憬文堂
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夢あはす月
仲秋 憬 




  陽の落ちるまでが日ごとに早くなってゆくのを感じられる秋の夕刻、左近衛府の少将、

 橘友雅は、いつものように恋しい人の住む土御門殿へやってきた。左大臣家であるこの

 屋敷の奥に、友雅の月の姫がいる。かつて龍神の神子として異界より召還され、みごと

 に京を救った元宮あかねという名の希有なる娘が。

  彼女こそは、友雅のこの世でただひとつの情熱だ。ほんの二十日あまり前に、友雅は

 ようやく桃源郷の月であった少女を、その手に抱くことがかなったばかりだ。

  それからというもの三日夜どころか、一夜も欠かさず、彼はこの屋敷に通い詰めだ。

 実際、妻問いの間ですら、ほぼ毎日のように来ていた友雅だが、昼に、ご機嫌伺いに来

 るのと、夜を過ごしに来るのでは、同じ恋を語るためでも意味が違う。

  今朝もあかねのもとから内裏へ出仕をし、ようやく帰ってきたようなもの。手に入れ

 たばかりの恋妻に溺れている自覚のある彼が、一刻も早く恋しい人のもとへと心はやる

 のは当然だろう。


  しかし、いつもならすんなりとあかねのいる対へ通されるのに、この日は女房たちに

 足止めをされたあげく、我こそは神子様の後見とばかりに御簾の奥で気を張っている幼

 い土御門の末娘、藤姫の前に、友雅は連れてこられた。

  これでは、八葉として龍神の神子の元へ出向いていた頃と同じである。

  友雅がけげんに思い、藤姫に不満を述べるのは無理もなかった。


 「いったいこれは何の真似ですか? 私は一刻も早く神子殿にお会いしたいのですけれ

 どね、姫」

 「友雅殿、今宵は神子様と会うことはかないません。どうぞこのまま、お帰り下さい」

  この藤姫のどこか剣のあるそっけない言葉には、友雅も黙っていない。

 「神子殿に会えないとは、どういうことです? 何か障りがあるというのなら、八葉の

 うち地の白虎たる私が、神子殿の側近くあってお守りいたしましょう。まして私たちは、

 もう他人ではない。理由も聞かずに、ただ帰れと言われて、私がそのまま、おめおめ引

 き下がるとでも、お思いですか?」

  友雅は表面的には穏やかだが、その実、動かし難い気配を隠さずに、御簾の向こうに

 いる藤姫に告げた。

 「わたくしは別に友雅殿を軽んじているわけではございませんわ。友雅殿が神子様にお

 通いになられているのだって、不本意ながら、こうして認めているではありませんか。

 けれど女の身では申し上げにくいこともございます」

 「何を言われるかと思えば……」

  大人びているとはいえ齢十歳の幼い少女に、これ以上はない不似合いな言葉である。

  さすがの友雅も、面白がるよりは、いぶかしむ気持ちで言いよどむ。藤姫は御簾越し

 にもはっきり聞こえる深いため息をつくと、ごくごく小さい声でつぶやいた。

 「……障りはございます。ですから、折角のお越しなれど、今宵はお引き取り願いたい

 と、神子様ご自身が申されたのですわ」

 「障り? 神子殿に?」

  藤姫のためらいを含んだ声音に、ようやく友雅は会えない理由に思い当たった。

 「…………ああ! これは私が失礼をいたしました。気の利かぬ男よ、と姫が思われる

 のも無理はない」

  友雅は笑って謝罪する。

 「笑い事ではございません! 神子様は、昼過ぎに急に乱れがございまして、内裏の友

 雅殿にお文をまいらせる間もありませんでした。神子様は、お忙しい友雅殿にご心配を

 かけたくないのにと、それは気にされていましたわ」

 「姫もご心配くださったのですね。申し訳ない。なよやかなる女人の御身、月満ちる時、

 障りがあるのは当然です。私も強いて無体なまねをしようなどとは思いませんよ。ご安

 心ください」

 「では、どうぞ今宵は……」

 「ああ、でもそれならば、せめてお見舞いを。すでにわりない仲であるのに、声を聞く

 ことすらかなわぬなど、つれない仕打ちではありませんか。ご挨拶もさせていただけな

 いのですか」

 「神子様は、もうお休みですわ。月の乱れで、お加減もすぐれぬご様子なので、早くに

 床についていただきました」

 「では、やすらかな寝顔のかいま見だけでもお許しを」

 「友雅殿っ!!」

 「……やれやれ、貴女(あなた)という血よりも濃い絆でつながれた姉妹がついていれ

 ば、神子殿も心強いというものですね」

 「どういう意味ですか?」

 「言葉通りの意味ですよ。では今日のところは、ことのほか姉思いのけなげな姫の御言

 葉にそって、おいとまするといたしましょう」

 「どうぞ七日の間は、お渡りはご遠慮くださいませ」

 「七日! 一日千秋の思いで通いつめ、ようやく契りかなった恋人に七日も会うなとは、

 何とも酷なことを言われますね。逢坂の関も、さほどではありますまいに」

 「何と申されても、お許しできません。わたくしの目の黒いうちは」

 「おお、こわい。貴女のご機嫌を損ねて、愛しい私の白雪に二度と目通りさせぬとでも

 言われてはかないませんね」

 「……それもこれも友雅殿のこれまでの振る舞いのせいではありませんか。言ってみれ

 ば身から出た錆。申し上げておきますけれど、これで、どこぞ別のお方に通われるとい

 うなら、わたくし未来永劫、友雅殿を許しませんわ」

 「そのようなご心配は無用ですよ。姫にも、じきにわかります」


  藤姫は、ひどく不機嫌な様子で黙り込んだ。実際、友雅には、あかねしか目に入って

 おらず、他に慰めを見出すことなどあり得ないのは、彼女にもわかっているのだろう。

  三十を越えても定める通い所を作らず、決して本気にならなかった色好みの左近の少

 将。数多の女人にとって魅力ある殿上人でありながら、まるで実(じつ)のない倦怠に

 満ちた男であったかつての友雅を、藤姫は見知っている。

  その友雅が、龍神の神子を守り戦う八葉に選ばれて、あかねとめぐり会い、ついには

 彼女の中に、ただひとつの情熱を見出して、生まれて初めて本気になるのを、神子に仕

 える星の一族である藤姫は、目の前でつぶさに見てきたはずだ。

  これ以上の会話は、かえって無駄だった。


  友雅は手にしていた扇を音をたてて閉じると、おもむろに立ち上がった。

 「では、あきらめて、一人寂しく会えぬ間につのる想いを伝える歌でも詠んで過ごすこ

 とにしましょうか。くれぐれも神子殿によろしくお伝え下さい」

 「ええ、ご心配なく。必ずお伝えしますわ」

  渋っていた彼がようやく帰るそぶりを見せたので、あきらかにほっとした声を出す藤

 姫に、思わず苦笑を誘われる友雅だった。あかねに会えないのは残念だが、これから先

 のことを思えば、ここはいったん引くより他はないだろう。何もせずとも添い寝くらい

 はしたいものをと思うが、そんなことを言えば即出入り禁止にでもされそうだ。

  友雅はあかねのいる西の対の奥に思いをはせつつ、その場を離れ、門へ向かうべく渡

 殿へ出た。



  虫の音もさやかに響き、露をおく庭の草木。秋の夜の風情も悪くはない。遠くに切れ

 切れに響く琴の楽音は、寝殿の奥から聞こえてきているのだろうか。

  ほっそりと爪をはじいたような月が美しい。次の逢瀬では、あかねと夜の庭へ出て共

 に月を愛でるのもいいだろう。『月の顔見るは忌む』といえども、この麗しい秋の月光

 を浴びて微笑むあかねを、自分の腕に閉じこめて愛で眺めるならば、不安もない。


  今度あかねに会う時はあれもしよう、これもしようと、そればかり思い渡殿を歩いて

 いた友雅の目の端に、ちらと影がひとつよぎった。

  あかねの休む西の対の方から人影が出てきたように友雅は感じた。

  何事かと目をこらし渡殿の向こうと前に広がる庭を見つめたが、すでに気配は消えて

 いる。あかねを守るべく、庭先に宿直(とのい)する者かとも思ったが、どうやら違う。

 それならば、そのまま庭に留まるはずだ。

  まず、この屋敷で、あかねを守る任にこぞって付くのは、八葉である天の青龍の源頼

 久か、地の青龍である森村天真である。ここに暮らす八葉は、もうひとり、地の朱雀で

 ある流山詩紋もいたが、彼は内向きの仕事を手伝っているようだから、宿直はしないだ

 ろう。

  そもそも八葉同士、知らぬ仲ではないのだから、八葉として公の役目を離れたとはい

 え、屋敷で会えば、出てきて声のひとつもかければよい。

  八葉すべてが心寄せていたあかねと、友雅が契りを交わしたことを、彼らが必ずしも

 快く思っていないのは友雅も承知しているが、それは今更、譲れるものではない。

  選んだのはあかねだ。友雅はすべてをかけて彼女を得たのだから、選ばれなかった彼

 らに何をどう思われようが、かまうところは、ひとつもなかった。

  しかし、友雅の目の届かぬところで、あかねをあきらめていない彼らが、いつまでも

 このまま黙って見守るだけの存在に甘んずるというあては、どこにもない。

  藤姫があかねの側についている以上、この土御門の屋敷でゆゆしきことが起こること

 はあるまいと思っていたのは、とんだ考え違いかもしれない。


  急に焦燥感に駆られた友雅は、今来た渡殿を引き返し、あかねの休む対の前まで来た。

 蔀(しとみ)を下ろしていた下働きの女が友雅に気付いて目を丸くした。

 「これは少将様、もう今日はお帰りになられたかと……」

 「神子殿は?」

 「え? 神子の上様は、もうお休みになられておられるかと」

 「そう……今、こちらから誰か来たように思ったのだが」

 「いえ、どなたも。わたくし、ここで戸締まりを言いつかっておりましたのですもの。

 人が通れば気がつきますわ」

 「……そうだね。いや、悪かった。気をつけて、しっかりと戸締まりをするようにね」

 「はい。少将様も、お気をつけて」

  気のせいだったろうかと思い、いやそんなはずはないと自分の感覚をどこかで信ずる

 る気持ちもないまぜになって、友雅はいささか混乱した。

 「まったく、私らしくもないな。それもこれも神子殿ゆえということか」

  ふとひとりごちて、もう一度、あかねの休んでいるはずの対をながめやってから、友

 雅はゆるゆるとその場を離れるのだった。





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