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あふぎの泉
仲秋 憬 




                  < 一 >


  七夕も過ぎて、京は秋がめぐり来る季節に入っていたが、まだまだ残暑は厳しく、

 元宮あかねは慣れない生活に、いささか体力を消耗していた。彼女が育った世界と千

 年も隔たるこの京の暮らしは、現代の女子高生だったあかねにとって、そう簡単にな

 じむものではない。

  そして何より彼女を戸惑わせているのは、人に仕えられる立場に置かれ、京でも屈

 指の雅な男の妻としてかしずかれていることだった。


 「あつーい……。こんな部屋の奥に引きこもっていたら、いくら日がささなくても、

 風は通らないし、じめっとしてるし、かえって暑苦しくない? 庭の木陰が見える所

 でお昼寝しちゃだめかな。涼しそうでしょ」

  あかねは橘邸の腕利きの女房数人に囲まれて、母屋の几帳の奥から、ちらりと外へ

 つながる廂(ひさし)の向こうの簀子縁(すのこえん)に目をやった。途端に女房達

 が顔色を変える。

 「あのような端近にですか? お方様、それはあまりに危のうございます」

 「風がなければ、こうして私達があおぎますわ」

 「簀子に出ていいなら、そんなことしてもらわなくてもすむのに」

 「それが私どもの仕事でございますから」

 「そうですわ。お気になさらず、申しつけていただければ、よろしいのです」

 「ああ、だから、そうじゃなくて……。ごめんなさい、もういいから」

  あかねは団扇を持ち出してこようとする女房たちを、あわてて引き止める。


 「おや、私の愛しい月の姫は、また何かを我慢してしまうつもりかい? いけないよ。

 君の望みは何でもかなえてあげたいのだと、いつも言っているだろう」

  ふいに廂をさえぎる御簾の向こうから声がして、あかねが驚いて顔を上げると、ま

 るで雲居に隠れていた輝く月が顔をのぞかせたように、明るく、華やかな気配があた

 りを満たす。御簾をかかげて、あかねの前に現れたのは、参内より帰宅した、この屋

 敷の主、左近の少将、橘友雅である。

 「お帰りなさい、友雅さん!」

  あかねのこの迎えの言葉をきっかけに、側にいた女房たちは一礼して、さっと身を

 ひるがえし、主夫妻の目の届く範囲から次々に下がっていった。

  このあたり、まだ主が北の方を迎えてから間もない六条橘邸において、主人である

 友雅のしこみは徹底している。

  殿が最愛の北の方と対する時は、あらゆる事に優先し、すみやかにその場を辞して、

 二人きりにするよう動くこと。

  年よりずっと幼げでまだ少女と言っていい彼らの女主人は、使用人である女房達な

 ど他の目がある場では、決して夫である友雅の望むところ──ようするに只のいちゃ

 いちゃだが──を許さないのだ。ならば友雅としては周囲の方を己の都合良くしこむ

 しかない。これを邪魔すると主の勘気を被り、悪くすればクビであることを、周りは

 とことん思い知っており、それは見事に十を数える間もかからず、友雅とあかねの目

 の入るところに他人の姿は見えなくなった。

  友雅は満足そうにあかねを抱き寄せると、さっそく両手で恋妻の頬をはさんで目を

 合わせた。

 「さて、いったい何の話をしていたのか、君の恋人に教えてはくれまいか?」

  唇が触れるか触れないかの距離で優しく尋ねられて、平静に黙ったままでいるのは

 難しい。あかねはためらいながらも正直に訴える。

 「あ……ええっと、あのね、まだ毎日とっても暑いでしょう? 部屋の奥で横になる

 よりも、できたら開け放した庭の見えるところで休めたら気持ちいいかなぁって思っ

 たの。でも、そういうのって、はしたないことなんですよね」

  あかねは友雅に頬をとらえられたまま、視線を下へ落とす。長いまつげが友雅の前

 で伏せられて、瞳は陰りを帯びた。

 「確かに他人の目のあるような場合は勧められないね。けれど、この屋敷は私たち二

 人きりだし、そうだね、涼を取って休むのも趣深いかもしれないな」

 「え?」

  友雅の肯定にあかねは目を見開いた。

 「私は君のしもべだからね。君の望みは、できる限りかなえてさしあげたいものだよ」

 「……いいの? 友雅さん」

  あかねは友雅を見上げて目を輝かせ、友雅は笑ってうなづいた。

 「でも、条件がひとつ。これだけは守ってもらうよ」

 「条件って何ですか?」

 「私と一緒でなければ、だめだ。わかるね?」

 「友雅さんと?」

 「そう。いやかい?」

  あかねは勢いよく頭を横にふり、思いきり否定した。大好きな人と一緒の夕涼みに

 何の否やがあるだろう。友雅はそんなあかねの喜ぶ様子を嬉しそうにながめ、幼げな

 妻のまだ肩までものびていない髪をなでながら言った。

 「では、泉殿にでも用意させよう。前から約束していた琵琶を奏でるのもいいね」

 「ほんと? うれしい!」


  かつて、日々の憂さをはらすかのように多くの恋を気まぐれにもてあそんできた男

 の姿は、今の友雅からは、みじんも感じられない。
 
 龍神の神子を守る八葉であった左近の少将、橘友雅は、神子であったあかねの心を

 射止め、役目を終えた彼女を京へ引き止めた。そうして念願かなって唯一の妻として

 新しく構えた自分の私邸に迎えた後は、毎日が新床の夢の続きで、まるで蜜漬けのよ

 うな日々を過ごしているのだった。





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