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鳴神不動北山茜
仲秋 憬 



  その昔、時の帝が約束を違えたことを恨んだ一人の上人が、北山の奥の滝壺に八大竜王を

 封じ込めた。天下に雨は一滴も降らず、国土は乾き、民は干ばつに苦しめられた。

  だが、朝廷より遣わされた一人の美姫が、その封印を解き、竜王は放たれて、ついに雨は

 降った。

  彼女の謀り事に迷わされた上人は、雷神となって彼女を追ったという。


  しかし、今の京の、五月雨の季節を前にした、異様なまでの乾きは、鬼による穢れと四神

 を押さえられていることに端を発しているらしい。

  雨乞いをすれば雨が降るというものではない。

  このままでは夏を越せずに、遠からず京は干上がる。それを防ぐ手だては、一刻も早く、

 龍神の神子による四神の解放を実現させるしかないのだった。



  この日、天と地の白虎を従えて、龍神の神子である元宮あかねは、北山の地へ来ていた。

  その地に囚われていた天狗を封印し、力の具現化を試み、かつて八大竜王が封じ込められ

 たという滝壺を見て、あかねはそっと祈っていた。

  滝壺の昔語りをあかねに話して聞かせた天の白虎、藤原鷹通が、そんなあかねを終始、真

 摯なまなざしで見つめているのに、地の白虎たる橘友雅が、気が付かないわけはなかった。


  友雅の隣で育っていく想いは、端から見ればあまりにもあからさまで、鷹通当人が、その

 ことに気がつかないのが、おかしい。

  譲ることができるもの、できないもの。

  人が人の心をどうこうしようなどとは、とんだ思い上がりであるのに、友雅は、つい先日、

 それをしてのけようとした。

  あきらかに想いがすれ違っている二人に、ほんの少し手を貸すことが、どんな結果を生む

 か。その行く末をはかった上の後押しだ。

  それが何らかの結果を生んだのかどうか、今のところ、表面的には、友雅にもわからない。


  鷹通は、これ以上はないほど一途な、まめ人で、ゆえに自分の悩みしか見えていないとこ

 ろがある。彼のその生真面目さを都合良いことに、同じ白虎の縁で、今まで、さんざん利用

 していた友雅だ。


  鷹通とあかねが添うのなら、さぞかし真面目で熱心で、寛容と忍耐の象徴とも言えるよう

 な、一組になる気がする。こうして神子と八葉として京を歩くその様ですら、まるで師匠と

 弟子のような二人だ。


  それは果たして恋だろうか。


  とはいえ、鷹通の真摯さは神子にとって、大いなる指標になるだろう。

  それに、あかねは決して、ただ鷹通の言うことを鵜呑みにはしていない。自分の意志を、

 考えを、きちんと返している。

  それがまた、鷹通の固くこわばった思考に、やわらかく新しいもうひとつの見方を芽吹か

 せているのだ。


  真面目で可愛い二人。ながめていれば実に微笑ましい。

  けれど、そんな二人を見るたびに、友雅は、どこかで自分の感情が、まるで埋み火で、あ

 ぶられているようにも感じているのだ。

  そんな時は、決まって、二人をそれぞれ、からかいまじりに挑発までしてみせる。


  友雅は二人を添わせたいのか、引き裂きたいのか。自分の振る舞いすら、あやしくて、つ

 かめずにいる。

  苛立ちにも似た、この気持ちを確かめるほどの熱意など持ち合わせていないのだ、と、我

 と我が身に言い聞かせる。

  この己の心のあやうさは、倦怠からの救いなのだと思う。

  少なくとも、八葉の務めを受けてから、退屈だけはすることがない。

  それは、生きていくことにすら飽いていた友雅にとって、有り難いことのはずだった。




  北山を後にして、さてあともう一カ所くらいは、というところで、雲行きがあやしくなっ

 てきた。日が陰り、あれほど乾いていた空気に、少しずつ湿った風が流れてくるような感じ

 があった。

 「雨が……雨が降りそうじゃないですか?」

  あかねが道すがら白虎の二人に話しかけた。

 「どうやら、そのようだね」

  友雅も天を仰いだ。

 「北山の滝壺で、神子殿は雨乞いをなさったのではありませんか?」

  鷹通が尋ねると、あかねは驚いたように眼を見開いて、首を振った。 

 「私が? いいえ。雨が降ってくれればいいと願ってはいましたけど、それは、みんな一緒

 でしょう?」

  一緒ではない。龍神の神子が祈れば、そこには特別な力の具現があるのだ。

  あかねが真に神子であるという何よりの証だ。

  なのに彼女はまったく自覚がないのだった。

  友雅は、そんなあかねの幼さを、時に歯がゆくも、愛しくも思う。こんな物思いは今まで

 他の誰にも感じたことがなかった。


  友雅が自分の思いを、心の内でひとり持て余していると、鷹通が、恐縮した様子で告げた。

 「雨が降るならば……申し訳ありません、私はここで失礼してもかまいませんか? 桂で確

 かめなければならない所用があるのです。田に引かれている水の様子が、このところ、どう

 にも不安定なのが気がかりでたまりません。今年、桂に実りが無くば、京は飢えに見舞われ

 るでしょう」

 「桂ですか? それじゃ、みんなで桂に行くのはどうですか?」

  あかねが迷わず提案したが、鷹通はそれをさえぎった。

 「いえ、神子殿のご予定を煩わせるわけにはまいりません。ここから桂は決して近い距離で

 はありません。雨が降るなら尚更です。神子殿は先ほど、河原院で力の具現を試みて帰ろう

 かと申されていたではありませんか」

 「え、それはそうですけど、別に桂でも……」

 「神子殿は私と二人では不安であられるのかな」

  友雅が口をはさむと、あかねはあわてて否定した。

 「そっ、そんなことないですよ。ただ、せっかく一緒なんだからって思って……でも、鷹通

 さんのお仕事を邪魔したいわけじゃないです。わかりました。じゃあ、ここからは別行動に

 しましょうか。鷹通さん、気をつけてくださいね」

 「ありがとうございます。ああ、遠くに雨雲が出てきましたね。友雅殿、あとは申し訳あり

 ませんが……」

 「かまわないよ。いつもは私が君にまかせっきりのことだって多いんだからね。たとえ雷が

 落ちたって、神子殿はお守りしましょう」

 「雷……ああ! 雷鳴がひどければ、左近少将の友雅殿は、内裏で雷鳴の陣につかなければ

 なりませんね。では、やはり……」

 「八葉の務めを優先するよう主上より勅命を仰せつかっているのだから、大事はないよ」

 「……本当ですか?」

 「ああ」

 「では、お言葉に甘えます。神子殿、失礼をお許し下さい」

 「きょうはありがとう、鷹通さん」

  あかねの心からの礼に、堅物の鷹通とは思えないような、柔らかい微笑みが、彼の面に広

 がった。鷹通はあかねに向かって心配無用という風に首を振ると、一人道を急ぎつつ、洛西

 に下っていった。



  友雅とあかねは洛中への道をそのままたどっていく。

 「友雅さんは雷が鳴ると、内裏のお仕事があるんですか?」

 「さっきの鷹通の話かい? 神子殿が心配しなくてもいいんだよ。どうしたって参内できな

 い時に雷が鳴ることだってあるのだからね。そのために宿直(とのい)の者もいるのだし」

 「なら……いいんですけど。迷惑かけるの、いやなんです。だから」

 「勝手に京に呼び出されて、迷惑を被っているのは神子殿の方じゃないか。そんなに気を使

 うことはないんだよ」

 「そんなことありません」

 「私は君とこうしていられることを、役得に思っているのだから、それでいいことにしてお

 きなさい。ね」

 「友雅さんって……気まぐれに、優しかったり、意地悪だったりしますね」

 「おや、神子殿には、いつだって敬意を払っているつもりだが」

  あかねは小さくため息をついて、しょうがないなあという顔をして笑った。




  雨雲の影に追われるようにして、それなりに道を急ぎ、二人が河原院へたどりついた時、

 天はにわかにかき曇り、荒廃した河原院の庭前の大きな池は、曇り空を映して、池というよ

 りは、どんよりとにごった沼のような有様だった。

  伸びるにまかせて一面に生い茂った葦が、ざわざわと重く湿った風に煽られはじめている。


 「ここで土の力を強めておきたいんですよね」

 「そう。では、やってみようか」

  あかねが目を閉じて集中する。体に響く内なる声を聞いているのだろうか。

  彼女を中心にして周囲におびただしい神気が広がっていく。あかねは、その神気の波紋の

 ただ中にいて、周囲のよどんだ穢れは、彼女の清浄な気の波を受け、波頭で光の粒がはじけ

 るようにきらめきながら、みるみるうちに祓われていく。

  神子が引き出す五行の力のうち、土の力が強まるのが、金の属性である友雅にも、はっき

 りと感じられた。

  龍神の神子の力の発現。友雅が八葉でなければ感じ取ることはできなかったであろう、神

 子が描く目には見えない気の波紋は、何度見ても飽きることなく友雅はその美しさに魅せら

 れていた。

  八葉であることは、今や、友雅にとって、確かに喜びであったのだ。


  あかねが、ほうっと息を吐いたとたん、美しい波紋の余韻は、突然の雨足に引き裂かれた。

  遠くで低いうなりが響いていたかと思った途端に、暗い中に真昼のような閃光が走って、

 雷鳴が轟き渡る。黒雲に覆われた天から、たたきつけるような激しい勢いで雨が降り始めた。

 「神子殿、中へ!」

  友雅は、有無を言わせず、あかねを背後から自分の袖で抱え込むようにして雨からかばい

 ながら、おどろおどろしいような河原院の寝殿に、走り込んだ。



  あかねを引き入れた先は、見るからに荒れ果てた屋敷だった。

  かつては確かに貴族の豪奢な暮らしを誇った館であったはずなのに、今は軒は傾き、格子

 や床板もところどころ朽ちて、壊れかけた哀れな姿をさらしているばかりだ。

  荒廃したあばら屋の中で、なんとか雨をしのいでいるが、ただでさえ薄暗い荒れた屋敷の

 中が、この悪天候でますます居心地の悪い場所となっている。

  壊れた蔀(しとみ)を下ろすこともかなわず、吹きさらしに近い状態であったが、二人は、

 かつて主の間であっただろう寝殿の母屋の中央あたりに、すっかり古びた畳を引き出してき

 て、並んで座した。

  このひどい嵐で雨漏りがない居所を見つけただけでも、よしとするべきだろう。


 「やれやれ、なんとか雨だけはしのげそうだね。着替えが無いのは、我慢するしかないかな」

  濡れた袖を軽くしぼりながら、つとめて明るく友雅があかねに声をかけようとした、その

 時、明かりもない暗い部屋にカッと光が走り、続いてすさまじい雷鳴が響きわたった。

  あかねは一瞬びくりと肩をすくめたが、おびえた表情も見せずに、開け放されている南庇

 (みなみびさし)の外を見つめている。


  雨足は弱まることなく、辺りを叩いている。またも稲光があたりを切り裂くその刹那、あ

 かねの横顔が薄闇にきらめき、ぱっと浮かび上がった。

  その横顔の輝くばかりの神々しさに、友雅は息を呑んだ。

 「藤姫……大丈夫かな……」

  あかねが小さくつぶやいた。その口調が、あまりにも今、この時のあかね自身の身を顧み

 ていないことに、友雅は不安を感じて、思わず疑問を口にした。

 「神子殿は雷が怖くはないの?」

 「友雅さんは怖いんですか?」

  質問に質問で返すというのは友雅の癖だったが、自分がそれをされると、案外、答えに詰

 まるものだなと思う。

  しかし、それは相手があかねだからなのかもしれない。友雅は、あかねとの会話をぞんざ

 いにかわすということが、すっかりできなくなっていた。今まで出会ったことのない手応え

 のある彼女を、心底、得難い娘だと思う。

 「さあ……雷は神鳴り……神の意志の現れだというからね。私のような罪深き者は、恐れを

 感じなければならないだろうね」

 「人ごとみたいに言うんですね。友雅さんは別に怖がってないんでしょう」

 「よくわかるね」

 「自分に落ちるなら落ちればいいって思ってたりしませんか。落ちませんよ。ここにいれば」

 「神子殿が言われるならば、きっとそうなんだろう」

 「……だって、雷が落ちそうな、ぽつんと高い所は周りにいくらでもあるじゃないですか。

 なら、低いところには落ちませんよ。雷に打たれて罰を受けたいなら、刀を抜いて庭に出た

 らどうですか? そしたら落ちるかもしれないです」

  あかねのかすかな怒りを感じ取れない友雅ではなかった。

  命の輝きにあふれた彼女は、友雅の厭世的な態度が気に障るのかもしれない。

  しかし、人が悪いことに、友雅は、そうしたあかねの感情の波が自分に向けられるのを、

 心地よく感じているのだ。

  まだ見たことのない彼女を引き出したくて、つい言葉を重ねてしまう。

 「私が生まれるよりずっと昔にね……太宰府で憤死された菅原道真公の祟りで、京中が震え

 たことがあったのだよ。あろうことか内裏の清涼殿の柱に雷が落ちた。参内していた殿上人

 にも死者が出たし、時の帝は衝撃のあまり体調を崩されて、譲位の七日後に、みまかられた。

 怨霊の怒りは治まらず、御霊をなぐさめるために北野の地にお祀りして、ようやく事なきを

 得た。火雷神の怒りを恐れない京の者は皆無と言っていい。神子殿は、さすがに龍神の愛し

 子であられるね。鳴神すらも、あなたの前ではひれ伏すのだろう。私もその恩恵に預かって

 いるというわけだね」

 「私が龍神の神子だから雷が落ちないなんて思ってるんですか? まさか本気で言ってるん

 じゃないでしょう?」

 「どうして、そう思うのかな、君は。私の言うことはそんなに信用できない?」

 「……友雅さん。友雅さんは、私を怒らせたいんですか? それとも、ただ、からかって楽

 しんでるだけですか?」

 「そんなつもりはないよ。私は神子殿の崇拝者だ。気を悪くしないでおくれ」

  嫣然と微笑む友雅にも、あかねは臆さない。

 「嘘ばっかり……。友雅さんは、いつも謎かけみたいなことばかり言いますね」

  あかねは、注意深く耳を傾けていないと雨音に紛れそうな声で、つぶやいた。

  友雅は雷でその声がさえぎられることを恐れて口をつぐんだ。


 「友雅さんにとって、私は季節はずれに飛び込んできた、京では見たことのない蝶々みたい

 なものじゃないですか。自分とは違う、決して相容れない、小さな可愛いめずらしいものみ

 たいに、扱われている感じだもの。子供扱いですらないです。子供はいつか大人になるけど、

 蝶々は人にはならないでしょ。友雅さんは、口では早くいい女になりなさいなんて言うけれ

 ど、本当は、そんなに先まで私がここにいるなんて思ってない……。あ、蝶みたいな美しさ

 も私には無いかなぁ。でも、龍神の神子ってだけで特別扱いになるんだから、たぶん値打ち

 があるんですよね。私が龍神の神子だから……」

 「神子殿…………」


  友雅は絶句した。

  なんと感受性の鋭い少女だろう。くもりのない瞳で、やわらかな魂で、どこまでも見通す

 力を持っている。理屈ではなく、心でみんな感じ取ってしまうのだ。友雅の口先のごまかし

 など、敏感に気付いてしまうだろう。


 「どうして私が龍神の神子になったんでしょう。友雅さんにからかわれるたびに、どきどき

 して赤くなったりする自分が、すごく……すごく、情けないみたいで……」

  彼女はうつむいた。時折、走る稲妻の閃光だけが頼りでは、彼女の表情はわからない。

 「……ごめんなさい。友雅さんのせいじゃないですね」

  友雅を覆っていた固い殻のような何かが、確実に一枚剥がれ落ちた。

  友雅は、あかねの顔が見たかった。

  しかし、次に彼女の告げた言葉は、彼のわずかな期待を裏切った。

 「友雅さん、どうぞ内裏に行ってください。雷の時は、お勤めがあるんでしょう? 雷鳴の

 陣というのでしたっけ? 私は大丈夫です。雷がおさまったら、ちゃんと藤姫の屋敷に帰り

 ます。ここからはすぐだもの。心配しなくても平気です」

 「神子殿を一人にして、私がどこへ行くというんだい?」

 「お願いですから……」

 「無茶なことを言うものではないよ。この嵐の中、私を追い出すのかい?」 

 「そんなつもりじゃないです。ただ私のために内裏に行けないんじゃないかと思って、それ

 なら大丈夫だから」

 「今更何を言うかと思えば。気にせずとも、参内しなければならない時はするさ。そう、雨

 が上がって、神子殿を土御門殿に送り届けた後にでもね」

  あかねは首を横に振る。

 「……だったら……だったら……私が先に出ていきます」

 「神子殿!!」

  はじけるように立ち上がった彼女を制しようとして、友雅は声を上げた。友雅の、そんな

 激昂した大声を誰も聞いたことはなかっただろう。

  しかし、その声もあかねをとどめることはできず、彼女は一人で嵐の庭へ飛び出して行っ

 てしまった。

  雨はますます激しくなり、ようやく絞った彼女の水干の袖も、またみるみるうちに濡れそ

 ぼる。

  友雅は我を忘れてあかねを追った。友雅の袍もあっというまにずぶぬれとなり、重く身体

 にまとわりついたが、彼はかまわなかった。



  あかねは池の中の島にかかる、かろうじて残っている朽ちた橋の上で、天を見上げて立っ

 ていた。その橋は今にも崩れ落ちそうで、足下もあやういだろう。

  なのに微動だにせず彼女は天を仰ぐ。


  また黒雲を切り裂いて稲妻が走る。それでもあかねは動かなかった。

  その身を雨に打たれるにまかせ、雷神を待つようにして、嵐の中に立ち尽くす神子の姿を

 友雅は見た。

  普通なら、気でもふれたかと思うだろう。あかねが身につけた衣は、すでに細い身体にま

 とわりつき、じっとりと重く彼女の枷となっているようだ。

 「神子殿、いくら龍神の加護ある神子殿といえど、こんなところに立っていては危ないよ。

 さあ、戻ろう」

  友雅の声に、あかねは天を見据えていた顔をゆっくりと友雅の方に向けた。

  白い顔に、いつもなら肩先でゆれる髪がはりついて、なお雫を落とす。

  あかねの頬をつたって落ちていく雫。

 「神子殿……」

  友雅の声も激しい雨音にかき消されているのかもしれない。

  あかねは雨にさらされたまま、友雅を振り返り、口元の端を上げて微笑んだ。

  まだ遠ざからない雷が光る。轟音が響く。その刹那。


  友雅は雷に打たれたように、突然、理解した。

  彼女は今、ここで泣きたかったのだ。誰にも知られず、ひとりで泣ける場所を探していた。

  それには友雅が邪魔だったのだ。


  あかねは一人で龍神の神子の責を負っていて、誰もその荷を軽くしてやることができない。

  同じ世界から来た天真でも、詩紋でも、それは不可能なのだろう。まして友雅など論外だ。

  八葉など、なんと無力で無様なことか。


  あかねが大威徳明王に告げた答えが友雅の脳裏をかすめた。

  情熱とは何か──という問いに彼女は「いつも微笑みを忘れないこと」と答えた。


  あかねの前向きな明るさを、生命の輝きに満ちた瞳を、友雅は好ましく見ていた。花がほ

 ころぶような笑顔を曇らせたくないものだと思っていた。

  けれど、こんな風に、無理に笑顔を強いるつもりはなかったのに。いっそ声をあげて泣い

 てくれたらいい。流す涙で、洗われる澱もあるだろう。

  しかし彼女は笑顔のまま、滝のように落ちる雨に打たれている。

 激しい雨に隠れなければ涙も流せないような立場にあかねを追い込んだのは、鬼の仕業か、

 それとも神意か。

  それは、他ならぬ友雅ではなかっただろうか。

  友雅はあふれ出る感情の奔流に襲われて、気が遠くなりそうになる。


 「神子殿、おいで。こんなところで怪我でもしたら取り返しがつかないよ」

 「怪我したがっていたのは、私じゃない。友雅さんでしょう。いいですよ。私も付き合いま

 す。刀を抜いて、ここに立ってみるのはどうですか?」

 「何を言ってるんだ。神子殿、いい子だから」

 「いい子なんかじゃないです」

 「姫君!」

 「私は普通の娘で、姫君じゃないのに……。どうして友雅さんは私をかまうの? 鷹通さん

 とくっつけたいの? 龍神の神子として有能だったら、それでいいわけじゃないんですか?

 私は友雅さんの退屈しのぎのおもちゃじゃありません」

 「神子殿、違う! 違う、そうじゃない!!」

  友雅がおそらく初めてはっきりと表に出した感情の発露に、あかねの表情も今までに見せ

 なかった苦痛にゆがんだ。

 「もう、やめてください! これ以上、私の中に入ってこないでぇっ!!」

  奇しくも、それは友雅が思っていたことと同じだった。

  これ以上、自分の中に入ってこないでほしい──と、確かに友雅は思っていた。


  暗雲のたちこめる空が一瞬、真昼のように明るくなったと同時に、まるで寺院の瓦葺きの

 屋根が一気にうち砕かれたような、すさまじい落雷の音が身体を貫いて、とどろき渡った。


  渡せない。

  あかねを何者にも渡せないし、どこへも行かせることはできない。

  無理に笑う顔を見たくはなかった。

  とうとう、あかねは友雅を本気にさせてしてしまった。


  ──天の原ふみとどろかし鳴る神も思ふ仲をば裂くるものかは──


  技巧もなにもない。ただありのままに心の内を詠む古代風の歌が、今の自分にふさわしい。

  こんな心持ちになる日が来るとは思いもしなかった。

  思ふ仲、と歌うことの、なんとこっけいなことだろう。片道きりの思いを、どうやって裂

 くというのだ。

  しかし、もし、まこと互いに思いあう仲であるならば……。


  友雅は力まかせにあかねを抱き取った。

  あかねはよほど驚いたのか、抗うことも、目を閉じることも出来ずにいたが、友雅はかま

 わず激情にまかせて、あかねの唇を奪う。

  雨の音と雷鳴が、耳朶を打ち続け、合わせた唇を行き交う熱だけが、確かな命の鼓動を刻

 んだ。

  あかねは、それきり気を失うように、友雅の腕の中に落ちてきた。




  濡れた体を引きずるようにして、友雅があかねを土御門殿に連れ帰り、藤姫の悲鳴を誘っ

 たのは、それから半刻ほどたってからだった。




  あれほどの嵐が嘘のように通り過ぎ去り、日が落ちる前の今、京はただ静かだった。

  ぬかるんだ足下だけが、天の恵みとも、雷神の爪痕ともつかぬ名残をとどめている。

  冷えた体を温め、着替えを借り、友雅は左大臣邸である土御門殿を後にして、内裏に足を

 向けた。



  朱雀門をくぐったところで、友雅は鷹通に出くわした。

  今となっては、鷹通も、すでに、かつての自分に都合のいい白虎の対ではない。ほんの半

 日で、友雅の運命は大きく動いてしまった。

 「偶然だね。桂の方は、もういいのかい。恵みの雨になったのかな」

 「いえ、まだ、あの一時の雨では足りないでしょう。残念ですが」

 「そうか。そうだろうな」

 「友雅殿、神子殿は……」

 「心配しなくても、ちゃんとお送りしたよ。二人で濡れねずみになったけれどね」

 「あなたがついていながら、雨宿りもされなかったのですか?!」

 「私と神子殿が、あの後、いつどこで雷雨に見舞われたかなんて、君が知らなくて当然だろ

 うに、なぜ、そんなにうろたえるんだい。君には関係ないよ……と言いたいところだけれど

 ねえ」

  くすりと含み笑いを見せた友雅に、鷹通の顔色が変わった。

 「友雅殿」

 「河原院にいたよ。屋根の下に入るのに遅れを取ったから濡れただけさ」

  本当のことなど、話す必要はない。あれは友雅とあかねだけが共有する時だ。誰にも告げ

 るつもりはない。

  鷹通の融通のきかない真面目さを、こんなにありがたく思ったことはなかった。今日の道

 行きにあかねが別の八葉を選んでいたら、あの狂おしいまでの情熱に向き合う時を持つこと

 は、永遠に訪れなかったかもしれないのだ。

  それを運命と呼ぶのは容易いが、運命の道筋を選ぶのは、いつの時も、その場にいる者。

  自分自身が選んだ結果だ。

  友雅にせよ、鷹通にせよ、龍神の神子であるあかねにせよ、選ぶ行為そのものは、何も変

 わらない。

 「心配なら、また明日、神子殿をお迎えに行くかい? 好きにしたらいいさ。私も好きなよ

 うにする……それでいいじゃないか。安心するといい。もう二度と一人になりたい君を、神

 子殿に追いかけさせるような真似はしないよ」

  雨上がりの空、戻ってきた日差しが暮れかけようとする、この薄紅の夕陽に照らされてい

 てさえ、鷹通の顔色が青白く凍りついたように見えた。友雅は無慈悲に微笑んだ。

 「行きたまえ。治部省は、そちらだろう。君の熱心さには頭が下がるよ。もう少し力を抜い

 たらいいなんて、余計なお世話だな」

 「友雅殿、何があったのですか」

 「……ありがとう。君には感謝しているよ、鷹通。これは、まごうことなき本心だ。ではね」


  迷いの渦に巻き込まれているのだろう鷹通を、その場に置き去りにして、友雅は内裏に足

 を向ける。

  明日、あかねのところへ朝一番に訪ねるつもりなら、今宵の内にしておかなければならな

 い勤めがあった。ならば、それを片づけるまでだ。

  おそらく、今日を境に、雨は一滴も降らなくなるだろう。龍神の神子の祈りだけでは、す

 でに天の気を動かすことも難しいはずだ。

  この乾きから京を救うためにしなければならないことはわかっている。

  四神を解放するのだ。それが為された後、おそらく鬼との最後の戦いが待っている。

  そうして京が救われた、その暁に、天女はどこへ行くのだろう。


  友雅は焼けつくような乾きを感じている。

  生きていくのに、なくてはならないものは、確かにこの世にある。

  望んでも得られない乾きを、不安を、友雅は生まれて初めて骨の髄まで味わった。

  すべてを捨てても欲しいと思う、ただひとつの情熱を。

  京の乾きが、己の乾きと、重なり、はっきりとあぶり出されていく。得られることが、か

 なわなければ、一生この乾きを抱えて生きていくのだ。あの嵐の一刹那、通り過ぎた雷雨く

 らいでは、この乾きは癒されない。

  もう認めないわけにはいかない。逃げ場はどこにもない。己をごまかし続けるのにも限界

 がある。迷いがないといえば嘘になるが、もう譲ることもできそうになかった。

  しかし、友雅がどんなに策を弄しても、最後に選ぶのは、あかねだ。

  なぜ、こんな当たり前のことが、わからなくなっていたのか。

  それも本気の恋ゆえだろうか。

  声をあげて己を笑う。


  鮮やかな日没が空を茜色に染めた。

  明日という日は、いつも今日という日を経て、おとずれるものなのだ。




                   【 終 】




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