをしてからわかったことである。

とはいえ、一人暮らしの引っ越しは気楽なものだった。まず物が少ない。自分のペースでできる。つくばの場合気軽に友人に手伝いを頼むこともできる。しかし生活していくうちに物がどんどん増えていく、というのは楽しくもあり恐ろしいことでもあった。物が充実していって生活もしやすくなるのはいいのだが、引っ越しの時に大変な思いをすることになる。大学の宿舎に入ったときは布団に食器、本やCDとラジカセなどしか持っていかなかったのだが、いろいろな生活必需品などを買い足していき、また実家からいろんな物をたびたび持ってきたので、アパートに出るときは軽トラックと乗用車のトランク1杯ずつでも間に合わないくらいの量になっていた。アパートから実家に戻るときはさらに物が増えていたが、車で実家とアパートを往復して少しずつ物をもって帰ったので、それほど大変ではなかった。

引っ越しの直後は新居に慣れるまで多少落ち着かないと言うことはあるが、生活に一区切り付けられるので気分転換には非常に良い。引っ越し先で新しい知り合いもどんどんできていく。しかしこう何回も引っ越しを繰り返していると、やはりずっと前に住んでいた時期の友達とは疎遠になってしまう。わたし自身人付き合いも淡泊な方であるし、引っ越し先に順応してしまうと前の家が恋しくなるということもなくなってしまう、ということもあるだろう。こういう時に手紙や電話などが必要になってくるのだが・・・。



1997/11/21 40 すぐに酔ってしまう人の話 (テーマ:乗り物酔い)

わたしはとにかく乗り物酔いがひどい。鉄道好きで、車も乗るし、旅行も好きなのに乗り物には弱いのである。特に寝不足だったり、肩こりのひどいときなどはあっという間に酔ってしまう。ひとの車に乗せてもらっているときなどは、心配をかけてありがたくも申し訳ないと思いながら必死で耐えていることもある。

なぜこんなに乗り物酔いがひどいのかはよくわからない。昔は本当に車に乗る旅に酔ったりしていた。とくにひどいのがバスと船に乗っているときであった。小学校の時などはバスで遠足に行ったりしたわけだが、乗り物酔いしないように必ず前の方の席に座らせてもらっていた。それでも酔うときは酔ってしまう。先生や周りの友達に心配をかけたり、バスを緊急停車させたりで迷惑をかけっぱなしであった。

また、船に乗っているときは最悪である。どうやっても揺れから逃げられない。自由に動けるもののどの姿勢をとってもつらい。以前親戚たちと釣り船に乗ったことがあるのだが、海の中に飛び込んでしまいたい、と思うほど苦しい船酔いになってしまった。仕方がないので舷側からもどしたりしていたのだが、そのせいか魚がさっぱり釣れなくなって迷惑をかけてしまった。釣れた魚が料理されてでてくるものも、気分が悪くて食べられない。いま思えばこのような行事にわたしを同行させること自体が間違っていたのだ。

電車に関しては比較的酔わない方であるが、電車の中で本を読む、などという行為はわたしには考えられないことである。移動時間なにもしていないのはもったいないので何度かトライもしたのだが、どうやっても酔わずに本を読むことはできなかった。寝るか音楽を聴くかぼーっとしているしかない。小さいときは新幹線で田舎に帰るときなど漫画を買ってもらって読んだりしていたのだが、読んでる途中で気分が悪くなってトイレに直行、というのがおきまりのパターンだった。親にしてみれば、騒ぐより乗り物酔いでぐったりしてもらっていた方が迷惑がかからなくてよかったのだろう。

車の免許を取ると車酔いしなくなる、という話をよく聞く。しかし、これはわたしに関しては全くあてはまらなかった。さすがに自分で車を運転しているときに酔うことはないが、ひとの車に乗っているときは、以前と全く変わらず酔うときは酔ってしまう。小さいときに比べて乗り物酔いに対する耐性がついた、というのはいえるようだが、乗り物酔いをする、ということ自体は変わらない。きっと一生乗り物酔いに悩まされることになるのであろう。ある程度あきらめはついているのだが、やはりいやなものはいやである。



1997/11/22 41 現金人生 (テーマ:お金)

自分は金の使い方が下手な方だ、と自覚はしている。なにせ気がついたら財布の中身やら貯金やらが減っている。金遣いが荒いのどうか、というとそれは微妙なところである。自分では浪費しているつもりはないのだが、おそらく金の使いどころ、というのを見極めるのが下手なのであろう。

自分の金の使い方を見てみると、当然ながら自分の興味のある分野、種類の物に使う金は割合的には多くを占める。現在であれば本やCD、パソコン関係などである。ただしある程度以上の金額の物になると、購入は慎重になる。以前からオーディオにはこってみたいと思っているのだが、機械が高いので手を出せない。また、必要ではあるが自分の興味が薄いものについては、あまり金をかけないし、節約できるところについてはできるだけ節約しているつもりである。

ちなみに物を買うときは現金一括主義である。クレジットカードなどのたぐいはいっさい持っていない。ローンも組んだことはない。値の張るものでほしい物ができたときは、金をためてから購入するようにしている。貯金を切り崩してでも金を出す価値がある、と思った物に関しては別であるが。金を払っていないのにほしい物がある、という状況がなんとなく気持ち悪いのである。

実は大学入学の時に祖母が多額の金額を振り込んでくれたのだが、最初はできるだけ手をつけないで大学院に行く資金にしようと思っていた。しかし、つくばでアパートに入居するときの資金、パソコン本体とベースの購入、エジプト旅行などで何度か貯金を切り崩していくうちにだいぶ減ってしまった。現在は一生懸命働いてその分を取り戻そうとしているところである。本やCDを買っているのは変わらないので、なかなか回復のペースはあがらないのだが。



1997/11/23 42 結局は消費行為 (テーマ:ギャンブル)

なにをいっているのかというと、ギャンブルのことである。ちまたのギャンブルというのは、賭ける方で考えると絶対にプラスにならないようにできている。競馬の馬券は売り上げ全部が配当として払い戻されるわけではない。パチンコにしてもしかりである。まあ、だからこそギャンブル業界が成り立つわけなのだが。非公式にやる賭けにしても、基本的にはもうかる確率は5分5分である。

そういうわけで、わたしはギャンブルは絶対に儲からないものである、と考えている。以前は賭け事も嫌いではなかったのだが、そのことに気づいてから興味がなくなってしまった。もっとも、ギャンブルでもうけたことがない、ということも影響があるかもしれない。いつ頃からそうなったのかは秘密にしておく。

パチンコなど、ギャンブルそのものであるゲームはあまり好きではないのだが、競馬や麻雀などはギャンブルが入らなければ好きである。競馬が好きだと人にいうと、金を賭ける話しか返ってこないことも多いので、あまり競馬の話は人にしないようにしている。馬の名前よりも馬番が先に出てくるような人とは話が合わないのである。また、大学の友人などと麻雀をする場合は、「金がかからないと緊張感がゆるむ」などといって賭けを強要されるのだが、わたしは逆に金がかかるとゲームに集中できなくて面白くない、と考えてしまう。

ギャンブルをしなくなったのにはもう一つ理由がある。親の金で賭け事をするのは申し訳ない、と思ったのである。特に一人暮らしを始めてからは親の仕送りがありがたくて、ギャンブルに使い込むなどということは考えられなくなった。アルバイトをして自分で金を稼ぐようになったら賭けてもいいかな、と最初は思ったのだが、実際稼いでからは賭けられなくなった。苦労して稼いだ金をギャンブルなどに消費したらもったいないではないか。



1997/11/24 43 かわいいと思うこともあるのだが (テーマ:動物)

考えてみると、いままで動物にはほとんど縁のない生活を送ってきた。もちろん動物と全く接触がなかったわけではないが、家で犬や猫などを飼う、ということがなかったのである。ずっと社宅住まい、その後も動物禁止のマンションであるし、仮に飼いたいと思っても無理であったのだ。父はなにか動物を飼いたいと思っていたらしいが、こういう理由のためにかなわず、せいぜい金魚止まりだった。

おかげでわたしは動物の扱いというものにはまったく慣れていない。大学の宿舎界隈では、動物好きな人々に半分飼われている状態の猫がうろうろしていたのだが、わたしはそういった猫には見向きもしなかった。猫の方も自分に興味のない人間を見分ける目はあるらしく、あまりわたしに寄ってくるのもいなかったのだが、部屋にいてたまに鳴きながら寄ってくる猫などがいると反応に困ってしまう。あしらうことすらできないのわけである。

犬にしても同様である。親戚の家に遊びに行くと、そこで飼っている犬の相手をみんなでしたりするのだが、わたしはどう相手をしていいのかわからない。散歩に連れて行くにしても、せいぜいロープを持ってやる程度のことしかできない。結局はいとこや妹が犬と遊んでいるのを眺めているだけ、ということになってしまう。妹はわりと動物の扱いはうまいようにわたしには見える。同じ環境で育ってきたはずなのに、不思議なものだ。

動物の扱いがうまい人には、一種尊敬の念のようなものを抱いてしまう。その人に対する動物の態度などにも、その人の人柄が反映されるということは経験則でわかっている。ただ、単にかわいいからといって、野良猫をかわいがったりえさをやったりするのはどうかと思う。えさをやるだけでは面倒を見るうちに入らない。世話の面倒な部分を放棄しているという意味では、無責任とも言えるだろう。友人が自分のアパートの周りの猫にえさをやったりしている話を聞くたびにそう思ってしまうのだが、ほとんど動物にふれることのなかったわたしにそんなことを語る資格もないだろうと思い、何もいわないでいるのが常である。



1997/11/25 44 受験の話ではありません (テーマ:すべる)

よく考えたらこの言葉はこの時期にはまずかったかもしれない。まあ、こんなページを見ている暇のある受験生のことなどに気をかけている必要はないのだろうが。というわけで、今日の話はすべるといっても受験ではなくてウインタースポーツである。

わたしは生まれは仙台で、3才までは岩手の水沢というところで過ごしてきた。冬には雪が積もって解けない地域である。しかしそのころの記憶はほとんどないし、3才でスキーなどできるはずがない。その後東京に引っ越してしまい、雪に触れる機会はほとんどなくなってしまった。そのせいかウインタースポーツにはほとんど縁がない。

スケートの方は小学校のときに近所のリンクにすべりに行ったりしていた。確か学校でも1度富士の方にすべりに行っている。最初のうちは当然満足にすべれなかったので、とりあえずすべれるようになるまでは一生懸命で、それなりに楽しかったが、ある程度滑れるようになると急速に飽きてしまった。すべる以外に目的がなかったからであろう。

スキーの方は、実は見ていても楽しそうだとは思えなかった。スキー競技の方はいろいろ種目や制約があって面白いが、一般的なスキーについては、あんな重装備でただスキーで斜面をすべりおりて行くだけで何が楽しいのだろう、と思ってしまっていた。そのためサークルでスキーに行くのに誘われても絶対に参加しなかった。

そんなわたしも去年の3月、ついにスキーを体験することになる。合宿で会津に行ったときのことであった。音楽サークルの練習合宿だったはずなのだが、フタを開けてみると単なるスキー合宿。だまされたと思いつつ、仕方なくみんなと一緒にゲレンデに行った。最初にすべり方と曲がり方と止まり方を教えてもらったのだが、わたしがある程度できるようになると皆どこかに行ってしまった。しばらく一人ですべっていると、戻ってきて中級コースへ行こうという。ゲレンデでひとりぼっちでいると寂しいことが身にしみてわかったところなので、おとなしくついていくと、そこにはとんでもない急斜面(に見えた)。怖くてまともに滑れず、ほとんどころがりながら一番下まで到達した。彼らがわたしに二度とスキーに行く気にさせないために考えてやったとしたら、それは大成功であった。

最近やっとわかったのだが、レジャーで行くスポーツというのは、必ずしもスポーツ自体が目的ではないのである。海に行くにしても山に行くにしても、ひとと行く(現地調達する人もいるが)から楽しいのだ。スケートやスキーにしても、そのことが言えるのだろう。しかし、スケートの方はともかくとして、スキーの方はあんなに金をかけてまでやろうとはやはり思わない。その金で沖縄にでも行った方がずっと面白そうだ。



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