日替わりげしょ定食

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1997/10/13 1 ホームページの作成 (テーマ:ホームページ)

巷ではインターネットをよく利用する人はみな自分のホームページを持っている、と思っているふしがある。わたしも「ホームページはないのか」と聞かれることがたまにある。ところわたしはIRC普及委員会のページこそ作成したものの、自分個人のページは持っていなかった。わたし個人の名で発信したいと思う情報がなかったからである。イスラム関係やアラビア語関係のページを作りたいとは思っているが、勉強不足のわたしには手に余る。

ではなぜ今更自分のホームページを作ろうとしたのか。理由はいくつかある。一つはHTMLの練習をしたかったこと。いざ自分のページを作る必要性が出てきた時にタグを覚えていると便利である。もう一つは文章を書く練習をしたかったこと。最近文章を書く機会がめっきり減って、自分の文章力の低下に危機感を覚えるほどになってしまったのである。そこでこの日替わりエッセイを書いてみることにした。読む人がいようがいまいが可能な限りつづけていくつもりである。

もう1つの理由は、自分が思う理想的な個人ページのあり方、というのを探ってみたくなった、ということである。とりあえずわたしは「内容で勝負、見てくれは必要最低限な程度に工夫する」というコンセプトで自分のサイトを作成しようと思っている。もっとも、その内容がこのエッセイしかない程度ではだめなのだろうが。

とりあえず、ひととおりのページの内容が整うまでは、デザインをいじるつもりはない。わたしはホームページ作成についてはまだ初心者に過ぎない。IRC普及委員会の方と違ってこちらは急ぐ必要はないので、このサイトは時間をかけてこつこつと作っていこうと思っている。



1997/10/14 2 時計のおはなし (テーマ:時計)

実はわたしは腕時計というものが苦手である。腕につけている時にとてもうっとおしく感じてしまうのである。高校生の頃持っていた腕時計はバンドがゴム製で、その装着感は最悪だった。そのうち腕時計はポケットに入れて持ち歩くようになってしまった。そこでほしいと思い始めたのが懐中時計である。懐中時計なら腕にしなくてもいいし、ポケットに入れてもあまり邪魔にならず、また持っている人があまりいないので周りの人の意表を突くことができる。

最初に懐中時計を持ったのは予備校時代であった。予備校の近くのパルコで3800円で売られているのを、1週間ほど迷った末に購入したのであった。今なら駅のコンコースで売られているような代物である。買ってしばらくして蓋が壊れてしまったが、邪魔に思っていたところだったのでかえって好都合だった。大学に入って一人暮らしを始めてすぐに、ズボンと一緒に洗濯されてしまった時計はあえなくお亡くなりになった。次にジャスコで買った懐中時計はすぐに動かなくなってしまった。

そしてしばらく時計のない生活を送った。学住接近でアルバイトもしていなかったので、なくても困らなかったのである。しかし2年生になってアルバイトも始め、頻繁に都内に出かけるようになると、さすがに時計無しだとつらくなってきた。お金もあるし、もうそこそこいい時計を持ってもいい年である。そこである週末、アルバイトでたまった5万円を持って、都内へと時計購入ツアーに一人で出かけたのであった。

しかしちゃんと時計を売っている店というのをわたしはよく知らなかった。結果的にヨドバシカメラやさくらやなどの高級感のない店しか回れない結果となった。こうした店はスペースも狭く、売れ線商品が中心においてあるので、当然いいデザインの懐中時計もない。あきらめて何も買わずに帰ろうとして振り向いたそこに、その時計はあった。

飾り気のないシンプルなデザインも好みであったのだが、なんといってもわたしの気をひいたのはバックライト付き、生活防水5気圧という、懐中時計とは思えないようなぶっとんだ仕様。思わず手にとって眺めてしまった。値段は予算を大幅に下回る6000円。30分ほど迷って結局購入することにしたのだった。

その時計が現在使っているものである。今ではとても気に入っているので、大事にながく使いたいと思っている。



1997/10/15 3 秋の夜長は… (テーマ:読書)

「秋」という言葉にはさまざまな枕詞がつく。食欲の秋、スポーツの秋、読書の秋…などなど。秋は気候もいいし、それだけ人々が活動的になる、ということなのだろう。だからこそ、隣の人が何をしているか気になったりする人も出てくるのである。

かといって秋の夜長をスポーツや食事をして過ごすわけにはいかない。夕方5時台には暗くなって、朝は6時を過ぎないと太陽が昇ってこない時期である。倒れるか太るか、たくましくなってしまうかがオチであろう。やはりここは読書、音楽鑑賞などの文化的な活動に励むのが良いであろう。わたしも読みたい本はいっぱいあるので、この時期に本をどんどん読んでしまおうと思っていた。

ところがである。

秋になってからわたしは非常に忙しくなってしまった。秋の夜長でなくても夜が長いわたしなのだが、夜中は魅惑のテレホーダイ時間。チャットやらソフトのダウンロードやらで忙しくなってしまう。そうした作業なら本を読みながらやってもいいのだが、最近始めてしまったホームページ作成をしながらはどうもつらい。さらに、最近はアラビア語(某大でもぐって受けている)の予習に時間がかかり、また平日は毎朝6時とか7時に起きないといけないので、あまり夜更かしはできない。乗り物酔いをするたちなので電車の中で読むこともできない。もはや授業中くらいしか本を読む時間がない。しかしこれでは秋の夜長とは全く関係がなくなってしまう上、じっくりと読むこともできない。

これは困った問題である。わたし自身の読みたい本がたくさんあるだけでなく、大学の先生に読んでおけといわれた本も消化しきれないのが現状である。秋の気持ちの良い気候と秋の夜長。この二つの恩恵にはわたしはあまりあずかれそうにない。



1997/10/16 4 わたしの通勤・通学事情 (テーマ:通勤・通学)

わたしの1週間はめまぐるしいものである。月・火曜日は午前中は東京の某大学で(もぐりの)授業、午後は新宿でアルバイト、水曜日は一日アルバイト、木・金曜日はつくばの某大学で講義を受ける(こちらは正規)。土曜日はなんだかんだで結局どこかへ出かけることが多い。

ただ通う場所が多いというのならいいのだが、1週間で通う場所がこれだけ定着しているのだが、それぞれの場所に通う日数が少ないため、定期券が使えないという困った状況になっているのである。おかげで現在5種類の回数券をもって歩くはめになっている。家の最寄りの駅からJRの駅まで、その駅から新宿までと、某大学まで(営団地下鉄に乗り継ぎなので2種類)、某大学から新宿までの5種類である。同じJRの回数券が3種類あるので、紛らわしいことこの上ない。なくしたり忘れたりしたくないのですべての切符を財布に入れていて、これがまたかさばる。どうにかならないものかと、現在思案中である。

つくばの方には車で通っている。といっても親の車を借りて使っている状態である。船橋の我が家からつくばまで、所要時間は平均1時間半くらいである。夜の道がすいているときはもっと早い。ところが朝のラッシュ時はとんでもなく時間がかかる。この間などは朝の7時に家を出て、教室にたどり着いたのが9時15分だった。ちなみに1限目の開始時間は8時40分である。ちなみに今朝は6時45分頃に家を出て8時45分に到着した。まあ、1限目の科目を履修してラッシュ時に移動するわたしにも責任の一端はあるが、それにしてもなんとかならないだろうか。

こんな状態だから疲れがたまってしょうがない。というわけで日曜日は一日中ごろごろしているのだった。本当は某大学で受けている語学の授業の予習をしないといけないのだが。



1997/10/17 5 ショートケーキ怖い (テーマ:甘い物)

「まんじゅう怖い」のたぐいの話ではない。本当に苦手なのである。

基本的に食べ物の好き嫌いというのはないのだが、甘いものはあまり好んで食べる方ではない。といっても甘いものがすべて苦手なわけではない。牛乳や卵、バニラエッセンスなどが入っている系統の「甘ったるい」食べ物が苦手なのである。具体的にはショートケーキ、ビスケット、プリンなどといえばわかっていただけるだろうか。

ところがなぜか私の周りは男女ともに甘党の人が多い。みんなと雑談しているときにお菓子の話などになったら、話についていけなくなってしまって寂しい思いをすることがある。そのまま食べにいってしまったりしまうようなこともあり、そのようなときはわたしは物理的についていけなくなってしまうのだった。

もっとも、そういった「甘ったるい」系の食べ物を全く受け付けないわけではない。量が少なければ食べることができる。また、甘ったるいものでも安物でない上品なものならおいしいと感じられる。甘いものについてわたしが「食える」といったらそれは最大級の褒め言葉である。といっても量的限界はやはり低い。いくらおいしいケーキでも2個が限界である。おそらくケーキバイキングなどは一生行くことはないであろう。

ただし、甘いものの一部は好きな食べ物の部類に入る。チョコレート系の食べ物であるケーキもチョコレートケーキなら食べる。チーズケーキも嫌いではない。だいたいの果物も好きな方になる。つまり、単に甘いだけでなければ、わりと好きな方になるのである。このへんが複雑なところである。

ちなみに、辛いものが得意かといえば、そうでもない。好きではあるが得意ではないのである。そこそこ辛いものなら好きなのでよく食べるが、激辛系の食べ物になると、こちらは本当に受け付けない。ちなみにわたしが一人暮らしだったころの得意料理は麻婆豆腐だったのだが、唐辛子を入れすぎて自爆してしまったこともあった。

とまあ、わたしの食べ物の好みについて書けることはこのくらいである。もっとも、基本的には食べ物の好き嫌いはないのは、先に述べたとおりであるので、食事に行くときに場所や内容についてわがままを言うことはあまりない。ただし、ケーキ責めだけは本当に耐えられないことだろう。



1997/10/18 6 オフのはなし (テーマ:オフ会)

オフ、あるいはオフ会、オフミという人もいる。チャットやMLに参加している人ならよく聞く言葉であろう。これはネット上でよく会う人々同士で、実際に集まって遊んだり飲んだりすることを指すものである。ネット上で、つまりオンラインで会うことに対して、ネットを介さずに、つまりオフラインで会うことから来た言葉らしい。おもに大勢で会うことを指し、なぜか2〜3人で会うときはこの言葉は使わない。

わたしはこのオフ会に好んで参加している。別にオフがあったら参加しないといけない、という義務感があるわけではない。まあ要するにみんなで騒ぐのが好きなのである。また、ネット上で顔を合わせる(?)人々の顔を実際に見てみたい、というのもある。もちろんわたしが主に参加するのは東京近辺で開かれるオフであるが、大阪や名古屋でのオフにも参加したことがある。今年の正月は何も予定がなかったので、誘われた大阪・名古屋のオフにはしごで参加したが、夜行で行って夜行で帰ってきたらそのままぶっ倒れてしまった。これほど消耗するとは思わなかったのである。おそらく2度とこんなことはやらないだろう。

オフを開くに当たって難しいのは、集合場所である。よく顔を合わせる人々なら何も問題はないが、そのオフで初めて顔を合わせる、などという人もいる。下手な場所を指定すると、人だらけでどこに集まっているかわからなくなったり、場所自体にたどり着けなくて合流できない、ということもある。わたし自身、合流に失敗してオフの参加者に多大な迷惑をかけたことがある。最近は携帯電話やPHSが普及したおかげで、あまりこういうことはなくなってきたようである。オフの連絡の際は携帯の番号を教えあうことが慣例になっている。

実際に何をするか、内容は多岐に及ぶが、一番多いのはやはり飲みとカラオケだろうか。ボウリングをすることも多い。夏は花火オフ、というのも開かれることがある。大勢でバーベキューなどをやってしまうようなオフもある。普段ネット上でチャットをしたりメールをやりとりしたりするということは、それなりに気が合う同士である、ということであり、オフに行ってつまらない思いをするということはまずない。チャットではおおっぴらに話せない裏話も聞けることがある。

そんなわけでわたしはオフに結構顔を出しているのだが、これはネットにはまりすぎている証拠なのだろうか? それとも、ネットから現実世界に生活を戻しつつあるというしるしなのだろうか? 判断に苦しむところである。大学の知り合いの方はわたしが週2日しかつくばにいないので、ある程度つきあいが希薄になってしまうのは避けられないが、それでも顔を合わせれば話はするし、別にそれが煩わしいと感じることもない。わたしは単にコミュニケーションに飢えているだけなのかもしれないが、はっきりしたことは自分でもよくわからない。

今日も夕方からオフに参加することになっている。今日のオフはIRCのあるチャンネルの集まりである。初めて顔を見る人も多いので、楽しみである。



1997/10/19 7 音楽の話だ! (テーマ:音楽)

ジャズ・フュージョン関係が好きなジャンルであることは別のページに書いた。歌モノはあまり好きではないのである。いつも音楽はBGMとして聴く方なので、日本語が一緒に耳に入ってくるとうっとうしいのである。海外の歌は言語として聞こえないのであまり問題はない。ジャズ・ヴォーカルなどは、歌詞を抜きにしても歌い方がすばらしかったりするので、逆に好みの方である。

昔ジャズ、フュージョンのような音楽を知らなかった頃は、ゲームミュージックばかり聴いていた。高校の時演劇部で音響をやっていて、効果音楽も最初はゲームミュージックを使っていたがそれではだんだんカバーできなくなり、友人にT-Squareを紹介してもらったのだった。これがフュージョン・ミュージックをそれと意識して聞いた最初であった。それからT-Squareやカシオペア、JIMSAKUやチキンシャックなどフュージョンばかり聴いていた。

ジャズを聴きだしたのは大学に入ってからである。大学のジャズ愛好会(なぜか略称はジャズ研である)では備品でウッドベースがあり、自分で楽器を持っていなくてもジャズ研に入ればウッドベースにさわることができたが、顧問の先生の意向でフュージョンは御法度であった。フュージョンをやるサークルは別にあるのだが、ジャズ研ではそこと掛け持ちすることも許されなかった。ちなみに明和電機の副社長はうちの大学のジャズ研に在籍していて、あやしいことばかりやっていて破門された、という話を聞いたことがある。そういう訳で、わたしは大学に入ってからは(聴く音楽は別として)ジャズ1本に絞ることにしたのだった。

最近はゲームをしないので、ゲームミュージックはほとんど聴かなくなってしまった。フュージョンも海外のものを聴くことが多くなった。ジャズは一時期のフリージャズ熱が冷めつつある状態である。

こういった音楽の好みだと困ることが一つある。カラオケに行っても周りについていけないのである。無理についていくのはあきらめて自分が知っている歌を歌ったりすると、今度は周りがついてこれなくなったりもする。しかたがないので、カラオケにみんなで行ったときはいつもうけねらい路線で選曲をしている。これもうければいいが、はずして白けたときにフォローの手段がないのが困りものである。かといってカラオケに行かないとつきあいが悪い、といわれることになる。どうにかならないものだろうか。



1997/10/20 8 低音だ! (テーマ:ベース)

昔から音楽を聴く時はなぜかベースラインばかりを気にしていた。前はコンピュータで曲を打ち込んだりしていたが、その時も一番気を配るのはベースのパートであった。どうやら物心ついた時から低音部に興味があったらしい。小さい頃エレクトーンを習っていたのだが、そのときもベースペダルで遊んでばかりだったような記憶がある。

楽器のベースを初めてひいたのは1浪の時であった。ベースはほしいとずっと思っていたのだが、ある日ふと立ち寄った楽器屋で2万円で売っていたエレキベースを半分衝動買いで購入したのだった。しかし2万円のベースだけに、ひきやすさも音もやはり2万円相当であった(当時はそんな事は分からなかったのだが)。受験勉強もあったし、一緒にバンドなどをやる仲間がいるわけでもなかったので、次第にベースは置物と化してしまった。

再び楽器に触れたのはやはり大学に入ってからだった。さわったのはもちろんジャズ研の備品のウッドベースである。ところがこれはエレキベースとはまるで勝手の違う代物であった。まず大きさが尋常ではない。わたしの身長よりもでかい。弦が太くてテンションが強いので、5分ほどひくと指に豆ができる。弦を押さえる左手がすぐつりそうになってしまう。

まあ、それでも学園祭の頃には1時間のライブもこなせる程度にはひけるようになった。夏休みにアルバイトで金を貯めて新しいベースも買った。一番低い弦の一本下にさらに低い弦を足してある、5弦のエレキベースである。値段は6万5千円。このベースは例の2万円ベースよりもはるかにひきやすいものであった。ボディが紫なのでステージではちょっと恥ずかしい思いをするが、まあそれなりに気に入っているので今でも使っている。

しかしエレキベースではウッドベースの練習にはならない。というわけでウッドベースのようにひける小ぶりなベースを去年購入した。ただし弦の長さはウッドベースと同じなので、持ち運びにはそれなりに苦労する。また、やはりウッドベースとはひいた感じや音が違ったりするので、練習用として使うまでが限界である。ちなみにこのベースは12万円したが、このタイプのベースとしては安物である。「同じ値段のウッドベース買ったほうがよかったんじゃないか」と先輩に言われたりもしたが、スペースの点から考えてもこれを買うしかなかったのである。

とりあえずこの2本のベース(2万円のは知り合いに売ってしまった)とジャズ研のベースで現在までがんばってきた。ところがこの間、新大久保の楽器屋でなかなか気をひかれるベースを見つけてしまった。細かいことは省略するが、値段は13万円。ベースの腕前はちっとも上達しないのに、だんだんほしいものの金額が上がってきていて恐ろしい今日この頃である。



1997/10/21 9 My Favorite Musicians

わたしがよく聴く音楽はジャズ・フュージョンである。したがって好みのミュージシャンもジャズ・フュージョン方面にかたよっている。といってもこのジャンルにそれほど詳しいわけではないので、好みのミュージシャンも時期によって変わっていったりする。とりあえず現在いち押しのミュージシャンを紹介してみることにする。

とりあえず万人にすすめられると思われるのが、パット・メセニーである。彼はギタリストなのだが、ジャズ、フュージョン方面で幅広く活躍している。特にお勧めなのがパット・メセニー・グループで出しているアルバムで、聴いていて心が安らぐような曲がそろっている。ちょっと聞いただけだと、最近巷で流行しているα波音楽に似ていると思われるかもしれないが、聴けば聴くほど味が出てくる、という側面も持っているように思う。

さらに、一人でベースの世界を変えてしまった人物、ジャコ・パストリアスもおすすめである。とんでもないテクニックでベースをひきまくるお方なのだが、その作曲のセンスもなかなかたいした物である。若すぎる死が本当に惜しまれる。彼が在籍していたバンド、ウェザー・リポートのアルバムも非常に聴きやすくておすすめである。

そして、忘れてはならないのが、ジャズ界の帝王、トランペッターのマイルス・デイヴィスであろう。彼の音楽活動は自身の死まで40年以上にわたっており、その時期によってスタイルはまったく違うのだが、どの時期のものを聴いてもはずれはないところが、帝王と呼ばれるゆえんであろう。わたしはジャズ研に入ったばかりの頃は、初期〜中期のいかにも「ジャズ」といった感じの作品をよく聴いていたが、最近は後期のフュージョン系のものをわりと聴いていたりする。

有名ではないが個人的に好みなのが、アンディ・ナレルというミュージシャンである。彼はスティールドラムというドラム缶をへこませて作った楽器を操る人である。音楽はラテン系のフュージョン、といった感じだろうか。彼のアルバムは輸入版以外では見たことがない。

ほかにも好みのミュージシャンはたくさんいるが、羅列するときりがないのでやめておこう。リンク集に載せたミュージシャンは、好みでありお勧めの部類に入るものなので(英語のサイトも多いが)、良かったらご覧いただきたい。



1997/10/22 10 IRC普及委員長のジレンマ (テーマ:IRC普及委員会)

というわけでチャットの話である。

わたしのインターネット歴はチャットから始まったといっても過言ではない。たしかに学校で最初に教わったインターネットサービスはメールとニュースであった。しかし、その次にIRCを教わらなければ、今までインターネットを利用しつづけることはなかったかもしれない。少なくとも現在ほどの利用時間の長さにはならなかったであろう。

しかし我ながらこんなものにはまるとは思わなかった。一時期は狂ったようにチャットしていた。パソコンとモデムまで買ってしまったほどである。まあ、おかげで友人や知り合いは飛躍的に増えた。情報を仕入れる範囲も広まった。夜更かしが多くなったが、それよりもコミュニケーションの幅が広まったし、勉強することも多くて得るものは多かった。と思いたい。ちなみに現在のバイト先は、IRCで知り合った人に紹介してもらったところである。

そのままIRC好きがこうじてIRC普及委員会などというサイトまで作ってしまった。酒を飲みながらIRCをしていて、勢いだけで企画してしまったこのページだが、周りの人の助けもあって今のような人気サイトとなってしまった。これもネット上で助けてくれた皆さんのおかげである。

ところがである。わたしのサイトがどれだけ貢献しているかは知らないが、ここ半年くらいでIRCに参加する人数が激増した。それ自体は喜ばしいことだとは思うが、今度はIRCのシステムが激増したユーザーの数に対応できなくなってしまったのである。特に夜中の11時以降は、とてつもなくサーバにつながりにくい状態が続いている。たまにWWWのチャットに参加してIRCの宣伝(布教、という説もある)をするのだが、サーバにつながらないので来てくれないことが多い。あまりのつながりにくさに「もうこれ以上普及させないでくれ」とIRC上でいわれたこともある。わたしは一介のユーザに過ぎないのでもうどうにもならない、というのが正直なところである。



1997/10/23 11 ものかきなわたし 高校編 (テーマ:文章書き)

わたしが学校の課題以外で何らかの文章を書くようになったのは、高校生の時が初めてだったと思う。友達が小説をいろいろ貸してくれるので、それを読んでいた影響であろう。読んだ本や友達と遊んだゲームを元にして、小説を書いたりしていた。その友達というのがファンタジー好きだったので、読むのも書くのもファンタジーだった。いちおう完結したものもあるが、とても人には見せられない。まるっきり内輪受けだし、第一自分が読んでもつまらない程度のものである。

で、そのつまらない小説をいつ書いていたかというと、授業中である。家に帰った後はゲームをしたり本を読んだりしていたのである。今思うとまじめに勉強していた方がためになったかもしれない。結局高校卒業後は、なんとなく熱が冷めて書くのはやめてしまった。

書いていたのは小説だけではなかった。高校時代演劇部であったことはどこかで書いたと思うが、その演劇部には部誌というものがあって、部員が自由に何でも書き込めるようになっていた。そこでほかの部員数人と競って書き込みをしまくっていたのである。内容は全く雑多である。「とにかく書かなければいけない」という変な使命感があったので、まったく内容がなかったり、馬鹿馬鹿しい内容の文章などもあった。部員の一部からは「おもしろい」と好評であったが、あっというまにノートが尽きてしまって会計の人には迷惑だったかもしれない。

軽い文体の文章はあの頃以来書いていない。このエッセイを自分で読み返してみたら、文章が硬いことこの上ない。浪人時代に書いた小論文や、大学のレポートのせいだろうか。あしたは高校時代に部誌に書いていたような文章でも書いてみることにしよう。



1997/10/24 12 回転寿司の謎 (テーマ:回転寿司)

今回は「回転寿司」という単語の謎について論じてみたいと思う。

なぜ回転寿司は回転寿司というのだろうか。回転寿司屋という人もいる。これではすしが回転しているのか寿司屋が回転しているのかわからない。「あいまいな日本の私」と一緒である。寿司屋がするのは回転ではなくて開店であろう。意図してやっているのなら文句はないが、ひととおりの解釈しかできないような名称にするべきである。「提供する寿司が回転している店」このくらいが妥当だろうか。

「回転」という用語も微妙に変である。「回転」という言葉を聞いて、コンベアの上に乗った物体がまわっている状況を想像できるだろうか?どっちかというと、「回転」という単語で想像するのは、やはり物体がその場でくるくる回っている状況であろう。つまり、「回転寿司」というのは、皿に載った寿司がその場でくるくる回っている、というものを指すのである。これも実状にあった名称にするべきである。ちゃんと「廻り寿司」という言葉があるのに、なぜこちらを使わないのだろうか?

それでも「回転寿司」という言葉は使われ続けるであろう。「回転寿司」といって、あの廻り寿司屋のイメージを思い浮かべる人が増加してきたかのように思われるのである。この用法が一般的になれば、「回転」という言葉に「めぐる、巡回する」といったような意味が加わるようになるかもしれない。日本語というのはこうして変わっていくのだろうか。広辞苑の「回転」という言葉の項に新しい意味が追加される日は近い。

以前は一人暮らしだったし、いまもつくばや新宿などをうろうろすることが多いので、わたしは結構頻繁に外食をしている。もっとも、回転寿司は数えるほどしか行ったことはない。といっても、用語の使い方に不満があるわけではない。もちろん廻り寿司屋の方には行っている、とかそういうことでもない。名前を変えたら行ってやろう、ということでもない。単に食事に金をかけないから行かないだけである。まったくの第三者なのに、インターネット上でこんなことを書いていいのだろうか?



1997/10/25 13 昔は野球ファンだった (テーマ:プロ野球)

最近は本当に野球を見なくなってしまった。昔に比べて興味のあるスポーツが増えたし、テレビを見る暇がない、というのもあるが、見たい試合がなかなか中継されない、というのが最大の原因かもしれない。試合を見ないので選手たちについての知識もだんだん減っていってしまう。詳しくないのでスポーツニュースなどで結果だけを見てもあまり面白くない。

ここまで書けば、わたしが有力チームのファンではないことはわかるだろう。何をかくそう、小学生時代、初めてプロ野球を見た頃のわたしは阪神ファンであった。そう、あの日本一達成の頃である。あのころの阪神は本当に強かった。ところが、知らないうちに興味は広島カープに移っていた。阪神が弱くなった(阪神ファンの方々ごめんなさい)というのもあるが、父親が広島ファンで、家で見る野球中継はそのほとんどが広島戦だったからである。今でもセリーグで一番好きなチームは広島である。地味な実力派、というところにひかれるのである。

清原や野茂など、有名選手がパリーグに続々入団するようになって、パリーグもだんだんとテレビ中継されるようなり、パリーグのチームや試合にも興味が向くようになってきた。最初は近鉄が好きであったのだが、ロッテが千葉に来てからはなんとなくロッテを応援するようになった。ロッテは数多くの大選手を出しているのにあの成績という、ある意味ですごいチームである。試合自体は全然見ない(中継されないからである)ので、勝った負けたくらいの情報しか知らないのだが、それでもロッテが勝つとなんとなくうれしい。そういえば今年の新人王はロッテからでたそうである。めでたいことだ。

それにしても、最近はテレビで中継されるチームの偏りが激しくなっているような気がしてならない。今年などはセリーグの首位争いが放送されないのに5位争いの試合は中継される、などということもあった。それでいて優勝決定の瞬間だけ流したりする。そんないい加減な中継に番組をつぶされた出演者が怒るのも無理はない。こういった状況も、プロ野球を見なくなった理由の一つかもしれない。

野球を見ること自体はいまだに嫌いではない。しかし、今は「好きなスポーツは野球である」と言えるほど熱心なファンではなくなってしまった。



1997/10/26 14 当たるも八卦 当たらぬも八卦 (テーマ:占い)

占いの信じ方というのも人それぞれである。すべての結果を真に受けてしまう人、都合のいい部分だけ信じる人、逆に都合の悪い部分だけ信じてしまう人、いい結果が出ると反対の結果が出たと見なす人、などなど。

わたしをよく知っている人は、わたしは占いのたぐいは全く信じない人だ、と思うことだろう。もうちょっと深読みして、占いに興味のないふりをして実は占いマニアである、などと考える人もいるかもしれない。これだけ占いが流行っているのだから、多少は利用させてもらおう、というのがわたしの実際の態度である。

雑誌や新聞、テレビでやっているような占いは、あたりさわりのないことを言っていることが多い。この中で今日のアドバイス、みたいなものが載っていることがある。これがまたあたりさわりがなくておもしろい。「お金の使いすぎに注意しましょう」これはその日に限ったことではないだろう。「アルコールには注意」これも普段からのことである。「出会いのチャンス」こんなものはその気になればいつでも見つけられるものであろう。

わたしはこういったものを逆に利用させてもらっているのである。ふだん意識していないようなこういったものを、行動の目安にしてしまうのである。「なくしたものが見つかるかも」これで何をなくしたか思い出せる。「読書がGood」これで忙しい中でも本を読む時間を割く気になれる。と、こういった具合である。毎日占いを見ているわけではないので、いつもこうしているわけではないが、機会がある度に気をつけていると生活にメリハリのようなものが出てくるような気がしてきて良い。

実際に誰かに運勢を占ってもらう、ということは滅多にしない。昨日はうちの隣の大学の学園祭に出向いて、知人にタロット占いをしてもらった(タロットで占ってもらったのは初めてだったかもしれない)。むこうは相手が知り合いだ、ということで緊張してしまっていた。ちょっと悪いことをしてしまったかもしれない。占いの結果は悪くなかったが、それよりも現状を言い当てられているようなカードが多くてちょっと驚いてしまった。占いの世界は奥が深い。はまってしまう人がいるわけである。



1997/10/27 15 過去の趣味シリーズその1 ラジコン (テーマ:ラジコン)

この間部屋の整理をしていたら、昔買ったラジコンカーを発見して非常に懐かしい気分になった。おもちゃのラジコンではなくて、わりと本格的なやつである。小学校〜中学時代、ちょうどラジコンがブームだった頃に、わたしもそのブームに乗ってラジコンで遊んでいたのだった。

最初にラジコンを買うまでは、ミニ四駆(初期バージョンの何もついていないやつである)で遊んでいた。当時のミニ四駆はラジコンカーで販売されているもののミニモデルのようなものだったので、ラジコンの代わりに買って我慢していたのである。最初に手に入れたラジコンは小6の時に自分の貯金をおろして買ったもので、タムテックという小型のオンロードカーであった。それでも2万円くらいしたのだから、やはり高い買い物であった。しかし、周りの友達はみなオフロードカーを持っていたので、一緒にレースができず寂しい思いをしたものであった。

次に買ったのは標準的な大きさのラジコンで、今度こそオフロード、しかも四駆のものであった。中学時代に手に入れたのだが、これは結構高かった。どこから金が出たかはすでに覚えていない。細かい話は省くが、とにかく、このマシンにはかなり投資をした。近所に模型屋があって、そこにラジコンカーのパーツがいろいろ売られていたのである。高いパーツも結構買っており、性能的にはかなり良くなったと思われるが、いかんせん操縦者の腕の方がついてこず、コースで走っても周回するだけで精一杯であった。

現在はラジコンブームもすっかり下火になってしまい、最初ラジコンのミニチュア版としてスタートしたミニ四駆のほうが逆に大ブームになっている。一緒に走らせる仲間もいなくなり、コースもちょうどいいのがなくなってしまい、なによりもメンテナンスが面倒くさくなってきてしまったので、大量に投資したマシンも押し入れの中に眠ってしまうこととなった。もう一度走らせようとしたらどのくらい苦労するかということを考えると、もはやいじる気にもなれない。しかし捨てるのももったいない。困ったものである。



1997/10/28 16 過去の趣味シリーズその2 鉄道

まあ、趣味というほどでもないかもしれないが、鉄道に関しては知識は割と豊富な方である。幼稚園の頃は大きくなったら電車の運転手になりたい、と思っていて、電車に乗ったときは必ず運転席のすぐ後ろに陣取っていた。子供向けの鉄道関係の本もたくさん持っていた。

ここまでならほかの普通の子供と変わらない。ちがうのは子供向けでない本まで持っていたことである。文章のわからないところは親に読んでもらっていた。小学校に入ってからは自力で読んで、逆に漢字を覚えるのに活用したりしていた。そんなこんなで鉄道に関する知識は、小学生のくせにやたらとあった時期があったのである。

鉄道模型などにはあまり興味はなかったが、鉄道のおもちゃは大量に持っていた。たしかミニミニレールとかいう名前だったと思う。おもちゃのわりにはリアルであったのを覚えているが、しょせんはおもちゃである。年齢があがるにしたがって物足りなくなって遊ばなくなってしまった。

中学に入ってからはゲームをしたり漫画を読んだり、という毎日で、鉄道の方に時間を割く暇がなくなってしまった。それでも鉄道に対する興味がなくなったわけではなく、電車に乗った時は、新型車両が来た時などは目の色が変わってしまったりしていた。ちょうどこの頃インバータ制御の電車(あの妙なモーター音のするやつである)が登場し始めたのだが、どうしてこんな音がするのかなどは知らなかった。その程度の興味であった、というわけである。

いまでも鉄道に興味がないわけではないが、昔ほどは入れ込んでいない。先日碓氷峠の線区が廃止になって周りは大騒ぎしていたが、わたしは別に特別な感慨は抱かなかった。ゲームセンターにある電車のゲームもまだやったことはない。どちらかというと、鉄道で旅をする方がだんだん趣味になってきている。時刻表をみて旅程を考えて、旅をした気になる、というある意味暗いこともたまにやるようになった。実際に旅をしたことはほとんどないが、してみたくてうずうずしているのも確かである。暇ができたら房総半島一周でもしてみることにしよう。



1997/10/29 17 過去の趣味シリーズその3 ゲーム (テーマ:ゲーム)

小学校のころにテレビゲームに初めて触れて以来、ゲームばかりしている生活であった。自分の家でファミコンを買う前は、友人の家に行って遊んだり、デパートのゲーム売り場でデモをしているゲーム機で遊んだりしていたものだった。近所にゲームソフトを大量に持っている友人がいて、わたしはそこに入り浸っていたものだった。自分の家でゲーム機を買った後は、たまにその友人にソフトを借りて家で遊んだりもしたが、やはりどちらかというと大勢でわいわいやる方が好みであったので、結局は友人宅で遊んでいた。初めてゲームで徹夜したのもその友人宅で、遊んでいたゲームはあのドラゴンクエストであった。

引っ越して中学に入ったあとも、知り合った友人たちとゲームばかりの毎日であった。もっとも、その頃になるとロールプレイングゲームがはやりだし、一人でゲームをすることも多くなった。3年生のときにパソコンを買ったのだが、それでもやはりパソコンでゲームをしていた。パソコンのゲームのほかに簡単なプログラムや音楽なども作ったりしたが、今思うとそれもゲームの延長線上のような感じであったような気がする。

高校時代になるとゲームの遊び方も少し変わってきた。友人とゲームセンターに行くようになったのである。最初はパズルゲームやアクションゲームなどもやっていたのだが、格闘ゲームがはやりだしてからはカーレースばかりやるようになった。試験の前日は友人とゲームセンターに行ってレースゲームをやる、というのがなぜか慣習化していたものだった。また、この頃になるとテレビゲームのほかに、テーブルトークのゲームなどもよく遊ぶようになった。麻雀などもよくしたものだった。テレビゲームはパソコンゲームも相変わらず遊んでいたが、ロールプレイングやシミュレーションゲーム全盛時代でもあり、一人でゲームをする方が圧倒的に多くなった。ゲームはどちらかというとその情報交換を通じて友人とコミュニケーションをはかる媒体として使われていた。

浪人時代。ゲームは逃避の先であった。一浪時代は予備校に出かけてもするのは友人とのおしゃべり、家に帰るとゲームやコンピューターミュージックばかりしている、というなかなかひどい生活を送っていた(音楽の方はこの頃の方が秀作ができた、というのも事実であるが)。この頃はまっていたゲームは競馬シミュレーションのもので、ひまつぶしや息抜きにするにはあまりに時間を食いすぎるものだったが、逃避先としてはちょうどよいものだった。二浪になるとさすがに心を入れ替えて、ゲームはできるだけしないようにしていた。息抜きも短時間ですむ読書などにシフトした。

そして今。大学入学後に一人暮らしでゲームのない生活、パソコンのない生活をしばらく体験してからは、ゲームをする時間は激減した。つくばで新しいパソコンも買ったのだが、古い機種向けのゲームをするには少々難があり、新しいゲームを買えるほど金も無かったので、金のかからないインターネットのほうに娯楽が移ってしまった。

今年になって実家に戻ってみるとそこにはスーパーファミコンがあった。今更ながら今年の春に購入したのである。ところが根っからのゲームずきであったはずのわたしに、あまりゲームをやりたいという情熱が起こらない。ドラクエやファイナルファンタジーなどの過去の名作を買ってきて遊んでみたりもしているのだが、クリアする直前になって突然やる気がなくなってしまう。実はつくばに住んでいたときに友人にゲーム機を借りたときもそうであった。とにかく今はゲームをしよう、という気があまり起こらない。先日も友人宅でゲームをしたりしたのだが、なんとなく心から楽しむことはできなかった。原因はまったく不明である。わたし程度の年齢でもう卒業できるほど、テレビゲームはちゃちな物でもないとい思うのだが。



1997/10/30 18 過去の趣味シリーズその4 演劇 (テーマ:演劇)

わたしが大学に入って以来の知り合いの中には、わたしが高校時代演劇部だった、というと驚く人もいるかもしれない。しかし事実そうだったのだからしょうがない。信じられない人には驚いてもらうしかないだろう。もっとも、演劇がどうしてもやりたいから演劇部に入った、というわけではないのだが。

高校に入学したとき、ちょうど高校に文化ホールができた直後であった。演劇部はちょうどそのホールに活動場所を移したところであった。入学してから2週間くらいたった頃だったか。友人と一緒に文化ホールを見に行こう、ということになって、そこでみたものが演劇部の発声練習だったのである。わたしはどちらかというとホールそのものよりもその音響設備にひかれて、演劇部に居着くようになってしまったのだった。なぜか同じクラスの人が10人近く入部してしまった(わたしも含む)、というのも不思議な話であった。

ところが演劇部に入部して最初にやった劇では、音響ではなくて役者をやることになってしまった。主人公が入院している病院の院長、という非常に重要な役であった。笑いもとる敵役、というやつである。なぜそんな役がきたかというと、男の役者不足で先輩が配役を適当に決めてしまったからであった。途中混乱して苦し紛れに出したアドリブでなぜか笑いがとれて、それから気が楽になってあがらずに演技できた、というのを覚えている。それで演技の方にはまったかというとそういうわけでもなくて、その後は音響の方をおもにやるようになった。

2年生になると、1年生に頼もしいのが入ってきて(これもホールの設備にひかれてだったらしい)、音響の仕事もあまりしなくてすむようになった。その後2回ほど役者で出演したが、なぜかその2回とも重要な役が回ってきた。要するにそれだけ人手不足だった、ということなのだが。

確かに高校時代の3年間演劇部にいたのだが、その間に演劇観みたいなものができるでもなく、ほかの芝居を見に行くでもなく、内輪で劇をやる、以上のことはしなかった。ただ単にみんなで楽しみながら一つの作品を作り上げる、というのが楽しかったので、演劇を続けていたような気がする。つまり、芝居そのものが趣味だったわけではなくて、へたでもいいからみんなで芝居を作る、というのが趣味だった、といえるだろう。高校卒業後も、ほかの高校で同じ代の演劇部員だった人と劇をやったりしていたのだが、皆忙しくなって劇団は解散してしまった。大学の劇団はなんとなく肌が合わなかったので入らなかった。その後は劇には全くタッチしていない。



1997/10/31 19 過去の趣味シリーズその5 競馬 (テーマ:競馬)

こう書くとわたしの競馬歴は相当長いように思われるかもしれないが、そうでもない。せいぜい5年程度だろうか。馬券は買わない。学生だから買っていないふりをしている、とかいうのではなくて、ほんとうに買っていないのである。レース観戦以上のことはしていない。まあ、これも競馬を見るようになったきっかけのせいもあるだろう。

競馬の世界に入るきっかけはやはりゲームであった。パソコンのゲームで面白いのがある、と友人に紹介されたのが競馬のゲームだったのである。自分は馬主になって競争馬を購入し、調教師に預けてレースに出走させ、最終的には大レース全制覇を目指す、というゲームであった。とりあえずこのゲームで競馬に関する基礎的な知識は身についた。

本物の競馬を見たのは、そのゲームを始めてから数ヶ月の後、テレビの中継で見たのが初めてであった。初めて見たレースでは、一番人気の馬が最後方から一気に追い上げての一着。これが競馬か、と感動したものであった。このレースが初めてでなければ、これほど競馬にはまったりもしなかったに違いない。

一番競馬を見ていたのはやはり浪人時代であった。土日の昼間ずっと中継をやっているので、逃避先にうってつけだったのである。暇なときは本屋に行って競馬関係の本を立ち読みしたりもしていた。ゲームの方も自分で生産、調教までできるソフトを手に入れ、競馬中継のない時間はそちらで遊んでいたりもした。家が中山競馬場に近かったので、20歳になってからは馬券を買ったりもしたが、貧乏であったのともともとギャンブルが好きな方ではなかったのとで、馬券にはまることはなかった。

大学に入ってからは馬券売り場も遠くなり、ゲームをする環境もなくなった上に土日は出かけるようになったので、競馬の情報がなかなか入ってこなくなった。この間友人に誘われて初めて競馬場で生のレースを見たのだが、知らない馬ばかりだったのでいまいち盛り上がれなかった。最近は土日も出かけられるようになった。競馬界の最近の動向などを勉強しなおしてみようかとも思う今日このごろである。



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