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有明の月
仲秋 憬 




  ただ待つだけの身、というのは辛いものである。

  左近衛府少将、橘友雅は、ついこの春先までは待つものも追うものもない身の上だった。

  人生は、うつろいやすく、はかなくも美しい淡雪のようなもの。

  彼はこの世に飽いていて、ただその時のすさびを紛らわせて、暮らす。


  恵まれた才。彼はおよそ苦労らしい苦労をせずに、何でも身につけてきてしまった。

  弓や馬は言うに及ばず、蹴鞠もすれば、刀もふるう。漢学、詩歌、書に、碁に、絵画。

 琵琶も、笛も、舞までも。人が何日も何年もかけて達する域に、あっという間にのぼって

 しまう。

  それにもまして、なによりも彼を水際立たせたのは、その姿と声だった。多くの者が集

 う中にいて、ただ立っているだけで、光り輝き、周囲を魅了してしまう。

  口を開けば朗々と、高過ぎもせず低過ぎもせず、ただ心地よく涼やかに響く声音が、耳

 を打つ。宮中の女房たちは、みな彼と一言なりとも言葉を交わしたくて縁を持とうと競い

 合う。

  まこと帝その人を除けば、これほどまでに、人々の関心を集めてしまう者はいなかった。

  殿上人として、あらまほしき男の姿。美しいものは、ただそれだけで愛でられる時代で

 ある。時の帝のおぼえもめでたく、出自こそ多少の遅れは取っていても、その気になれば

 自分の才覚ひとつで、もっと早い出世すら、のぞめたことだろう。


  けれど、友雅はそんな気概や情熱を、ひとかけらも持ち合わせていなかった。

  結局のところ、この世で一番彼に関心がないのは、彼自身である。

  自らがのぞめば、恋も野心も思うまま。果たしてそんな人生がどれほど面白いものだろ

 うか。

  ほんの気まぐれで恋を語り、遊興に身を浸し、与えられれば、勤めもそつなくこなして、

 その場しのぎに退屈を紛らわす毎日。何かに焦がれて苦しむこともないかわりに、あふれ

 るほどの喜びに満たされることもない。

  このままゆるゆると朽ちていく……それが自分に用意された人生なのだろうと、あきら

 めにも似た心境にあった彼である。


  そんな日々が一変したのは、今年の春のこと。己の意志とは関係なく、古からの占いに

 より『八葉』に選ばれた友雅は、自分の運命と出会ってしまった。


  龍神の神子である。


  元宮あかねという名の龍神の神子は、何も知らずに、この世でない、いずこからか、有

 無を言わせず召還されて、この京に降臨した龍の姫君だ。年の頃からいけば通う男がいて

 もいいような娘なのに、まるきり初心で、童女のような斎姫だった。

  短い尼そぎのような彼女の髪ですら、それを表しているようで。

  恋の相手にはまだ早い。それも神子姫ゆえか……と思っていたのである。


  しかし、それもほんのわずかな間だけだった。

  自分の意志とは関係なしに、気がつけば心がどんどん傾斜していく。止めることができ

 ない。

  このような物思いを友雅は知らなかった。こんな、何かに突き動かされるような、狂お

 しさは知らない。

  遠からず失うことをわかっていながら焦がれずにはいられない、その純粋さに恐れすら

 感じて、触れることすらためらわれる月の姫。

  なぜ、今頃になって、自分をこんなにもとらえて離さない存在に出会ってしまったのだ

 ろう。


  それがさだめなら。

  あかねという存在を自分の情熱として、己の胸の内だけでとどめておこうと一度は決心

 したのである。

  耐えきれず口にした想いも忘れてくれるように念を押す。彼女は忘れてくれていい。

  この身の内に刻まれた、幻のような残り火を暖めて、自分はこれから先も生きていける

 だろうと思った。

  だが、そんな己の決意までも翻せずにはいられない激しい情熱が友雅の中にあったとは。

  それは最後の賭でもあって、彼はそれに勝利した。

  京を救ったその暁に、神子は想いを返してくれたのだ。

  ならばもう遠慮はしない。恐れもない。彼女にすべてをささげよう。自分の側にとどめ

 て離さない。
  
  友雅の知る方法であかねを求めても、おそらく彼女にはわからないだろう。

  それでもかまわない。

  そうでなくても、すべからず八葉は神子に心惹かれている者ばかりだ。あかねは皆にや

 さしかった。本当に彼女は優しすぎる。人の痛みを感じすぎる姫だ。

  悠長にかまえることは、もう友雅にはできはしなかった。彼女が真の意味で大人になる

 のを、何もせずただ待つだけなどと、耐えられるものではない。


  そうした衝動にまかせるままに文を書く。こんなことも初めてのことだ。

  ──初夏の夢の浮橋渡らせば弓張月の入るにまかせて──

  内裏から自分の舎人に言付けて、文を贈る。無聊をなぐさめるような絵巻物やら、彼女

 を飾る絹なども選んで、ともに贈る。そうせずにはいられないのが、今の友雅なのだ。


  その文に思いがけず返事が来た。夏の日が暮れようという、まさにその頃に。
  
  ──いま来むと言ひしばかりに水無月の有明の月を待ちいでつるかな──

  橘の枝に結ばれた文を見て、友雅は我が目を疑った。あかねは意味をわかっていて、こ

 の歌をよこしたのだろうか。一文字ずつ離れていて、たどたどしくも丁寧に記された、か

 な文字は、あかねの手蹟(て)に間違いなかった。

  来るという人を、つまりは友雅を待っているという。来てくれないから有明の月までも

 待ってしまったという、そんな歌だ。待っているのは友雅の方ではなかったのか。


  これはどうしたことだろう。もう何も考えられない。頭にあるのは、今宵は何としても

 あかねの元に行かずにはいられないということだけだ。

  今宵の宿直(とのい)の役目はどうするのか。今日から三日の間、左大臣家に向かうの

 に方角は大丈夫なのか。契りを結ぶのに吉日だったかどうか。

  そんなことは、もうどうでもいい。この歌の前には、ささいなことだ。友雅が贈った歌

 の返歌がこれだったという事実の前に、彼をさいなんできたすべては何の障害にも、なり

 得なかった。




  日はすっかり落ちて、夏の匂い立つような夕暮れのなごりをとどめた宵を迎えていた。

  左大臣家に向かう道すがら、友雅はまるで己が己でないような、なにか夢の中に分け

 入っていくような妖しい心地にとらわれていた。急がないとこの夜が夢で終わってしまう

 ような気がして、確かに手の内にある、あかねがくれた文を何度も見返した。


  左大臣家の東門は人目につく。西門から少し離れた裏手に車をつけて、あとはひとり徒

 歩(かち)でいくことにした。すでに幾度も通った屋敷ではあったが、宴でもない深夜に

 訪ねるのは初めてかもしれない。しかも誘われてではなく、己の意志で、花を手折りに忍

 び込むのは……。

  あかねの部屋の格子からはわずかな明かりが漏れていたが、ひっそりと静かだった。

  息づかいも聞こえてきそうな夜の気配があたりを包んでいた。空には下弦の月。濃密で

 香しい夜だ。

  妻戸を叩いて返事を待たずに滑り込むと、御簾の内の几帳の影、すでに褥(しとね)の

 上に彼女はいた。

 「友雅さん! どうしたんですか? こんな時間に」

 「神子殿、今宵私が君をこうしてたずねるのを許してくれるね。あまりのうれしさに内裏

 からこちらへ来る道中も雲の上を渡ってくるような心地がしたよ。なんとか宿直を代わっ

 てもらって、取る物もとりあえず来てしまった。私にもまだこんな情熱があったのだね。

 本当に君は私の心をとらえて離してくれない。私は君という光を求めずにはいられないん

 だ。この物狂おしさをいったいどうしてくれるんだい?」

 「と、友雅さん……?」


  案の定、あかねは友雅の訪問を思ってもみなかった様子で呆然としていた。

  灯台の明かりに照らされた彼女の頬に血が上る様を、友雅は限りなく愛しいものを見る

 目でながめた。

  これから彼がしようとしていることを彼女は受け入れてくれるだろうか。喜びだけを分

 け合いたいと思っているのだが、抑えきれない情熱を持て余しつつある自分が、少女を傷

 つけないという約束はできない。


 「ああ、もう、どうにかなりそうだ。こんな自分は知らなかったよ。昔はものを思はざり

 けり……とはよく言ったものだ。この歳になってもね」

 「あの、友雅さん、いったいなにが……」

 「神子殿にあんな歌を詠ませて、私が放っておけると思ったのかい? まったく君は自分

 を知らない可愛くて憎い姫君だよ。でも、おかげで今宵一つ臥所(ふしど)にと思えば、

 どうしてなかなか、君という天つ風に翻弄される身というのも悪くはないね」

 「???」

 「もう有明の月をひとりでながめさせたりはしないよ」

 「友雅さん! さっきから友雅さんの言ってることって、私にはさっぱ…………んっ」


  友雅は躊躇せず、すでに褥の上にいたあかねの側へ寄ったかと思うと、いきなりあかね

 の言葉を遮った。あかねに抵抗するいとまも与えない。

  唇を重ね、腰を引き寄せ、溶け合うように抱きしめる。夢でないことを確かめたくて、

 さらに深く唇をあわせた。

  否やを聞きたくなくてふさいだはずの唇と吐息の甘さに、友雅は酔わされた。

  あかねの身体から力がすっかり抜けて、自分の腕から逃げないことがわかってから、よ

 うやく友雅は彼女の唇をわずかに解放した。あかねは友雅の腕の中で放心したままだ。


 「いったい、いつあんな大人の歌が詠めるようになったのか言ってごらん? 私以外の男

 と文でも交わしていたの? 相手は誰? 怒らないから教えておくれ。天真や、頼久や、

 泰明殿は、歌など寄越さないだろう? 御室の皇子に教えを請うたの? それとも、まさ

 か鷹通かい?」

  愚かな嫉妬だとわかっていても聞かずにはいられない。

 「ああ、油断も隙もないとはこのことだね……いや、悪いのは私だ。決して君を軽んじて

 いたつもりはないけれど、もっと早く手を打つべきだったな。左大臣家は人の出入りが多

 すぎる。まして君は龍神の神子だしね。表だって神子姫に用事があると言われて、目通り

 を妨げるわけにもいかないし。藤姫は私の味方をしてくれないし、本当に悩ましいな」

  あかねの瞳に映る己の影を確かめるように言葉をつむぐ。彼女の唇はすぐそばにあった。

 触れるか触れないかのあやうい距離だ。

 「でも、あの歌を送ってくれたのは、私にだけだね、愛しい私の月の姫。いや、そうでな

 くても、もう止められやしないけれどね」

 「…………ともまさサン……」

 「もう夢路についてしまう気かい? お供しましょう、姫君。夢の浮橋はふたりで渡らな

 ければ意味はないだろう?」

 「うきはし……」

 「そうだよ。内裏に届いた君の返歌を見て飛んできた恋人を置いていくなんて、つれない

 ことは言いっこなしだよ」

 「……歌を……いただいたのがうれしくて、それでお返事しなくちゃって……」

  夢うつつのはざまにたゆたっているような、いつになく、か細い声であかねは答えた。

  そんな様子でありながら、友雅に正面から向き合って答えようとする彼女がたまらなく

 可愛い。

 「ああ、うれしいのは私の方だよ」

 「でも、私は本当の姫君じゃないから、歌なんて作れないし……字だってうまく書けない

 し……」

 「神子殿」

 「友雅さんは、きっと、すてきな歌だって、あちこちからたくさんもらっていて……でも、

 私もお返事してみたかったから……」

 「あんなにうれしい歌をもらったことなどないよ、神子殿」

 「違うの、友雅さん。あの歌は……」

 「もう、おしゃべりはやめだ。夏の夜は短い」

 「え……っ、あの、あ……」


  ふたたび口をふさごうとすると、わずかにあかねが身をすくませるのがわかった。

  友雅は一息ついて、おびえた彼女を安心させようと心を砕く。何も告げずに、衝動のま

 ま、花を踏み散らしたいわけではなかった。


 「君は自分を姫君じゃないというけれど、私にとっては私を本気にさせるこの世でただひ

 とりの愛しい姫だ。この想いを伝える術を他に知らない私にできることといったら、ああ

 して歌や贈り物を届けるしかないんだ。そうやって妻問いするしか能のない哀れな男さ。

 君のいた世では、想いを伝えるのにどうすればいいか教えてくれるかい? 私にそれを試

 させてくれる?」

  あかねは首を横に振った。

 「これ以上にすてきな告白なんてないです。私にはもったいないくらい」

 「なにをばかなことを!」

  あかねを抱きしめる腕にふたたび力をこめる。彼女は友雅の胸に手をあてて彼を見上げ

 た。その視線にはあらがえない。


 「友雅さん、あの歌はね、私が作ったんじゃないの。私のいた世界に昔の歌として伝わっ

 てるのを借りたの。季節が合わないところを少し変えて。百人一首っていうのがあってね、

 たぶんこっちでもう詠まれた歌かなって思ったんだけど」

 「でもあの歌を選んで、ああして文に書いて私に届けてくれたのは、他ならぬ君だろう?」

 「それはそうですけど、本当のこと言っちゃうと、私、歌の意味は……」

 「──いま来むと言ひしばかりに水無月の有明の月を待ちいでつるかな──」

 「覚えちゃったんですか?」

 「ふふっ、忘れないよ。忘れてくれと言われてもね」

 「……えっと、それは、あの、なんていうか……」

  やはり彼女は知らなかった。それは罪だろうか? いや、そうではない。女神は何をし

 ても許される。けれど友雅は、もう待つつもりはなかった。

 「今宵の月は下弦の月だよ。ともに初夏の夜を有明の月まで……ね?」

  引き寄せて背にまわした手をさまよわせる。そうすることで、衣の下の彼女をも感じら

 れるかのようだ。

 「あの、だから、私には意味が……」

 「知らないで書いたなんて言っても、もう遅いよ、私の月の姫。それに知らずに選んでい

 たなら、なおさら、それは君の内にある想いが表れただけのこと。忍れど色に出りけりわ

 が恋は────。もう待てないし、待たない」


  友雅はそう宣言して、あかねのはおっていた羽衣のような生絹(すずし)の袿(うちぎ)

 をするりと剥いでしまう。剥がされた袿にうもれ、単衣(ひとえ)にされたあかねにうろ

 たえる間も与えずに、褥の上に押し倒してしまうと、彼女の頬はますます紅潮した。まる

 で咲きそむる紅の椿をみるようだ。

 「まだ誰も踏みいることのなかった白雪に、最初に足跡をつけるのを許してくれるね」

 「友雅さん……」

 「冬までなんて待てやしない。そんなことをされたら、焦がれ死にしてしまうよ。哀れと

 思ってくれるなら、どうか情けをかけておくれ。神子殿、どうか……」

 「あかねです。知っているでしょう?」

  それは真の名だ。その名を呼ぶのを許すことが、この世でどんな意味を持つのか彼女は

 知らない。それはすべてを許す相手にだけだ。


  友雅は、突然、無造作に彼女の真の名を呼ぶ、地の青龍のことを思い出した。

  自分がなぜ数いる八葉の中でも、特に彼に言いしれぬ焦燥を感じていたのか。

  彼を格別に羨んでいたのか。

  彼もまた何も知らない子供だった。何も気がついていない子供だった。

  そんな少年の純粋さで、何ひとつ手放そうとせずに、あかねに並び立つことができる彼

 が、うらやましくもあり、憎くもあったのだ。

  まったくもって我ながら大人げないと言わざるを得ない。

  それでも譲る気はなかった。気がつかない方が悪いのだ。

  恋はまこと思案の外だから……。


 「その名を呼ばせてくれるのかい? 女が真の名を男に呼ばせることが、どういうことな

 のかも、君は、きっと知らないね。それに私はつけこむよ。もう離さない。君の一切は私

 のものだ、あかね」

  ゆっくりと単衣のあわせに手を入れると、あかねの白い肌のすべらかな感触が友雅を楽

 しませた。袴の腰ひもをゆるめて脱がしさると彼女が身にまとっているのは本当に白の単

 衣ただひとつになった。

  無意識に単衣の前をかき合わせるような仕草をする彼女の両手を取って、褥の上に片手

 で押しつけてしまう。優しい拘束。

  その実、本当にとらわれているのはあかねではなくて、友雅の方なのだ。

 「そして私の一切は君のものだよ……それを、これから、わからせてあげる」


  初夏の夜を永遠に刻みこむかのごとく、絹の波間にあらわれた雪の肌のそこかしこに、

 くりかえしくりかえし、口づけては、花を散らす。

  夢の浮橋は、川面にゆらゆらと浮かぶ、はかない契りにこそふさわしいような例えだけ

 れど、この一時の夢を、くりかえし刻んで真実にしてみせよう。

  一夜限りの契りではない。ここより永久に繰り返される契りであるように。


 「まるで夢のようだ……。私は今までかりそめの人生を生きてきたんだね。君という情熱

 にめぐりあって、私は生まれ変わった。あかね、君ゆえに……だ」

  甘い口説をためらわずに言葉にするのは常のことでも、今宵の友雅は、一言ごとに、あ

 ますことなく、彼の本気をにじませた。ほとばしる想いをそのまま口にして、それがすべ

 て本気であるなんて、こんなことも、彼女にしかしないし、できない。

  それを、何としてもあかねに伝えたい。彼女にはそれを知る権利がある。

  身体はますます熱く高まってきて、身の内から流れ出す想いが、こんこんと彼を浸食し

 ていった。

 「あっ……」

  友雅の動作ひとつひとつに反応するあかねの小さな叫びも逃さずに、拾う。

 「……いやかい?」

  彼女は首を横に振る。

 「ちがっ……いやじゃなくて……いやじゃない……けど…………」

 「じゃあ、こわい? 肌があわだっているね……ふるえているのかな」

 「あ……ん……」

 「私はこんなに熱いけれどね……ほら、わかるだろう? この熱をわけてあげよう。この

 熱は君ゆえの熱だからね」

 「あ、そんな……の…………もう…………はずかし……はずかしいからっ…………とも…

 まさ……さんっ……ああっ」


  初心な姫君が新枕を涙でぬらすようなまねはしまいと思っていたが、別の意味で、泣か

 せてみたいと感じていたのも本当だ。この穢れなき月の姫を、己が身であばいていく暗い

 楽しみというのは、確かにあって、こんな男の情欲をそのまま突きつけたら、彼女は天に

 帰ってしまうかもしれないと恐れる。

  恐れる一方で、身も世もなくあられもなく乱れさせ、自分以外なにも感じられないよう

 にしてしまえと、思う。


  自分の手の内で、まだ青く固かったつぼみがゆっくりと花開いていくのを、友雅は楽し

 んでいた。

  まぎれもなく乙女であった彼女は恥じらい、残った単衣でなんとか胸を隠そうと身体を

 よじっていたが、その分腰から下の衣はすっかりゆるみ乱れて、白い素脚を、まだ袴も脱

 いでいない友雅の身体で押さえ込まれていることに気がついていなかった。

  こういう少女なのだから……と友雅は内心のおかしさと喜びを声には出さず、相変わら

 ず溶ろけそうなほど甘いことばでかきくどき続けながら、彼女の脚のなめらかさを味わい、

 少しずつ脚を割っていった。


  友雅自身は、いつものように襟の紐を解いてゆるめた二藍(ふたあい)の直衣(のうし)

 を肩脱ぎし、単衣の前をさらにゆるりとくつろげただけで、ようやく目の前に落ちてきた

 天女を、あばき出すことに執心していた。


  ついには、躯のあちこちに刻印を許し、衣を落とされむき出しになった白い肩や、やん

 わりとまるい乳房が、灯の色に白玉のように輝く。のけぞる首筋に舌をはわせ、うす紅の

 小さな貝のように朱に染まった耳に口をつけてささやくと、すでに声にならない声が、あ

 かねの口からもれ出す。

 「可愛いあかね……さあ、声を出してごらん、さっきのように思わずもれた声を遠慮なく

 出してしまえばいいんだよ。……ね」

  友雅の長い髪が落ちて彼女の顔をすっかり被うとばりになってしまうと、薄闇になれた

 はずの目にも、しかと表情は見えない。早い息づかいとあえぎが二人を行き交った。

  友雅は自分のすべてで相手を確かめるがごとくに、ありとあらゆる部分を重ねてしまお

 うとする。

 「……あ…あ……も……こんな……」

 「……なんだい? 姫君?」

  あかねの目はぼんやりとうるんでいて、何も考えられなくなっているのが、友雅には、

 わかった。

  少女の切りそろえられた前髪もすっかり乱れて、細い髪の一本一本が汗で額にはりつい

 ている、そのさままでもが狂おしく愛しい。男の手で、額のはえ際の淡いあたりをなで、

 はりついた前髪をわける指先に感じる熱が、いっそう彼を燃え立たせた。


  注意深く夜をこめて関の戸を開く友雅を、あかねは素直に受け入れていた。

  初めての痛みを、初めての快楽にすっかり溶かそうとした友雅の愛撫が、彼女を酔わせ

 ているのだ。

  涙はあふれ、息も切れ、すでに半分心を飛ばしていても、羞恥の中に眠っていた情欲を、

 かき出してみせる。


  ようやくひとつに溶け合ったところで、友雅は、ついにそれまで抑えていたものを解き

 放った。それまでになく激しく性急な男の哀願が、彼女を翻弄する。

  男女の交わりを知らない少女に、己がいったい何を許したのかを躯に教え込む。

  それが確な手応えをもって返ってくることに、彼は狂喜した。いくども愛のあかしをた

 てては、契り続ける。


  目もくらむような熱い幸福感は、あかねがついに気を失ってしまうまで、よせてはかえ

 す波のように、彼を浸していた。

  波間に浮かぶのは有明の月。

  引き絞られた弓張り月から放たれた矢が、とうとう時をこえた二人を重ね差し貫いたこ

 とに、友雅はようやく少しだけ安堵するのだった。




  部屋にあった燈台の火はすっかり消えてしまったが、有明の月明かりがほのかに差し込

 む新床で、友雅の素肌に抱かれたまま、髪をなでられていたあかねが、ふっと目をあけた。

 「夢路にたゆたう姫君を起こしてしまったかな」

 「………ともまさ……サン…………」

 「そうだよ。気分はどう? 少し無理をさせてしまったね。すまない。君があんまり可愛

 くて」

 「………………」

 「ごらん、有明の月だよ……もうひとりでながめさせたりしないと誓おう」


  几帳をずらして、端近へと抱き寄せいざると、格子の間から、そろそろ明け方の気配を

 ただよわせてきた空に、半分欠けた月が、なお白く輝くのが見える。

 「もう君を離せないよ。来世までもね。こんな話を知っているかい? …………死んで、

 三途の川をわたる時は、女はこの世ではじめて契りをかわした男に、背負われて渡るとい

 う言いつたえ」

 「……あの世へ行く時に……?」

 「君を背負うのは、まぎれもなく私だね。ふふっ、来世もともに、と約束してほしいもの

 だな」

 「と、友雅サンっ」

 「どうしたの? 目が覚めたかい?」

 「お願いだから、そんなこと言わないで。あの世とか、そんなの……そんなのいや……だ

 もの」

 「あかね……」

 「あの世のことなんてわからないけど、ずっと一緒にいたいだけ……です」

  その言葉を聞くやいなや、友雅はゆったりと腕の中で身をまかせていたあかねを、骨も

 折れんばかりの力で強く抱きしめた。

 「ああ、もうどうして君はそうなんだろうね。どれだけ私を夢中にさせたら気が済むんだ」

 「え?」

 「もうすっかり君しか見えなくなってしまったということだよ。困ったな。明るくなる前

 に帰らないと、恥をかくのは君だというのに、このままもう一度、床(とこ)に戻りたく

 ってしかたない」

  友雅は実にしみじみと優しい笑みを浮かべてそう告げると、あかねを抱き込んだまま、

 両手で彼女の頬をはさんで口づけた。

  それは、あかねがすぐに正体不明になってしまうほど、深いものだった。





  思いがけずまだ暗い内から、高く澄んだ声が、あかねの部屋に響いてきた。

 「神子様! 神子様、おめざめでいらっしゃいますか? 御簾をお上げしてよろしいです

 か? きょうは私と碁を打つお約束でしょう?……折角ですから朝餉もご一緒にと思って、

 こうして来てしまいましたの…………!!! とっ、とっ、友雅殿?! どうしてこんな

 ところに! なっなぜ……ここは神子様のっ」

  几帳をわけて入ってきた藤姫は、褥の上の友雅とあかねを見てあきらかに狼狽していた。

  藤姫に付き従ってきた周囲の女房も驚きを隠さずにいる。

  友雅は藤姫にはきちんと筋を通してしまうつもりだった。

  藤姫が友雅にどんなに不満があったところで、結局、あかねが許していることに、藤姫

 はあらがえない。龍神の神子の前では、八葉である友雅と星の一族である藤姫は同類なの

 を、友雅は知っていた。

  あかねの身体を抱き込んだまま、友雅はあわてるそぶりもみせずに微笑んでみせる。

 「姫君が朝から大きな声をたてるものじゃないよ。後朝の別れを惜しんでいただけさ」

 「きっ、きっ、きっ、き、きぬぎぬ……」

 「ああ、藤姫、今宵と、明日の晩と、またこちらにうかがいます。明後日には、お餅を用

 意していただけるね」

 「…………!!!」

 「ではね、あかね、今宵また」

  真っ赤になってにらみつける藤姫の目の前で、友雅は嫣然として、傍らに抱き寄せてい

 たあかねに、几帳にかけていた自分の単衣をふわりと着せかけてみせる。

  そうしておいてから、いまだ夢心地らしいあかねの、夜通しの行為のせいでぷっくりと

 赤さの増した唇を味わい名残を惜しんだ。

  こうして離れがたい気持ちになんとか折り合いをつけると、褥の脇にうち捨てられてい

 たあかねの袿を一枚身にまとい「見送りは無用だよ」と告げて、その場を辞した。




  明け始めた空には、まだ有明の月がある。

  帰りは予感があって、わざと東門へ回った。東門の裏手に左大臣家がかかえる武士団の

 住まう離れがあるのは先刻承知の上だ。

  そして……やはりというか、離れの庭先で剣をふるう青龍ふたりの姿を見つけてしまっ

 たのは必然だろうか。故意だと言われても仕方のないふるまいだ。

  先に友雅に気が付いたのは、背を向けていなかった地の青龍、天真だった。

 「なんでこんな時間にあんたがここにいるんだ。夜明け前だぞ。あかねのとこに来るには

 早すぎるだろ」

 「さあ……どうしてだろうね」

 「友雅殿?」

  天の青龍、頼久も振り返った。

 「もう失礼するところだよ。どうぞ稽古を続けてくれたまえ」

 「おい、あんた、そのひっかけてる派手な着物なんだよ? それどっかで……」

 「……時に天真、その後、妹御の消息は何かわかったかい」

 「変わらねぇよ。絶対あきらめないけどな。おい、聞いてるのはオレだぜ!」

 「気になるかい? これは天女の羽衣みたいなものだよ。私はね、天真、欲しいものは、

 たったひとつだ。それを手に入れるためなら、他のありとあらゆるものは塵芥に等しい。

 己の血肉も切り落とせる。手段は選ばない」

 「なに言ってる? あんた、いつもそうやって人を煙にまいて楽しんでねぇか? オレは、

 そうゆーのうざってぇーんだよっ! いちいちムカつくヤツだな」

 「天真よさないか」

  頼久が割って入ろうとするのを友雅は軽くいなした。

 「いいんだよ、頼久。わからなければ、それはそれでいいんだ。すまないね。確かめたか

 っただけだ。天真、妹御が一刻も早く見つかるのを心から祈っているよ。あかねもそれを

 願っているものね」

 「…………!!」

  友雅があかねの名を口にした瞬間、天真の顔色が変わるのを、友雅は見逃さなかった。

 「友雅殿、そのお衣装は、まさか……」

  言いつのろうとした頼久を片手で止める仕草をして、微笑む。

 「邪魔をしたね。また近い内に、神子殿も一緒に……ね」




  左大臣邸の東門から、迎えの車が待つあたりまでゆっくりと歩く。

  一夜ですべてを得るわけにはいかない、とわかっていた。

  龍神の神子はたったひとりで、八葉は八人もいるのだ。

  一番恐れていた相手が、今はもう、そう恐れるものでもないことを、こんな朝にまで確

 認せずにいられないとは、我ながらあさましいことだと、友雅は己を笑った。


  全てを投げ出しても彼女を欲する相手は、自分以外にもいることを、友雅は知っている。

  一番手強いのは誰だろう。


  空は、もうだいぶ明るくなり、鳥がさえずりはじめた。月はまだ空に薄く輝いている。

  ふと口をつく歌。このあとすぐに永遠の恋人のもとに贈るものだ。


  ──橘の下に隠せどあかねさし照れる月夜に人見てむかも──




                   【 終 】



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