憬文堂
遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記ブログ web拍手 メールフォーム


花の名前




  その日、友雅は御所に殿上していた。帝は常に龍神の神子の安否と行く末を気にされ

 ていて、それを報告する立場にあるのは、左近少将でもある友雅だった。

  八葉の中には帝の弟宮であった永泉もいるのだが、永泉と友雅では立場が違う。帝に

 仕えるのが義務の臣下たる友雅と、すでに出家の身で俗世と縁を切った永泉では、どち

 らが役目を負うのかは自ずと決まっている。


  ──龍神の神子。


  京のあちらこちらに穢れをまき散らし、呪詛を施し、四神をも捉えて、鬼は闇に跳梁

 している。この京の未曾有の混乱に対して、右も左もわからぬまま龍神の神子として据

 えられた少女は、とまどいつつも、あちらこちらに現れる怨霊を封印し、端から穢れを

 祓っていく。龍神の神子の働きに、友雅を始めとする周囲の者は、驚きと畏敬を抱かず

 にはいられなかった。

  この報告は、帝をして、龍神の神子を、この世にふたつとなき救い主と、あらためて

 思し召されることとなる。

 「まこと、龍神の神子は尊き神の御使いであられるのだな。なよやかな女人の身に無理

 を強いていることを心苦しく思わぬ時はない。八葉たるそなたにしかとゆだねる。京を

 お救いくださる神子の君を、いかなる危害からもお守りせよ。これ勅諚(ちょくじょう)

 である」

  帝の御言葉に、友雅は、ただ伏してこれを受ける。

  守る、というのは色々な手だてがある。友雅はそれを考えていた。



  奏上のあと、友雅はずいぶんと久しぶりに藤壺へ出向いた。

  左大臣家の娘である藤壺の女御のおわす飛香舎(ひぎょうしゃ)は、後宮で今、最も

 時めいている殿舎である。今業平(いまなりひら)の呼び名も高い左近少将のご機嫌伺

 いを歓迎しないところなど、後宮にありはしない。藤壺に咲く花々も同じ事。

  藤壺の名にふさわしく、飛香舎南面の中庭は盛りの藤がみごとに咲き誇っていた。京

 を覆う穢れも、この庭の花までを散らすことはないのだろう。

  友雅は南廂(みなみびさし)の御簾の前に伺候し、盛りの藤をひとときながめ楽しん

 だ。その友雅に、御簾の向こうから声がかかる。


 「──ほととぎす汝(な)が鳴く里のあまたあればなほうとまれぬ思ふものから──」


 「これは小式部殿」

  友雅の口元に笑みが浮かぶ。昔なじみの女房に一首読みかけられたなら、すかさず返

 すのが礼儀というものだ。


 「──むかしへや今も恋しきほととぎす故里にしも鳴きて来つらむ──」


  御簾の向こうで賞賛をこめたいくつかのため息がもれる。この春先くらいまでは、こ

 うした花々とのやりとりが、退屈ばかりをもてあます友雅のなぐさめになっていたもの

 だった。


  では、今は?


 「橘の少将様におかれては、内裏の花のことなど、お忘れかと思いましたわ」

  恨み言に色を匂わせるのは当然のこと。その流れを楽しんで渡ることこそ、色好みの

 初手ともなろう。友雅には、たやすいことだ。

 「どこの宿なりと美しい花は忘れがたいものですよ。うち捨てておくなど、できはしま

 せん」

 「心にもないことを。土御門の辺りの花に、すっかり魅せられておられるとか」

 「盛りの藤は、やはりこの藤壺に勝るものはありますまい」

 「土御門の藤も、さぞ美しく咲かれたことでしょうに」

 「さあ、あちらの藤は、まだ色浅く、風情も何もなければね」

 「そうですの? では、この春よりあちらにあるという竜胆(りんどう)は?」

  友雅は、一瞬、躊躇したが、それを相手に気付かれる前に答えを返す。

 「……ご存知でしたか。それこそ今この季節に咲く花ではありませんよ」

 「咲かせてみたいと思し召しでしょう。そんなお声の響きでしたわ、今」

 「耳ざとい方だ」

  くっと小さく友雅が笑った。


  その時、渡殿を結び文を持った童がやって来た。童殿上しているのだろう元服前の幼

 い少年は、友雅を見つけると足早に近づいて一礼し、手にしていた結び文を友雅に渡し

 た。

 「少将様に文使いがまいりました」

 「──そう、ご苦労だったね」

  来たか、と友雅は心のうちでつぶやいた。明日は神子の物忌みだった。龍神の神子の

 物忌みには、八葉のうちひとりが宿直(とのい)よろしく側に一日仕えることになって

 いる。その八葉を名指しするのは神子姫、本人だ。

  渡されたのは花橘の枝に銀色の料紙の結び文。確かめるまでもない。明日の物忌みに

 ついていてほしいという神子の願いの文だろう。

  本当は願うまでもなく、一言命ずるだけでよいのに、彼女はきちんきちんと礼をつく

 した言葉を重ねる文を出す。歌こそ詠めない少女ではあったが、その心根は伝わるもの

 で、いつも意外なほど神子の文は友雅を和ませた。

  育ってきた世界が違うせいだろうか。龍神の神子の物の考えというのは、いささか変

 わっていて、それが友雅をしばしば驚かせ、楽しませもする。

  開いた文は、やはり神子からの依頼の文だった。


  文を見ていた友雅に、また御簾の内から声がかかる。

 「この藤の里にまで橘を追ってくる鳥がいるのですね。さすがは少将様ですこと」

 「そのような色めいた話なら嬉しいのですがね。務めでもあれば致し方なきこととお察

 しください」

 「まあ、そのような」

 「まこと花を散らすばかりの鳥は憎きもの。どうもあちらの里を荒らす鳥がいるようで

 す。今日の所は、これにて失礼を」

 「お役目とあらば、お引き留めしても詮無いことでございましょう」

  あっさりと言う女房に、友雅もためらいなく席を立つ。

 「──わが宿の花踏みしだく鳥打たむ野はなければやここにしも来る── 女御様に、

 よしなにお伝えください」

  即興で一首詠むと、友雅は藤壺を後にした。



  友雅の姿が見えなくなると、残された女房達は一斉にざわめきだした。

 「ねえ、聞いた? 少将様の今のお歌!」

 「鳥打たむ……って、どちらかのお守りにつかれるのかしら」

 「ばかね、よく聞いていなかったの? 八葉のお役目の呼び出しだったんじゃないの」

 「どうしてわかるのよ」

 「──とりうたむのはなければや──って、物名が隠れていたでしょう? 花の名前が」

 「えええ! そうだったの?」

 「にぶいわね、あなたは」

 「私もわからなかったわ! ねえ、どこに?」

 「──りうたむ(竜胆)の花──よ! 龍神の神子様とやらのことじゃない!!」

 「ああ! そう……見事なお歌だわ。こんな時にまで心憎い方ね」

 「あんな風に、かわされてしまったらねぇ」

 「八葉のお役目ってそんなに大事なことなのかしら。せっかく久しぶりのお渡りだった

 少将様が中座されるなんて。ねえ、小式部さん」

 「殿方の事情など私たちの想像に余りあるのではございませんこと?」

 「今は盛りの藤よりも、まだ咲かぬ竜胆の方が大事……ということかしら」

 「まあ!」

 「しーっ、めったなことを言う物ではなくてよ。あちらは女御様のお里でもあるのよ。

 たぶん意味のあることなんでしょうよ」

 「……それもそうね」

 「少将様のことですもの。またお役目に飽きられたら、こちらにもいらしてくださるで

 しょう」

  結局、こうしたやりとりに長けているからこそ、女の園での友雅の評判は、上がりこ

 そすれ、悪くなることはないのであった。





戻る 戻る    次へ 次へ

裏棚へ 裏棚へ


遙の書棚 Fullkissの書棚 いろいろ書庫 憬の書棚 刊行物ご案内 お食事日記ブログ web拍手 メールフォーム
憬文堂