その日、友雅は御所に殿上していた。帝は常に龍神の神子の安否と行く末を気にされ
ていて、それを報告する立場にあるのは、左近少将でもある友雅だった。
八葉の中には帝の弟宮であった永泉もいるのだが、永泉と友雅では立場が違う。帝に
仕えるのが義務の臣下たる友雅と、すでに出家の身で俗世と縁を切った永泉では、どち
らが役目を負うのかは自ずと決まっている。
──龍神の神子。
京のあちらこちらに穢れをまき散らし、呪詛を施し、四神をも捉えて、鬼は闇に跳梁
している。この京の未曾有の混乱に対して、右も左もわからぬまま龍神の神子として据
えられた少女は、とまどいつつも、あちらこちらに現れる怨霊を封印し、端から穢れを
祓っていく。龍神の神子の働きに、友雅を始めとする周囲の者は、驚きと畏敬を抱かず
にはいられなかった。
この報告は、帝をして、龍神の神子を、この世にふたつとなき救い主と、あらためて
思し召されることとなる。
「まこと、龍神の神子は尊き神の御使いであられるのだな。なよやかな女人の身に無理
を強いていることを心苦しく思わぬ時はない。八葉たるそなたにしかとゆだねる。京を
お救いくださる神子の君を、いかなる危害からもお守りせよ。これ勅諚(ちょくじょう)
である」
帝の御言葉に、友雅は、ただ伏してこれを受ける。
守る、というのは色々な手だてがある。友雅はそれを考えていた。
奏上のあと、友雅はずいぶんと久しぶりに藤壺へ出向いた。
左大臣家の娘である藤壺の女御のおわす飛香舎(ひぎょうしゃ)は、後宮で今、最も
時めいている殿舎である。今業平(いまなりひら)の呼び名も高い左近少将のご機嫌伺
いを歓迎しないところなど、後宮にありはしない。藤壺に咲く花々も同じ事。
藤壺の名にふさわしく、飛香舎南面の中庭は盛りの藤がみごとに咲き誇っていた。京
を覆う穢れも、この庭の花までを散らすことはないのだろう。
友雅は南廂(みなみびさし)の御簾の前に伺候し、盛りの藤をひとときながめ楽しん
だ。その友雅に、御簾の向こうから声がかかる。
「──ほととぎす汝(な)が鳴く里のあまたあればなほうとまれぬ思ふものから──」
「これは小式部殿」
友雅の口元に笑みが浮かぶ。昔なじみの女房に一首読みかけられたなら、すかさず返
すのが礼儀というものだ。
「──むかしへや今も恋しきほととぎす故里にしも鳴きて来つらむ──」
御簾の向こうで賞賛をこめたいくつかのため息がもれる。この春先くらいまでは、こ
うした花々とのやりとりが、退屈ばかりをもてあます友雅のなぐさめになっていたもの
だった。
では、今は?
「橘の少将様におかれては、内裏の花のことなど、お忘れかと思いましたわ」
恨み言に色を匂わせるのは当然のこと。その流れを楽しんで渡ることこそ、色好みの
初手ともなろう。友雅には、たやすいことだ。
「どこの宿なりと美しい花は忘れがたいものですよ。うち捨てておくなど、できはしま
せん」
「心にもないことを。土御門の辺りの花に、すっかり魅せられておられるとか」
「盛りの藤は、やはりこの藤壺に勝るものはありますまい」
「土御門の藤も、さぞ美しく咲かれたことでしょうに」
「さあ、あちらの藤は、まだ色浅く、風情も何もなければね」
「そうですの? では、この春よりあちらにあるという竜胆(りんどう)は?」
友雅は、一瞬、躊躇したが、それを相手に気付かれる前に答えを返す。
「……ご存知でしたか。それこそ今この季節に咲く花ではありませんよ」
「咲かせてみたいと思し召しでしょう。そんなお声の響きでしたわ、今」
「耳ざとい方だ」
くっと小さく友雅が笑った。
その時、渡殿を結び文を持った童がやって来た。童殿上しているのだろう元服前の幼
い少年は、友雅を見つけると足早に近づいて一礼し、手にしていた結び文を友雅に渡し
た。
「少将様に文使いがまいりました」
「──そう、ご苦労だったね」
来たか、と友雅は心のうちでつぶやいた。明日は神子の物忌みだった。龍神の神子の
物忌みには、八葉のうちひとりが宿直(とのい)よろしく側に一日仕えることになって
いる。その八葉を名指しするのは神子姫、本人だ。
渡されたのは花橘の枝に銀色の料紙の結び文。確かめるまでもない。明日の物忌みに
ついていてほしいという神子の願いの文だろう。
本当は願うまでもなく、一言命ずるだけでよいのに、彼女はきちんきちんと礼をつく
した言葉を重ねる文を出す。歌こそ詠めない少女ではあったが、その心根は伝わるもの
で、いつも意外なほど神子の文は友雅を和ませた。
育ってきた世界が違うせいだろうか。龍神の神子の物の考えというのは、いささか変
わっていて、それが友雅をしばしば驚かせ、楽しませもする。
開いた文は、やはり神子からの依頼の文だった。
文を見ていた友雅に、また御簾の内から声がかかる。
「この藤の里にまで橘を追ってくる鳥がいるのですね。さすがは少将様ですこと」
「そのような色めいた話なら嬉しいのですがね。務めでもあれば致し方なきこととお察
しください」
「まあ、そのような」
「まこと花を散らすばかりの鳥は憎きもの。どうもあちらの里を荒らす鳥がいるようで
す。今日の所は、これにて失礼を」
「お役目とあらば、お引き留めしても詮無いことでございましょう」
あっさりと言う女房に、友雅もためらいなく席を立つ。
「──わが宿の花踏みしだく鳥打たむ野はなければやここにしも来る── 女御様に、
よしなにお伝えください」
即興で一首詠むと、友雅は藤壺を後にした。
友雅の姿が見えなくなると、残された女房達は一斉にざわめきだした。
「ねえ、聞いた? 少将様の今のお歌!」
「鳥打たむ……って、どちらかのお守りにつかれるのかしら」
「ばかね、よく聞いていなかったの? 八葉のお役目の呼び出しだったんじゃないの」
「どうしてわかるのよ」
「──とりうたむのはなければや──って、物名が隠れていたでしょう? 花の名前が」
「えええ! そうだったの?」
「にぶいわね、あなたは」
「私もわからなかったわ! ねえ、どこに?」
「──りうたむ(竜胆)の花──よ! 龍神の神子様とやらのことじゃない!!」
「ああ! そう……見事なお歌だわ。こんな時にまで心憎い方ね」
「あんな風に、かわされてしまったらねぇ」
「八葉のお役目ってそんなに大事なことなのかしら。せっかく久しぶりのお渡りだった
少将様が中座されるなんて。ねえ、小式部さん」
「殿方の事情など私たちの想像に余りあるのではございませんこと?」
「今は盛りの藤よりも、まだ咲かぬ竜胆の方が大事……ということかしら」
「まあ!」
「しーっ、めったなことを言う物ではなくてよ。あちらは女御様のお里でもあるのよ。
たぶん意味のあることなんでしょうよ」
「……それもそうね」
「少将様のことですもの。またお役目に飽きられたら、こちらにもいらしてくださるで
しょう」
結局、こうしたやりとりに長けているからこそ、女の園での友雅の評判は、上がりこ
そすれ、悪くなることはないのであった。
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