憬文堂
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菊花の露
仲秋 憬 



  左近衛府少将、橘友雅の四条の屋敷にも秋が訪れていた。この屋敷は、友雅をかわいがっ

 た先々帝の乳母(めのと)を務めた祖母から、彼が譲り受けたものだ。

  それほど広くはなくても、丹精こめて整えられている庭は、主の趣味を反映してか、四季

 折々の花が目を楽しませる。

  ちょうど今なら、数々の菊花が、黄色にも赤色にも、華やかに咲きそろい、白菊が白波の

 ごとくあふれ咲き乱れるさまも、ことのほか美しい。


  鬼を祓い、龍神の神子として京を救った元宮あかねは、夏の終わりに、左大臣家の土御門

 殿から、この四条の屋敷に、ほとんどさらわれるようにして、友雅に連れてこられた。


  ここに来てからひと月ほどたち、どうやら日々の暮らしにも慣れてきたあかねは、朝から

 続けていた手習いの手を休め、御簾を上げて、庭に目をやる。

 「あれは何? 何をしてるの?」

  見慣れぬ光景を目にしたあかねは、控えていた女房に思わず尋ねた。

  庭に咲く菊という菊に、花の大小にあわせて、丸くうすく平らにした真綿が、かぶせられ

 ているのである。

 「ああ、菊のきせ綿(わた)でございますか。今宵のうちに、ああして菊に綿をかぶせてお

 けば、夜の露に花の色がうつろうこともございませんでしょう。明日は菊花の宴でございま

 す。菊をもてあそぶのに、色あせた花では興ざめですものね」

 「菊のお祭りなの?」

 「九月九日の節会(せちえ)で、重陽(ちょうよう)の宴と申します。ちょうど季節の花の

 菊を尊重いたしますので、菊花の宴ともいうのですわ」

 「ふーん、そうなの」

 「殿がお帰りになったら、また改めて、殿にお聞きなさいませ。明日は宮中の宴がございま

 しょうから、ご準備でお戻りが遅いようでございますけれど」

 「あ、うん、そうね。……本当に、いろんなしきたりがあるのね。知らないことばかりで、

 恥ずかしいな。いろいろ教えてくれてありがとう」

 「お方様が、礼など申されることはございませんわ」

  やわらかく好意を含んだ女房の言葉に、あかねは少し首をすくめて照れ笑いをした。


  あかねは『お方様』という呼ばれ方に、まだ慣れていないのだ。ここでは、おいそれと名

 前を呼んでもらえない。みだりに名を呼ぶのは失礼にあたるのだ、と知りはしても、最初の

 頃のあかねは、寂しさを隠しきれなかったものだ。


  龍神の神子に仕える八葉たちも、ほとんどが、あかねの名を呼ばなかった。

  名前を呼ぶのは、一緒の世界からやってきた天真に詩紋、あとはイノリくらいだ。

  神子様、神子殿、神子、神子、神子と呼ばれるたびに、元宮あかねは必要とされないのだ、

 龍神の神子だけが必要なのだ、と思い知らされるようで、つい、淋しくなってしまった頃が

 あった。

  そんな気持ちを解きほぐしてくれたのは、名前を呼んでくれた彼らではなく、あかねを

 「神子殿」と呼ぶ橘友雅だったのは何故だろうと、あかねは思う。


  出会いの始めから恋だったのかもしれなかった。

  その恋の成就が、京に残ったあかねを昨日より今日、今日より明日と、日を重ねるごとに

 あでやかに飾っていく。あかねは、綿をのせた菊よりも注意深く、友雅にただひとつの情熱

 として慈しまれ、咲きそむる花だった。




 「きょうの私の白菊のご機嫌はいかがだったかな」

  あかねを屋敷に連れてきてから、友雅は夜歩きもすべてやめてしまった。断りきれない宮

 中の夜宴と宿直(とのい)の務め以外で、あかねを一人寝させることはない。

  これがどんなに驚くべきことか、それまでの友雅を知る者は、皆一様に友雅の変化に、目

 を見はったものだが、その原因であるあかね当人は、自分が彼を変えたのだとは、わかって

 いないところがあり、そこがまた、周囲に微笑ましく映っている。

  あかねの夜は、いつでも、友雅と帳台に入り、ひとつ臥所(ふしど)に眠る毎日だ。

  今宵も、友雅の腕に抱かれて睦言のうちに夜を過ごす。離れていた間のことを語り合うだ

 けで満たされていく幸せなひとときだ。

 「仮名の手習いをしてました。お文(ふみ)くらい、自分で思うように書きたいなって……

 まだまだへただけど」

 「いや、神子殿もだいぶ上手くなったよ。筋がいいのだね。それに君は真名(漢字)の心得

 があられるからね。放ち書きならきれいに書けるのだから、じきにどこへ出しても恥ずかし

 くなくなるぐらい上達するよ。私が宿直の時には、ぜひ文など届けてほしいものだね」

 「え……っと、がんばります」

 「よろしい。ああ、でも夜は、こちらの手習いを……ね?」


  肩を抱かれ、ひとつ衾(ふすま)を引きかぶり、耳元でとびきり甘くささやかれて、あか

 ねに抵抗できるわけがない。

  体中のありとあらゆる神経が敏感になるようで、耳はわずかな音でも拾い上げ、吐く息の

 愛撫にも肌があわ立つ。

 「……雨の音……して……る……」

 「そう……いい具合だ。重陽の前夜の雨は……綿が露をたっぷり含んで…………ああ、こち

 らの露も、あふれるようだよ……」

 「やっ……ぁっ」

 「あかね……」


  友雅の房事は、彼がそれまでに培ってきたすべての術をそそぎ込むかのように際限がない。

  あかねは時々それに逆らってみたりもするのだが、結局は、まだまだ勝負にならずに、乱

 されてしまうのが常だった。





  夜明け前に雨は上がっていた。重陽の朝、日も昇らないうちにあかねは目を覚ました。

  まだ目を閉じている友雅の腕の中からいざり出て、ふと枕上を見ると、円形の檜破籠(ひ

 わりご)に、しっとりと露を含んだ綿が、数輪の菊の花を添えて美しく盛られ、置かれてい

 た。

 「なんだろう、これ……。昨日の菊の綿かな」

  あかねは寝間着の単姿のまま、ぼうっと綿の盛られた破籠(わりご)を見つめていた。


 「おや、菊のきせ綿だね。これをどうするか知っている?」

 「友雅さん!」

 「おはよう、姫君」

  大きく胸をはだけられた、やはり単姿の友雅に、いつのまにやら背後を取られ、肩にあご

 をのせるようにして朝からささやかれては、たまったものではない。あかねは、くすぐった

 さに身をすくめて体をよじったが、友雅はしっかり後ろから彼女を覆いこんでしまった。

 「おっ、おはようございます。いえ、わからないんですけど、でも、その前にちょっと離れ

 てくださいっ!」

 「どうして」

 「どうしてって、朝だし……着替えないと」

 「そんなに赤くなって、いつまでたっても可愛いね、君は」

 「友雅さんっ!!」

 「世に許された夫婦なのにどうして離れなければならないの? うん? ああ、きせ綿の話

 だったね。この菊の露をふくんだ綿で、九日の朝、肌を拭うと、老いも拭い去ることができ

 るんだよ。仙境に咲く菊の花にあやかった長命延寿の習わしでね。君の育ったところでは、

 こういうことはしなかったかい?」

  興味深い風習を聞いて、抱き込まれているのも忘れ、あかねは綿をひとつ手に取った。

 「そうなんですか。初めて聞きました。すてきな習わしですね。菊の露のお化粧水ですね」

  ほのかに菊花の香がうつり、朝露を吸った綿で、あかねはそうっと自分の頬をなでてみる。

 「気持ちいい……」

 「そう?」

 「ええ、とっても」

 「じゃあ私にもしておくれ」

 「えええっ! 私がですか?」

 「おや、つれないね。君のように若くはない私こそが、老いを拭わなければならないとは、

 思わないかい? 君の手で清めてほしいのに」

 「えっと」

 「ほら、こちらを向いて」


  あかねに抗う間もなく、友雅は彼女の肩をつかむと、褥(しとね)の脇の枕上で、向かい

 合わせに座らせて、きせ綿の破籠を二人の手元に引き寄せた。

 「してくれないの?」

  あかねの目をのぞきこむようにして、少し首を傾けて友雅がささやいた。起き抜けで乱れ

 た友雅の髪がさらりと流れ落ちて、あかねの単(ひとえ)にふれた。

  昨夜から共有してきた香りが鼻孔をくすぐる。

  もう観念するより他はない。あかねは魅入られたように濡れた綿を手にすると、おそるお

 そる友雅のひたいを、すうっとひとはき拭った。

 「いいね……気持ちいいよ」

  目を閉じてそれを受けた友雅の言葉に、あかねはほうっと息を吐いた。

 「……よかった」

  そうして綿を持つ右手を引っ込めようとしたところを、友雅は左手ひとつでとらえてしま

 う。彼女の細い手首は難なく彼につかまれる。

 「額だけではだめだよ。体を拭わなくてどうするの」

 「か、体って」

 「ああ、ほら、逃げない、逃げない」

  友雅はやけに楽しげに笑いながら、あかねの手を、そのまま自分の大きく開いた単のあわ

 せからのぞいている喉元にあてた。

  あかねの手は小さく震えていたが、友雅は重ねた手を離さずに、そのままゆっくりと押し

 下げていく。

  露のあとを残しながら、白い真綿が、鎖骨の間にある未だ消えない宝玉をなぞっていった

 時、友雅の体に震えが走った。


 「あ……」

  あかねはおびえたように小さく声をあげる。

 「大丈夫だよ。どうして君が怖がるんだい? やめてはいけない。まだ途中だ」

  そうして友雅は空いていた右手で、自分がかろうじて身につけていた単を、肩からすべり

 落とした。男の上半身がむき出しになる。

 「こうすれば簡単だろう。ね?」

  あかねはすっかり頬に血を上らせて、羞恥と困惑の中にいたのに、友雅はあかねを解放し

 ようとはしなかった。

  実際、そんなあかねの様子が、かえって彼を煽っているのだから仕方がない。

  幅広い肩や、いつも顔をうずめる胸、大きな背中を、ためらいながらも、その都度、友雅

 に執拗に促されて、丁寧にあかねが菊の綿でぬぐっていた後、友雅は満足気に微笑んで、あ

 かねに耳打ちする。

 「ありがとう。すっかり生き返ったよ。では私もお礼をしないとね」

 「え……?」

  友雅は破籠に添えられていた可憐な菊の花を取ると、あかねの髪にそっと挿した。

 「菊花、須(すべから)く満頭(まんとう)に挿して帰るべし……」

  まだ露を置いた菊花を髪飾りにしたあかねの、朱に染まる頬を両手ではさみこむようにし

 て、じっと見つめる。

  自然に互いの唇が近づいて重なった。

  友雅は角度を変えて幾度か口づけを楽しんで、ほとんど唇を合わせたままで、つぶやいた。

 「──露ながら折りてかざさむ菊の花老いせぬ秋のひさしかるべく──」

 「どういう……意味ですか?」

 「ん、言葉通りだよ。露をおいたままの菊を折って髪に挿そう、老いることない秋が長く長

 く続くように──とね」


  友雅は今度はそっと手に綿を取ると、あかねの単の衿もとに濡れた綿を置く。

 「きゃっ」

 「君の体も拭わないとね」

  友雅はそう言って、あかねをあばいていこうとする。

 「わ、私はいいです……あ……あ、やだっ……友雅さんっ、そろそろ支度しないと、遅刻し

 ちゃいますよ……だ、内裏で宴があるんじゃ……ないですか?」


  友雅は、あかねの言葉を聞いているのか、いないのか、せっぱ詰まったあらがいを物とも

 せず、彼女の単の合わせを少々強引にゆるめると、羞恥に美しく上気した肌を、雫のしたた

 る綿でなでていく。

  友雅が仕掛けてきて、このままで終わるわけがない。二人はまだ帳台の中にいるのだ。

 「もう、きょうは参内しないよ。道すがら行き触れに会ったとか、持病の瘧(おこり)で、

 参内かなわず、とでも使いを出すさ」

 「そんなのサボリじゃないですかっ!」

 「菊花の宴で長寿を言祝ぐというなら、君とこうしている方がずっと効果があるに決まって

 いるよ……君が私の菊花の露だ。ほら、おいで」

 「あ、あ、だ、だめって…………あぁんっ」




  結局、寝乱れた色気を残しつつ、どこか晴れやかで嬉しげな友雅と、色にやつれてうつむ

 く様子がしどくなく、すっかり大人びた印象のあかねの姿が、ようやく帳台から出てきたの

 は、日が高く昇りきった、さらにその後だった。

  当然ながら友雅はその日、内裏に参内せずに、あかねの機嫌を取り結ぼうと、得意の琵琶

 まで出してくる有様だ。

  そんな二人に仕える屋敷の者たちは、夕餉の膳まで菊酒を飲むことがかなわずに、顔を見

 合わせてこっそり苦笑いしたのだった。



                   【 終 】



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