憬文堂
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う き 波
仲秋 憬 




  京の夜は濃密な夜だ。

  闇の帳は濃く、照らすものといえば月明かりだけで、静けさにふるえる夜。

  几帳で囲われ、あてがわれている褥(しとね)に、ひとり床についた元宮あかねは、

 今日を反芻していた。


  地の白虎である橘友雅が、龍神の神子であるあかねに一方的に想いを告げて、しかも、

 それを忘れろと言ったのは、昨日のことだ。

  友雅は、あかねに何も言わせなかった。あかねが友雅をどう思っているのかは、彼に

 とって、それほど問題ではないのかもしれない。


  そして今日、友雅は当たり前のように朝一番にあかねの前に現れて、あろうことか、

 あかねに、天の白虎、藤原鷹通を追いかけるよう促した。

  このところ、どこかぎくしゃくしていた鷹通とあかねを取り持とうというのだろうか。

  そんなことができるということは、つまり、友雅にとってのあかねは、誰かに譲るこ

 とができるような存在なのだろう。


  あかね自身の気持ちは、ついに望まれることがなかった。


  それは、あかねが龍神の神子だからなのか。そもそも、あかねが龍神の神子として、

 時を越えたこの京に召還されなければ、八葉である友雅に逢うことはなかったし、友雅

 も八葉に選ばれることがなければ、あかねのような娘に想いをかけたりはしなかっただ

 ろう。


  少女は大きくため息をつく。

  どこかで鈴を振ったような澄んだ音が響いた。今までに何度も聞いた音だ。

 「呼んでる……」

  一体どこから聞こえてくるのだろう。音は、駆り立てるように彼女の内から響いてく

 るようでもあり、外から彼女を招くように響いてくるようでもあった。

  この音に抗うことは難しい。いてもたってもいられずに、あかねは手早く、いつもの

 制服に短く仕立てられた水干を身につけると、物音を立てないように寝間を抜け出し、

 前庭を突っ切って、西門へ向かった。



  夜通し門を守る者がいるはずだが、どういうわけか、見とがめられることもなく、あ

 かねは、すんなり屋敷の外へ出た。

  鈴の音は、ますます、あかねをせき立てるように鳴り続けている。

 「どこ? …………河原院?」

  夜の闇におびえることなく、あかねは小走りに道を急ぐ。




  かつては京でもとびきりの豪邸であった河原院も、今は主のいない廃園だ。

  荒れるままにまかされた庭は、昼の光の中ではまだ緑に覆われた庭の風情を残してい

 たのに、闇に沈んでいる今は、まさに物の怪がひそんでいるのがふさわしい、おどろお

 どろしい場所になっている。月明かりに黒々と影を落とす朽ちかけた屋敷も異様なたた

 ずまいで、怨霊のすみかとなっても、おかしくはない。


 「誰かいるの? 私を呼んだでしょう?」

  足下もよく見えない庭を、あかねはためらわずにつき進む。

  雲居に隠れていた月が顔をのぞかせた。ふわっとあたりの視界が開ける。

 「あなたは……」

  うす紫の月明かりに浮かぶ姿は、鈴の音に呼ばれて、これまでも何度か出会ってきた、

 鬼たちの中に身を寄せている少女のものだった。

  腰よりも長い黒髪。細くしなやかな体つき。きゃしゃではかなげな姿に似合わない、

 固く凍りついた色のない表情。その瞳はこちらを見ているようで、その実どこも見てい

 ない虚無を映していて、見る者に恐れを感じさせる。

  うっそうとした廃園で月光をたよりに見る少女は、何か禍々しいものの遣いにも似て、

 背筋を寒くさせる空気を身にまとっている。

  だが、あかねは、不思議と彼女を怖いとか、敵だとか思うことができなかった。

 「私を呼んだのは、あなた? あなたなんでしょう? 鈴の音、聞こえる? 私に何を

 言いたいの?」

 「………………」

 「ねえ、答えて。あなたは私に何か伝えたいことがあるんじゃないの?」

 「……おまえは龍神の神子だ」

 「え?」

 「龍神の神子を捉えて、お館様のもとへ連れていくのが、私の役目」

 「お館様ってアクラム? どうして、あなたが、そこまでするの? あなたは鬼じゃな

 いんじゃないの? 本当に、そう思ってる?」

 「………………」

 「ねえ、天真くん、知ってるでしょ? あなたは、天真くんの妹さんなんでしょ?」

  あかねと一緒に、この京へやってきた地の青龍である天真の名を出した途端、何の感

 情も映していなかった少女の瞳が、初めてゆらいだような気がした。


  しかし、それは月影の見せた一瞬の幻だったかもしれない。

 「質問ばかり、うるさい」

 「あっ……、なにっ……きゃぁ!!」

  硬質な少女が右手を上げて、頭上で何かを呼ばうようにひらりと掌を返す。

  白い手の甲が、夜の闇に舞う羽虫のように見えた。


  次の瞬間、彼女の掌の影から、まるで身を穢す瘴気のように、おびただしい数の黒い

 胡蝶がいっせいに現れ、あかねの視界を閉ざした。


  夜の闇に、なお黒々と墨を流したように覆い尽くす黒い胡蝶の群は、まるであかねを、

 その黒い波に飲み込むかのごとく襲いかかる。

  あかねは一瞬何が起きたのか理解できず、ただ動転して目の前の蝶をはらおうとやみ

 くもに手を振り回し、後ずさりした。

  純粋な恐怖が、あかねを支配した。

 「いやっ! なに? どうして……っ、やだっ」

  足下もおぼつかないまま、まとわりつく胡蝶を振り払い、あかねは、この恐怖から逃

 れようと身をよじり足を早めた。

  その時、視界をさえぎられてあとずさりしたあかねが、知らずに足をかけた、庭の池

 にかかる古い橋は、その役目を果たせず、鈍い響きを持って崩れ落ちた。

  橋桁は腐り、すっかり弱くなっていた木材は、もはや橋の形をとどめることはできず、

 あかねは、その身を、よどみきったにごり池に落とす。

  あいにく、かつては豪奢な造りを誇った屋敷の庭の、中の島にかけられた橋には、高

 さがあった。

  さっきまで橋を形作っていた板や柱の残骸が、あたりを引き裂く音をたてて、落ちて

 いくあかねを襲った。

  大きな水音と共に、あかねにまとわりついていた黒い蝶があたりにぱっと飛び広がる。

  それはまるで、黒い水けむりが、その瞬間に命を持って、飛び立つかのようだった。


 「神子殿っ!!」

  せっぱ詰まった男の声が、轟いた。

  胡蝶をあやつる少女は、その声に、思わず振り返る。

  河原院の東門の方から、すさまじい勢いで近づいて来る大きな影。

  あかねを追ってきた八葉だ。

 「神子殿、ご無事であられますか?! 神子殿っ!」

  男は、あかねの落ちた池に駆け寄りつつ、抜刀しようとしている。

  男の抜いた刀の刃が、月明かりに穢れを払うかのように白く光った。


  硬質な少女は一瞬迷ったようにあかねの落ちた方に視線をやったが、すぐに分が悪い

 と取ったのか、黒い胡蝶で己が身を隠すようにして、その場から消え去った。


 「神子殿、神子殿っ!!」


  男の声だけが、闇のしじまに響いていた。







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