憬文堂
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隠 家 物 語
二条祥慶殿前にて、あらがえぬさだめの出会い





 

 五月の長雨に入る前、装いも夏衣になって、さわやかな季節になった。

 だからと言って、年頃の娘がふらふら歩いていていいわけはないけれど、そんな道理に

構っている余裕もなく、初めての小路をさまよう。

 どこまでも続く土塀に沿って歩いていたら、突然、目の前に檜葺きの立派な門が現れた。

 物心ついた頃から紫野の斎院より他、ほとんど知らないあたしは、中の様子が全くわか

らない立派過ぎる屋敷の前に立って、途方にくれた。

 でも、あきらめるもんですか! 京の大内裏にも近い……いいえ、去年の秋の大火の後

から主上のおわします、この祥慶殿こそが、今内裏!

 行方知れずの姉さまの手がかりが、ここにあるのは間違いない。

 ただ困ったことに、あたしはこの祥慶殿に入るつては何もなかった。斎院さまの文使い

でもあれば良かったんだけど、あたしがここへ来ることは斎院のみんなには内緒だから、

そんな都合のいいお使いがあるわけない。

 まさか今内裏に方違えに入るわけにもいかないし、本当に困る。

 でも入らなきゃ話にならないし。

 ここはひとつ秘められた忍ぶの恋のお使いのふりはどうかな。幸い、門も開いてるし。

 問題はあたしが旅姿丸出しの壺装束ってところだけど、いざとなれば何とでも言い訳し

ちゃおう!

 かよわい乙女が、そう無体なまねもされまいと、思い切って門をくぐろうとしたら、車

宿の方から大きな犬が寄ってきた。

 そりゃ犬の一匹や二匹、いたって不思議はないけど、ここに御用がありますって顔して

さりげなく入ろうとしていたあたしには、ありがたくないわよ。

 明らかにこっちを見てうなっている犬なんて。

「あら、かわいい犬さん。ちょっと通してね」

 そのまま前を通り抜けようとした途端、その犬はものすごい勢いで吠えかかってきた。

「ばうばうばうばうばう!!」

「真木霜丸どうした!」

「いやーん、なんなのーっ!」

 こうなると逃げるしかないけど、犬は噛みつきかねない勢いで追ってくる。

 いくら歩きやすくすそを短くした着物でも、走って逃げられるような、はしたない格好

じゃないんだってば!

 追いかけてくる犬のせいで、門番らしい役人までが飛んできて、あたしをにらみつけた。

「そこの女、動くな! 何用か?」

「え、えっと……ちょっと文使いで参りました」

「そのような旅姿の女が、どなたに文をお届けするというのだ。いったいどこの者だ?」

「……内々の文なので主の御名を明かすわけには……」

「ならば通すわけにはいかぬ。帰れ帰れ」

「ええ、ほんの少し、用が済んだらすぐにおいとまします」

「だからどなたに用事かと尋ねている。答えられぬとは、ますますあやしい奴」

 さりげなくしようとしてるのに、犬はさっきから低くうなっていて噛み付いてきそうだ

し、がっしりした大きな体の強面の門番は力づくじゃ絶対かなわないだろうし、もうどう

したらいいのーっ。

「ばうばうばう!」

「きゃーっ!」


「瀬戸口、この騒ぎはいったい何事だ」

 万事休すと思ったその時、奥の車宿あたりから涼しげな公達が出てきて、いぶかしげな

表情もあらわにあたしを見た。

「これは若様! あやしき女がこの祥慶殿をうかがっているのを真木霜丸が見つけました

ので、仔細をあらためておりました。近頃、京を騒がせている夜盗の類かもしれませぬ」

 門番がやけにへりくだっているところ見ると、この公達はそうとう高貴な身分の偉い人

なのかもしれない。素晴らしくあざやかで美しい直衣を身にまとう姿も堂々としていて、

あたしがこれまでお目にかかったことのないほど見目麗しい若い男ではあった。

 彼はあたしをじろじろ見てから、ふんと明らかに人を馬鹿にした様子で、門番に命じた。

「いいから犬は下げろ。見ればまだ童と変わらぬ小娘ひとりで、何ができるものか。へた

に怪我でもされてあたりに穢れをまかれたり、恨みをかわれると、やっかいだから放って

おけ」

「ははっ。お騒がせして申し訳ございませぬ」


 門番がうなる犬を押さえて奥へ下がると、その公達は、あたしを見下ろしてずけずけと

言い放つ。

「そこのお前、ここはあんたのような女が用もなくうかうかと入り込めるところじゃない。

さっさと自分の在所へ帰るんだな」

「何よ、あたしはちゃんと用があって」

「ほう。ここを帝のおはす今内裏、祥慶殿と知って、やって来たと?」

「ええ、そうよ。ねぇ、あなたを大物と見込んでお願いがあるの。あのね……」

「断る」

「なっ、ちょっと待ってよ! まだ何も言ってないじゃない!」

「聞く必要はない」

「あたし、祥慶殿でお役目につきたいの!」

 考えるより先に、願いは口をついて出た。

 背を向けて去ろうとしていた公達は振り返ってあたしを見た。

「役目? いったい何の? どこの鄙つ女(田舎娘)か知らないが、分不相応な夢を見るの

はやめておけ。おおかた玉の輿でもねらって、のこのこやって来たんだろ」

「違いますー、大ハズレ! バカにしないでよね。わけは……ちょっと言えないんだけど、

でも、すごく真っ当な事情があるの。あなたが心配するようなコトはないわ」

「真っ当なわけがあるなら、そのわけを知る者を頼って、身分を明らかにして来るんだな」

「それができないから頼んでるんでしょ。お願い、あたし、どうしても祥慶殿に入らなく

ちゃいけないの。あなた、内裏に出入りできる殿上人なんでしょ? 迷惑はかけないわ。

このとおり! お願いします!!」

「さっきから断ると言ってる」

「なんでよ!?」

「なんで? 頼みさえすれば誰でも助けてくれると思ってるのか。何様のつもりだ。お前

のような者と話している暇はない。いつまでもうろうろするなら帝に仇なす者として検非

違使を呼ぶぞ。夢なら夜に寝て見るんだな。それじゃ」

「ちょっ、ちょっと……っ!」

「まだ、なにか? いいかげん、迷惑なんだが」

「迷惑……。ああ、そう、わかったわ。偉そうなコト言って、あなた本当は何もできない

んでしょ。大物だと勘違いして頼んだあたしがバカだったわ。どこの公達か知らないけど、

どうせ公卿の親の力でふらふら遊んでるだけなのね。あなたなんか、こっちから願い下げ

よ。ばっかみたい!!!」

 やけっぱちで切れたあたしの言い様に、その公達は眉をひそめて、完全に向き直った。

「……言ってくれるじゃないか。俺は近衛の中将、御堂一哉。御堂の宮が一子だ」

「御堂の宮……? あなた宮家の公達なの?」

 聞いたことのない雲の上の名を出されても、あたしにはさっぱりわからない。

「時の一の上も、院の出自も知らないのか。それで内裏に入ろうなんて呆れてものが言え

ないぜ。まあいい。とにかくお前に適当な役目をつけて内裏に上げてやるくらい、この俺

にとって、たやすいことだ。だがそのためには、内裏に入るにふさわしい支度をさせなけ

ればならないだろう。主上や殿上人に仕えるなら、装束だけでも相応のものがいる。そこ

いらの貧しい貴族では、まかないきれないものを用立てするんだぞ。それだけの手間と金

をかけて、俺になんの得があるんだ。お前にそれだけの値打ちがあるのか? お前は俺に

何をしてくれるんだ」

「………」


 そこまで言われて、はっとしたあたしは、彼にひとことも返せなかった。

 彼の言うとおり、あたしにはこの身ひとつの他は何もない。


「見返りも用意せずに、他人には自分の都合を押しつける。わがままにもほどがあるぜ。

人に意見する前に、自分の態度について、よく考えてみるんだな」


 確かに、そうだ。見ず知らずの初めて会った人に、あたし、すごく勝手で傲慢だった。

 八方ふさがりの自分のことで、どうにかしなくちゃって頭がいっぱいだったのだ。


「ごめんなさい。あたし、最低だったね。イヤな思いさせて、すみませんでした。さっき

言ったコトは忘れて。それじゃ……」

 恥じ入るあたしは、彼に深々と頭を下げてから、その場を離れようとした。

 仕方ない。何かもっといいやり方を考えなきゃ。


 その時、あたしを厄介払いしたはずの公達が、どういうわけか声をかけてきた。

「待て。お前、祥慶殿に、なんの用があるんだ。本当に誰かに文でも頼まれたのか?」

「それは、ちょっと……あっ、でも悪いコトじゃないよ。帝に仇なすとか全然そんなつも

りないから。ただ、あたしには、すごく大切なコトなの。だから自分でなんとかするよ。

ほんと、ゴメンなさい。それじゃね」


 大好きな苗姉さま。優しくてしっかりしていて明るくて、見目麗しく非の打ち所のない

貴族の姫君と言っても通る素敵な姉さまは去年の秋から後、ふっつりと便りが無くなり、

宿下がりに帰ってくることもなかった。

 神隠しにでもあったのでなければ、姉さまが文ひとつ残さずいなくなるわけがない。

 あたしも父さまも母さまも、信じなかった。

 けれど内裏のことは、斎院宮にいては何ひとつわからないのだ。

 残された手がかりは今内裏となった祥慶殿で、直につかむしかない。

 あたしは何としても祥慶殿へ入らなければならなかった。


「……ふん。ま、暇つぶしにはなるか。おい、ちょっと待て」

「な、なによ」

 気に障るような真似をしてしまった以上、未練な気はしたけど、呼び止められれば話は

聞くわよ。

「祥慶殿に入る手だてがひとつある。ただし主上に仕える役付じゃないがな」

「え……本当? 何すればいいの?」

 目の前の男が言い出したことがよくわからなくて、あたしは面食らう。

 今になって再びあたしを引き止める公達は、妙に不敵な態度で微笑んでる。

「東宮の姉宮である藤壺の姫宮様が絵画や書に明るい女房を探されている。かな文字の書

や歌や琴が達者な女はいくらでもいるが、まだ年若な姫君に手習いと共に絵の手ほどきと

なると、女の身ではなかなか……な。だが、まだご幼少とは言え、姫宮様に絵所にいる年

寄りの男絵師を側近く置くわけにもいかない。母堂の中宮様の手前もある」

「ふーん。大変なんだね」

「そこで、お前が姫宮の手習いの師を務めるんだ。京にただひとりの女絵師としてな」

「はぁ? あたし、絵師の知り合いなんていないし、名画の絵巻物を持ってるわけでも

ないし。絵や書の先生なんてなれるわけないじゃない」

「その程度のこと、俺ならどうとでもできる。もっとも、いくら薦めたところで、あまり

にもたしなみがなく、姫宮に疎まれ、能力が低いとなれば、クビになるかもしれないが」


 女絵師として姫宮さまの先生……って、そんなの、あたしに務まるのかな。

 不安はあるけど、でもこれは、きっとめったにない話。

 だったら、やるしかないよね。ものは考えようだよ!

 祥慶殿の後宮に姫宮さま付きとして入れたら、姉さまのことだって、きっと調べられる。

 それにあたし、昔手習いついでに描いた斎院のみんなの似顔絵、幼馴染みの夏実にうま

いねってほめられたコトあるし。

 女絵師なんて探しても他にはいないんだから、きっと大丈夫だよね。


 順序立てて考えれば決断するのは早かった。

「……うん! あたし、やってみる!」

「そうか。では、俺からの条件だが」

「は? 条件?」

「一方的に自分の都合だけ押しつけるのは、わがままだと言っただろ」

「う、うん……。じゃあ、その条件ってなに?」

「お前、下働きはできるか? 当たり前の女房仕事以上に、殿舎の片づけや食事の支度、

衣類を整えたり、文の整理といった、もろもろの下働きだ」

「まあ、そんなに苦手じゃないけど。見ての通り、都の箱入り姫君じゃないからね」

「ならいい。俺が縁ある女絵師として後宮に入れてやるかわりに、あんたは俺の家の女房

をやれ。小さな屋敷だが、局もちゃんと用意してやる。祥慶殿に渡る時は、俺のところか

ら通えばいい。これ以上ない、いい条件だろ」

「……女房? ずいぶんご立派な身分みたいなのに、女房ひとり不自由するくらい困って

るの? だいたい、いきなり家に住み込めって、むちゃくちゃでしょ。あたしは祥慶殿に

入るんじゃないの?」

「嫌なら、この話は無しだ。じゃあな」

「ちょっと待ってってば。わかった、やるわ! 祥慶殿にもぐり込めるなら、それくらい

楽なもんよ!」


 しかたない。ここで引いたら、すべては元の木阿弥だもの。

 内裏を探るために祥慶殿に通うなら、そうそう紫野に帰るわけには行かないし、渡りに

船ってものよね。伊達に斎院さまの女童だったわけじゃないし、女房仕事のたしなみなら、

姉さまに教わったから、たいていのことはできるはず。


「決まりか。だったら名前がいるな。お前をなんと呼ぶか……」

「むぎでいいよ」

 今さら別の名で呼ばれても、ぴんと来ないから、あたしは自分の呼び名を正直に教えた。

「むぎ……ね。耳慣れないが、ま、相応な名か」

「一言多いよ。御堂の中将……さま、だっけ?」

「宮中でなければ俺のことは好きに呼べ」

「え? じゃあ『一哉くん』でいいの? あたし女房になるんでしょ」

「……構わないぜ。今さらだ」


 何だろう。あたしが言うのもなんだけど、この人、雅なんだか、ざっくばらんなんだか、

わけがわかんない。

 最近、都じゃこういう振る舞いが流行ってるのかな。

 ずいぶんえらそうで、こんなに派手な直衣の公達なのに。ヘンなの。

 でも、あたしにとっては、これってすごく幸運じゃない?

 そうだよね? そう思うコトにする。


 よーし、がんばるぞー!!!



 ───こうして、あたしは今をときめく御堂の中将にやとわれた。


 昼は、祥慶殿の後宮で姫宮さまの女絵師。

 夜は、御堂中将の家で、専属女房。


 あたしの華麗なる宮中二重生活が花開く──はず……だったんだけど。








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