◆ 月幻夢譚 ◆

 

 七 




 一歩、踏み出す。
 友雅の足元の泥地は、彼を先へは進めまいと重く絡みつく。
「神子殿!」
 最初の道標に辿り着くと、友雅はあかねを呼んだ。
「神子殿!」

 微かな道標であった菫の花がはらりと散ったかと思うと、友雅は再び白昼夢に包まれた。


 桜の花びらが舞い散り、薄桃色に霞んだその地であかねが小首をかしげ恥ずかしそうに話し出す。
『友雅さん。この世界ではね、とってもとっても好きって「愛してる」って言うんですよ?』
『「アイシテル」?』
『そう。「愛してる」』
『愛しているよ、あかね』
 異界の見慣れぬ着物に身を包んだ少女が真っ赤になっている。
 その華奢な身体を引き寄せ、耳朶に甘く囁く。
『愛している。君だけだ、愛しているよ…』
 しなやかな身体が自分に押し付けられる、柔らかいそれを壊さないようにそっと抱き寄せ、甘い
唇に己のそれを重ねるために頬を寄せ、そして…

「…まったく」
 友雅は頭を振りながら呟く。これも自分の願望だと言うのなら、全てを捨てて月の世界へ行くこ
とも厭わないという事なのだろうか、出会って間もない少女にここまで捕われているのかと驚きを
通り越して、己にあきれ返りさえする。
 友雅は彼を誘うように揺れる小さな菫に向かい、また一歩と踏み出した。
「次はどんな夢なのか…いや、現なのか…」
 しかし、今更引くわけにもいかない。
 友雅は、あかねへと続くその微かな軌跡に向かい語りかける。
「この地が私の心で、この地を作ったのが神子殿なら、私の罪の跡を辿ればいつか神子殿を見つけ
られるのだろう? ならば、私は恐れはしない。きっとあなたを見つけてみせるよ」
 それが…
 それが、どんなに甘やかに友雅を苛もうと…


『おとうさま』
 小さな女童が自分に向かってかけてくる。
『姫君がお庭を走り回ってはいけないとあれほど言っているのに、こまった小姫だね』
 ひょいとその幼い身体を抱き上げ、自分と同じ色の瞳を覗き込みながら友雅は怒っている振りを
してみせる。女童はつんとそっぽを向いて拗ねた。
『おかあさまだって時々お庭を走っていらっしゃるのに、小姫はいけないの?』
 御簾の影から、髪の長さ以外は出会った頃のままの妻が微笑みながら姿を現す。
『内緒よって言ったのに、小姫ったらおとうさまには何でも話してしまうのね?』
『…だって小姫、おとうさまがだぁいすきなんですもん』
 小さな紅葉のような手が自分の首に廻され、ぎゅっとしがみついてくる。

 穏やかな充足感に友雅は満たされる。それは、彼の知らなかったモノだ。
『どうしたものかね? 私の北の方?』
『私に似たせいだ、などと言わないで下さいね? 小姫は友雅さんに一番似てるんですから』
 その言葉に答える様に、二人の少年が笑いながら御簾の中から友雅の腕に抱かれた幼女を手招き
する。
『小姫早くおいで、詩紋おじさんのお菓子、食べちゃうよ?』
『やぁん、兄さまのいじわる』
 自分に良く似た幼女があわてて階を駆け上る。それに代わるように秋の日差しの中、かさこそと
落ち葉を踏み妻がそっと寄り添ってくる。
『ああ、恐いくらいだよ…』
 友雅の呟きに答える様に、昔龍神の神子と呼ばれた少女が微笑んだ。


 降ろした御簾の向こうから、賢帝と呼ばれ既に数十年の時を経た今上帝が友雅に声をかける。
『中将…あの龍神の神子がこの地に降り立ったのは、丁度今ごろであったな』
『はい』
『清らかな姫であったの』
『…は』
 今や伝説となった龍神の神子を覚えている者の数は少ない。供に闘った八葉と呼ばれた仲間も一
人、二人と欠け、既に天地を合わせても四人しか残ってはいない。だが、友雅は覚えている。胸に
空いた埋め様のない虚空と供に。
彼の残りの半生は、この虚空のもたらすいっそ甘美な痛みと供にあったと言っていい。
『神子どの』
 今だ妻も子もなく、侘しいばかりの自邸で琵琶を爪弾き、友雅は月にむかって語りかける。
『私の桃源郷の月…』



『ああ、君こそが私の桃源郷の月だ…』
『友雅さん…』
 石楠花が満開のその場で友雅は少女を抱き寄せる。
 鬼との最終決戦を間近に、二度と触れることの叶わないかもしれないその身体をそっと、そっと
抱く。
『私の月の姫…』
 どれだけの想いを込めれば相手に届くのか、友雅はただひたすら明るい髪に隠されたその赤くそ
まった耳に囁く。
『神子殿…』




 道標に辿り着くたび、友雅は万華鏡の様に幾つもの白昼夢に包まれる。優しくあまやかな日々を
送る自分。そして、永久に失い虚無に包まれる自分。
 どれもこれも彼の未来
 彼の恐れているもの
 そして望んでいるものなのだ。
 最後の菫にたどりついたとき、辺りは一瞬紫の花弁に覆われ、友雅は初めて未来ではなく、自分
も知っている過去を見た。

『私は龍神の神子に惹かれるという予感があるのですよ』
 藤棚の見事な左大臣の幼い末姫が住まう対で、友雅はその星の姫に言った。
いや、彼は知っていたのだ。
 自分が龍神の神子に捕われる事を…
 そう、予感ではなく、友雅は知っていたのだ。


『どうしたの、あかね?―――まだ起きていたの?』
 男のよく通る美声が、掛けられた。
『………ごめんなさい……起こしちゃいました…?』
 見覚えのある屏風と几帳の影で、少し身体に丸みを帯びた龍神の神子と自分が伏していた。『閨
の語らい』と称して友雅は自分の妻となった少女をからかう。彼の知らない、一度も感じた事のな
い至福に満たされたその時。
『そう言えば、君は憶えているかな? あれは……そう。まだ、私たちが出会って間もない頃のこ
とだったね』

 抱いていた身体の温もりが今だ友雅の腕に残る。
 これもまた一つの選択、一つの未来の形。
 そして、一つの彼の望み。

 手のひらに残る少女の温もりを逃さぬようにと、握り締め、友雅は一人ごちた。
「私の虚無がこの世界で、この世界を具現化しているのが神子殿なら…」

 ふいと面を上げ、友雅は晴れやかに微笑んだ。
「神子殿、出ておいで。一人で泣いていないで」
 菫がいやいやをするように微かに揺れる。
「こうなったのは貴女のせいではないよ? さぁ、出てきて、怒ってないから」
 遠くにぼんやりと人影が浮かび上がる。
「…ほんと?」
「ああ、本当だ。さぁ、こちらおいで」
「…私が龍神の神子として未熟だから…こんな事になっちゃったんでしょう? 友雅さんを巻き込
んで…なのに…怒ってないの? ほんとうに?」
 友雅は困った様に微笑むと続けた。
「私があなたを怒る理由がないよ、神子殿。これは私の心だ。見せてくれて感謝しているよ」
 そう、多分見なければ、知らなければ何時もの様に自分の本心を巧みに覆い隠し、全てを失って
から気づく事になっただろう。しかし、彼は知った、自分の望みと本心を。
 だから次はそれを成就させるために動けばいい。
「でも…あまり楽しそうではなかったみたい…」
 あかねがおずおずと申し訳無さそうに呟く。
「…とても…楽しいものもいくつかあったよ?」
 そう言いながら少女にそっと近づく。見ようと思えば…感じようと思えばこんなに近くにあった
存在を友雅はやんわりとその腕に閉じ込めた。
「友雅さん…あの、どうすれば戻れるんでしょう?」
 廻された男の腕に少し戸惑いながらもあかねが口にしたことは、至極現実的な問題だった。
「戻りたいと思えばいいのだよ、簡単な事さ」
「でも、わたしさっきから戻りたいと思ってるんです。本当ですよ?」
「もっと具体的に…そう、私が貴女を階でからかった時に還りたいと思ってごらん?」
「え…でも…」
 次の瞬間、あかねは土御門の西の対、階の下で友雅に抱かれていた。



「やれやれ、人とは己を知るのに随分と手間取る生き物じゃな」
 件の仙女の半ばあきれ、半ば賞賛に満ちた声が確かに二人の耳に響いた。




 

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