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 白珪ノ行方 

仲秋 憬




 そろそろ日も沈む刻限、帝都にその名も高い財閥である宮ノ杜邸の茶室、八畳本勝手

の炉に釜がかかっている。

 床には「白珪尚可磨」(はっけいなおみがくべし)の軸。鶴首の花入れに遅咲き名残の

紅椿。水差は織部で、茶入は古瀬戸の肩付。棚は使わず道具は運び出しで基本の点前だ。

 薄紅色の色無地にひとつ紋の袷の着物姿の浅木はるが、朱の帛紗をさばいて道具を清

め、慎重な手つきで茶筅通しをしてから、黒楽茶碗で濃茶を点てて、客つきへ出す。

 客はたった一人、宮ノ杜家の末息子、六男の雅だ。

 亭主として茶を出したはるは、雅が無言で膝行して茶碗を取り込み、作法どおりに軽

く押し頂いてから茶碗をまわし正面を避けて濃茶を一口ふくむのをじっと見守った。

「おふく加減はいかがでしょうか」

「ぬるい。粒が残ってる。最低」

「……す、すみません! では、今一服っ」

「いらない。客ひとりで濃茶ばっかりそんなに飲めないよ。だからって薄茶を点てるの

も、へたくそだしさ。もうこの辺で、あきらめたら」

「そういうわけにはまいりません。次の茶会までに少しは見られるようになるってトキ

様とお約束したんです。毎日、茶筌千振りで修行して頑張りますから!」

「だったら自分で点てて、自分で飲む自服で稽古すればいいのに。それなら誰にも迷惑

かからないよ」

「自分で自分の点てる姿は見えませんし、お一人でもお客様になっていただけると……」

「じゃあ勇が帰ってきてから、あいつを客兼教師にでもすれば。なんで僕が、お前みた

いなゴミの稽古に付き合わなきゃならないのさ」

「雅様が一番早くお帰りになられて、夕食までの間、少しお時間がおありのようでした

から一服差し上げられればと……申し訳ありません。ご迷惑をおかけして」

「………………」

「たえちゃんも使用人の仕事が立て込んでいる夕方は、とても声なんてかけられないし

……あ、だったら茂様が、やす田にお出かけになる前に」

「続いてお薄に行ってよ」

「えっ?」

「忙しいから続きお薄にしてって言ってるの! それなら、あと少し付き合ってやって

もいいけど」

「ありがとうございます、雅様! では、そのようにさせていただきます」

 返された茶碗を取り込み、薄茶の仕度にあわただしく水屋へ下がるはるの姿を見て、

雅は大仰に肩を上げてため息をついた。




「そもそも、まだ使用人が抜けてないはるに形ばっかり詰め込んだって無駄なんだよね。

馬鹿みたい。本条院の嫁になったわけでもないのにさ」

 雅は食卓でも不機嫌さを隠さない。

 宮ノ杜銀行頭取の長男・正と、帝国陸軍大佐の次男・勇は、まだ仕事から帰宅してお

らず、五男・博は留学のため英国に旅立っているので、今宵は残る兄弟三人の茂、進、

雅が夕餉の席に同座している。

 先代当主の玄一郎は、宮ノ杜家の花見の会の後、奈良の吉野に桜を見に行くと言って

旅行中だ。

 食堂で彼らの給仕をしているのは使用人頭の千富だった。

 つい先月まで、こんな時は忙しく給仕に立ち働いていた使用人はるの姿は見られない。

 はるの立場は、この四月より宮ノ杜家新当主となった次男・勇の婚約者として花嫁

修業の行儀見習いで婚家滞在中の身内一歩手前といったところだ。突然、決まった当主

引継ぎと結婚は、ほとんど前準備もなく決まりあわただしいことこの上ないが、形式に

とらわれない宮ノ杜家では、まず当主の意向に沿って何事も進められる。勇は引き裂か

れる寸前だった恋人を兄弟の助けを得て取り返し、思いがけずあきらめたはずの当主の

座も得て、後は一刻も早く婚姻をと急いでいた。

 はるは、当主夫人として身につけなければならないことが山ほどあったが、その中で

まず着手したのが茶道家元・本条院千家の次女である勇の母を師とした茶道である。

 彼女はまだ茶室の水屋で道具の片付けをしていたが、濃茶のあと薄茶を三服つきあっ

た雅は、一人さっさと食堂へ引き上げてきた。どうせ片付けがなかったとしても、はる

は勇が帰ってくるまで食事もせずに待っているのだ。

 雅のつぶやきを耳ざとく聞いた三男、茂が雅に向き直る。

「でもさぁ、おはるちゃんは勇兄さんの特訓やしごきに慣れてるじゃない。いつだって

真剣ですごーく頑張っちゃうし、お茶だって何だって、案外すぐものにしちゃうかもよ。

ほら、去年の舞踏会の時みたいにさ」

「そういえば、あの舞踏会で、はるさんと踊ったワルツで勇兄さんは父上から当主争奪

戦に5点いただいて、自分たちに大きく水を空けたんでしたね」

 四男の進が指摘すると、茂もうなずく。

「そうそう。勇兄さんってば結局父さんから専属使用人強奪までしてあの子囲っちゃう

しさ」

 雅は箸を止め、眉を寄せている。

「……ムカつくんだよね」

「なにが?」

 茂が尋ねても雅は動きを止めたまま視線だけは食卓の皿から離さず不機嫌そうに答えた。

「見てるとイライラする」

「ふーん。どうして? いいじゃないの。暇な時に将来の義姉上の花嫁修業に付き合っ

てあげるくらいさ。おはるちゃんも声かける相手を間違ってるよね。雅が嫌なら僕が協

力してあげようかな〜」

「別に嫌とは言ってない! 茂じゃ、よけいな口出しして、馬鹿なあいつがもっと混乱

するに決まってるね」

「えぇー、そんなことないよ。雅みたいに、いじめたりしないし。芸者にゃ茶道もたし

なみの内だもの」

 むっとしている雅をからかうように挑発する茂を見て、進がすかさずなだめにかかる。

「まぁまぁ、茂兄さん、はるさんから声をかけられて稽古に付き合っているんだから、

任せておくのがいいですよ。雅だって心底気が向かなければ、とうに断っているでしょ

う」

「それもそうか」

「うるさいな。もういい。先に部屋に戻るから」

「雅様、まだ半分も召し上がっておられませんわ」

 心配する母親のような千富の指摘も雅は歯牙にかけない。

「はるに付き合って、さっき茶菓子をいくつも食べさせられたから、これ以上、食べら

れない!」

 そっけなく言い捨てて、雅は席を立ち、二階の自室へ向かった。



 部屋の前廊下で、ちょうど勇の部屋へ来たらしく階段を上がってきたはるとはち合わ

せる。

「片付け終わったの」

 小声でつぶやいても、はるは聞き逃すことなく、にこりと笑って雅に頭を下げた。

「はい。先ほどはありがとうございました。雅様。おかげで勉強になりました」

「それで、どうして勇の部屋に入るのさ。あいつまだ帰ってないでしょ」

「え? ああ、これを……お稽古のために勇様からお茶杓を拝借していたので、戻して

おこうかと」

 はるは手にしている茶杓筒を雅に見せた。

「その茶杓、勇のだったの?」

「はい。お作は本条院のお家元だそうですけれど。立派な銘がついているので緊張し

ちゃって」

「…………」

 別に不可解な点はない。道具の格から言えば稽古に使う茶杓とは思えなかったが、普

段から一流の道具を扱わせるのには、本条院千家の家元の娘であるトキと、その息子で

ある勇の思惑があるのだろう。



 前当主である父玄一郎の独特な野望のせいで全員母親の異なる宮ノ杜の息子たちは、

身分や立場の違う生母との関わり方もそれぞれである。

 生みの母とその実家である京の老舗呉服屋をも嫌悪し確執のある雅と違って、勇は頭

の固い軍人と見えて不思議と母親とも、その実家とも、そつなく付き合っているようだ

った。

 勇は専属使用人だったはるをすでに自分の妻扱いしていたし、仮祝言もしていないの

に寝床すら一緒にしそうな勢いで、普段なら家族間でも互いの日常にほぼ不干渉であっ

た宮ノ杜家を少なからず混乱させていた。この新当主のわがままには、さすがに、はる

本人が異を唱えたが、行儀見習い中とはいえ、じきに当主夫人になる娘をそれまでと同

じ使用人部屋で寝起きさせることも許されず、結局、彼女は長い間、空き部屋になって

いた当主夫人の部屋を与えられている。これがまた、宮ノ杜家の兄弟達の私室より広く

華美な部屋だったので、彼女はうろたえ狼狽していた。

「お掃除する時だって緊張してたのに……あんな西洋のお姫さまの部屋みたいなところ

で落ち着いて休めません」

「早く慣れろ。お前は俺の婚約者で、もう使用人ではないのだぞ」

「努力はしてますけど、いきなりは無理なんです。何か壊しちゃいそうで落ち着かない

し……休まらないと言いますか……」

「仕方のない奴だ。だったら俺のところへ来い。嫌でも眠らせてやろう」

「はぁ、部屋のお掃除ですか?」

「馬鹿者! だから、最前より使用人の仕事はしなくていいと言っておるだろうが!」

 こんなやり取りが日常的に繰り広げられるのだ。それ以前にその馬鹿馬鹿しい会話を

所構わず始めるなと雅は言いたい。

 さらに腹立たしいことに、耳に入る彼らの会話を聞いていると雅には勇の思惑の方が

理解でき、気がつけばおそらく勇に負けず劣らずはるに対してもどかしく思い、どうに

かしてやりたくてたまらない気分になるのである。

 けれど、はると結婚するのは勇で雅には関係ない。

 その事実がいっそう苛立たしいのだ。



 はるが勇に返そうとしている茶杓筒には家元の花押が見える。

 雅はさっきのはるの稽古で茶杓そのものは拝見したが、それをしまう筒までは見なか

った。特に茶道に熱意はないが、その花押には好奇心が刺激された。

「それ見せて」

「え、お茶杓ですか? 先ほどご覧になったのでは……」

「筒は見なかった」

「こちらもお見せするものなのですか!?」

「席中で見せるものじゃないだろうけど、作者の花押があるみたいだから」

「で、でも廊下でお道具を出すのはまずいんじゃないでしょうか」

「別に平気でしょ。ほら」

「雅様!」

 雅ははるの手から竹の茶杓筒を取り上げると、まじまじと花押を見つめ、おもむろに

筒の栓を開けて無造作に茶杓を出した。

「雅様、しまってください! 早く!」

「この筒も風情があるとか言うんだろうね。茶杓と同じ竹だよね。たぶん」

「お願いです。雅様!」

 雅の道具扱いに気が気でないのか、はるはうろたえつつも、雅から茶杓を取り返そう

と手を伸ばす。雅は彼女の手を避けるように背を向けようとした、その拍子に彼女の足

が雅の足とからまって二人してもつれるように転んでしまった。

「きゃっ!」

 絨毯敷きの廊下のおかげで、それほどの痛みはなかったが、小さくはない衝撃と人が

倒れる音にまぎれて、二人の間でぱきんと軽い音がした。

 あわてて起き上がろうとするはるを下敷きにしていた雅はゆっくりと上半身を起こし

た。

「あ、折れた」

 雅の手にしていた茶杓は、ちょうど節のところで無残に折れている。

 はるは目を見開いて呆然と雅の手にする折れた茶杓を見つめた。

「ど、どどどうしましょう……」

「さあね。使用人なら間違いなくお手討ち切腹ものだと思うけど」

 番町皿屋敷のためしを引くまでもなく、雅は言い放つ。

「……私ったら許されない粗相を……」

 立ち上がれずに蒼白になって震えているはるの姿を目の前にして、雅は不思議と気分

が良かった。

「……もうこの上は自害しておわびをするしかないでしょうか」

「馬鹿じゃないの?」

「え?」

「本気で死にたいなら止めないけど。馬鹿は死ななきゃ治らないんだろうし」

「で、でも」

 ここで茶杓が折れたのは雅のせいだと訴える気が端からないのが、はるという娘だった。

雅もあえて指摘するつもりはない。それより、これはちょっとした機会だ。

「茶杓なんて、どうせ削った竹の切れ端じゃない」

「……でも一期一会と申しますし……お道具だって……」

「一期一会なら尚のことじゃないの? そもそも茶杓なんて、もとは毎回、茶事に合わ

せて亭主が削りだして新しく作ってたものでしょ。それを名だたる茶人が作ったいいも

のだって、宗家とかなんだとか権威を主張したい者がありがたがって残すようになった

んだよね」

「雅様は茶道のこともよくご存知なんですね」

「……別にちょっと本読めばわかることだし。勇がお前より茶杓と名誉を選ぶと思うな

ら、さっさと死ねば。ゴミはいつまでたってもゴミだよね」

「私にできることなんて……心からおわび申し上げるくらいしかありません」

「まあ、今のは僕にも多少責任がないわけでもないし」

 めったに自らの非を認めない雅のいつになく愁傷な言葉に、はるは心底驚いたとでも

いうように目をきょとんと見開いた。その呆けた態度にむっとして雅はつい口調がきつ

くなる。

「なんだよ。だから暇だし退屈してたから少し手を貸してやってもいいかと思っただけ! 

そんなあり得ない顔しなくてもいいだろ。お前なんか勇に激怒されて死んじゃえ!」

「死ぬのは……自害は、やはりご遠慮したく……」

「へーえ、ゴミ虫のなりそこないでも、命は惜しいんだ。……死んだつもりで身を隠す

なら知恵を貸してやってもいいけど」

「身を隠す?」

「反省して一人で特訓とかもありなんじゃないの」

「特訓……そうですよね。もっとお稽古しないと……お詫びにも値しませんよね。精進

するようにとお借りした立派なお道具を壊してしまって……作法も身につかないなんて

……」

「じゃあ、さっさと行くよ」

「行く? 行くって、どこへですか? おわびにですか?」

「いいから、ついてくるの!」

 雅は廊下で座り込んだままのはるの腕を引っ張り立たせると、そのまま腕をつかんで

勇の部屋の扉を鍵を持つはるに開けさせた。

「雅様、何を……」

 折れた茶杓を竹筒に戻さず、雅はそのまま勇の机に置いた。

「半紙か便箋はどこ」

「たぶん机の上から3番目の引き出しに」

 はるの言うとおり、勇の机の引き出しには半紙も硯箱もあった。

 雅は半紙を1枚広げてから机の上の墨壺の蓋を開け、細い筆をはるに突き出した。

「ほら、書いて」

「何をどう書けば」

「大変申し訳ございません。拝借した名物を損じたからには、お許しいただけるだけの

ものを身につけるまで謹慎いたします──ってとこかな」

「謹慎……ですか」

「早く! 勇が帰ってくるだろ」

「わっわかりました」

 雅が強く言うと、はるは勇の机で素直に言われたとおりの文を書いた。使った筆を調

えて戻すと、雅は彼女の手首をつかんでそのまま勇の部屋を出た。物も言わずに手を引

く雅にうろたえながら小走りでついてきたはるは、雅が表玄関ではなく離れの別館側の

戸から外へ出た時に思わず声を上げた。

「あの、雅様、どちらに行かれるのですか?」

 日が暮れてから外に出るのに外套も着ていない。車も用意させず、南の正門ではなく

西の通用門に歩いていく雅の足取りに迷いはなかった。

「車を出させるわけにいかなかったから街鉄だね。新橋まで」

「新橋?」

「そうだよ。急がないと間に合わないから、黙ってて」

 何がなんだかわからないという表情のはるをそのままに雅は先を急いだ。

 ようやくはるが話すことを許したのは、新橋駅で有無を言わせず買った切符でホーム

に停車していた夜行列車に乗り込み、合い向かいの席に座って周囲を確かめる間もなく

列車が発車してからだった。

「雅様……お金、持っていらしたんですね」

「まあね」

「でもこんな着のみ着のままで出てきてしまって、一体どちらに行かれるのですか?」

「僕はむしろお前に付き合ってやってるんじゃないか」

「私に?」

「どうせ宮ノ杜で勇の近くにいる限り謹慎も特訓も無理」

「そ、そんなことは」

「あるだろ」

「…………」

 返事に窮するはるに構わず雅は続けた。

「どうせ結婚したらもっとべったりになるんだろうから、少し離れて修行したらいいん

じゃないの。そうでなくてもお前は元使用人で風当たりきついんだから、隙を見せたら

負けじゃないか」

「それは私が至らないからで……」

「だよね。だから本気でやれるところに行けばいいってこと」

「どこですか?」

「そうだね。とりあえずお茶やるんだから京都かな」

「京都!? 京都に行くんですか?」

「お前、駅で切符買って列車に乗る時、どこ見てたのさ」

「そんな……もう暗くなってますし……誰にも何も言わないで来てしまって、私、何も

持ってません。雅様だって明日の学校はどうされるおつもりですか。ああ、どうしましょ

う。きっと騒ぎになってますよ」

「うるさいな。ちょっと静かにしてよ。どうせ着くのは明日の朝だし、じたばたしたっ

て始まらないんだから」

「雅様……」

「眠くなってきたから寝る。弁当売りが来たらお茶買っておいて。僕はいらないけど、

お前は適当に食べるものを買っていいよ」

 雅はポケットから札入れではなく小銭入れを出してはるに渡すと窓にもたれて目を

閉じた。





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