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花 形 見
仲秋 憬 





  いつもは長く引く袿や単を、短く壺折りに着て、一番上に淡く透ける桜の被衣を頭

 から引きかぶったあかねは、友雅に軽々と抱き上げられて共に騎乗の人となり、吉野

 への道を急いだ。

 「私も一緒に乗ってたら……馬が疲れちゃったりしませんか?」

  あかねの背後から手綱をとり馬を駆けさせる友雅に、抱き込まれるようにして騎乗

 しているあかねは、不安になって聞いてみたが、友雅は平然としたものだ。

 「こんなに軽い天女が、何の重荷になると言うんだい。大丈夫だから振り落とされな

 いように、いい子にしておいで。牛車で向かっていては、遅くなってしまうだろう?」

  そうして馬の足を、なお速めさせたりさえする。

 「友雅さんっ!」

 「こわい?」

  あかねの耳元をくすぐるように、友雅が言う。

 「全然!」

  あかねは首を振る。

  友雅の両腕はしっかりとあかねの体をはさみこみ、あかねの背は友雅の胸にぴった

 りついていて、間違っても振り落とされることなどないとわかる。

  疾駆する馬の背で、これ以上はない安心感に包まれて、風を切る心地よさ。あかね

 は、この思いがけない道行を楽しんでいる自分に気がついた。何だか申し訳ないよう

 な気にさえなる。



  道中、少しの休憩をはさむだけで、ほぼ一日駆け通し、遂に日が暮れる前に、その

 霊峰は、あかねの目の前に姿を見せた。

  瑞々しい若葉輝く山並みが、白く霞がかかったようにけむっている。

 「雲……?」

 「花だよ。あれが吉野山」

  あかねの疑問に友雅が答える。あかねは呆然と山を見上げた。

 「あ……桜……ですか?」

 「京では、とうに散った花が、ここでは今、まさに満開だ」

  友雅は満足そうに言うと、馬の足を速めた。まるで海のごとく雄大な吉野川の流れ

 を横目に楽しみつつ、花の山をめざす。吉野川の息を呑むような水の色に白い花びら

 が浮き流れゆく様が春を歌う。桜の木は、まだしかと見えないのに、確かに、この先

 に花の里があることを知らせている。

  あかねは自分がどこへ行こうとしているのか見失いそうになって、思わず馬の背で

 身震いをした。



  吉野山のふもとの里にたどりつくと友雅は今度は馬の足をゆるめて、山道に入った。

  道の両脇、山の斜面のそこかしこ、花を散らせつつある桜の木であふれる吉野は幽

 玄郷だ。こんなに美しい山に分け入るのが初めてのあかねは、ただただ目を丸くして、

 この絶景をむさぼった。友雅は余計なことは何も言わず、馬の手綱を取っていた。

  山道を進み、時々振り返る景色を遠くながめれば、ほぼ山の中腹あたりかというと

 ころで、別れ道に行き当たった。その辻に、里の者らしい身なりの壮年の男がひとり

 立っていて、友雅を見ると頭を下げた。男は友雅を待っていたらしい。

  友雅はひとり馬を下りると、男に声をかけた。

 「やあ、待たせたかい?」

 「遠いところ、よくお出で下さいました」

 「世話になるよ。急に支度をさせて悪かったね」

 「めっそうもございません」

  友雅は長く駆けてきた道中をねぎらうように、馬のたてがみのあたりをひとしきり

 撫でてやってから、おもむろにあかねを抱き下ろす。あかねの足を地につけず抱き上

 げたまま、友雅が側に控えている男に向かい頷いて合図すると、男は馬の手綱を引い

 て、別れた道を先に歩いて行く。

 「あの人は?」

  あかねが尋ねる。

 「この先に私の持つ山荘があってね。彼はそこを任せている者だよ。私が来ることは

 伝えてあったから迎えに来たんだ」

 「ええっ?!」

 「もうこのすぐ先だよ。しかし、せっかくの満開の花だ。ここからは歩いて行こう」

  友雅はそう言って、あかねに微笑みかけた。この微笑みにあかねはことさら弱い。

 思わず頬が熱くなるのを意識して、あわてて友雅の腕から下へ降りようとした。

  けれど彼はそれを許さず、あかねを抱き上げたまま、歩き始めてしまった。足下を

 ならした道とはいえ、それなりに傾斜のきつい山道を、友雅はゆるやかに、しかし平

 然と進んで行く。馬を引く家人は、もうずっと先へ行ってしまった。

 「友雅さん、私、歩けますってば!」

  あかねは友雅の肩をたたいて言うのだが、彼は聞く耳を持たない。

 「疲れているのに慣れない道を歩かせるのは忍びないよ。大人しく、抱かれておいで。

 でないと落ちるよ」

 「きゃあ」

  わざと不安定に投げ出すかのようにあかねの体を高く捧げ傾けると、あかねは思わ

 ず両手を友雅の首にまわしてしがみついた。

 「ほら、そうしてつかまっていたらいい」

 「友雅さんってば!」

  あかねが形ばかりふくれっつらを見せると、友雅は声を上げて笑った。

  その笑い声に共鳴したように、ざあっと風が鳴り、突然、花が舞い散った。ふたり

 の髪や肩を白い花びらが染める。花を散らせる桜の木はそこかしこにあって、天から

 だけでなく、下方の地からも、花はおびただしく舞いかかる。まるで花で埋もれる雲

 居の中を進むようだ。その、うす紅の花の雲の合間から、驚くほどあざやかな空の蒼

 がのぞく。

  散りゆく花。

  蒼天に舞う雪のような、この世ならぬ美しさ。

 「き…れい……夢みたい」

 「いっそこのまま時を止めてしまえればいいと思うね」

 「このままですか?」

 「それは、かなわぬことだ。散りゆくものだからこそ、美しく心惹かれる。わかって

 いるよ」

  友雅は、ふと足を止め、かみしめるように言う。

 「だからこそ、この一時が狂おしく愛しい」

  あかねを抱き上げている友雅の腕に力がこもるのを、あかねはその身に感じ取る。

 うまく言葉にならない気持ちがあふれて、とまどいを感じるほどだった。何しにここ

 へ来たのかを忘れさせてしまいそうなほど美しい花の山。

 「どうしたの? 寒い?」

 「いいえ、そうじゃないんです。花があんまりきれいで見事で……こわいくらいで」

 「君をふるえさせるなんて、許し難いな。たとえ花でも、ね」

  友雅はあかねの視界を花から隔てるように彼女の身体を抱え直すと、あかねの額の

 あたりに口づけた。なだめるような優しい口づけをあかねの髪にいくつか落としてか

 ら、友雅は山荘への道をゆっくりと歩み始めた。

  吉野は花に命の輝きを映し、今まさに春を謳歌していた。






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