◆ 月幻夢譚 ◆

 

 四 




  ―――――月の光は人を狂わすのだと言う。
         青白い光に魅入られて、人は狂うのか。
         晧々と照る月の光は青く冷たい―――――


  突然引き寄せられ、抱き締められて。
  あかねは、抵抗するより怒るより前に、ただただ驚き呆然としていた。
  男の、熱く逞しい体が目前に迫っていると言う事実に感覚が麻痺し、それを受け入れるまで相当
 の時間を要していた。だが、それを認識した頃にはあかねも落ち着いており、そして、友雅が戯れ
 で自分を抱き寄せたのではないことに気付いていた。
  友雅の張り詰めた気配は、痛いほどに少女の神経を刺激する。産毛が逆立ち、息をするのさえ躊
 躇わせるほどの男の覇気に、あかねは気圧されていた。ただ、嵐が過ぎるのを待つ子犬のように、
 男の胸にしがみ付きながら、じっと動かずにいる。友雅の気を散らしてはならないのだと、それを
 知った。
  一方友雅は、部屋の隅、調度が寄せられている場所を睨みつけていた。
  乱雑に置かれた埃の被った幾つかの調度は、庵の端に置かれた燈台の不規則に揺れる火のため、
 複雑な影を形成していた。その影の群集の中に、突如として全く別の影が一瞬現れたのである。気
 配など全く無い、敵意も悪意も善意も好意も、感情というものが何も全く感じられない影だけが、
 ぽつりと現れたのである。
  無論、それが神子を害するものかは分からない。だが、それと知ってからでは遅すぎるのである。
  友雅は咄嗟に少女を抱き寄せ庇ったものの、影は一瞬にして掻き消えてしまった。油断なく辺り
 を窺うが、先ほどと同じく、人どころか生き物の気配すら感じられない。
  余りの寒さに風さえも凍りついたのかと、そう思うほどに全くの無音であった。
  睨み付けているそこに、これ以上変化が見られないと判断した時、友雅は僅かに体の力を抜いた。
  それは、身じろぐことさえ出来ぬほど強く抱き締められていた少女にも伝わり、もういいのだろ
 うかと考えた少女は、少し頭を動かして訪ねた。
 「どうかしたんですか?」
  あかねは、少し不安を滲ませた声で尋ねる。友雅がまだ強く抱き締めているため、あかねは体を
 動かすことが出来ない。友雅の優美で繊細な外見からは想像できないほど、武官としての逞しい腕
 と厚い胸板は、枷としての役割を充分に果たしていた。
  あかねは友雅の腕に囚われたまま、小首を傾げて見上げていた。
 「ああ、痛かったかい?」
  そう言って、友雅は少し力を抜いた。だがそれは、少女を解放する為ではなかった。
  この小屋は、二人が全く知らぬ土地へと連れられ、そこで他に見える場所、行く場所がなかった
 から入ったのである。だが、もしも何らかの意図が働いているのだとしたら、誘導されてここへ来
 たのだと言える。それが悪意で無いと、どうしていえようか。あかねは、この世にただ一人龍神と
 意思を交わすことのできる、龍神の神子なのである。彼女を手に入れることで、京を救うことも滅
 ぼすことも思いのままだ。友雅は、自分の腕にいる方が、咄嗟に庇いやすいと判断し、こうして苦
 しいほどに強く抱き締めているのである。もしも影が自分達の直ぐ側に現れた時、ほんの刹那の時
 でさえ、致命的な結果を招く可能性があるのだ。
  友雅の意図はともかくとして、何がどうなっているのか分からないあかねは、そのことが知りた
 くて訊ねてみる。
 「すみません。あの、何が、起こっているんですか?」
  あかねの言葉に、友雅が苦笑した。それは、友雅にも分からない。
 「すまないが、私にも分からないのだよ。……気のせいかもしれないし、そうじゃないかもしれな
 い。どちらにせよ、もうしばらく我慢しておくれ」
  どちらかと言えばおどけているようにさえ聞こえる言葉だったが、あかねは彼が酷く緊張してい
 るのに気付いていた。
  あかねが少し体を動かそうとするだけで、友雅の腕には力が入る。その途端、抱き締められてい
 るあかねの肩は、思わず悲鳴を上げたくなるほどの痛みを受けるのだ。
  あかねは、少し体勢を楽にさせるように動くと、後は友雅の気を削がないように、先ほどと同じ
 くじっとしていようと決めた。
  友雅は、最初に抱き締めてきた時よりも、ずっと穏やかな表情を浮かべている。表面的には、普
 段と同じような泰然と構えた態度をとっている。それでも、雑談をするには緊迫しており、友雅も
 それを望んでいるようには思えなかった。
  少女が、重い溜息を吐いた。
 「大丈夫だよ、私が居るといっただろう?」
  あかねの不安を感じたのか、友雅はそう言って笑う。その笑みは、鮮やかで柔らかく、それだけ
 で、あかねは安心して、大きく頷き体の力を抜いた。友雅が、傍にいるのだ。
  そして、幾ばくかの時が過ぎる。
  しかし、どれほど待っても、何かが起こる気配は無い。また、日常的に戦うことなどありえない
 少女にとって、このように全く会話も無くただ座っているだけという状況は、非常に退屈で窮屈な
 ものであった。
  こてんと、あかねが友雅の胸に頭をもたせかかる。月光によって雪の中へと連れられて、それで
 も恐怖を感じないのは、この暖かな男が側にいるためだとあかねは思う。彼のゆったりと構えて見
 せる態度に、あかねも彼がいれば大丈夫だと、そう信じてしまうのである。友雅の体温を感じなが
 ら、あかねはあまりの安心感に、眠ってしまいそうになる。
  友雅の衵をぎゅっと握り締め、あかねは必死で眠気を払おうとするが、どうしても瞼は仲良く閉
 じてしまおうとする。この京へ来てからずっと夜が怖く、どれほど体が疲れていても衾の中では目
 が冴えて、なかなか眠れなかったことを思いだした。
  眠い。
  あかねは必死に耐えようとするものの、結局、友雅の体の温もりが心地よく、規則正しい寝息を
 いつのまにやら立てることとなってしまった。
  友雅は、突然あかねが自分に体重をかけてきたことに驚き、慌てて下を見た。灯台の光は頼りな
 く、一瞬少女が気を失ったのかと不安に駆られたが、あかねが単に眠っているだけだと知り、ほっ
 と肩の力を抜いた。
  だが、これから何が起こるかわからないというのに、そして、自分のような男に抱き締められて
 いながら、安らかな寝息すら立てて眠るとは。信頼されていると喜ぶべきか、男と思われていない
 と悲しむべきか。いや、それとも想い人となる資格はないと、そう言っているのだろうか?
  友雅が、あかねの髪を軽く撫でる。すると、少女は更に友雅に擦り寄るように、衵を握り締めて
 くる。揺れる前髪が友雅の肌蹴た胸元を擽り、甘やかな感覚が友雅の背筋に走る。今は、そのよう
 な状況ではないことを一番悟っているのは、友雅本人である。というのに、甘美な誘惑に惹かれる
 自分を知った。
  月光は、人を狂わせるという。
  傍らの灯台の光はあまりに頼りなく、むしろ隙間から差し込む青い光の方が明るく感じられる。
 その光によって、少女の細い首筋は白く浮かび上がり、妖しく男を誘っていた。鼻腔を擽るのは、
 少女の女としての甘やかな体臭だ。男の身につけていた侍従の香りと、僅かに違うそれが、友雅を
 刺激し引き寄せる。
  男が男である限り、その誘惑に勝てるものなどいない。
  知らず、友雅は少女の項へ唇を落としていた。処女雪にも似た白い肌は、男の唇を受け入れ鮮や
 かに一輪の花を咲かせる。
  更に先を求める為、濡れた舌先が少女の肌に触れる。
  途端、少女が目を開けた。
  あかねは自分を支える男が、痛みを訴えるほど強く抱き締めてきたのに目を覚ましたのである。
 眠ってはいけないと、そう思っていたため、普段ならば絶対に目覚めない程度の刺激でも、目を開
 けることが出来た。
  とはいえ、完全には目覚めていない。男が自分の首の付け根に顔を埋めており、強く抱き締めて
 いるのを知って、先ず思ったのは友雅の体の調子が悪いのか、ということである。目覚めたばかり
 のどこか鈍い感覚では、友雅が自分の肌を吸ったことさえ認識できていない。
 「友雅さん……? 大丈夫ですか?」
  あかねの言葉に、はっと友雅が顔を上げる。
  相手の意向を無視したやり方は、友雅の最も軽蔑するべきことである。にもかかわらず、友雅は
 自分がそれを行おうとしたのを知り、愕然とする。
  あかねからは見えないが、その首筋にはどう言い訳しようとも、逃れようの無い赤い花弁が一つ
 艶やかに散っている。それは、友雅の罪の証である。
  それを認めた友雅の顔色は、月の光を受けて蒼い。
  あかねが、友雅の頬に手を伸ばし、大丈夫かと再度訊ねた。
  そう訊ねる少女の顔色も、友雅の目には蒼く見えた。
  月の光だ。
  閉じられた戸の隙間から、僅かに洩れ入る月光が、手元の燈台の明かりをも上回り、二人を照ら
 して蒼く染め上げているのだ。
  少女が不安そうに視線を巡らし、友雅を見上げてくる。その瞳は、甘く濡れて男を誘っているよ
 うにさえ見える。だが、そんな筈は無い。あかねが媚態を知るはずが無いのだ。
  月の光は、人を狂わせる。
  だが、月の光はこれほど強いものだっただろうか?
  いや確かに、この光は、余りにも強い。まるで、真昼のようである。
  その異常に気付いた友雅が、少女を振り切るようにして立ち上がった。
  あかねは友雅の動きについていけず、床に手をついてしまうが、慌てて友雅の後を追った。不安
 からか、縋るものを求めて少女が友雅の袖を握り締めたが、友雅はそれをさせるままにしておく。
  立て付けの悪い戸が、軋んだ音を立てて開いた。
  途端差し込む目を射るほどの、強烈な月の光。思わず目を閉じ、庇うように腕を上げる二人の前
 に、奇怪な風景が広がっていた。
  真っ白な雪だ。
  少し濡れたような表面の雪が、青白い月光を反射し、この小屋を包んでいる。
  見渡す限り足跡一つ無い、完全な雪原が、広がっていた。
  辺りを見渡せば、冬枯れの木が立ち並びその向こう側に青白い月が覗いている。
  いや、月こそが、自分達を見つめているのか。
  友雅は、思わず月を睨みつけてから、そっと跪き手を伸ばし雪に触れる。固い。これは、先ほど
 降った雪ではありえない。ならば、友雅たちがここへ来た時の足跡は、残ってしかるべきである。
 なのに、それが無い。
  友雅が、立ち上がり少女を振り返る。あかねも、その異様さに気付いたのだろう。血の気の失せ
 た顔で、友雅を見上げていた。何が起こっているのか、また、起ころうとしているのか。
  歯の根が噛みあわないほど震えるのは、寒さのせいではないのだ。
  はっと、少女が友雅の視線を促す。
 「友雅さん……っ!」
  掠れた絶叫に、友雅が顔を上げる。指し示されたそれに、友雅も息を飲んだ。
  友雅が咄嗟に少女を引き寄せた。いや、それとも少女が友雅にしがみ付いたのが早かったか。互
 いのぬくもりだけが、今、信じられる現実の全てである。
  目を疑うものが、そこに現れたのだ。




 

罪の証

 

 

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