◆ 月幻夢譚 ◆

 

 六 





「こんな馬鹿な……」
 雪原にいたはずのひきがえるが、つぶやいた。
 一瞬にして春の野になったその地を見渡して、呆然とする。
 友雅とあかねに声はなかった。あかねは菫の花の中に腰が抜けたように座りこんだまま、驚きの
あまりか、涙も止まっている。
 そして友雅といえば、らしくもなく圧倒されていた。目の前のたった一輪の小さな菫があっとい
う間にあふれんばかりに数を増やしたかと思うと、自分の内を一斉に満たし暖めていくのに、ただ
身を任せているだけだった。あかねの隣に膝をつく形で、やはり立ち上がることもできずにいる。
 目がくらむ程の茜色の光はすっかりおさまり、見渡す限り地平線までを覆いつくす菫たちは、今、
天からのまばゆい月光にその赤紫の花弁をさらしていた。渡る夜風は、先ほどの吹雪を思い出すこ
とすら難しくなるような心地よい春のそよ風だ。

 この花の色はどこかで見たと友雅は思う。それほど遠くない、そう、つい最前にも。
 友雅の傍らで、まるで夢見心地の目をしているあかねの肩のあたりで切りそろえられたつややか
な髪を、渡る春風がさらさらとゆらす。ふと見れば、少女の単衣の衿もとが男の目の前にさらされ
て、その瞬間に彼は気がついた。
 雪を思わせる彼女の白い首筋に確かにひとひら散る花びらの色は、まさにこの茜菫の色だった。
 友雅の我を忘れた一瞬の罪が、こうして刻印され、すべてを埋め尽くす。白雪を溶かし覆い尽く
すこの花は何を意味しているのか。まだ幼げな神子姫に、自分は何を見出し求めているのか。
 冷え切った自分をあたためる、ただひとつの存在。
 この地が友雅の心の現れだというのならば、それはたやすく察しのつくことだ。少なくとも友雅
自身にはわかる。
 では、あかねは?
 それを確かめるには、あまりに少女は無垢だった。おぼろげに形になりだした情欲をつきつける
には、まだむごい幼さを残した少女だ。ならば気付かぬふりをしてやり過ごし、守ってやることが
大人の分別だろう。

「あんまりむごい、胴欲な話だね、これは」
「はい?」
 かすれた声でつぶやいた友雅に、ようやく我に返ったあかねが聞き返す。
「友雅さん、何がですか?」
「いや、何でもないよ。神子殿は気にしなくていい。これは私の咎(とが)だから」

 しかし、どうしてこの月光のもと、友雅の心がこうして形となって現れ、そこへふたりが迷い込
むことになったのか、どうすれば、ここから元の土御門のあの庭へ帰ることができるのか、あかね
はもちろん、友雅にもわかろうはずはない。
 多少なりとも何かを知っていそうなのは目の前の蟇(ひき)だけである。

「さて、あなたが我々があるべきところへ帰るすべをご存知ならば、うかがいたいものですね」
 友雅が蟇に向かって尋ねた。
「それが物を頼む態度かえ。礼儀をわきまえぬ愚か者めが」
「これは大変失礼をいたしました。この通り一介の数ならぬ身であれば、お許しを」
「……まぁ、よい。しかし、この地を現したのは妾ではない。妾にそれを尋ねるのは筋違いという
ものであろう」
「筋が違うと申されても、私たちには何の手だてもないのはご承知でしょう。どうしたものか、少
しでも物を知っておられそうなあなたにお尋ねすることも許されませんか」
「あの、私は元宮あかねといいます。あなたはいったいどなたですか? ただのカエルさんじゃな
いことは私にもわかります。もしかして神様ですか? 私たちのこと、なんだかご存知のようです
し……」
 あかねが意を決したように、ごく真面目に尋ねる。この態度に蟇は少なからず興味を覚えたよう
だった。
「この姿は妾の仮の姿じゃ。この身は仙界に属するもの。神ではないが、人でもない。龍神の庇護
を受けたる娘よ」
 蟇は人を従える力のある声で言い渡した。
「そこな男の抱えていた虚無が妾と近しかったことが災いしたな。ここは確かにその男の心を映し
ている。だが、それをこうして具現化しているのは、娘、お前じゃ。そなたは知らず身の内の龍の
力をふるうておるな」
「え? わ、わたし……?」
 あかねが驚いて目を見開いた。
「好むと好まざるとに関わらず、選ばれた者には、その責がある。力を手にしたのならば、正しく
現す術を学ばねばならぬ。そなたの恐れが、力の発現を呼んでいる」
「私が……やってるの? どうやって? 私のせいなの…………?」
「神子殿、違う。そうではないよ」
 あかねの瞳が不安にゆらめいたのを見て、友雅は急ぎそれを否定した。この蟇の言い様はあかね
を追いつめる。
「私が龍神の神子として、まだまだだから……? どうしたら……あ……」
「神子殿、話をお聞き!」
「ごめ……ごめんなさい……っ」
 あかねの不安が伝染したように、周囲の菫が一斉にさわさわとざわめくかのように震えだした。
「神子殿!!」
 友雅があかねの腕をつかんで引き寄せようとした瞬間、確かに菫が咲き乱れる大地だった足下が、
まるでおぼつかない泥地にでもなったようにぐらりと傾いだ。
 肌をなでていた心地よいそよ風は、いきなり逆巻く突風となり、はかなげな菫の花は容赦のない
風に千切れ飛ぶ。見渡す限りの花の波は、月光に溶ける紅紫の嵐となって友雅を襲った。
 友雅は突然のつむじ風に、右腕で己が目をかばいつつ、あかねに伸ばしていた左手でそのまま少
女をとらえようとしたが、果たせなかった。
 確かにかたわらにあったはずの少女は男の視界から消え去り、友雅は、また、夢とも現ともつか
ぬ闇に在った。



 あかねが恐れていた闇が広がっている。
 しかし、そこは暖かかった。気がつけば優しい闇の中で友雅はいつのまにか体を横たえていた。
 自分でも気付かぬうちに求め焦がれていたものが、側にある。友雅には決して届かぬ縁のないは
ずだったそれを、もう決して己から離れぬように抱きしめる。
 抱き寄せたぬくもりが抗わないことに安堵して、そっと息を吐く。
「ああ、やっと、つかまえた。もう離さないから覚悟しておいで」
 腕の中の細い肩がふるえたようだが、彼は最早ここで止める気はなかった。
「まだ恐い?」
 小さく首を振る気配。
「いい子だ。かわいい私の白雪……」
「友雅さ……ん……」
 その声を聞いた途端、友雅の背筋を、熱を帯びた快感が走り抜けた。
 何という声だろう。ただ名を呼ばれただけで、こうまで感じてしまうとは。こんな思いを友雅は
知らなかった。
 自分の内側に眠っていた熱い情熱を呼び覚ます声。目覚めよと呼ばう声。
 思い人の呼び声は、それだけで媚薬のようだ。
 己の声も愛しい人に同じように響いているだろうか。体の芯をとろかすような心地になってくれ
るだろうか。
「おいで、私の月の姫」
 謀ったわけでなく、ただあふれ出す思いを込めてささやくと、なめらかな腕が友雅の首にからみ
ついてきた。その感触に狂喜し、ひどく性急になってしまいそうな自分を、どうにか押さえる。

 その時、真の闇とも思っていたあたりが、ぼんやりとした明かりに照らされていることに気がつ
いた。ほの白い光は、まるでかすかな月光のようだ。
 側に立てられた几帳に無造作に引っかけられた己の直衣がゆれている。そうしてまだいくらかは
体にまとわりつき乱された衣の渦の中で、友雅は切望していた白い体を目の前にしていた。
 白雪と見まごう玉の肌。ここに花を散らすのだ。最初は首筋にひとつ。次は胸元に。背に。腕に。
あますことなく埋め尽くす何十、何千、何万の花の刻印を。
 遠い日にすでに見知っていた、あの、茜菫の……。

「あ……もう……っ」
 悩ましい声が薄闇に響いた。しかし、まだ足りない。目の前に広がる白雪のそこかしこに唇を押
しあて、溶け出した甘露を吸い尽くそうと舌が鳴る。
 腕を押さえ、膝を割り、足をからませ、躰を重ね、すでに触れていない箇所は無いというのに。
「まだだよ。雪は全部溶かしてしまわなければ。そうして、ひとつになるんだ……わかるね?」
「ん…んっ、ああっ、あ、と、……ともまさ……さ……あ!」
 のけぞる躰を引き寄せ、さらに奥を探ると、触れ合う肌はますます熱を帯びて、互いの境もわか
らなくなるようだ。こうまで友雅を誘い、酔わせるものは、後にも先にも、たった一人。
 本気になってしまった友雅を、最早、何者もとどめることはできない。
 もっと、もっとと際限なく狂気にかられたように、花を刻むことをくり返す。
 照らしているのは、やはりおそらく月光で、その優しい輝きにほんのり浮かびあがる白と紅とが、
友雅の情欲を煽りに煽った。
 夢と現の間で、友雅はたまらずに幾度も呼んだ。桃源郷に輝く月の名を。この世で唯一の情熱を。
「……あかね……、私の……あかね」 



 絶頂を極める、その刹那を感じる前に、友雅は甘く白い闇から引き剥がされ、嵐の後、荒れ果て
た菫野原であったところに立っていた。
 あかねの姿はなく、友雅の前には蟇だけがいた。
 白昼夢を見たとするには、あまりにも生々しい熱のかけらが、友雅を苛んでいた。
「今のは私の勝手な欲望が見せた夢なのか。それとも、これから先、本当に起こることなのか」
 自分が、あんなにあからさまに少女を求めているのだと認めるのは、友雅をして、ためらわれる
ものがあった。だが、忘れ去るにはあまりに甘美で、しかも確かな現実感を持っていた。
 少なくとも自分が我知らず抱いた望みと寸分違わぬものなのだと、友雅にはわかっていた。
「何を見たかは知らぬが、そなたがそう思えば、そうなるやもしれぬ。そもそも、限りある命を生
きる者の行く末に、決まった形はない。時は刻々と形を変えるものだと知ることだ。まして人の心
など、あやういもの」
「さすがに仙境にある方は言うことが違う」
「無礼者めが。言葉を慎むがよい」
「……神子殿はどこです?」
「あの龍の娘か」
「わかっているなら教えていただこう」
 友雅は殺意をも含んだ剣呑な視線を蟇に向けた。
 もはや何も知らずにいた頃には戻れない。音をたてて変わっていくだろう己の未来はさておき、
今の友雅はあかねを取り戻すことしか頭になかった。

 無惨に花の落ちた荒れ野は闇に包まれている。
 ゆらりと蟇の輪郭がゆらめいたかと思うと、蟇のいたところに唐風の装束に身を包み天衣をなび
かせている女が、友雅に背を向けて立っていた。顔は見えないが、その後姿は優美で、ただ人とも
思えない神々しい気を発している。それはあかねが龍神の力、五行の力を引き出す時に見せるまぶ
しい神気とはまた異なる、冴え冴えとして冷たい神気だった。
 この女も蟇も同じ者の姿なのだと友雅は悟った。
「己自身で探すがよい。己の見る目が開かれていなければ、どうせ何の意味もなかろう」
 女が右手をすうっと差しのべると、その手の行く先を白い月明かりが長く照らした。
 その月明かりのもと、ぽつんぽつんと明かりをともしたように、かろうじて残された花がてんて
んと続いていた。
「まぁ、いい退屈しのぎにはなった」
 この仙女のつぶやきに、友雅は一瞬、怒りを募らせ、それから、その怒りを感じたことに自分で
驚いた。退屈していたのは自分だったはずだ。怒りも喜びも無縁であった退廃に満ちた自分はどこ
へ行ったのか。
 八葉になって、あかねという龍神の神子に出会った時から、すべてが始まったのだろうか。
 友雅には出会う前から予感があった。自分は龍神の神子に心惹かれるという予感。八葉のことも
知らず、まして己がその責を負うことになるなどと考えてもみなかった頃だ。
 いずれ確かめることになるのだろう。そう遠くない先に。





 

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