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挨拶入門
仲秋 憬 




  千年の都、古の京の危機を救うべく、異世界より召還された龍神の神子。

  その神子を守り戦うべく選ばれた八葉という男達。

  森村天真は、龍神の神子として現代から京に召還された元宮あかねの同級生だった。

  しかし、それはもう過去の話だ。


  否応なしに八葉の一人として戦い、あかねとともに京を穢す鬼を退治して、さあ家に

 帰ろうというわけには、いかなかった。

  あかねは、すべてを振り捨てて、この地に留まることを選び、天真もまた確かに、こ

 の京のどこかにいるはずの行方不明になった妹を探すべく、残ることを決めた。

  あかねも天真も、いまだ変わらず、ここへ来てからずっと世話になっている、左大臣

 家の屋敷、土御門殿で暮らす日々だ。

  あかねは相変わらず神子の君として左大臣家の姫君のような扱いで、天真の方は左大

 臣家に仕える武士団の一人として、やっかいになっている身の上である。

  しかし、天真とあかねに主従の関係などあろうはずもなく、二人は相変わらず遠慮な

 く話ができる友人だった。

  そして、左大臣家には、いまだ八葉たちが日々集う。もちろん、龍神の神子であるあ

 かねに会いに来るのだ。

  その中で一番天真が苦手とするのが、左近衛府少将、橘友雅だった。


  まだ日も差さぬ夜明けの庭先で、天真は、あかねが寝起きする部屋の妻戸から出てく

 る友雅を見た。

  どこか鍛錬にでも出ようかと西門へ向かうのに、近道のつもりで西の対の庭を横切ろ

 うとしたところ、目の前の渡殿をいく友雅の足取りを見て、天真は我知らずむっとした。

  友雅が、ふと庭先の天真に気が付いた。

  知らない相手でもなし、無視するのも大人気ないので、天真は声をかけた。

 「機嫌がよさそうだな」

 「やあ、天真、こんな時間に珍しいね」

  友雅はにっこり笑って、手にしていた扇で天真を招くそぶりをした。仕方なく天真は

 渡殿の階(きざはし)のところまでやってきた。

  友雅も、近寄ってきて階の上に無造作に腰掛けた。

 「…………ほんっと、よく来るな、あんた」

  呆れたように天真が言うと、友雅はそれに気を悪くした風もなく、にこやかに言った。

 「ちょうど良かった。天真に尋ねたいことがあったのだよ」

 「あんたが俺に?」

  天真は、はて、と一瞬首をかしげて、すぐに気がついた。

 「なんだよ。あかねが、どうかしたのか」

 「神子殿のことだと思うわけだね」

 「あいつのこと以外で、あんたが俺に聞くことなんかねえだろ」

 「ふふふ、よくわかっているじゃないか」


  いやな男だ。天真は元々、この友雅が嫌いだった。

  この京へやってきたばかりの頃は、同じ青龍で、地の青龍である自分に対して、天の

 青龍である源頼久に、とりわけ反感を感じたものだ。しかし、頼久には、こんな風に訳

 の分からない劣等感を刺激されるようなことはなかった。天真と頼久は、育ってきた環

 境も価値観もまったく異なる二人だったが、同じ八葉として、対等の立場でぶつかりあ

 い、結果、互いを理解することができた。今では頼久はこの京における天真の真の友と

 言ってもいい存在だ。

  しかし、今目の前にいる地の白虎、左近衛府少将、橘友雅とわかりあうことなど一生

 無理だろうと天真は思う。

  そもそも、面白くないのは、ただひとつのことに起因している。

  あかねは、この男を選んだのだ。橘友雅と一緒にいるために彼女は育った世界を捨て

 て京に残った。

  甘さを伴う懐かしい思慕。まだ消えないかすかな胸の痛みを天真は意識する。蜜月の

 二人を見て、平気でいられる日が来るのには、もう少しかかるだろう。

  それまでのやつあたりくらい受ける義務が友雅にはあるのだ。八葉すべてが心惹かれ

 る龍神の神子を、その手にしたのだから。


 「言ってみろよ。答えるかどうかは、わかんねえけどな」

 「そう……君たちの育った世の習わしごとなどをね」

 「はあ?」

  なんだか妙な話だが、ことあかねに関わるとなると、聞かないわけにもいかなかった。

  あかねが大事だ。あかねの笑顔を守るためには、今、こいつの話を甘んじて聞く必要

 もあるのだと、天真は自分に言い聞かせた。

 「挨拶の習慣というのは変わりがないものだろう? 君たちも朝会えば、おはようと声

 をかけるね」

 「そりゃな」

 「別れるときに手を振ったりもするようだね。それは聞いたのだよ」

 「ああ、バイバイってか。よく子供がやったりするよな」

 「他には何かないかい?」

 「他に?」

 「そう、挨拶で……他にすることは」

 「へっ? お辞儀とかか? でも、そりゃここでだってしてるだろ」

 「いや、お辞儀などではないよ」


  いったい何が言いたいのだろう、この男は。

  天真が、けげんそうに黙り込んだのを見て、友雅は妙に嬉しそうだった。それがまた、

 いやに天真のカンに障る。何にせよ自分の振る舞いが友雅を上機嫌にさせていると思う

 と、はなはだ気分が良くない。

 「……なにニヤニヤしてるんだよ。いやなヤローだな」

 「おや、すまないね」

  まったくすまないと思っていない調子でそう言われることほど腹立たしいことはない。


  いやな予感がした。このまま会話を続けない方がいい。

  もう行こう。今、行こう。すぐ行こう。

  これ以上、友雅と話をしていると、きっと良くない事が起こる。

 「俺もう行くぜ。あとは詩紋にでも……」

 「神子殿がね、憧れていた習慣だと言うのだよ」

 「あかねが憧れてたァ?」

  直接あかねのことを持ち出されて、天真は歩きだそうとしていた足を止め、つい反応

 してしまった。

  あかねが憧れていたことなんて、実際、天真には想像もつかなかった。それが挨拶と、

 どういう関係があるというのだ。

  首をひねる天真に、容赦ない友雅の一言が下された。


 「“キス”っていうのは、挨拶の一種かい?」


 「×○$△*@□%◎#〜?!!!!!!!!!」

  天真は怒りと呆れと驚きがないまぜになった衝撃で、まともな言葉を返すことができ

 なかった。

  友雅は、面白そうに笑みを浮かべて、天真を見ている。その余裕の笑顔が天真の怒り

 に拍車をかけた。

 「夜毎の逢瀬で神子殿も朝が辛そうでねえ。私も後朝(きぬぎぬ)は、どうにも離れが

 たくて、ついつい支度が遅れがちになってしまって。そうしたら神子殿がね……」

  それ以上聞いたら、天真は友雅に何をするか、わからない。握りしめた拳がぶるぶる

 震えているのが自分でもわかった。

 「行ってらっしゃいのキスをするのが夢だったからさせてほしいと言うのだよ。憧れて

 いた習慣だからと、そう言って。ふふっ。たまらないね。可愛いだろう」

 「てっ、てっ、てめえ、言うに事欠いて、あああああかねに何を……っ」

 「挨拶だって言うなら、今、君に同じ事をするのが礼儀なのかなと思って」

 「ばばばばばばばばかっ! やめろ!!」

  すっと近寄った友雅とまともに向き合い、実に近いところで二人の互いの目があった。

  友雅は笑っていたが、瞳にたたえた光は剣呑だった。その光を見た天真は、一瞬にし

 て、冷水を浴びせられたように、我に返った。

 「ふふっ、神子殿と間接キスとやらになるんじゃないのかい?」

  友雅がせせら笑うように言う。

 「……てめえっ!!」


  確かに友雅はわざと言っている。この男は“キス”の意味なんて先刻承知なのだ。当

 たり前だ。あかねを、かまい倒して、ちゃっかり聞いているに決まっている。

  友雅の意図なんてお見通しだ。あかねは自分の物だと天真に知らしめたいのだ。のろ

 けているとかいう、かわいい次元の話ではない。はっきりと牽制をかけられているのだ。

  これで大人しくしている天真ではなかった。

  さっきから握りしめていた拳を、思い切り振りかざす。

  決まれば、確かな会心の一撃だったはずだが、友雅はふいと簡単によけて、天真の拳

 は空を切った。

 「ばかやろ、よけるんじゃねえよ!」

 「よけなかったら痛いじゃないか」

 「痛いようにしてやるんだよ!! ふざけやがってっ!」

 「天真ごときにやられるような、私だと思っているのかい? これはまた、ずいぶん見

 くびられたものだ」

 「なんだとっ!」

 「──鮑(あわび)の貝の片思ひなる──ってね。君の歌かもしれないねえ」

  何がいやだと言って、わけのわからない歌を持ち出してきて、こちらの無知をあざ笑

 うような真似をする友雅が天真には許せない。

  あかねは、友雅のこんなところに騙されたのに違いない。更なる怒りが天真を襲う。

 「いっぺん死にやがれ! このエロオヤジっ!!」


  二人をなだめることができる唯一の存在、龍神の神子は、まだ夢の中だ。

  天真の怒声と友雅の高らかな笑い声が、まだ明け切らない土御門の朝の庭に響いてい

 た。




                   【 終 】




◆ 画……彩本真帆 様 ◆


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