◆ 月幻夢譚 ◆

閨の語らい

 

 壱 



  寒月が皓々と照りつける、美しい冬の夜。
  凍り付くような大気は、かんと澄んで、真白きその光を大地へと繋いでいる。
  常若の木の葉にも既にうっすらと霜が降り、さしもの都大路にも人影は絶えていた―――そんな
 時刻。


  蔀戸をおろし、屏風と几帳を幾重にも巡らせた、その奥。
  帳で被われた御帳台の上で、小さく身じろぎをする華奢な影。
  薄闇の向こうを見透かそうとするように、つぶらな瞳を大きく見開き、自分の傍らで仰臥する逞
 しい男の胸に、そっと指をはわせる。
  絹の単衣に包まれた肌の上を彷徨う細い指。
  そんな彼女に、
 「どうしたの、あかね?―――まだ起きていたの?」
  男のよく通る美声が、掛けられた。
 「………ごめんなさい……起こしちゃいました…?」
  その声に、びくりと体を震わせる。
  男は、自分にぴったりと細い体を沿わせた少女の申し訳なさそうな言葉に、微笑みを返す。
 「いや、まだ眠ってはいなかったから―――」
  そうしながらも、改めて綿を入れた衾を肩まで引き上げ、鍛えあげられた力強い腕で優しく抱き
 寄せる。
  それは、ほとんど無意識のうちに行われた、万が一にも彼女が寒い思いをしないようにとの配慮
 で、勿論、彼女にも直ぐにそのことは伝わったようだった。
 「ありがとうございます、友雅さん」
  生真面目な礼の言葉と、嬉しげにすり寄ってくる暖かな体。
  その動きに、ほんのりと好む侍従の香が薫る。
  彼自身が纏うそれとは、どこか違う柔らかで優しげな薫り。
  そんな少女に、友雅は僅かにからかうような口調で囁きかけた。 
 「それにしても、めずらしい、ね」
 「…なにが、ですか?」
  その意味をはかり損ねたのか、きょとんとした問いが戻ってくる。
 「何が珍しいんです?」
  重ねて問いかけてくる様子には、意味を理解した上で駆け引きを企んでいるような素振りは全く
 見えなかった。
  自分という歴とした夫を持つ身にしては、あまりにも頑是なくあどけない。
  好奇心を憶えた子供のような素直で率直な問いかけに、薄暗がりの中、密かに苦笑する。
 「君がこんな時刻まで目覚めていることが、だよ」
 「…それって、変ですか?」
 「ん?……ああ、そうだねぇ……」
  そんな妻に、なんと言って答えようか、と言葉を濁しながら思いを巡らせる。
  ところが、
 「…友雅さん?」
  その一瞬の逡巡を何と取ったのか、少女の声に僅かながらも不安の色が混じる。
 「もしかして、私、また変なことしちゃいました?」
  あんな風に触れたりしてはいけなかったのだろうか、と。
  僅かに顔色を曇らせ、尋ねてくる。
  それは、常に、まだまだ『こちらの世界』に慣れる事が出来ないでいる己を意識しているせいな
 のだろう。
  この世界での常識を知らず、出来て当たり前と思われていることのほとんどが出来ない。
  和歌の一つも詠めず―――そもそも、こちらの(彼女にとっては)ミミズがのたくったような文
 字を理解することから始めなければならなかった。
  夫の好む『雅』を理解する事も、香を合わせること、楽器を奏でること等も学びはじめたばかり
 で、まだまだおぼつかない。
  何より、恋の駆け引きの手腕などというものは、欠片も持ち合わせていない―――過ぎるほどに
 子供っぽい『自分』。

  そんな自分に、地位と実力を兼ね備え、何より魅力と能力に溢れた大人な彼の『妻』でいる資格
 が、本当にあるのだろうか?

 「…あかね?」
  彼女の不安を敏感に感じ取ったのか、友雅の声が俄に真剣みを帯びる。
 「私の北の方は、この可愛らしい頭の中で、一体何を考えているのかな?」
  だが、あくまでもさり気ない様子で問いかける。
 「……」
  対して、あかねの方はそう直ぐにはかれに調子を合わせることもできず、黙ったまま、ぴったり
 と寄り添った彼の胸に頬をすりつけてくる。
 「あかね?」
  まるで、温もりを求める仔猫のような仕草。
 「…ごめんなさい、何でもないの…」
  小さな声で返事をする。
 「すまない…君に心細い思いをさせるつもりはなかったのだよ。私の言い方が悪かった」
  宥めるような、慰めるような友雅の言葉に、ふるふると頭を振る。
 「…違う…の。悪いのは友雅さんじゃなくて…私だから……」
  何度『そんなことは、ゆっくりと憶えていけばいい』のだと言われても。夜毎、過ぎるほどに愛
 されても、どうしてもその一抹の不安を捨てきれない自分なのだ、と。
  まるでたった今、この場で置き去りにされることを恐れるかのように、ぎゅっと、友雅の衣を握
 りしめる。
  そんな彼女に、友雅は優しく囁く。
 「……不思議だね、お互いに自分が悪いと思っているなんて?」
  問いかけの形を取ってはいるが、無理に答を求めるものではない―――お互いが、お互いを思う
 あまりのことなのだから、と、言外に告げる。
  それと共に、栗色の髪を優しく指で梳いてやれば、柔らかなその感触に憂いを含んだ大きな瞳が
 心地よさ気に細められた。
  少女の体から緊張による強張りがゆっくりと解けだしていくのを見計らい、おどけた口調で先を
 続ける。
 「さっき、『君が起きていて、どうこう…』といったのはね。それが嬉しかったからなのだよ?」

 「―――え?」 

 「驚いた?」
 「え…あ……は、い…」
  でも、何故そんなことが?―――と。
  あかねのもの問いたげな視線が向けられる。
 「だって、ねぇ…」
  ふふ…と、小さな忍び笑いを先触れに、友雅の瞳が悪戯っぽく光る。 
 「君とこんな風に『閨の語らい』が出来る―――なんて」
 「っ!?」
  たっぷりと艶を含んだ友雅の声と、そのとんでもない内容に、あかねの先ほどまでの憂いなど根
 こそぎ吹き飛ばされてしまう。
  狼狽し、頬を真っ赤に染めていく少女に、畳みかけるように友雅が言う。
 「何せ、君はいつでもさっさと先にイってしまって……大抵は、そのままぐっすりと眠ってしまう
 だろう?」
  淡々と、紛れもない事実を指摘され、更に耳まで赤くなる。
 「なっ…な……」
  それが事実であるだけに咄嗟に言い返す事も出来ない。
  只ぱくぱくと唇を開閉させる少女に、友雅は愛しげな視線を投げかける。 
 「まあ、それもこれも私のせいだと言われれば、その通りなのだし―――私を思いきり感じてくれ
 ている君はとても愛らしいから、それは吝かではないのだけれど……」
 「と…友雅さんっ!?」
  臆面もなく語られる言葉に、あかねは恥ずかしさのあまり悲鳴混じりの声を上げる。
  だが、それには構わず、友雅は尚も言葉を続けた。
 「それが寂しい想いがするのも確かでね」
 「友雅さんったらっ!!」
  甘くきわどい口説を連発されるのにも、最近ようやく慣れてきたとはいえ、これはあまりにも恥
 ずかしすぎる。
  ひとしきり愛し合った後、ぴったりと身を寄せ合い、互いの体に腕を回し―――しかも、耳元で
 囁かれるのがこのセリフという状況は、まだまだ経験値の少ないあかねの処理能力を軽く凌駕して
 しまう。
  もう、何をどうすれば良いかの分からない。
  これ以上は出来ないほどに顔を赤らめ、男の名前を呼ぶことしかできない。
  しかし、男の方はあくまでも表面上は涼しい顔で、またもとんでもないことを口にする。
 「もっとも、最初の頃に比べれば、君も随分と進歩したようだけれど―――?」
 「知りませんっ、そんなことっっ!」
 「…そう?」
 「訊かないでくださいってばっっ」
 『閨の語らい』にしては少々―――いや、かなり色気に乏しい叫びではあったが、友雅は少しも気
 にした様子がない。
  なにせ、そう言いながらも、あかねの体は彼にしっかりと寄り添ったままなのだし、何よりもそ
 の表情は恥ずかしがってはいても、嫌がっている素振りは見えないかった。
 そのことに力を得て、更に言い募る。

 「そう言えば、君は憶えているかな? あれは……そう。まだ、私たちが出会って間もない頃のこ
 とだったね」




 

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