◆ 月幻夢譚 ◆

「会って」「お話」

 

 参 



  後日、全てが終わったあと、あれこれと理由は沢山つけることが出来た。
  神子の物忌みが近かったからだとか、京に降臨し日も浅く、五行の力が安定していなかったせい
 だとも…。
  ただ、友雅はあの日を境に自分とあかねが間違いなく変わった事を知っている。

 「もうっ! 友雅さんったら、からかってばっかり!」
  あかねは真っ赤になってぶん、とこぶしを振り上げる。
  降りてきたそれを素直に身体に受けても、少しも痛くなどないことくらい承知していたが、この
 時の友雅はあかねを存分にからかうつもりでいた。
 「おや、こわいこわい」
  楽しげに笑いながら、友雅がひょいと身体をかわすと、かわいらしいこぶしは行き場を失いあか
 ねは身体の均衡を崩した。
 「きゃっ?」
  欄干からあかねの身体が大きく乗り出す。
 「おっと! 危ない」
  友雅があわてて差し出した腕の中に単姿の少女が転がり込んで来るのと、朧月夜にも関わらず、
 月光を束ねたような強い金色の光に二人が包まれたのはほぼ同時だった。

  桜が咲いていたはずだった。
  月は朧にかすみ、吹く風はやわらかく暖かかったはずだ。
  しかし、友雅とあかねが気が付いたとき、そこは一面の雪景色だった。
 月が煌々とその雪原を照らし、その変化のない風景にただ一つ、白絹に零れたシミの様にポツリと
 雪に埋もれかけた庵が遠くに建っていた。
 音もなく、ただ絶対の静寂が支配するその犯しがたい世界の中で、呆然と雪の中に座り込んでいた
 二人の目が出会う。
 「…ここ、どこ…?」
  まったくもって当然の問いかけに、だが、友雅は答える事が出来ない。
  青白く鋭い月光は雪に跳ね返って、あたりは昼間の様に明るい。
  シンと静まりかえったその景色に、あかねは僅かに恐怖を感じ友雅の直衣にしがみつく。小さな
 身体が寒さだけではない震えに揺れた。
 「…静か過ぎて…なんだか、こわい…です」
  カタカタと震える身体をとっさに抱き寄せ、友雅は少女を抱き上げる。あかねは素足の上に、薄
 い夜着一枚の姿だったのだ。
 「友雅さん?」
  あかねがびっくりして身体を強張らせるが、友雅は安心させるように微笑みながら言った。
 「ここが何処で、いったい私たちに何が起こったのか…まぁ、それは後回しにしないかい? 神子
 殿? このまま雪の中に突っ立ていては、貴女も私も風邪をひいてしまう」
 「あ、そうですね。でも、わたし自分で歩けますよ? 重いですし、降ろしてください」
 「ああ、あなたの可愛らしい御足にしもやけが出来たら、私が他の八葉や藤姫に叱られてしまうよ。
 さ、しっかりつかまって、ね? 貴女は羽の様に軽くていらっしゃるから気にする必要はないよ。
 あの庵までは私にまかせなさい」
  否を言わせないその流れるような言の葉に、あかねは思わず頷いてしまっていた。
 「はい」
  まだ会って日も浅い異性に抱き上げられるという、普通の少女が体験するにはかなり心臓に悪い
 状況下で、それでもあかねが友雅の首に恐る恐る腕をまわすと、地の白虎は龍神の神子を抱いたま
 ま変化の無い景色の中の唯一の建物に向かい歩き出す。
  あかねはほてった頬を隠すために俯いていたので、自分を抱く友雅のその表情を見ることは無か
 った。
  それは誰も見たことが無いほど、真剣なものだった。

  多少の怪異ならば対処も出来ただろう。
  時空を越えてきた少女を守る八葉たる身に、何が起ころうとそれは神意のはずだ。
  だが、これは友雅の予想の範疇を大きく凌駕していた。
  ここは友雅の知るどんな所でもなかった。
  よしんば、時空を越えたのなら…そこは、少なくとも生き物の気配がするはずだ。
  そう…、この青白い空間に彼の知る命の持つ者の気配が只のひとつも無かった。
  あかねと友雅は、この不思議な月の光で満たされた世界に、ただ…
 本当にただの…二人きりだったのだ。

  ガタリ、と木戸を開けると、その小さな庵に月光が踊り込む。
  その小さな建物の中には驚いた事に火の気があり、中央に無造作に置かれた火桶がほんのりと内
 部を暖めていた。
 「…」
  あかねがぎゅっと男の首にしがみつく、が友雅は安心させるようにおどけて見せた。
 「随分用意がいいね? まぁ、これで冷えた身体も温まるものさ」
 「でも、友雅さん…」
 「大丈夫、私がついているよ」
  あかねがこれより後、誰よりも友雅を信頼しつづけたのは、確かにこの事件がきっかけだったか
 もしれない。
 少女は余裕に満ちたその言葉にほっと安堵の溜息を漏らす。
  友雅は火桶の側にあかねを降ろすと、一瞬迷った後自分の直衣を脱ぐと少女をすっぽりとおおっ
 た。
 「あの…」
  牡丹を鮮やかに染め抜いた白絹の直衣を被ったあかねが、戸惑いの声を上げると、友雅は苦笑と
 共に囁いた。
 「こんなわけのわからない場所で二人きり、男と女、というには神子殿はまだ幼くていらっしゃる
 けれど、それでもね? 神子殿の単姿はなかなかにそそるものがあるのだよ」
 「そ? そそる?」
  クスクスと声を殺して笑う地の白虎を、あかねは真っ赤な顔で睨む。
 「まぁ、だから着ていらっしゃい。正直な所、単姿のままでは本当に風邪をひいてしまわれる」
  そう言いながら、友雅は火桶の中の炭をかきたてると、空気に触れた炭が橙色に色づき、ほんわ
 りと二人に暖気を運ぶ。

  何時の間にか直衣をすっぽりと被ったままのあかねが、友雅のすぐ側に座り込んでいた。
 「まだ、闇が恐ろしい?」
  男の問いに、龍神の神子はふるふると首を振る。
 「明るくても怖い事ってあるんですね…友雅さんが月の光の事、不吉とか怪しいって言ったの、な
 んとなく解ったような気がします」
 「月のせいだと、思われる?」
  あかねは小さく頷くと続けた。
 「だって…ほら、私が欄干から落っこちそうになったとき、金色の光に包まれませんでしたか? 
 あれって月光ですよね?」
 「そうだねぇ、月が私たちに嫉妬したのかな?」
 「友雅さんっ」
  あかねは再びこぶしを振り上げ、今度こそポカポカと友雅を叩いたが、それは地の白虎が考えて
 いた通り少しも痛くは無かった。

  誰もいない、月光に満ちたその青白い世界にただ二人、小さな東屋の小さな火桶に寄り添って語
 らう。八葉と龍神の神子としてではなく、異界の少女のおしゃべりと、それを揶揄しからかう男の、
 他愛ない会話だ。
 「ほぉ? それでは神子殿の世界では、夜は灯火の方が月より明るいのだね?」
 「そうです。電気っていって、昼間みたいに明るいの、夜でもちゃんとどんな小さな字の文だって
 読めちゃうんですよ?」
 「ふむ…では、恋人の元に忍んでいくのにはどうするの? そんなに明るくては、すぐ見つかって
 しまうだろう? それとも、神子殿の世界には恋人は人目も忍ばず逢瀬を交わすのかい?」
 「えっと…」
  あかねが答えにつまって口ごもると、友雅は「ああ」と呟いてから、少女をからかった。
 「ひょっとして、神子殿はあちらの世界にいた時も、悩ましく心を騒がせた方がいらっしゃらない
 から、ご存知ない?」
  図星をつかれ、あかねはグゥと唸る。
 「あちらにいた時も」という「も」に引っかかったが、実際その通りなので何も言い返せない。
  それでもなんとか体勢を立て直すとあかねは反撃を試みた。
 「わたしのいた世界では、女の人はちゃんと男の人と会って、お話して、それから恋人になるんで
  す。わざわざ隠れたり、忍ばなくたっていいんです」
 「ふぅん? それじゃ、今の私たちの様ではない?」
 「え…?」
 「ほら、今、私と神子殿は、ちゃんと「会って」「お話」しているよ? ふふ…そう、私は神子殿
 の想い人たる資格があるという訳だね?」
 「友雅さんっ?」
  あかねの小さな叫びは、いきなり抱きすくめられた男の胸の中に飲み込まれた。




 

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