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望月の贄
仲秋 憬 




  つい先頃、この春から夏にかけて、異界より召還され、京を鬼の脅威から救い出した

 龍神の神子。

  その神子を守る八葉として活躍した男二人が、内裏でも普段は人の少ない仁寿殿(じ

 じゅうでん)の西の廂(ひさし)あたりで、顔を付き合わせている。

  美しい公達二人が並んでいる姿は、内裏勤めの女房たちの注目の的になること間違い

 なしだが、今は周囲に誰もいない。

  八葉同士の間で話があるとすれば、それは、もちろん神子のことに違いなかった。

  まだ年若い法親王、御室の皇子であり、天の玄武である永泉は、左近衛府少将であり

 地の白虎である橘友雅を前に、主上の意向を確かめていた。


 「今年の石清水放生会(いわしみずほうじょうえ)に龍神の神子を遣わせよ、ですか」

  友雅は、いつになく深刻そうにつぶやく。

 「はい。私も放生会に供奉(ぐぶ)し、法会の読経に加わるようにと主上より御言葉を

 賜りました」

 「…………」

 「友雅殿も勅使に立つよう命を賜ったのではありませんか?」

 「その通りですよ」

  友雅は、ため息まじりに答えた。

 「実は先ほど拝謁したおり、今年の放生会は格別なものにせよ、と勅諚がありました。

 普通ならしない祭りの舞楽の試演も内裏で行ってはどうか、などと申されましたからね」


  同じ石清水の祭りでも、早くから舞楽の準備を行う春の臨時祭とは違い、秋の例祭で

 ある放生会では、内裏では何も格別なことはしない。試演も調楽もなく、ただ勅使を向

 かわせ、滞りなく儀式が行われることが大事なのである。宮中では、むしろ同じ日の夜

 に行われる、中秋の名月を愛でる観月の宴に重きがおかれるのが、これまでの常なのだ。

  しかし、今年は違った。

  ついこの前の夏まで、京は鬼の野望に翻弄され未曾有の危機にあった。

  この危機を救ったのは、この春に異界から召還された龍神の神子と、神子を守るべく

 選ばれた八葉たちの懸命な働きがあったからだ。

  龍神の神子は、その神力をもって、京を救い、そして──いまだ神子として、この京

 に残っている。

  帝は、神子の働きにより、ようやく落ち着いた京の、さらなる国家安泰を願い、また、

 このたびの戦いで荒れた生き物の霊をなぐさめるためにも、特別な計らいを必要とする

 と考えられたのだろうか。今年の放生会は、例年の扱いにない奉幣使(ほうへいし)を

 遣わし、公卿以下も参向の上、諸衛府は弓をつがえた一団を帯して供奉(ぐぶ)せよと

 の勅諚があった。

  ようするに、いつもより重々しく人数も多くそろえて、とびきり丁寧に祭の儀式を行

 えという命令が出されたのだ。

  その仕上げが龍神の神子の祭への帯同である。


 「主上におかせられては、京を救ってくれた龍神の神子に、表だって何も礼を尽くせな

 いのでは気がすまぬと仰せられまして……これを機会に放生会に帯同した神子が内裏に

 戻った折に、恩賞を与え、叙位もして、大恩に報いたいとお考えのようです」

 「叙位ですか……位を賜るということは、出仕を意味することにはなりませんか。主上

 は神子殿に思い入れがあられるようだ。永泉様のお話などからも、興味を持たれたので

 しょうが」

 「そのようなことは……」

 「娘である藤壺の女御様を中宮にとの思惑があられる左大臣殿が、まさか、今から神子

 殿を養女格で入内(じゅだい)させるようなことはしないと思いますが、しかし、この

 まま放ってはおけないでしょう。こういう予感は、当たってほしくないのですが、主上

 は、もしや……」

  友雅の表情は、普段めったに見ることのない真摯さをはらんでいる。

  対する永泉は憂慮をはっきりと表し、わき上がる不安を押さえつつという風情である。

 「神子殿を、お望みということはないでしょうね」

  はっきりと友雅が尋ねると、永泉は憂い顔をますます曇らせた。

 「叙位の上、出仕せよなどということになれば、後はどうなることか知れたものではな

 いではありませんか」

 「友雅殿、主上は……兄上は、決していたずらに神子に入内を強いるようなまねをなさ

 らないと思います」

 「出家の身であられる永泉様が、それを確約してくださいますか」

  友雅の冷たい問いに永泉は言葉に詰まる。友雅は本気で心配しているのだ。それは永

 泉にも痛いほどわかった。

 「無常と呼ばれるこの世で、私ごときに何の確約ができるでしょうか。私は、ただ信じ

 ているだけです。何より神子の幸せを祈る私ですから」

  僧籍にある永泉にとって、それは逃げではなく、勤めであり、純粋な祈りだ。

  神子が自分の世に帰らず、この京に残ったことが、神子の不幸にならないように、そ

 れだけを祈っている。神子の幸せを守るためなら、あらゆる努力をするだろう。永泉だ

 けでなく、すべての八葉が同じことだ。

  ただ、八葉の中でも、友雅の立場は少し違っていた。すべてをかけた本気の恋ゆえに、

 神子を京に引きとどめたのは、他ならぬ友雅であったからだ。

  その恋の成就をうらやむ気持ちが永泉になかったとは言えない。けれど、神子が選ん

 だのが彼ならば、あとはただ幸せを祈るばかりであった。


 「いずれにせよ、神子に放生会のことを、お話しせねばなりません」

 「永泉様が主上より、その役目を仰せつかわれたのですか」

 「ええ」

  友雅は「それは解せない」という表情を見せた。

  主上に命じられたこの役目は、永泉も、不思議に思いはしたのだ。

  鬼との戦いの最中から、帝は、龍神の神子のことはすべて、皇族である永泉を別にす

 れば、八葉の中で唯一の殿上人であり、臣下である左近の少将の友雅を通して御意を伝

 え、報告を受けていた。

  出家している弟宮の永泉からは、持ち出された話を聞くことはあっても、奏上という

 形を取ることや、神子への使いをさせることはなかった。身分からいっても、立場から

 いっても、それが自然だ。

  なのに、なぜ今回に限り、神子のことを友雅でなく、永泉に命じたのだろうか。

  たまたま、先に拝謁したから?

  英知に優れ、常に先を見通し、慈悲深く、賢帝の誉れ高い今上(きんじょう)に、そ

 れはあり得ない。友雅もそうと知るから怪訝に思っているのだろう。

 「ひとりで出向けとは言われておりません。ですから友雅殿、よろしければ、これより

 土御門殿の神子のところへ、ご一緒いたしますか?」

  永泉の申し出に、友雅は一も二もなく承知した。





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