◆ 月幻夢譚 ◆

私から離れてはいけないよ

 

 伍 




 唐の国の伝説は言う。

 月には仙女が住んでいる、と。
 名は『嫦娥』。
 罪を得て、地へと落とされた英雄の妻にして、彼を裏切った悪女。
 夫と二人で用いるようにと、西王母から譲りうけた仙薬を独り占めにし、月に昇ってしまったと
いう逸話の主だ。
 二人で飲めば、不老長寿。
 けれど、一人で飲めば不死を得られる。
 夫の失態により天籍を剥奪され、苦悩に満ちた地へと追いやられた彼女が選んだのは、一人不死
を得て再び天へと戻ることだったという。
 そして、それにはある代償を必要とした、とも。



「お前達、一体どこから現れた?」
 呆然としつつ、突然、目の前に現れでた『モノ』を見つめる二人に、そんな声がかけられる。
 権高く、命令することに慣れた様子のうかがえる、成熟した女の声。
「この有様は一体何としたものだろう…これはお前達の仕業かえ?」
 随分と低い位置から発せられるその声は、しんと静まり返った四方にいんいんと響くようだった。
 憤っているようにも、どこか面白がっているようにも聞こえる響きをもったその言葉。
 だが、何よりも友雅とあかねを驚かせたのはその姿、であった。
  
「か…える?」

 思わず、何度も瞬きを繰り返す。
「……友雅さん…?」
「ああ…私にもそう見えるよ」
 真っ白に染め上げられた風景の中で、一点の黒いシミのようにも見えるその姿は、どう見てもひ
きがえるにしか見えなかった。
 深い緑にも、濃い紫にも見えるいぼの突き出た背中。
 大きく出張った目。
 横に広く裂けた口。
 水掻きのある太くて短い足が、白い雪をしっかりと踏みしめている。
 しかも、
「……お…っきい……」
「……ああ」
 普通ならば、大人の掌程しかないはずなのだが、今、二人の目の前にいるそれは中型犬程の大き
さをもっていた。
 そして、それが口を開く度に、先ほど聞いた玲瓏なる美声が聞こえてくるのだ。
「何をそのようにじろじろと見ておる?」
「喋るし……」
「……」
 付け加えていうならば、それの前にも後にも足跡らしきものは、只の一つも認められなかった。
 まるで、たった今天から舞い降りてきたか、地の底からわきあがったかのようだ。
『で、でも…冬眠から起きてきたにしたって、周りはこんな雪ばっかりなのに…』
 それに何より、普通のカエルは言葉を喋ったりはしない。
 一瞬、まだ自分は庵の中で、友雅の腕に抱かれて眠っているのではないだろうか?
 そんな思いがあかねの頭の片隅を掠める。
 この事態にたいして、論理的な説明を思いつくよりも、そう思った方が遥かに精神衛生的にはい
い。
 だが、生憎と自分の体を強く抱きしめ、きつい眼差しで自分たちの前にいるものを睨み付けてい
る友雅の緊張しきった様子がぴりぴりと伝わってくる今の状態は、間違っても夢ではあり得なかっ
た。
「友雅…さん…」
 まるで、それが自分を正気の世界につなぎ止める楔ででもあるように、あかねはしっかりと友雅
の衣にしがみつく。
「いいね、神子殿。私から離れてはいけないよ」
 懐にあかねの体を抱き込むようにしながら、友雅が言う。
「は…はい、友雅さん」
 ひしっと、互いに互いを抱きしめるようにして、二人はぴったりと体を寄せ合い、油断無く自分
たちの目の前にいるものを凝視する。
 そんな二人に対して、ヒキガエル―――或いはその形をした「何か」は、幾分苛立ったような口
調で尚も問いかけてくる。
「お前達、妾(わらわ)の言うたことが聞こえなんだのか?」
 尊大できつい口調。
「あ…あの……いえ、ごめんなさい」
 生来の素直さからか、或いはこの状況のあまりの異常さのために、何処か普通の神経が麻痺して
しまったのだろうか。
 幾分迫力に押されるようにしながらも、思わず、あかねは反射的に謝罪の言葉を口にしてしまう。
「じろじろ見たりしてすみません。あの…それから、質問は聞こえてます…けど、私たちにも分か
らなくて……」
 しどろもどろになりながらの答。そして、そこには当然の事ながら、偽りの気配は微塵もない。
 それを感じ取ったのだろう。
「―――分からぬ、とな?」
 もしそれが人の形をしていれば、訝しげに眉を顰めていただろう。そんな様子がありありと分か
る声だった。
「どうやって此処まで来たか分からぬ、と?」
 それでも先ほどまでのものとは違い、あかねが謝罪したことを受け、それは僅かだが機嫌を直し
たらしい。先ほどまでの険しさが幾分、声から消えつつある。
 そのことに、あかねはさらに力を得て先を続けていく。
「はい。あの……実は、私たち、さっきまでお庭で月を見ていたんです」
 いつの間にか、この場の主導権はあかねが握ってしまっていた。
 まだ、しっかりと自分の衣を握りしめたままではあるが、落ち着いた様子で受け答えをしていく
少女に、友雅は心の中で小さく苦笑する。
 まこと、龍神の神子殿は強く柔らかな心根の持ち主である事よ、と。
 見知らぬ場所で、見知らぬ異形を相手にしているというのに。
 媚びるでもなく、怯えるでもなく、敬意と自尊心を持って相対することが出来る人間が、一体、
この世の中にどれほどいるだろう。
 それと同時に、いつの間にか自分までもが、少女と同じように、目の前にいる存在を取りあえず
は「そういうもの」としてあっさりと受け入れてしまっている事に気が付く。
 それが、この自分の腕の中にいる華奢な少女と共にいるから、なのは疑いようもない事実で――
―全く、この少女といると、自分というものが根底から変わってしまうようだ。
 退屈という言葉の意味すら忘れてしまう、と、半ば呆れつつもそう思う。
 そんな想いを胸に、友雅はあかねの語る自分たちの身の上に起きた事柄に耳を傾ける。

 それほど時間もかからず―――元々、語るべき事もほとんど無いのだが―――あかねが全てのこ
とを説明し終わった後。
「……ふうむ」
 カエルは、大きな出っ張った目玉を半眼に閉じ、なにやら考え込んでしまう。
 その様は、まるで戯画に描かれる生き物達のようで、親愛の情すら憶えさせるものだった。 
 何処か滑稽で、人間くさいその仕草に、友雅はつい笑いが口をついてでそうになるのを慌てて押
しとどめる。
 少なくとも、今までの間に、それが何かを自分たちに仕掛けてくる様子は見えなかったことが、
さしもの彼をしても僅かに心を許してしまうことになったのだろう。
「おわかりいただけたかな?」
 此処にいたり、ようやく彼自身が直接、それに向かって言葉を発したのもその現れだった。
「神子殿のおっしゃることに嘘はないよ。本当に私たちは、此処が何処で、どうして此処に来てし
まったのか、皆目見当もつかないんだ」
 すると―――。
「…何じゃ、お前、口が利けたのか」
 じろり、と目玉が動き、視線があかねから友雅へと移される。
 どう見ても、あまり友好的ではないその目つきのまえで、しかし友雅はいつもの人を逸らさぬ微
笑を唇に浮かべながら、短く答えた。
「ああ。この通り、ちゃんと、ね」
 その答が気に入らなかったのだろう。ふん、とばかりに一つ息を吐くと、苦々しい口調で吐き捨
てるように呟く。
「先ほどから、全てを娘任せにしているところを見て、てっきり、どこぞの誰かがその娘を守るた
めに使わした木偶(でく)かと思うておった」
 それ以前のあかねとの会話は聞いているはずであるから、これはやはり嫌みなのだろう。
 一瞬、嫌みの倍返しをしてやろうか、という考えが頭をよぎる。だが、友雅がそうするよりも前
に、
「あの…友雅さん?」
 つんつんと衣が引かれ、自分の注意を引いたあかねが、腕の中から話しかけてくる。
「ん?」
「木偶…って、何ですか?」
「ああ、それはね……」
 一旦、仕返しは脇へ置いて、少女の好奇心を満たすべく答を口にする。
 曰く、木偶(でく)とは木人(もくじん)ともいい、木を人の形に掘りだしたものであること。
 操り人形の意味もあり、自分の意志を持たず、他者の意のままに操られる存在をそう呼ぶのだと
いうこと、を。
 ところが、それを聞いた途端、 
「友雅さんはそんなものじゃありません!」
「…神子殿?」
 つい先ほどまでは、自分の腕の中で大人しくしていた少女が、怒りも露わに叫んだことにまたも
や驚かされる事になった。
 彼の腕の中から、身を乗り出すようにして、
「友雅さんにはちゃんと自分の意志があります! 誰かの操り人形なんかじゃ、ありません」
「……ほう…」
 いきなりくってかかられて、カエルも流石に驚いたようだった。
 大きく目を見開き、あかねを見つめる。
「友雅さんは、ちゃんとした人間です! とっても強くて、頼りになって、優しくて……ほら! 
今私が来ている衣だって、私が寒くないようにって友雅さんが自分から貸してくれたんです」
 その目の前で、ばたばたと大きすぎる衣の袖を振り、強調してみせる。
「誰かに命令された訳じゃありません。友雅さんが自分で…自分からそうしてくれたんです。だか
ら、そんな事言うのは酷いですっ」
 真っ赤な顔をして、言い募る。
「友雅さんに謝ってくださいっ」
 思いがけないあかねの反応に、最初、戸惑いを隠せなかった友雅の顔にゆっくりと優しい微笑み
が戻ってくる。
「良いのだよ、神子殿。私が君に全てをお任せしてしまっていたのは本当なのだから、そう思われ
ても仕方がない」
「良くなんて無いですっ!」
 憤りのあまり顔を真っ赤にしているあるあかねに、友雅は優しく話しかけた。
「ありがとう…君がそんな風に私のために怒ってくれることはとても嬉しいよ」
 先ほど見せた偽りのそれではなく、彼にしては珍しく心の底から沸き上がってくる喜びに裏打ち
された笑顔で。
「でもね、大丈夫。あちらの…カエル殿も本気で言ったのではないのだし、よしんば本当に私が木
偶だったとしても、神子殿のお為に働けるのなら、それはそれで嬉しいことだと私は思っているの
だから」
 たかがあのような他愛ない嫌みの一言にさえ、これほど真摯に自分のことをかばってくれる少女
に、そんなことは自分にとっては何ほどのこともないのだと告げる。
 しかし―――またも友雅の予想に反して、あかねは彼の言葉を聞くや否や、落ち着くどころかさ
らに取り乱した様子を見せたのだ。
「そ…んなっ! ……友雅さん、それ、本気で言っているんですか……?」
 自分の腕の中で身をよじり、逃れようとする様子を見せる。
「神子殿―――どうなさったの?」
 友雅には、訳がわからない。
「どうしたの? 私は何かおかしな事を言ったかい?」
 予想を裏切り続ける反応に、戸惑う。そうしながらも、激高するあかねを何とか落ち着かせよう
するのだが、そんな友雅の腕を振り切るようにして少女は雪原に飛び出してしまう。
 白く堅い雪の上に、うっすらと小さな少女の足跡が刻まれる。
 数歩離れたところで立ち止まったあかねが、友雅に背を向けたまま、ぽつりと呟いた。
「だって…それじゃ、友雅さんの『気持ち』はどうなるんですか?」 
「私の…『気持ち』?」
 追うもならず、呆然と立ち竦む友雅の耳に、あかねの声が聞こえてくる。
「誰かの命令で…私を守るんでも、良いんですか? 鬼や怨霊と戦って、怪我をしたり…もしかし
たら、死んじゃうかも知れないのに……誰かに言われたからって、それで……それで、死んじゃっ
ても良いんですか?」
「それは……しかし、神子殿。どのみち、八葉とはそう言う存在なのだよ?」
 友雅にとって、それは大前提である。
 龍神の神子と、八葉。その関係がなければ、そもそもあかねと彼との出逢いもない。
 神子を守る。それが己に与えられた使命であり、少女を知るきっかけとなったのだ。
 その為に己の身が危うくなろうとも、友雅にとっては、それは必然であり当然の結果といえた。
 だが。 
「私はそんなのは嫌ですっ」
 思いがけないほどの激しい口調。
「…誰か言われて…それで、友雅さんが私を守って傷を負うくらいなら……私、一人で戦った方が
いい!」
 あかねの口からこぼれ落ちるのは、そんな友雅を拒む言葉だった。
「神子殿っ?」
「誰かの命令だから守ってもらうなんて……私は、絶対に嫌っ!」
 いや―――正確には、それは拒絶ではない
 拒否の形を取りながらも、それは自分の『気持ち』を求めるあかねの心が言わせた言葉であるこ
とを、友雅は悟る。
『誰かに命じられたから』ではなく、彼自身の心からの行動が欲しいのだ、と。
 いわば、ある種の愛の告白とも言うべき言葉。
 勿論、あかねは自分の言葉が『そう』と分かってそれを発したわけではない。ただ心の中にある
思いをそのまま口に出しただけだ。
 彼の神子姫は未だ、過ぎるほどに幼く、自らの本当の気持ちにさえ気が付いてはいない。
 だが、それでも。
 友雅はその事実に体が震えるほどの喜びを感じてしまう。
 求める心は、自分一人のものではなかったのだ、と。
 計らずしも、見知らぬ異形の発した言葉が、この発見をもたらしてくれたことに、感謝の念すら
覚える。

 ところが。
 そんな友雅の密やかな喜びがたちまちの内に霧散してしまう事態が、その直後に訪れたのである。
 
 二人の様子に、初め呆れ―――その後からはなにやら考え深げな様子を見せていたそれが、再び
ゆっくりと口を開く。
「じゃが…な。娘よ。それほどまでにお前が想うておるその男が、この事態の元凶なのだえ?」
 憐れむような口調で。
「お前、そのことを分かって、尚、そう言えるのかえ?」 
「―――え?」
 驚くあかねの視線の先で、カエルが爛々と目を光らせながら友雅を凝視していた。
「この一面の雪世界。この地は、元はこのような場所ではなかった。なのに、ここにお前達が現れ
た途端にこの有様よ。それを成した力の源はさておき、原因はその男にある、と言うておるのじゃ」
「そんな…まさかっ」
「…な…んだとっ!?」
 あかねの声に被さるように、友雅の驚愕の叫びが辺りに響いた。
 それと同時に、轟っとばかりに、今の今まで無風状態であった四方から、突然どっと風が吹き付
ける。
「きゃぁっ!?」
「神子殿!!」
 その勢いに、体に巻き付けた衣を持って行かれそうになり、あかねが小さく叫ぶ。
 次いで、あまりにも強すぎる空気の流れに、ぐらりと姿勢を崩し、雪の上へと倒れ込みそうにな
るのをすんでの所で駆け寄った友雅が支えた。
「ほうら―――見るが良い」 
 そんな中、何故かそこだけが以前のままの無風の状態を保っている場所で、それが言う。
「そやつが心を乱した途端、この地が荒れた。この意味が分かるかや?」
 大きく裂けた口が、戸惑う二人を更に混乱させる言葉を紡ぐ。
「それ即ち、この何もない、凍てついた雪の原がそ奴の心の内の景色―――その証(あかし)よ」
「…世迷い言を…っ!」
 強風に負けじと、友雅は声を張り上げる。
 しかし、風の勢いはさらに激しさを増し、一旦は地に落ち着いていた雪をも巻き上げ、辺り一面
を白に染め上げていく。
「っ!」
 そのあまりの冷たさと激しさに、息が詰まる。 
「友雅さんっ!」
 自分を庇い、風に逆らうようにして立つ友雅にあかねが彼の名前を叫ぶ。
 至近距離からの声。だが、それさえも今の友雅の耳には遠く聞こえた。
 風に背を向けた友雅の衣にあっという間に雪が降り積もっていく。
 体感温度は、先ほどよりも遥かに低い。
 このままでは自分はともかく、単の上に一枚を重ねただけのあかねの体が保たない。
 ここはひとまず庵の中へと待避しようと、そう思い、白い帳の向こうにあるそこを確認しようと
視線を移動させる。
 ところが、
「…馬鹿なっ!?」
「友雅さん?」
 確かに、そこにあったはずの鄙びた庵の姿は彼の視界の何処にも存在しなかった。
 僅かに数歩離れただけで、その位置を見失ってしまったとは思えない。なのに、どれほど辺りを
探そうと、二人に小さな温もりと安心を与えてくれていたそれは、彼の視界の何処にも見当たらな
いのである。
「…ど…うしたんですか?」
 その友雅の同様を感じ取ったのだろう。抱きしめた腕の中で、不安げにあかねが彼を呼ぶ。
 それに平静を装い、短く言葉をかけつつも、懸命に辺りを探すのだが……。
「だから、言うたであろう?」
 そんな彼に、相変わらずそこだけは無風のままで、カエルの形をしたものが話しかけてくる。
「お前の心は、お前に口よりも正直のようじゃな。己の中には何もないと言うことを素直に認めた
と見える」
 抽象的な物言いながらも、友雅は直ぐにその意味するところを悟った。
「まさか……お前は、あれが私が作り出したものだというのか?」
 そんな事が可能なはずがない。
 だが―――そもそも、土御門の庭で月を見ていたはずの二人が、このようなところにいること自
体があり得ないことなのだ。
「そうでなければ、例えあのような苫屋とて、一瞬にしてかき消えるはずもあるまい?」
 この強風をついて、どうしてその声だけが鮮明に聞こえるのか?
 あり得ない。
「確かに、あれはお前が作りだしたもの―――その証しに、あれはお前の心の中にあるものをそっ
くりと写し取っていたのではなかったか?」
 もし、それが可能であれば、全てを投げ出し、鄙びた場所に小さな庵を建てて住んでみたい――
―と、どうしてそう願ったことがあるのを知っているのか?
 そのようなことが、あるはずもない。
「あれはお前の望んだもの。だが、それも結局は、儚く空しいもの、決して手にはいることはない
夢の中にしかあり得ないものだったのではないのかえ?」
 だが、それは叶わない夢でしかない、と。
 試すことも、それに向かって何かをすることもなく諦めてしまっていることを、どうして?
「……私は…」
 あり得ない―――そう信じたいのに、何故か、目の前にいる異形の語る言葉が真実だと思ってし
まう自分が居る。
「認めるが良い、さすれば楽になれる」
 しかし、そうは言われても……。
 本当に、自分の中にはひとかけらの夢も、希望も…何もないことを、どうしてそんなに簡単に認
められようか。
 まるで、本当に苦痛を感じているように、友雅はその長身を微かに折り曲げ、顔に苦悶の表情を
浮かべる。
「友雅さんっ! どうしたんですかっ!?」
 その様子を怪しんだあかねが、不安げな声を掛けてくる。
 だが、それに答える余裕は今の友雅には存在しなかった。
 見たくない事実から目を背けることも出来ず、冷たく荒々しい風に翻弄される。
 風が渦を巻き、二人の体を包み込み、凍り付かせようとうなりをあげる。
「友雅…さん……っ……友…さ……」
 風は、友雅が腕の中にしっかりと庇っていてさえ、あかねの呼吸を阻むほどに勢いを増していく。
 息が詰まる。
 声が出せない。
 耳の奥がきぃん…と痛むのは、気圧さえも変化しているせいなのかも知れない。
 そこへ。
 
「分かったならば、さっさと自分の心を静めぬか。この、愚か者」

 凛とした叱咤の声が、轟々と言う風の音を貫いて友雅の耳に届いた。
「言ったであろう? お前が心を乱す故、この地が乱れる。ならば、お前が心を静めれば、この風
も直ぐに止む」
 まさか、と思う気持ちと、そうかも知れぬ、と囁く心。
 今まで生きてきた中でも、最大級の葛藤が友雅に襲い掛かる。
 体の芯までが、冷たく凍り付くようだった。
 耳鳴りが酷くなり、自分を呼ぶあかねの声さえももう聞こえない。
 吹きすさぶ風は、そんな友雅と少女の姿を覆い尽くさんばかりに益々、勢いと激しさを増す。
 そして、もうこれ以上、耐えられない―――と、そう思ったとき。 
「いい加減にせぬか! お前…意地を張り続け、その娘までもを殺すつもりかえ?」
 何故か、それだけは鮮明に聞こえる声に、はっと自分を取り戻す。
 慌てて腕の中に注意を戻せば、風に呼吸を浚われ息も絶え絶えになりつつあるあかねの姿が瞳に
映る。
「神子殿……」
 その途端。
 そんな少女の姿を見た途端、友雅の中で小さな変化が起きた。
 荒れ狂う白い嵐に、ひたと視線を据える。
 次いで、しっかりと瞼を閉じ、その光景を視界から追い出すと、心の中に先ほどまでの静まりか
えった白い平原を思い浮かべる。
 さざ波一つない水面のような。
 磨き抜かれた鏡面のような、何もない―――何処までも平坦な雪の原を。
 此処が本当に自分の心の中を映し出したものであれば、自らがそれを制御することは可能なはず
だと、それだけを念じる。
 それは即ち、あれが述べたことが真実であると認めることに他ならなかったのだが、今の友雅に
はそんなことよりも、ただあかねの身を案ずる気持ちしかない。
 これが、己の真の姿であるというのなら、それはそれで良いではないか。
 そう思っていることをあかねが知れば、先ほどのようにムキになって怒るであろう事は容易に想
像できた。
 だが、所詮、数ならぬ身の上。
 これを受け入れることで、あかねが助かるのであれば、と。
 身の内で荒れ狂う感情を懸命に鎮めていく。
 そうして、やがて……。 
「…ようやく、認める気になったようじゃな」
 そこに、勝ち誇る響きはなかった。
 淡々と事実を告げるだけのその声に眼を開けた時。友雅の目に映る周囲は、再び静寂を取り戻し
ていた。
 それを確認した後、気力を使い果たした友雅の体が雪の上にがくりと崩れ落ちる。
 同時に、その動きにつれて腕の中のあかねもその場にへたり込むような形になった。
 強い風に晒され続けた体は、ひんやりとした雪の感触さえ温かく思えるほど冷え切っていたが、
あかねはそれを気力で奮い立たせ、自分を抱きしめる男をふり仰ぐ。
「友雅さんっ、しっかりして!?」
 しかし、その呼びかけに応える声は、友雅の唇から漏れようとはしなかった。
「友雅さんに、何をしたんですかっ!」
 寒さに強張った体を無理にも動かして、あかねはそれと友雅の間で、彼を守るように立ちはだか
る。 
 そんなあかねに、かえるの姿をしたそれは、淡々と静かな口調で語りかけてくる。
「お前にも聞こえていたであろう? そやつは、ようやく己の真実を認めただけじゃ」
「自分の……真実?」
 今ひとつ、状況が理解できていないらしいあかねに、教え諭すように告げる。
「そやつの心の内には、何もない。大切なものも、欲しいと思うものも、失いたくないと思うもの
も……な。それを認めた故、もうこれ以上動く必要がないことを、そやつは知ったのよ」
 自分が何をしたわけではない。全ては、友雅の心の問題なのだ、と。
 夢はない。
 望むものもない。
 過去に対する思いも、未来へと続くはずの希望も、何も。

 けれど、それはあかねにとっては絶対に承伏できない言葉だった。

「何でそんなことが分かるんですか?」
 雪の上に膝をついた姿勢のままで、うつろな視線を周囲にさまよわせている友雅に代わって叫ぶ。
「分かるのではない、知っているのじゃ」
「じゃあ、どうやってそれを知ったんです?」
「……お前、随分としつこく聞くが、それに何か意味があるとでも言うのかえ?」 
 相手の口調に、何処か面白がっているような響きがあることにも気が付いていたが、それよりも、
あかねの注意はもっと他の事柄に向いていた。
「ちゃんと確かめもしないで、変なことを言わないでくださいっ」
「…確かめる、とな?」
 よほどあかねの言葉が意表を突いたのだろう。相手の声が、ここに来て初めて微かに揺れた。
「此処が友雅さんの心の中だとしたら……そんなことあるわけ無いですけど! でも、もしそうだ
としても、本当にここは雪以外には何にもないのかってことを、です」
「そのようなこと、見れば直ぐに分かろうに…」
「だからっ! そうじゃなくてっ」
 自分がかつて生きていた世界の物理法則が、この不思議な世界でも通用するかは、正直言ってあ
かねにも分からなかった。
 それでも、この―――何もない、白一色の寒々しい世界が友雅の心の内と考えるのは、悲しすぎ
た。
 雪や雨が降るためには、大地と、そこを潤す水と、それを天へと運ぶ太陽の光が必要なはずだ。 
 永遠に降り続く雪と、それ以外には何もない世界など存在するはずがない―――と、自分に言い
聞かせる。
「少なくとも、雪の下には地面があるはずでしょう?」
「お前、それを本気で言っているのかえ?」
「当たり前です。それに、地面があればそこにはいろいろなものがあるはずです」
 どんなに厳しい寒さに閉ざされた場所でも、大地は死に絶えたわけでない。
 雪が消え、暖かさを取り戻す季節に備え、草や木は密かに、そしてしぶとく春の到来を待ってい
るはずだった。
「植物の芽とか……たとえば雪割草や、蕗の薹や…他にもたくさん!」
 生憎と現代っ子の彼女には、二つ以上の具体的な例を挙げることは出来なかったが、それでも言
いたい事は伝わったようだった。
 そんなあかねに、カエルは憐れむような視線を向ける。
「それが芽吹く大地があれば、確かに、な。だが、無駄な事じゃ…幾らお前がそう思いたくとも、
本当に此処には冷たい雪と氷以外の何も存在せぬ」
 しかし、あかねも此処で引き下がるわけには行かなかった。
「―――どっちが正しいのかは、雪の下を掘ってみればわかります」
「無駄じゃ。下の下の…ずっと、ずっと下まで、ここには雪しか無い」
「でも、そうじゃないかも知れ無いじゃないですか」
 まだ、正気に戻っていないのだろう。ぼんやりと自分たちのやりとりを見つめるばかりの友雅の
存在を、背中に痛いほど感じながら。
「だから、私はそれを今から確かめます」
 そして、それ以上の問答は無用とばかりに、その場に膝を付き、小さな手を雪に差し入れる。
「凍えてしまうぞ?」
「そんなの構いません」
「手が凍り、腕が凍り、体全てが凍り付き、凍え死ぬかも知れぬ」
「そうなる前に、地面にたどり着きます」
「何処にもそのようなものが存在せぬのに、か?」
「だから、そうじゃないことを証明するんです……もうっ! ちょっと、黙っていてください」
 そんな会話が交わされる間にも、あかねの手が平原に小さな穴を掘っていく。
 だが、根雪と化した雪原はあまりにも硬く、あかねが幾らがんばっても、掘り進める速度はほん
のわずかでしかない。
 しかも、そうする間にも、冷たい風に体温を奪われ、雪に突き立てる指先はたちまち冷たさに赤
く染まっていく。
「……無駄だと分かっているのにか?」
 そんなあかねにむかって、呆れたようにそれが言う。
「そのようなことをしても、そこには何もないと分かっているというのに……愚かなことを」
 同時に、その声には、自分の言葉をあかねが信じなかった事に対する怒りが、僅かに混じってい
るようにも思えた。
 しかし流石に、そこまで言い張るあかねを留め立てするつもりもないようだった。
 先ほどのように、瞼を半ばまで引き下ろし、横に広く裂けた口をぴったりと閉じる。
 どうやら、その姿勢のままで、しばらくはあかねのすることを静観すると決めたようだ。
 
 そんなカエルと、未だ呆然と膝を付いた友雅の目の前で、風の止んだ雪原をあかねは無言のまま
に掘り下げていく。
 静寂な世界に、微かな雪をかき分ける音と、少し荒いあかねの呼吸音のみがしばしの間、響いて
いく。
 「っ……ぅ……」
 冷たさは何時しか痛みに変わり、思わず小さなうめき声が口をついてでる。
 しかし、あかねはそれでも止めようとはしなかった。
 歯を食いしばり、痛みを無視して、手を動かし続ける。
 この白い雪の下には必ず、『何か』があるはずだ、と、そう信じて。
 やがて、痛みと冷たさに耐えかねて、あかねは一時作業を中断する。
 かじかんだ手に、はぁっ、と息を吹きかけ、衣のまだ乾いている部分で擦り、少しでも血行を取
り戻そうとする。
 その時、だった。
 小さな細い指を、それよりも大きく逞しい指がそっと包み込んだのは。
 驚いて顔を上げれば、驚くほど近くに友雅の顔があった。
「…友雅さんっ?」
「神子殿ばかりにお任せしてはおけないよ」
 いつの間にか、正気を取り戻していたらしい友雅が、あかねの直ぐ傍らへと移動してきていた。
「私をかばって…こんなに手が冷たくなるまで…」
「…聞こえていたんですか?」
「ああ―――最初からね。もっとも、初めのうちは何を言われているのかよく分からなかったのだ
けれど」
 照れたように小さく笑う。
 その表情には、先ほどの虚無の影は―――少なくともあかねには―――見えない。
「段々に意味が通るようになって……そのうちに、なんだか自分が情けなくなってきたよ」
 凍えた切ったあかねの手と同じくらいに、友雅の指も冷たかった。
 それは風と雪に体温を奪われたばかりでなく、彼の受けた衝撃の大きさを表しているようだ。
 しかし、あかねがそれを口にする前に決然として言う。
「本当に私の中には何もないのだとしても、それを確かめる位はやっても良いのではないかと思っ
てね。それに……何より、他でもない神子殿がこうまでおっしゃってくださっているのだもの。私
という人間も、そう捨てたものではないのかもしれないし」
「…友雅さん…」
「私は…自分の事を信用できなくとも、君だけは信じる事ができる。だから―――君の言うことに
賭けてみようと思うのだよ」
 そういうと、そっと手の内に納めたあかねの指に口づける。
「だから―――ここ、だね?」
 そう言うと、友雅の大きな手が、あかねが開けた穴の中に差し入れられ、さらに大きく深くして
いく。
 指を掠めた冷たい唇の感触に、一瞬、惚けてしまっていたあかねも、それを見てあわてて作業に
戻る。
 あかねは勿論、友雅の手も直ぐに赤くかじかみ痛みを訴えはじめたが、しかし二人ともそれ以上
は無言のままだった。
 ただ、忙しく腕を動かし、時折互いを力づけるように視線を合わせ、笑みを交わす。

 ―――その作業をどれくらい続けた頃だろうか。
 とっくの昔に手指の感覚は無くなり、爪の間には赤いものすらにじみ始めた頃。

「……あ…った……」

 小さなため息のような声が、あかねの唇から漏れた。
「―――何っ?」
 驚く声に、あかねが僅かに体を移動させる。自分たちが見つけたものが、かえるの姿をした存在
の視界に入るように。
「ほら……こ、こ…」
 体の芯まで冷え切り、凍えた唇をやっとの事で動かし、それだけを告げる。
 だが、その瞳は自分たちのやり遂げたことに対する満足感で、明るく輝いていた。
 そして、その腕が指し示している先にあるのは……
「菫、か?」
 雪割草の白でもなく、蕗の薹の緑でもない、小さな紅紫の花。
 それは、たった今まで雪の中に埋もれていたとは思えないほどの鮮やかさで咲き誇っていた。
「茜菫、だね」
「あかね…すみれ?」
 疲労のあまりへたり込んでしまったあかねの肩を抱くようにして、友雅が言う。
 肩におかれたその手が、自分以上に痛めつけられていることを知り、あかねの目から熱いものが
こぼれ落ちる。
「友雅さん……ありがとう……ごめんなさい…」
「―――どうして、君が謝るの?」 
「…だって……」
 唇が上手く動かない。そして、それ以上に何をどう説明すればいいのかも分からない。
 それでいて、次から次へと涙ばかりがこぼれ落ちてしまう。
「また『だって…』かい? 今日の君は、そればかりだね」
「ご…ごめんなさい…でも……」
 訳も分からず泣いてばかりでは、友雅も困るだろう、と。懸命に涙を堪えようとする姿がいじら
しい。
 胸の内にこみ上げてくる愛しさに、友雅は茜の頬を流れ落ちる涙を唇でそっと吸い取った。
「!」
 突然のことに驚くあかねに、友雅はその心の中の想いをそのまま口にする。
「ありがとう……本当に、ありがとう。あかね」
 知ってはいたが、それまで一度も呼んだことのない少女の真の名と共に。
 そして、その言葉が発せられると同時に、
「―――おおっ!」
 今度こそ、正真正銘の驚愕の叫びが、かえるの喉から絞り出された。

 あかねと友雅の目の前で。
 雪の下から現れた小さな赤い花が、一瞬、柔らかく明るい光を放った。
 その直後、そこから辺り一面に茜色の光が広がっていく。
 そのあまりの目映さに、思わず目を覆ってしまった二人が、次に瞼を開けたときに見たものは―
――それは、辺り一面を覆い尽くさんばかりに咲き誇る一面の花の絨毯だった。
 何万、何十万、何百万というおびただしい数の菫の群生。
 それが地の果てまでも続く風景を、三名の目の前に描き出していたのである。





 

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