◆ 月幻夢譚 ◆

 

 弐 




  先の春に、龍神の神子として異界から召還された元宮あかねという少女は、一言で言えば、この
 京において異質な存在であった。
  神子に仕える星の一族の藤姫や、神子を守るために選ばれた八葉たち、元より京の人間である者
 にとって、彼女の一挙手一投足が彼らの想像を超える、破天荒な娘だ。一見しただけでは、とても
 高貴で霊妙たる神子姫と信じることは難しく、そのことを悪し様に言い立てる者もないではなかっ
 た。
  しかし彼女は紛うことなき龍神の神子であることを、すぐに自らの行動で示してみせたのだ。
  迷いつつも、京の土地から五行の力を難なく引き出し、具現化し、身の内からあふれるような神
 気を隠しもせずに、怨霊にすら周囲が呆れるほどの慈愛を見せて封印し、端から穢れを祓っていく。
  彼女に恐れるものはないのだろうかと、何の因果か、八葉のうち、地の白虎に選ばれた橘友雅は
 思ったものだ。
  そう、彼女は誰の目にも明らかに特別だ。身なりも言動も、京の者とはまったく違っている。近
 くにいれば、つい目で追わずにはいられないような、そんな少女を、ただの興味本位だけでなく見
 つめるようになったのは、一体いつからだったろう。


  左大臣家である土御門殿は、京でも指折りの名邸である。
  その土御門殿の西の対の奥にひっそりと龍神の神子のためにしつらえられた一角があった。
  昼の間は、蔀(しとみ)はもちろん、場合によっては御簾すら巻き上げられ、開け放された部屋
 は、異界から来た神子と同様、異質だった。
  友雅は龍神の神子には、以前より興味を覚えていたから、彼女の降臨のあと、帝への報告は他者
 に任せて、すぐに土御門へと出かけたのだが、初手から、ずいぶんと驚かされたものだ。
  それは、確かに、ちょっとした退屈しのぎの対面であったはずだった。けれど友雅は神子に会っ
 て言葉を交わし、初めて八葉の役目もそれなりに楽しめそうだと思ったのだ。

  左近衛府少将であり、名うての色好みとして通っていた友雅にとって、土御門殿は、左大臣が揃
 えた美しい野辺の花々を気易く愛でられる、なかなか居心地のいいところであった。
  だが、清らかな龍神の神子の住まうところとなり、己も八葉の一人となってしまっては、これま
 で通り、たわむれの逢瀬に気軽に立ち寄ることも、さすがに、はばかられる。
  とは言え土御門殿は大きい邸宅だ。神子の寝起きする西の対でさえ悪さをしなければ、さして問
 題も起きないと考えた友雅は、最初のうち、八葉の勤めついでに夜はつれづれをなぐさめに通える
 ものとたかをくくっていた。
  そんな友雅の内心を、藤姫あたりが知れば、烈火の如く怒ったろうが、元より友雅の知ったこと
 ではない。他人の思惑も、情熱も、友雅には関係がなかった。八葉の使命も同じことだ。それが役
 目なら、やれと言われれば、それなりにやる、その程度のものなのだ。


  その夜は春の月が美しかった。
  だから、たまたま参内した帰りの夜に様子見がてら土御門を訪ねていた友雅は、ついでのお遊び
 に暗い御簾内でろくに見ることもない花とたわむれるより、目の前に広がる散り来る花に朧月の風
 情を愛でる方を選んだ。
  土御門の西の対の庭は、藤姫の心入れで神子のために格別に調えられたそれは見事な庭で、まる
 で庭を吉野の山にでもするつもりかと思うほど、何本も植えられた桜の木々が、月光の下、花を散
 らしていた。花びらは池にも散り落ちてたゆたい、闇の水面に映る月に雲をかけているようだ。
 「朧月夜にしくものぞなき──か」
  桜の下をそぞろ歩きながら、友雅は何気なく神子がいる西の対の方を見た。月も朧な夜半である。
 もちろん蔀は降りていて、戸締まりも抜かりないのだろう。透廊の灯籠の火は月明かりを妨げるほ
 どではなく、西の対の南正面の簀の子には人影もない…………はずの、高欄の側に、とうの昔に奥
 で体を休めていなければならないはずの、あかねの姿があった。
  少女は高欄にもたれて一心に月を見ていた。

 「姫君が夜更けに、こんなところで月明かりなど浴びていてはいけないな」
 「友雅さん!! なんで…………」
  桜の影から簀の子へと歩み寄り、高欄を挟んで上と下で向き合うと、驚きに目を見開いているあ
 かねの顔が友雅に見えた。
 「何故と聞きたいのは私の方だよ」
 「あの……それは」
 「今宵は頼久はいないの? いつもならこのあたりで宿直(とのい)していると思ったのに」
 「左大臣様についてお出かけだそうです」
 「……そう。だからと言って、君が今ここに出ている理由(わけ)にはならないね」
 「えっと…………」
 「月の顔見るは忌むことと知らないのかな。月を見てもの思いにふけったり、月光に打たれたりす
 るのは不吉なことだよ」
 「そ、そうなんですか? だってきれいなお月様を見てるだけなのに」
 「あやしい気持ちになるだろう?」
 「………………」
  あかねは腑に落ちないといった風情で友雅を見た。
 「気にかかることでもあるのかい? 神子殿を物思いに沈ませるのは何だろう。月の世界が恋しく
 なった?」
 「月が恋しいって、私が? なぜですか?」
 「ごめんごめん、いいんだよ」
  こういった時に物のあわれを語る少女でないことは、わかっていたはずなのに、ついこんな言い
 方をして相手を試してしまうのは友雅の悪い癖のひとつだった。
  しかし、あかね相手だと、友雅が計った反応が決して返ってこないところが、また新鮮なのも事
 実である。

 「ここの方が中より明るいし……月って明るいんですね。知らなかったです、私」
 「明るい方がいいの?」
 「……できれば」
  天下の左大臣家だ。神子の部屋によもや燈台がないはずはない。休む時は少しは火を小さくする
 かもしれないが、もし神子が望めば、煌々と照らすごとく誰ぞに夜通し火の番をさせるのも可能だ
 ろう。
  しかし少女はそういうことには思い至らないようだった。
 「部屋、広すぎるんです。私、こんな広いところで寝たことなくて。天井も高くて見えないし……
 真っ暗で何かいそうで……。火を灯していても、ほんのまわりしか見えないでしょう? でも明る
 くして誰か一緒にいてくださいって頼むのも悪いし……」
  あかねは本気で少しおびえているようだった。友雅は、あかねの育ってきた異界の夜がどうやら
 根本的に京の夜とは違うらしいと思い至った。
 「不思議な人だね、君は。普段、あれだけ得体の知れない怨霊に敢然と立ち向かっておられるのに、
 ただの闇が怖いのかい?」
 「だって、私が直接戦ってるわけじゃないでしょう。八葉のみんなが一緒で、守ってくれて。ちゃ
 んと何かわかって見えてるものなら、こわくないです。わからないからこわいんじゃないですか。
 こう、いつ何が出てくるかわからないみたいな……」
 「何かいる……ね。神子殿が感じるなら、本当に何かいるかもしれないね」
 「とっ、友雅さん……っ!」 
  あかねは欄干にひしとしがみつき、友雅の目の前に乗り出さんばかりだ。
 「しかし、まさか夜明けまで、ここにいるつもりじゃないだろう?」
  友雅は今や完全に面白がっていた。
  そもそも、あかねが恐れるべきは、自分の寝間の闇ではない。あかねの居所は幾重もの結界がは
 られている。万が一にも彼女を穢すような『何か』が入り込む余地はないだろう。
  本当におそろしいのは、友雅のような男の前に、夜中にひとり無防備にあることかもしれないの
 だが、少女はまったく無垢で眩しいほどだ。
 「ここで君が私と会うのも縁というもの。姫君を守る役目を仰せつかりましょうか」
 「友雅さん、いいんですか? 何かご用事があっていらしてたんじゃないですか?」
 「君に会いたくて忍んできたとは思わないのかな?」
 「は?」
 「ふふっ。──独り寝のわびしきままに起き居つつ月をあはれと忌みぞかねつる──ってね。神子
 殿も、どうしてなかなか悩ましいよ」
 「…………友雅さん、どんな意味か聞いてもいいですか?」
 「そのまんまの意味さ。独りで寝るわびしさに起きていると月にあわれを感じて、とても忌むこと
 などできないっていうわけだろう? 闇が恐ろしいのは独りで寝ているからだ。何なら添伏して差
 し上げようか? 二人寄り添っていたら闇も優しいものさ」
 「友雅さんっ!!」

  まさか、本当に何かが起こるとは思ってもみなかった。
  みんな月のせいだ。今なら、友雅にもわかる。
  彼女は月の姫君で、友雅の桃源郷の月だったからだ、と。




 

月の顔見るは……

 

 

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