憬文堂
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隠 家 物 語
ままならぬ食膳給仕に悩むこと





 
 広い屋敷にたったひとりの女房じゃ、やれることに限りはあるけど、できる女房として

朝餉と夕餉の支度は抜かりなくしておかなきゃいけないと心に決めたあたしは、その日も

台盤所に細かく指示をして四人の主の夕餉の支度は万全だった。

 なのに、やりがいないったらありゃしない。

 もう戌の刻になるのに、まだ誰も帰ってこない。これはまた、誰も夕餉は食べないで

終わるのかなぁ。

 せっかく用意したのに。今日は市で立派な瓜が手に入って、みずみずしいお菜と合わせ

ておいしくできた椀もあるし、白飯もほどよく炊けてたのに、すっかり冷めちゃうよ……。

 その時、かすかに外廊を渡る物音がした。誰か帰ってきた?

 なんだかおぼつかない足取りで車宿の方から来たのは一宮の侍従。

「おかえりなさい、瀬伊くん。夕餉の用意できてるけど……」

「ごめん、いい。ちょっと気分悪い」

「えっ? だ、大丈夫?」

「今日の子、薫物がきつくて。返歌の途中で帰ってきちゃった。君は、そういうの焚かな

いよね。そのほうがいいよ」

「あっ、ちょっと―――」

 今日の子って……誰かと逢瀬ってコト? もう………。


 ……あ。また誰か帰ってきた。東の対に向かうのは羽倉蔵人の少将だ。

「麻生くん、おかえりなさい」

「なんだよ、待ちかまえてたのかよ。気色悪ィな」

「違うよ! 今ちょうど瀬伊くんも帰ってきたから……。それより、ご飯は?」

「いらね。外で食ってきた」

「え、あ、ちょっと!!」

 ホントに、愛想悪いな……。もう少し言い方とかあると思うのよね。

 はあ……。


 いつ帰るとも知れない残りのふたりを局で待っていたら、そろそろ亥の刻か。

 ご飯、すっかり冷めちゃったな。

 ため息をつくと、渡殿の床が鳴る音がした。……今度は、誰だろう。

 出迎えに出る前に、あたしの局の方へ向ってやってきたのは松川権中将だ。

「依織くん。おかえりなさい」

「ただいま。はい、おみやげ」

「……………唐菓子?」

「呼ばれた宴でたくさん振舞われてね。女房を頑張ってくれてるお礼。甘いもの好き?」

「好き……だけど、あの、宴ってコトは、やっぱり、夕餉は……」

「……ああ、ごめん。僕の分も用意してくれてたのか。悪いことしちゃったね」

 あやまってくれるけれど、それはごくあっさりとした儀礼的な感じで、本当に悪いと

思っていないのがわかる感じだ。依織くんは、あたしの様子には構わない。

「こんな屋敷なんだし、あまり無理することはないよ。そろって夕餉を食べないとどう

にかなるって話でもないし。支度してくれたことは嬉しいよ。どうもありがとう。……

それじゃあね」

 ふわりと袖をひるがえして彼は自分の対へ行ってしまった。


 ……あとは、一哉くんか。こうなると推して知るべしって感じだけど。

 燈台の明かりでぼんやりと料紙をながめていたら、気配があった。

 急いで御簾をくぐって廊へ出ると、渡殿の先には思ったとおり御堂中将がいた。

「おかえりなさい。遅かったんだね」

「参議が長引いた。風呂は?」

「日がいいんだっけね。入れるよ。夕餉は?」

「済ませてきたからいい。あとで、小湯だけ持ってきてくれ」

 中将はそっくなく言うとさっさと寝殿へ入ってしまった。


 ハァ……結局全滅か。また無駄になっちゃった。

 下へお下がりを振舞えばいいって言うかもしれないけど、いつもそれってどうなのか

なあ。そうでなくても、ここには人がいないのに。

 そりゃ、あたしはただの女房で、とやかく言う立場にはないけれど、でも、もう少し

なんとかならないかな……。




 翌日の夜明け前、手際よくきっちり朝餉の支度をすませたあたしは、いよいよ腹を

くくった。

 朝はいいのよね、朝は。時間はバラバラで、女房ひとりに全部運ばせてるのは、あん

まりだけど、出仕の前に膳を運べば、だいたいみんな、食べてくれるし。

 問題は、夜だよね。今まで我慢してきたけど、やっぱり、どうにかしてほしいよ。

 忙しいのはともかく、前にひとことくらい予定を伝えてくれたらいいのに。

 ちょっと言ってみよう。一緒に住んで、たったひとりで女房してるんだもん。

 それくらいは聞いてもらっても無礼ってことないと思うの。

 誰に聞いてもらうべきか考えて、ここはまだ内裏で姿を見かけてなくて一日の動きも

何をしているかもよくわからない蔵人の少将、麻生くんに話してみることにした。

 何事も当たって砕けろよ! いや……砕けちゃまずいんだけどね。


 東の対の奥の間に入るべく、御簾の向こうで咳払いをひとつしてから声をかけてみた。

「麻生くん? ねーちょっと、悪いんだけど、起きてくれない? 話があるの。おーい」

 返事なし、か。しかたないな……。

「麻生くん! 入るよ! 起きてー!」

 御簾をくぐって前を遮る几帳をよけ、いよいよ帳台まで来たところで、どう見ても寝

起きの少将が帳台からのっそりと出てきた。

「うわっ、なんだテメェ!! なにしやがんだ、入ってくんじゃねぇよっ」

「いいから起きて顔を洗う! あーもう! また直衣のままで寝たの? せめて単衣に

なることもできないワケ?」

 しわくちゃの直衣を脱がせようとして、あらん限りの力で襟元を引っ張ると麻生くん

は顔をしかめた。

「いてて……バッカ、やめろ、なに考えてんだ、この女ーっ! くそ、なんなんだよ。

まだ早ぇじゃねぇか。こっちは、昨日遅かったんだからな」

 薄暗い寝間を見回して言う彼に、あたしはびっと指をつきつけて言った。

「それなのよ! 問題は」

「ハァ?」

「遅く帰ってくるコト自体は、この際、いいよ。女房のあたしの知ったコトじゃないし。

でもね、夕餉がいらないときは、前もって先にそう言ってほしいの」

「……なんだ、そんなことかよ」

「そんなコト!?」

 思わずいきりたつあたしに麻生くんが一瞬ひるんだ。

「な、なんだよ」

「慣れない屋敷でたったひとりで準備万端支度を整えてるこっちの身にもなってよ。

いつもいつも、ご飯ムダにされてさ! あなたなんて……あなたなんてねぇ……っ!」

 麻生くんは、思わず涙ぐみそうになったあたしに、完全に勢いをそがれていた。

「わかったって、わめくんじゃねぇよ」

「とにかく。外で食べてくるときは、そう教えて。お願いね。でも……あたしは、でき

ればみんなに、屋敷で食べてほしいの。これでも、一生懸命支度してるんだから」

「わかったよ。面倒くせーけど」

「そ、ありがとう」

「べ、別に」

 そっけないけど、どうやら話はちゃんと聞いてくれたので、あたしはほっとした。

「きっと、後であたしに感謝するコトになると思うよ。ご飯って、たとえ宴でなくても

大勢で食べたほうがおいしいし、楽しいもの。それは、わかるでしょ?」

「……まぁ、な。つっても、毎日、宴とか勘弁してほしいけど」

「それじゃ、他のみんなにも、羽倉蔵人の少将から伝えておいてくれない?」

「は? なんでオレが、ンなことしなくちゃなんねぇんだ」

「いいじゃない、女房から主人に屋敷内や内裏で文を出すわけにもいかないし、直に

貴人同士でやりとりすれば早いでしょ。それに、前から思ってたけど、あなたたち、

交流少なすぎ。この機会に話してみたらいいと思うよ。それじゃ、お願い申しあげま

したからね!」

 渋々ながらもうなずいた麻生くんの前に朝餉の膳を置いて、あたしは揚々と下がって

いった。

 これでなんとかなると、いいんだけど。

 あたしの無茶な女房兼女絵師生活は、まだまだ前途多難なのだった。







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