憬文堂
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  花咲く春にあひにけるかな 



花 形 見
仲秋 憬 





  遙かなる京の都。

  左大臣家である土御門殿の女人たちは、この春、一家総出で初瀬詣に繰り出す計画

 を立てていた。

  去年の今頃は、京を守っていた四神すら鬼の手に落ち、都は災いに満ちていた。

  そんな時、異界より召還された龍神の神子、元宮あかねと、彼女を守り戦う八葉に

 よって、夏の半ばに京は救われた。神子は自分の世界に帰ることなく、そのままこの

 京に留まる身となった。

  その龍神の神子に仕える星の一族を擁し、内裏で絶大なる権力を手中にしつつある

 摂関家、藤原の大臣の一行が、霊験あらたかであるという初瀬の地にある長谷寺の観

 音に、これまでの加護の感謝と、行く末のさらなる平安、また願わくば、未だ御子の

 ない左大臣家の長女である藤壺の女御の懐妊をも願って、長谷寺に参籠するというの

 は、いかにもな話だ。

  重苦しく京を覆っていた闇が晴れてから迎える初めての春である。物詣にでも出か

 けて、これまでのうさをはらしたいと女人たちが思うのも無理はなかったし、大臣も

 それを勧めること、やぶさかではなかった。

  この時代、物詣や祭見物といった機会でもなければ、高貴な身の女性は、外出など、

 まずしないものである。日々、八葉とともに怨霊調伏に飛び回っていた龍神の神子の

 方が異質な存在なのだ。

  現に、星の一族の唯一の末裔である藤姫も、仕えるべき龍神の神子であり、姉とも

 慕うあかねが、庭に出ようと誘うまで、自分の足で一歩も外を歩いたことがなかった

 くらいだ。

  幼い少女は、あかねも一緒に生まれて初めての遠出、初瀬詣に出かけることになっ

 たのを、それはそれは喜んだ。

 「神子様! 神子様と初瀬詣に行くことができるなんて夢のよう! わたくし、とて

 も楽しみです。神子様がこれまでご覧になってこられたような美しい景色を、今度は

 わたくしもご一緒に見ることが、かなうのですもの。道野辺の花を摘み、日記や絵を

 書くこともできますね? ああ、神子様とご一緒なら、どんなに楽しいことでしょう」

  うっとりと目を輝かせる藤姫は、いつもと違って年相応の遠足か修学旅行を前にし

 たかわいい子供のようだと、あかねも嬉しくなった。

  これまであかねが外出する時は、いつも八葉と共にあった。京に来てからこういっ

 た家族総出の大旅行は初めてである。あかねにしても、楽しみだった。



  だから、この初瀬詣に、恋人である左近衛府少将、橘友雅が難色を示すことは予測

 していなかった。夜毎あかねのもとへ通ってくる友雅に、このことを告げると、彼は、

 ほんの少し不機嫌になったようだった。

 「初瀬詣……この弥生の終わりに」

 「ええ、そうなんです。私も藤姫と一緒に、ぜひにって、北の方様が誘ってくださっ

 たんです。……だめですか?」

 「私を置いて遠く初瀬まで物詣に出かけてしまうのに、そんなに嬉しそうだなんて、

 つれないねえ」

 「え? 友雅さんは一緒に行けないの?」

 「土御門の女性たち総出の物詣だろう? 私がお供するのはね……。それに弥生の末

 あたりは内裏の公務を休むことがいささか難しいんだよ。女房たちも引き連れて一家

 総出の物詣となれば、牛車で片道三日はかかるだろう。往復を考えると十日は休みを

 取らないとね。さすがに、この時期では無理のようだ。こんな私でも。残念だな」

  友雅がふっと顔を曇らせたのを見て、あかねは不安になった。いつもは仕事も気ま

 まに力を抜いて、万事そつなくこなしているらしい友雅が、こんな風に言うのなら、

 確かに休んで一緒に物詣どころではないのだろう。浮かれて自分だけ物詣に行くのは

 申し訳ない気がする。

  ならば、あかねも京に残って、参内する友雅を日々送り出すことに専念すべきでは

 なかろうか。何と言っても世間的に友雅とあかねは、つい先の如月に露顕をすませた

 ばかりの立派な夫婦であった。


 ……実際のところは、ともかくとして。


 「だったら、私、行きません。友雅さんがお仕事で忙しいのに、私だけ、みんなと出

 かけるなんて!」

  何の迷いもなく言うあかねに、友雅は少し驚いたように彼女を見つめ、ゆっくり言

 い直した。

 「……いや、それは、あんまりだね。ごめんよ。この美しい春に折角の物詣だ。私の

 ことは気にせず、皆と初瀬詣に行くといい。だいたい私のせいで神子殿がひとり土御

 門で留守番だなんてことになったら、藤姫にどんなに恨まれるかしれない」

  友雅は、あかねを安心させるかのように、小さく笑った。

 「友雅さんってば!」

 「だったら本当にひとり京に残ってくれるのかい? そうなると人の少なくなるこの

 屋敷で、私が来るのを待っていてくれると言うんだね」

 「え? ええ……」

 「余計な邪魔も入らずに十日近くもふたりきり……それも悪くはないねえ。そうした

 ら私は君の元から離れられなくなってしまうかもしれない。主が留守をしている屋敷

 は何かと物騒だ。君ひとりをこの屋敷に置いて出仕してる間に、どうなることか知れ

 たものではないし、内裏にいても気が気でないのは間違いないよ」

 「友雅さん……」

 「いっそ長の物忌みになって君とここに籠もってしまおうか」

 「あ……」

 「私は、それでもいいのだけれど……」

  気が付けば友雅はあかねの側近くに体を寄せていて、あかねのすぐ目の前に、まる

 で上から覆い被さるようにして、見つめてくる深い色をたたえた瞳があった。友雅の

 唇があかねの唇に触れそうになる、その瞬間、あかねは、はっと気が付いた。

 「ダメじゃないですか! お仕事なんでしょう?!」

  あわてて大きな声を張り上げ、友雅の肩を両手で押しやるようにして身体を放すと、

 友雅はにっこり笑った。

 「残念。気がついてしまったか」

 「もう! いつも、ごまかされると思ったら大間違いですよ」

 「では仕方ない。私が後顧の憂いを残さず出仕するためにも、ひとりで留守居などせ

 ずに、皆とお行き。ね?」

  友雅一流の心配りに、あかねは胸が熱くなった。友雅は、あかねが初瀬に出かけや

 すいように振る舞ってくれている。こういう時、どうしても、かなわないなと思う。

 あかねはまだ子供で、大人の友雅にすっかり甘えてしまっている。けれど、彼がそれ

 を半ば望んでいるのも感じているから、今は許してもらおうと思う。

 「ありがとう、友雅さん」

 「帰ってきたら、たくさんみやげ話を聞かせておくれ。長谷寺は花の寺だ。この春も、

 さぞ美しいことだろう。君のいない間、仕事一途に過ごす私に、ご褒美を忘れずにね」

 「ええ、もちろん」

 「文も出す?」

 「はい」

 「いい返事だ。うれしいよ」

  友雅に耳元でささやかれると、あかねはうまく物が考えられなくなる。そんなあか

 ねを知ってか知らずか、友雅は満足そうに微笑むと、いつものようにあかねを抱き寄

 せて、そのまま、朝まで添い伏すのだった。






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