憬文堂
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夢あはす月
仲秋 憬 




  あくる日、友雅は早めに参内し、為すべき事を片付けると、早々に内裏から引き上げ

 て、土御門殿へと向かった。

 「七日は来るな」といった藤姫の言葉をそのまま聞いてなどいられない。友雅も別に月

 の障りに悩むあかねと、無理に事に及ぼうなどとは思っていない。ただ、あかねに会っ

 て、具合が悪いなら側についていてやりたいだけである。もはや妹背であるというのに、

 そんなたわいのない逢瀬すら妨げる道理は、藤姫にもないはずだ。


  土御門殿の東門を入り、車宿に牛車をつけて降り立った時、中門の奥から知った顔が

 出てきた。

  八葉の内の一人、地の玄武、陰陽師である安倍泰明である。この屋敷で泰明が用ある

 相手など、龍神の神子であるあかね以外にないだろう。

  夫である友雅に「来るな」と言っておいて、他人の泰明があかねに目通りしていたの

 だろうかと思うと、文句のひとつも言いたいところだ。しかし、どうでも泰明に聞かね

 ば、子細はわからぬこと。友雅は急ぎ、声をかけようとした。泰明は今まさに門を出て

 外へ出ようとするところだ。

 「泰明殿! こちらで会うのも久しいね。神子殿に、ご用事だったのかな」

  泰明は、ふっと歩みを止め、離れた所にいる友雅を振り返った。

 「……お前か」

  特に驚いた様子もなく言う泰明の側へ、友雅はやってきた。

 「神子殿に会われていたのかい?」

 「お前は神子に会えぬぞ」

  いきなりの断言に友雅も一瞬絶句する。が、すぐに疑問は口をついて出た。

 「なぜ?」

  どうして泰明が友雅にそれを言うかと言外に尋ねる。泰明は答えずに、ただまっすぐ

 に友雅を見た。泰明の瞳に感情の色はなく、何を思うのか読みとることは不可能だった。

 「だんまりかい? 君は今、神子殿に会ってきたのではないの?」

 「神子はお前には会わない」

 「どういう意味かな、それは。何故、泰明殿が私にそれを告げるのか知りたいね」

  泰明の一言、二言は、友雅にあることを伝えていた。藤姫が昨日友雅をあかねに会わ

 せなかったのは、断じて月の障りのせいなどでは、ない。

 「それが神子の意志だからだ」

  それだけ言うと泰明は先に出した足に後ろ足を引き寄せて進むような独特の歩みで、

 その場を離れようとした。

 「泰明殿!」

  友雅の呼び止める声も無視して、泰明は門の外へ出ていった。後を追うべきか否か、

 一瞬、悩んだ友雅は、ひとまず泰明を追うのをあきらめ、あかねのいる西の対へ向かう

 ことにした。

  とはいえ、そのまま手を打たぬ友雅ではない。確かな予感をもって、連れてきていた

 従者に言付ける。

 「今の陰陽師殿を追って、どこへ行くか確かめるように。動かぬ場所が明らかになった

 ら、ここか四条の屋敷に使いを寄越しなさい。いいね。さあ、早く!」

  働き者の従者は小さく頷くと、あわてて門を出ていった。

 「追えるかどうかは……あやしいものだけれどね」

  ため息混じりにつぶやくと、友雅はひとり中門をくぐって左大臣邸に入っていった。



  あかねを訪ねるのに藤姫を通す必要はない。ないと言うより、それはむしろ、この状

 況でしてはならないことだ。そもそも友雅をあかねに会わせまいとしている藤姫に、彼

 の訪問が知れたら最後、有無を言わせず追い返そうとするだけだろう。

  こういう時は、それなりの方法というものがある。


  あかね付きの女房で、ひとり、友雅が心安くしている者があった。あかねよりも年か

 さで、それほど目立った容姿ではないが、心映えが優しく、また字の上手い、気の利く

 女房であったので、あかねが龍神の神子として日々をせわしく送っていたころから側近

 く仕えていた。

  彼女の局を友雅は知っていたので、ここは強引に直接出向いてしまう。

  その女房が自分の局にいてくれるとは限らなかったが、運は友雅に味方したのか、果

 たして彼女は局にいた。簾越しに声をかけると彼女は飛び上がらんばかりに驚いた。

 「橘の少将様、いったい何事ですか?! このようなところに!」

 「やあ、君がいてくれて良かった。……わかっているだろう。神子殿にお会いしたいの

 だよ。七日も会わずにいられるわけがないじゃないか。しょせん幼い藤姫様などに男女

 の間を察しろといっても無理なこと。けれど君は神子殿と私の味方だね? 君なら私を

 神子殿に会わせてくれるだろう?」

 「少将様、神子の上様は……」

 「ああ、何も神子殿に無体な真似をしたりしないよ。誓って大人しくしているから、せ

 めて一声、あの鈴を鳴らしたようなお声を聞かせてくださるか、休んでいるというなら

 寝顔を見るだけでもいい。何もしやしないよ。昨夜一晩離れていただけで、もう、気が

 狂いそうだ。後生だから哀れと思って神子殿に取り次ぎのひとつもして、私を救っては

 くれまいか。君だけが頼りだ」

  天下の色男にこうして嫋々と訴えられて、拒める女は、まずいない。まして彼女は、

 あかねに友雅が通うことを誇らしく思い、ほとんど二人に心酔すらしているのだ。友雅

 の狙いは正しかったといえるだろう。

 「それはお気の毒と思いますけれど、神子の上様は本当にお加減が悪しきご様子で……」

 「ならば、なぜ君は、ここにいるのかな」

 「神子の上様が、病ではないのだから、静かにしていればいい、どうぞ一人にして、と、

 お人払いをされまして。あの方が、いつもそうなさるのを少将様もご存知ではありませ

 んか。それでも昨夜は、私、勝手ながら寝間の几帳の後ろにずっと控えておりましたわ。

 お休みになる前、神子の上様は、少将様にご連絡が遅れて申し訳ない。早く良くなって

 お会いしたいと申されておりました。おいたわしいことと、私、涙がこぼれそうになり

 ました」

 「そう、君は優しい人だね。そういうあなたがついていてくれるから、神子殿も、こち

 らで心強く過ごせるというものだ」

 「もったいないことでございます」

 「いや、ならば君も疲れているだろう。女の身で宿直(とのい)のまねごとではね。では、

 今宵の神子殿の宿直こそは、私にさせておくれ。ただ神子殿の側近くありたいだけなの

 だよ。そもそも、これは八葉の役目じゃないか。ね? まして、ようやく妹背になった

 私たちだもの。情け深いあなたなら、あの方をお守りしたいという、この私の気持ちを

 わかってくれるだろう?」

  ここぞとばかりに友雅がまくしたてると、さすがのしっかり者の女房も、友雅の熱に

 巻き込まれてしまい、情に流され、ついには折れた。

 「少将様のお気持ちは、わかりましたわ……。神子の上様はお部屋に籠もられて休んで

 おられます。私の局を通って、裏手からお出で下さいまし。襖障子の向こうふたつ先に

 いらっしゃいます」

 「恩に着るよ。すまないね」

 「お願いですから、神子の上様に……」

 「安心おし。君に迷惑はかけないよ。だいたい、私と神子殿は、すでに誰はばかること

 のない間なのに、こうして忍び会うなんて、おかしなことだとは思わないかい? 大丈

 夫。離れている方が苦痛なのだよ。ただ側にいて、そっと静かにお守りするだけだ」

  くりかえし言い聞かせる友雅に、女房もそれ以上は何も言わず、簾を上げて、友雅を

 局に通し、奥の襖障子をそろそろと開けた。

  友雅は物慣れた様子で、足音も立てずに局に上がり込むと、小さくもう一度礼を言っ

 て女房に微笑んでみせ、あかねの休む間を目指して進んでいった。



  あかねの暮らす西の対の一郭は、常に清浄なる陰陽の結界が張られ、役目を解かれて

 なお龍神の神子であり続ける彼女の気と相まって、常に清々しく穢れとは無縁な空間が

 広がっていた。

  目指すあかねの寝間の裏にあたる襖障子の前まで来て、友雅は彼女の気配をつかもう

 と、目を閉じてあたりを伺う。

  何かがおかしい。

  この対全体を包んでいる結界にほころびがないのは確かなのに、その中心にあるはず

 の存在は、まるで薄紙で覆われたようで、はっきりとしたあかねの気を感じ取ることが

 できない。彼女の具合が本当に悪いなら、これほど側に来ているのに、それを感じるこ

 ともできないのは妙だ。

  友雅はあかねと思いを通わせ合ってからというもの、ただ八葉であった頃より、なお、

 あかねの気を感じることに敏感になっていたから、これは間違いのないことだ。


  いぶかしみつつ、友雅はついと障子を開け、あかねの寝間に滑り込んだ。裏手の障子

 から入ったので、目の前は大きな絵屏風だ。その向こうの幾重も几帳に囲まれた寝床に

 彼女はいるはずだ。

 「……神子殿? そこにいるのかい?」

  はじめて声をかけ、几帳をよけて、のぞいてみる。

  畳の上、衾(ふすま)を引きかぶり、神子はふせっていた。顔は見えない。

 「ああ、いたんだね……どうか顔を見せておくれ、神子ど……!」

  友雅が思わず背後から手を差しのべた時、ふせっていたあかねの後ろ姿がゆらりと動

 いた。それは不自然なゆらめきで、友雅は一瞬にして、背筋の凍る思いをした。

  これは、あかねではない。

 「何者?!」

  友雅が叫ぶと同時に、衾にくるまれていたはずの形ある身体が突然消え失せ、中身を

 失った衾がぱさりと落ちた。そのあとに、ひらひらと遅れて落ちてきた白い紙片の人形

 (ひとがた)を見れば、もう何も言うことはない。紙人形のまやかしで友雅をごまかす

 ことなど不可能だ。

  彼女は、いない。この土御門の屋敷には。

 「やってくれるね……」

  友雅はひとりつぶやくと、主のいない寝間に用はないとばかりに背を向けて、今度は

 堂々と人払いのされている西の対を横切り、土御門殿を後にした。

  神子の寝間から出てきた友雅に注意を払う者はなく、渡殿ですれ違った屋敷の女房た

 ちも、かつて見たことのないほど厳しい面差しの左近の少将を見て、ただごとではなさ

 そうだと恐れをなし、誰ひとり彼に声をかけることをしなかった。





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