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恋ぞつもりて
仲秋 憬 




  端午の節会(たんごのせちえ)とあっては、左近衛府少将である橘友雅は、どうしても
 
 内裏へ出仕せねばならなかった。近衛の勤め、というものがある。

  しかし、このところ朝から左大臣邸へ出向いて、四方の札を求め京中を巡り、龍神の神

 子を守り戦うという八葉としての役目を優先していたので、いささか調子が出ないのは致

 しかたないことだ。

  帝におかせられては、このたびの鬼、怨霊の異変続きで、にぎにぎしく宴を催すのも、

 はばかられたようだが、京によどんだ邪気を払う意味でも、節句を祝うのは大いに意味が

 あった。


  この日、宮中に入る者は、みな菖蒲の縵(かずら)を頭にかざり、酒宴ににぎわう。

  帝から賜る菖蒲の薬玉は、今年もあでやかで見事なものだ。

  年に一度の行事で、あやめとよもぎの清浄たる薫気につつまれる内裏は、かつて、友雅

 にとって絶好の退屈しのぎの場だったはず。 

  だが、どういうわけか、友雅は一向に興がのらない。恩賜の薬玉を手渡す美しい菖蒲の

 蔵人に声をかけることすらしなかった。これが『今業平(いまなりひら)』『色好み』と

 噂に高い橘の少将だとは信じられないような態度である。


  節会の後の騎射(うまゆみ)になると、もう心ははやる一方で、無粋な弓矢など、早い

 ところ的に当ててしまって、この場を辞したい一心だ。長い勤めは、今の友雅にとって苦

 痛以外の何ものでもなかった。



  夕刻近くになってようやく勤めから解放されると、一目、神子の様子を見るだけでもと、

 車を彼女の住まう左大臣邸へ向かわせた。


  龍神の神子の名は元宮あかねという。

  彼女はこの京の者ではない、いずこの地よりか召還された奇跡のような斎姫で、今のと

 ころ友雅の日々の退屈を一番紛らわせてくれる娘だ。それは端午の節会ですら上回る。

  くるくるとよく変わる表情。のびやかで前向きで、強い。それでいて、人一倍、感じや

 すい優しさを抱く心。

  このごろの友雅は、ふと我に返ると、彼女のことばかり思い返していることに気が付い

 て、呆然とすることがままある。こんなことは今までになかった。

  何かにとらわれる、ということなど、情熱に無縁で人生に飽いている友雅には、あり得

 なかったことなのだ。何かが、変わり始めていた。



  左大臣邸においても、この日は菖蒲につつまれ、節会を祝っていたはずだが、龍神の神

 子の部屋のある対は、ひっそりと静かだった。神子に仕える星の一族の末裔たる左大臣の

 娘、藤姫も、すでに自室に下がっているようで、取り次ぎの女房がいく人か残っている程

 度である。


 「神子殿はもうお休みかい? きょうはおでかけにならなかったの?」

 「いえ、昼間は詩紋様とおでかけになられたようですが、もうお戻りになられています。

 おひとりになられたいそうなので……」

 「……そう。ご挨拶だけでもしたいので、たずねてみよう。案内は不要だよ。勝手知った

 る何とやら、ってね」

  友雅は何か腑に落ちない心地を味わいながら、ひとり渡殿を通って、龍神の神子の間を

 訪ねた。


  あかねは部屋にいなかった。

  御簾内にも、几帳の影にも、どこにも彼女の姿が見えない。突然、思ってもみなかった

 不安が友雅を襲った。

  あたりを見回し、ふと庭に続く縁の前の御簾が上がっていることに気が付くと、友雅は

 取るものもとりあえず庭へ降りて、彼女を捜した。


  盛りの藤はこぼれんばかり、その藤棚の先には、つぼみをつけた大輪の紅牡丹。

  楝(おうち)の咲き乱れる梢に続いて、常磐木の木立に橘が香り、池の水面に、あやめ、

 かきつばたが咲き競う。

  日が落ちる前、茜に染まる初夏の庭は、夢幻の美しさに満ちていた。

  池をにかかる橋を渡り、中の島の水辺に生えるまこもの影に、求めていた姿はあった。

  膝をかかえてうずくまっている、小さくて、はかなげな姿に、友雅は胸をつかれた。

  声をかけたら、この夕闇に溶けて消えてしまいそうだ。すべては一時の泡沫のように。

  だが、彼女を夢にしてしまうことが、友雅は恐ろしかった。

  そんな恐れを感じたことが今まであっただろうか。

  夕暮れの空に時鳥(ほととぎす)が一声上げて飛んでいった。


 「……神子殿、もう日が落ちる。いくら美しい花の宿でも、このようなところで夜明かし

 は、おすすめできないな」

  思い切ってかけた声に、あかねがつと顔をあげた。

 「友雅さん……」

  泣いているのかと思ったのに、彼女は友雅を見て微笑んだ。

  その心に染みいるような微笑みが、ますます友雅の胸をしめつけた。

 「きょうはご一緒できなくてすまなかったね。端午の節会では、さすがの私も物忌みの仮

 病も使えなくてね」

 「いいえ、内裏のお仕事だったんでしょう? きょうは、お屋敷も、お祝いごとみたいで、

 にぎやかでした」


 「そうそう、神子殿におみやげがあるよ。本当はもっと早くにお届けしたかったけれどね」

  そう言って友雅は、あかねの隣りに腰を下ろすと、彼女を部屋に訪ねた時から小脇に抱

 えていた流水に花筏の蒔絵がほどこされた箱を、あかねに手渡した。

 「……わあ、なんですか?」

 「あけてごらん」

  箱にかかったひもを解き、ふたをあけると中から出てきたのは、五色の糸もあでやかに、

 菖蒲と色とりどりの花で美しく飾られた見事な細工の薬玉だ。

  あかねの目が驚きで丸くなるのを友雅は満足そうに見やった。彼女はうっとりと薬玉に

 頬を寄せた。

 「なんて綺麗……いい匂い……これなんて言うんですか?」

 「薬玉(くすだま)というのだよ。不浄を払い、邪気を避けるお守りでね。端午の節句に

 飾るもので、大事な方にお贈りしたりするんだ。きょうは、あちこちに、菖蒲とよもぎを

 飾っていたろう?」

 「友雅さんも?」

 「ああ、これね。まだ、つけていたね」

  友雅は頭を飾っていた菖蒲の葉を輪にした縵(かずら)を取ると、目の前に咲いている

 菖蒲をいくつか手折って、さらに縵に差し込んだ。

  縵がますます美しい花飾りになると、そうっとあかねの髪にのせてみせる。

 「ふふ、可愛いらしいな。菖蒲の花の精のようだね」

 「とっ……友雅さん!」

  夕暮れの中にあって、なお頬を赤く染める少女を見て、友雅は少し安心した。


 「そういうこと平気で私なんかにも言えるって…………友雅さんだなあ」

 「おや、聞き捨てならないね」

 「………………」

  いつもの軽い調子のやりとりで過ごすかと思ったのに、あかねは、またふっつりと黙っ

 てしまう。彼女はかすかな笑顔のままで、それが友雅の不安をかきたてた。

  このままにしておくことなどできはしない。

 「何があったか話してしまう気はないかい?」

 「……別に、何もないですよ」

 「うそはいけないな、神子殿。心に何かがつかえている時に、がまんしてしまうのは良く

 ない」

  あかねは友雅が贈った薬玉を両手で抱え込んで、菖蒲の咲く池の水面を見つめていた。


  彼女の耳に友雅の声は届いていなかったのではないかと思うほどの沈黙が流れた後、隣

 りにいてやっと聞こえる小さな声で、あかねが言った。

 「友雅さんは今まで誰かを心から愛したことってないんですか?」

 「愛した……?」

 「あ……、こっちでは、愛してるって言わないのかな……そっかあ……」

 「本気で恋の情けを交わした相手がいたかどうか、ということかい?」

 「そういう意味なのかな……」

 「神子殿の語る言葉は、時々不思議で、わからないことがあるね。でも『愛する』という

 言葉がないわけではないよ。一方的に相手に執着するような……気に入り、かわいがる、

 愛でる、大切にする気持ちを言うね」

 「うん……じゃあ、同じなのかな。でも女の人に「愛してる」とは言わないんでしょう?」

 「そうだねえ。愛というのは、煩悩のひとつで、あまりいい意味では言わないね」

 「男女、とは限らないんだけど……。親子兄弟の間の愛だってあるし、友愛って言葉もあ

 るし……、でも、やっぱり使い方が違うんですね。もし友雅さんが、私の世界で「愛して

 る」なんて言ったら、どんな女の人だって夢中になるだろうな。本気じゃないってわかって

 いても、たぶん」

 「ふーむ」

 「恋する気持ちがどんどん大きくなっていって……求めるだけじゃなくて、見返りなんか

 なくても、ただ相手のことを大事に想えるなら、それは『愛』かな。それって恋人にだけ

 に言う気持ちじゃないんですよね…………でも…………」

 「突然どうしたの? 姫君にはいつも驚かされるね」

 「……私は姫君なんかじゃないですよ」

 「神子殿?」

 「やめてください!!」


  あかねは突然立ち上がってその場から駆け出そうとしたが、友雅はそれを許さなかった。

  素早い動作で少女の左手首を右手でつかみ、動きを押さえておいてから、おもむろに立

 ち上がる。

 「行かせないよ。このままではね」

  飛び立とうとする小鳥が逃げないように、あかねの両肩をつかむと、自分の方を向かせ

 て引き寄せた。力であらがえない彼女は、なんとかもがき離れようとしたが、しまいには

 あきらめて、肩を取られたまま、うつむいてしまった。


 「私が何か君の気に障ることをしてしまったかい? おわびもさせてくれないの?」

  うつむいたまま力まかせに首を横にふる彼女は、友雅の目に痛ましかった。

  どうやって吐き出させてやったものかと思案していると、彼女は力無い声で問いを投げ

 かけてきた。

 「…………龍神の神子って何ですか……?」

 「それは……」

 「どうして私が龍神の神子なんですか? もし私が神子でなかったら、ここにいる私は、

 何の価値もない存在なのに。…………答えられないでしょう? いいんです」

 「違うよ、神子殿、違う」

 「……わかってるつもりでした。大丈夫だと思ったの。私でも頑張ってやっていけば……、

 ちゃんと京を救えて、そしたら帰れるんだって。でないと、まきこんじゃった詩紋くんや

 天真くんに悪いもの。信じて頑張れば……」

 「神子殿……」

 「神子なんていません! いないんです。じゃあ、私は? 元宮あかねじゃないの? ど

 うして藤姫は、あんなに……、誰も……誰も……、天真くんだって、詩紋くんだって『あ

 かね』って呼んでくれても、それでも、やっぱり私でなくちゃいけないわけじゃないの! 

 どうして、こんな……、私のせいなの? どうしたらいいの? ……お父さん……、お母

 さん……っ!!」

  少女の血を吐くような叫びに、友雅は声を失った。

 「………………誰の手も……ここには届かない……」

  最後は消え入りそうなつぶやきだった。


  それまで明るく気丈に振る舞ってきたあかねの悲痛な叫びを聞いて、友雅は生まれて初

 めて味わう心の痛みに捕らわれていた。

  なんとかして手を差しのべてやりたいのに、己の無力さが口惜しい。なぜ彼女だったの

 かは、誰にもわからない。ただ神のみぞ、それを知る。


  けれど友雅は、彼女でなくてはならなかったのだろうということだけは、確信していた。

  彼女の代わりは誰にもできない。これは己が八葉であるということとは無関係な、友雅

 個人の確信だった。


  ふるえる肩をそっとなでてから、片手を頬にさしのべて、うつむいている顔をゆっくり

 とあげさせると、あかねの目から、はらはらと涙がこぼれ落ちる。

  はじめて見せた涙だった。

  この上なく純粋で尊いもの。それが今、友雅の目の前にあった。


 「君でなければならない意味は、あるよ」


  百の言葉、千の誓いが何になるだろう。ただむなしく口先だけを流れていく、その場限

 りの言葉を、今までどれほど容易にもてあそんできたことか。

  そんなことは友雅にとって実にたやすいことだったのに、この小さな少女には、どんな

 ごまかしも通用しない。

  それ以前に、何より、そんなごまかしよりも真実のみを伝えたいと思っている己に気付

 いて、友雅は自分に驚いた。まだこんな気持ちが残っていたのか。

  自分には一生わからないと思っていた気持ち。

  それは最初から友雅の心の奥底にもあったのかもしれない。彼女にめぐり会うまで、そ

 れは眠っていただけだったのかもしれない。


 「君が龍神の神子じゃなかったら、今ここには、いないんだね。それは、私にとって耐え

 難いことだと言っても、君は信じないかな」

  あかねは友雅の言葉に涙で濡れた目を見開いた。

 「じゃあ、もし私が八葉でなかったとしたら、君は私と口を聞いてくれただろうか?」

 「え……?」

  あきらかに考えてもみなかったことを言われたらしく、彼女は、友雅の次の言葉を、息

 を詰めて待っていた。

 「君がこの世に神子として召還されて、私が八葉として選ばれて、こうして同じ時を過ご

 せることを感謝してはいけないかい? 私にとって、神子は君でなければ意味はない。今

 ここにいる君でなければ」

 「……友雅さんは……私とは全然違う……」

 「そうだね、もちろん君のように清らかだったり、優しかったりはしないが」

 「ううん、そうじゃなくって、この京に友雅さんの居場所はあるでしょう? 友雅さんを

 愛して……えっと、大事に想ってくれる人は、たくさんいて……、友雅さんが大事に想う

 人たちは、みんなこの地につながっているでしょう?」

 「そんなことはないよ」

 「誰も好きじゃないの?」

 「みなそれぞれに好ましいとは思うよ。花はそれぞれに、みな美しいものだからね。でも、

 それだけだ。それは君には当てはまらない」

 「………………」

 「誰も私をこんな風には動かせないよ。君の他には誰も。私はね、自慢じゃないけれど、

 こんな風に人を追ったことなどなかった。それは、君が龍神の神子で、私が八葉だからし

 たことではないよ。でも、最初の出会いに恵まれたのは、やはり君が神子で、私が八葉に

 選ばれたからではないかい? ささいなきっかけだね」

 「ささいな……」

 「龍神の神子でない、八葉でない……、そんな出会いが用意された運命があるかどうかは、

 わからないだろう。だったら、今のこの立場は、私にとって、かけがえのない暁光だな。

 こうして堂々と君を訪ねることができる立場というものは」

 「それ……って……」


  本気ですかと問われたら、本気だと答えただろう。

  でも、彼女は、それ以上何も問わなかった。


 「それにね、京だって、滅びたら滅びたで、面白いじゃないか。そうなったら、それはそ

 れだけの運命だったということさ。有無を言わさず君を呼びつけて、勝手に重荷を背負わ

 す神様など、放っておいたらいい。天真や詩紋が君と一緒に京にやってきたのは、彼らの

 勝手。君のせいではないんだよ。あんな男ども、気にすることはないよ」

 「友雅さんっ!!」

  あかねが声を張り上げたの聞いて、友雅は、にっこり笑ってみせた。

 「君が帰れなくなってしまったら……そうだね、私がお守りさせてもらおう。ただの橘友

 雅としてね。君は私にとって特別だよ。自信を持ったらいい」

  涙は乾いて、首筋まで真っ赤になった彼女がいた。

 「さあ、部屋へ戻ろう。すっかり暗くなってしまったよ。夜露に濡れて体をこわしたらい

 けない。せっかくの薬玉も甲斐のないことになってしまうからね」

  友雅が肩を抱いたまま、歩みをうながすと、彼女は薬玉を抱いたままゆっくりとついて

 きた。

  細い肩のあたたかみを腕に感じることが、これほど心地よく思えるとは知らなかった。



  すでに燈台に火が入り、ほんのりと明るくなっていた彼女の部屋まで送り届けると、あ

 かねは恥ずかしそうにささやいた。

 「友雅さん」

 「ん?」

 「…………………………ありがとう」

 「おやすみ、よい夢路をね。寝間の柱に薬玉を下げてお眠り。その香りをたよりに、私が

 夢路で君をたどれるようにね」 




  なくした『心のかけら』をすべて取り戻すまでもなく、友雅は満たされていく自分を感

 じていた。

  あふれる想いを口にすることがあるだろうか。

  いつかは天に帰ってしまう、この月の姫君に。

  告げてはならない想いだということは、わかっている。


  彼女を想い、また少し痛む胸をかかえて、友雅は帰路についた。

  車に飾りつけられていた菖蒲とよもぎは、車輪の音にまぎれて、まだ、かすかな香気を

 車内(くるまうち)の友雅に伝えていた。


  ──ほとときず鳴くや五月のあやめぐさあやめも知らぬ恋ぞつもりて──





                   【 終 】



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