憬文堂
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  Romantic Realist  

仲秋 憬




もっと早く気づけばよかった

……そうしたら優しくした

心を得られるように




T





   後悔はあるかと問われれば、ないとは言えない。

   だが、それを具体的に口にすることはできなかった。

   自分の本心すら無自覚だった己の未熟さと判断の遅れを、いつまでも悔やんで、

   あきらめきれずにいるなどと、まさか後悔の種である本人を目の前にしては。






 御堂一哉が日本に帰国すると、必ずすること。どんなことをしてでも時間を作り、彼女に

連絡を取るのだ。

 世界的大企業である御堂グループの次期総帥として、学業の傍ら将来のための実績作りで

働くことは、世界中を頻繁に行き来することでもあり、祥慶学園を卒業してアメリカに留学

しても、仕事で日本に戻ることは多かった。月に一度とまでは言わないが三ヶ月と間が開く

ことはなく、大学が長期休暇に入る夏には少しまとまって帰国する場合もある。そうなると

ホテル住まいの外食続きがうとましくなり、後見人の特権よろしく元家政婦を呼び出す。

 一哉が滞在しているホテルのインペリアル・スイートには、そのへんのマンションよりも

広いキッチンルームもついているから問題はない。



『もしもし? ……一哉くん、またなの?』

「またとは、ご挨拶だな。一学期が終わったんだから報告の義務があるだろう。お前の後見

人は誰だ」

『──御堂一哉さんです』

「忘れたわけじゃないなら、義務を果たすんだな」

『……あのねぇ』

「時間があるなら付き合えよ。仕事相手じゃない奴と飯が食いたいんだ」

『わかった』

 最初から、そう言えばいいのに、と少女が呆れ声でつぶやくのを聞いて、一哉は声を出さ

ずに笑った。





 スイートルームのドアチャイムが鳴る。

 やって来たのは変わらぬ笑顔の元家政婦、鈴原むぎだ。両手に結構な荷物を持って来てい

る。地下の食料品売場に力を入れているホテルに近い御堂百貨店の袋だ。帰国のたびに呼び

出すので、さすがに学習したらしい。

「よく来たな」

「おかげさまで。ルームサービスと勘違いしてないよね?」

「するわけないだろ。バーカ。ほら、土産だ」

「え? あ、……ありがと」

 運び込んだ荷物を置いたむぎに、特別に凝った包装もしていない空港の袋を渡してやると、

彼女は、おっかなびっくりといった様子で受け取り、中身をのぞいた。

「あ、これ、おいしそう」

 パリのショコラティエの支店が東京にもある時代だ。実際にはそれほど珍しくもない外国

の菓子だが、注意して日本に輸入されていないものを選んでいることに、むぎが気付いてい

るかどうか。気付いていなくても一向に構わない。一哉の自己満足だ。

 色とりどりの菓子の箱に、グラビアの多い若い女性向けの雑誌の束をながめて、むぎは嬉

しそうだった。

「一哉くん……律儀だね」

「俺は約束は守るぜ」

「うん、わかってる。すごく嬉しいよ。ホントにありがとう!」

 以前、田園調布の一哉個人の持ち家で同居していた頃、むぎが何かの話の折に、そんなに

あちこち海外出張に行くならお土産が欲しいと口にしたことがあった。彼女のおねだりは本

当にささやかなもので、お菓子や雑誌といった他愛のないものだ。つまり、それくらいなら

気楽に受け取れるのだろう。以来、一哉は、本当についでのように空港で手みやげを自分で

選んで買う。誰かのために何かを探したり選んだりするのが、これほど楽しいことだなんて

知らなかった。

 むぎと関わり続けたいと願う。

 そんな風に何かを強く願うこと自体、一哉にとって稀有なことなのだ。




 スイートルームのキッチンに用意されている調理用具で、むぎはごく当たり前の夏らしい

和食を作り、地上30階からの眺めを誇る部屋の窓近くに据えられた、六脚の椅子が囲む北欧

製のダイニングテーブルに、得意げに並べて見せた。塩焼きの鮎や、なすの煮びたし、透き

通るように炊いた冬瓜や、枝豆と蟹の和え物に、卵蒸しの冷製、等々、これでもかという食

卓の充実ぶりに、つい笑みを誘われる。

 本音を言えば、むぎが仕度した炊きたてのご飯にみそ汁とお新香だけでも、満足してしま

いそうなのだ。

 むぎの作る食事は、一哉にとって、すでに懐かしさすら感じさせる味で、それは同居して

いた、ほんの一年足らずで彼女が彼に植えつけたものだった。

「はい、どうぞ召し上がれ」

「いただきます」

 広い洋室の大きなテーブルで向かい合って二人きりで食事をするのに、特に不自然さも、

ぎこちなさも感じないのは、相手がむぎだからに他ならない。

 問題なのは、今ここで、それを骨身に染みて感じているのが、一哉だけであろうという

事実だった。

「これ、美味いな。この季節は特に」

「一哉くん、卵蒸し好きだね。冬の熱々もいいけど、冷たいのもおいしいでしょ。青柚子を

散らすのがポイントなんだよ。香りが命ってね」

「悪くないな」

「わがままな雇い主に鍛えられたもん」

「それだけの報酬は、あっただろう」

「まぁね。感謝してますって」

 ぽんぽんと行き交う会話が心地よいのも、いつものことだ。




 むぎの心づくしの夕食をたいらげ、ルームサービスを一切使わず、彼女がいれた日本茶を、

少々不似合いな革張りのソファに席を移して、ゆっくりと味わう。

 目的の本題に彼女の意識を向けさせるにはタイミングを見計らわねばならない。

 むぎは手早くキッチンを片付けて、自分の分もお茶をいれ、一哉の向かい側に座った。


「成績表は見たぜ。今年はお前も祥慶の最終学年だろう。進路はどうするんだ」

「……うん」

 かつて一哉の家で同居仲間だった、むぎにとっては兄にも似た存在だったであろう一年先

輩の一宮瀬伊と羽倉麻生も、すでに卒業してそれぞれが外国暮らしだ。一哉と同学年だった

松川依織は都内在住だが、歌舞伎役者としての修行で多忙なはず。むぎの両親はすでに亡く、

唯一の肉親である姉は遠い英国暮らし。同級生の女友達に相談くらいはしているかもしれな

いが、一哉は後見人という名の実質的な彼女の保護者の立場を誰にも譲るつもりはなかった。


「あたし、ホントなら祥慶みたいなお金持ちでなきゃ入れない名門私立に通う人間じゃない

し……。大学で絶対これを勉強したいってものが、あるわけでもないしねぇ」

「そうなのか」

「うん。それに、あたしってば祥慶では一度は美大も卒業して先生やってた、やり直し高校

生ってコトになってるんだしさ。また進学するのもヘンじゃない?」

「それについては、最初に美術の臨時教師として、もぐり込ませた俺の責任もあるからな。

姉さんと無事再会して、ようやく学生に戻ったところで、すぐまた御堂の事件絡みでスパイ

もどきの理事長秘書までさせたんだ。最後まで面倒みてやるぜ」

「は? どういう意味?」

「希望する進路に、経歴詐称なしで進めるように、本当のお前の生年月日で履歴書を書ける

ように整えてやるから心配するな」

「……それはありがたいけど、でもちょっと違うよ」

「何が違う」

「祥慶学園で美術教師になったのも、その後、秘書をやったのも、あたしが自分で決めて引

き受けたんだよ。だから一哉くんに一方的に責任があるってのは違うでしょ。最初に行方不

明だったお姉ちゃんの手がかりが欲しくて祥慶に入りたがったのは、あたしで、そこで一哉

くんに助けてもらったんだから」

「その分、きっちり働いてくれたから五分五分だ。有能な家政婦は貴重だしな。お前の協力

で事件も解決したし、御堂の力になったんだから、正統な対価だ」

「認めてくれるのは嬉しいけど、一哉くん、あたしのお父さんじゃないんだし」

「馬鹿か。お前の父親になんかなってたまるかよ」

「だからね、今までは別として、これから先の進路や将来まで全部面倒みてくれたりしなく

て、いいんだってば! 祥慶を卒業させてくれるだけで、もう十分だよ」

「お前みたいな危なっかしい奴から目を離したら、いつ何をやらかすかと気が気じゃない。

とても野放しにできないから仕方ないだろ。ここまで関わってしまった以上、手遅れだ」

「信用ないなぁ」

「今さらだ」

「……お互い様じゃないの?」

「それならそれで別に構わない」

「うーん……そういう問題なのかなぁ。なんかずれてる気がするんだけど……」

 首を傾げるむぎをそのままに、一哉は別の話を持ちかけた。

「明後日の午後から夜にかけて空いてるか?」

「明後日……?」

「ああ。7月9日だな。丘崎さんとか、他に誰かと約束があるなら……」

「夏実や遊洛院さん達も夏休みで海外旅行に行っちゃったし、あたし夏期補講も取ってない

から、一応、空いてるけど」

「なら付き合えよ」

「どこへ?」

「外資系のパーティに出る必要があって、パートナーがいる」

「お仕事関係? だったら秘書さんの方が、いいんじゃないの? 一哉くんには何人もいる

んでしょ」

「あいにく夏期休暇でうまく都合がつかない。それに業務ではなくて、プライベートに近い

集まりなんだ」

「……だったら尚のこと、あたしじゃまずいと思うけど」

「食事は美味いぜ。三つ星シェフのフレンチ、食べたくないか?」

「え、食べたい!」

「決まりだな」

「あ……っ」

 やられたという顔をして一哉をにらむ表情すら愛らしく見えるのは惚れた欲目だろうか。

 好奇心の強いむぎを乗せるのは、案外たやすい。

 そこから先が思うように進まず苦戦の連続なのだが、一哉は決してあきらめるつもりなど

なかった。





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