憬文堂
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 秘密な花嫁 


仲秋 憬






 むぎに花見をせがまれたその週の金曜日、午後三時。

 一哉は出社していたオフィスから、むぎの携帯に電話をした。

 6コールほどで、ようやく彼女が出る。

「遅い」

「ごめん! 三時でしょ? ちょうどお茶を淹れてたの。これでも大急ぎで出たんだよ」

「……まあ、いい。早速だが30分ほどで迎えをやるから来い」

「は? 何で?」

「花見。したいんだろう?」

「えーっ!! 今からって……夜桜? 30分じゃお弁当も作れないよ。それに瀬伊くんも

いるし、麻生くんも夜帰ってくる予定だから、夕食も準備しなきゃ。それと今夜は久し

ぶりに依織くんが……」

 春が来たのに、まだ御堂の家に居座っている瀬伊や麻生、歌舞伎界に戻り修行を再開

したくせに頻繁に顔をみせる依織ら元同居人(に近々全員なるはず)の名前を出されて

も一哉は一向に躊躇しない。

「外食でも何でも適当にさせろ。家主の意向だ。お前はそのまま手ぶらで来ればいい。

準備は必要ないから」

「そんなコト言ったってデートなら、おめかしだってねぇ……」

「時間がない。切るぞ。30分後だ」

 それ以上、有無を言わせず一方的に電話を切る。強引に進めでもしないと、どう暴走

するかわからない恋人を持つと苦労する。あらゆる意味で、むぎは一哉のイレギュラー

だった。

「社長、今夜は定時前に切り上げて、ご本家の方でしたね。お日柄もよろしいようで

何よりです」

「ああ。相変わらずの年中行事だが、今年は特別になりそうだ」

 コーヒーカップを下げながらこの後のスケジュールの確認をする秘書に、かすかに

微笑みうなずくと、本日のノルマを片付けるべく再び机上に視線を落とした。





 手早く業務を片付け、オフィスから送迎車に乗り込んだ一哉が向かったのは、成城に

ある本家の御堂邸だ。高校進学と共に田園調布の自分の家で自立している一哉にとって、

もはや成城の家は祖父母の暮らす屋敷でしかなく、二間続きの自分の部屋もあり、過ご

した年月も、こちらの方がまだまだ長いはずなのに、すでに自宅という意識は薄い。

「不思議なものだな……」

 田園調布に家を与えられたばかりの頃はこんな気持ちになるとは思っても見なかった。

 一哉の家はすでに、ここではない。


 屋敷に着いた一哉を出迎えたのは、振袖姿のむぎだ。

 玄関先のホールで待ち構えていた彼女は彼を見るなり開口一番、大声で叫んだ。

「一哉くんってば、だまし討ち!!」

「どこが。花見の宴だぞ。そのものだろ」

「だったら最初に、そう言っておいてくれたらいいじゃない! いきなり来いって言わ

れて車に乗って来たら一哉くんの実家で、おばあちゃんがパーティよって振袖用意して

待ってたら、あたし、そのまま言うこときくしかないでしょ! パーティに出るなら、

あたしだって心の準備とか色々ねぇ……」

「こうでもしないと、お前はまた余計な事をごちゃごちゃ考えて変に気を回すだろ。

花見がしたいと言うから、近場でさせてやるんだ。パーティはついでだ」

「こんな大がかりなところへ来たかったわけじゃないよ。あたしは、ただ……」


 成城の御堂本邸は、まるで公園の中に建てられたような古い洋館で、南の広間のテラ

スの側に見事な桜が数本あり、この季節はそこが麗しい花の森になる。毎年、この桜が

咲く頃に、御堂家は内々の花見の宴を開いていた。桜の見頃はこの日と早くから定めら

れるものではないから、本当に限られた近しい客しか招かない会なのだが、一哉のよく

知る花見と言えば、この御堂邸のパーティ以外になかった。

 むぎが花見をしたいなら、ちょうど良い機会に思えたのだ。


「せっかくめかしこんでいるんだから、そう怒るなよ。ここに来たのが、そんなに不満

か?」

「そんなわけないでしょ! 何も心構えしてないせいで、あたしが失敗しちゃったら、

恥をかくのは一哉くんや御堂のおじいちゃん、おばあちゃんでしょ。それがイヤなの!」

「心意気はありがたいが、お前が今さら失敗のひとつふたつしたところで、どうにかな

るような御堂じゃないぜ。振袖ならダンスも踊らずに済むし、桜をながめるついでに、

にっこり笑って挨拶できれば充分だ。後は全部、俺が何とかしてやる」

「なんかごまかされてる気分……」

 騙されまいと強い意志をこめて見上げてくるむぎに、そのまま口づけると、彼女は慌

てて後ずさり赤面した。

「なななな何するの! こんな人前でっ!!」

 使用人を気にする必要はないのだが、むぎにその感覚は理解できないのだろう。

「キスしただけだ。それより俺も着替えるから手伝えよ。その格好でもネクタイをしめ

るくらいできるだろう? 奥さん」

 絶句するむぎの背中を帯をつぶさないように押しながら、宴の客を迎える準備でざわ

めく中を平然と進む。

 久しぶりの自室で彼女の手を借りつつ身支度をした。




 御堂の屋敷に人を招く花見の宴は、パーティとしての規模はそう大きいものでない。

そもそも御堂グループの会社関係でビジネスの取引先まで人を集めるなら、グループの

ホテルを使った方がずっと効率がいい。つまり屋敷に招待されるのは御堂と個人的に近

しい立場にある者がほとんどで、招待客にも意味がある。結婚式は上げても、披露宴を

行わないと決めた以上、一哉の伴侶としてのむぎを公にするのに、これは絶好の機会だ。

 招待客が広間に集い、開け放されたテラスの向こうの夜桜を肴に、思い思いに杯を重

ねてさんざめく。御堂の当主である祖父と祖母は、常にその中心にいたが、その彼らす

ら背景にして一分の隙もなく正装した一哉にエスコートされた振袖姿のむぎが桜の散る

テラスへ引き出された時こそ、宴の最高潮だった。

 一斉に衆目を浴びたむぎは、今にものぼせて倒れかねないほど張りつめていた。

「祥慶学園の全校生徒の半分もいないぜ。あそこで偽教師として挨拶できたお前なら楽

勝だろうが」

一哉が小声でささやくと、途端にむぎは背筋を伸ばし、広間の客をしっかり一通り見渡

してから、鮮やかな笑顔を見せた。薄紅に白い桜の散る大振袖に、大きく飾り結びに締

められた金糸銀糸の袋帯は、むぎを今宵の主役の桜の化身として彩っていて、広間にい

るどの女性よりも輝いている。彼女の笑顔ひとつで、あちこちでほうとため息が漏れる

のを確かめるのは一哉の見る目を認められたも同然だ。

 人を魅了する呼吸を無意識に会得しているのは、むぎの得難い資質だった。

 これくらいで逃げ出されては困る。招待客達は誰も知らないが、むぎは、すでに御堂

の人間なのだから。


「一哉さん、ご婚約されたと伺っておりましたけれど、そちらが噂の方でいらっしゃる

のね」

「ええ。鈴原むぎと申します。以後お見知りおきを」

「よろしくお願い致します」

「鈴原……どちらの方かしら。こんなに早く一哉さんを射止められた方に興味があるわ」

「運命の出会いと信じているので、秘密にさせてください。他人が聞いても、うんざり

すること請け合いです」

「まあ、そんなことはなくてよ」

「一哉さんが運命の相手と紹介してくださる方のなれそめを、つまらないと思う者なん

て、ここにはいないわ」

「ええ、その通りよ。ぜひお聞かせくださいな」

「彼女が真実、御堂になって、長く添い遂げた人生の終わり頃にはお話しますよ」

「あら、おっしゃいますこと」

 有閑マダムのような人種に囲まれての軽やかな談笑も、実際にはどこか上滑りしてい

て、決して楽しいばかりのパーティではないが、むぎは一哉の隣で大人しく微笑んで会

釈を繰り返すことを徹底できている。



 本当は、もうただの婚約者ではない。むぎの籍はとっくに御堂の一員だ。

 むぎは一哉のものだし、一哉はむぎのもの。それを見せつけるのは気分が良い。

 一哉はこの状態を半ば面白がっていた。

 次々に重ねられるグラス。挨拶と、会話と。

 御堂の当主夫妻とは別に、むぎを連れた一哉も客の応対に追われた。



 ところが、続く宴の中で、突然、変化が現れた。

 むぎはずっと雰囲気に呑まれることなく楽しそうにしていたが、一哉が飲物を取るた

め、ほんの少し彼女と離れた間に、様子を一変させたのだ。

 不機嫌な表情を見せているわけではないが、目が笑っていない。それまでは値踏みさ

れるような視線も、すんなり受けて綺麗に流せていたのに、今はまるで無理矢理ピンで

縫い止められたのであきらめて動かずにいるような息苦しさが感じられる。

 一哉は、さりげなくむぎを伴い、テラスの隅へ移動した。

「おい、何で急に機嫌が悪くなった?」

「別に、そんなことないよ」

「別にじゃないだろう。俺を見ろ」

「……あたし笑えてるでしょ? ほら一哉くん、あっちで呼ばれてるよ」

 明らかにおかしな態度に一哉はむぎにしかわからないくらいに小さく舌打ちする。

 むぎは彼から目をそらし、庭の桜を見つめていた。

「むぎ!」

「……一哉くんが本当のこと言わない時は都合が悪い時だって、わかってる……」

「何だよ」

「……だから! あたしは、ただ一哉くんとお花見したかっただけなのに、一哉くんは

そういうわけでもなくて、桜だけ見るお花見なんて知らないって言ってたけど、それは

本当じゃなくて!」

「それは何の話だ」

 突然、始まった支離滅裂な話に一哉は本気で一瞬、混乱した。

 パーティの途中でたった一人以外の全てが吹き飛ぶなど、一哉としてはあり得ない

精神状態に陥り、制御不能寸前になる。

「……一哉くん、別のお花見だってしたことあったでしょ。千鳥ヶ淵のライトアップ

される桜が見えるホテルとかで。特別なディナー用意してスイートだって独占できる

んでしょ。あたしはそういうの知らないもん。想像もできないよ……あたしの知って

るお花見は……」


 千鳥ヶ淵のホテルと言われて、初めて一哉は思い当たることがあった。

 そこは御堂が持つホテルの中ではごく一部の客だけを対象にした小さなホテルで、

立地からして桜の時期はことに有名になる。

 たまたま、その時に都合のいい相手と利用したこともあった。今日の招待客の中に

いたそんな女が、むぎをやっかみ、一哉が離れたのを見計らって、ご注進に及んだと

いうところか。


 成り行きの大体の察しがつき、ようやく一哉は息をついた。

「あれが花見か? ただ一度、たまたま都合のついた相手と食事をしたとしか記憶に

ないな」

 誰を誘ったかすら定かでない本当に取るに足りない一時で、その時の食事も、おそ

らく夜を共にしたろう相手のことも、取り立てた印象は残っていない。むぎと出会う

前の散漫な男女関係など、一哉はすでに意味を見いだせない。

 ただ、むぎにとっては、そんな問題ではないことは、さすがに一哉も理解していた。

 こんな自分を彼女に軽蔑されたくなくて過去をぼかしていたこともあるのだ。

「サイテー」

「…………」

「そういうのサイテーだよ」

「……わかってる。覚えてないことが最低だと言うなら、それをお前に言われるのは

堪えるな。この俺が本気で嫌われたくないと思ってるんだぜ。知ってるだろう? 

御堂一哉を最低だなんて面と向かって言えるのは、お前だけだ」

「今は違うって知ってるよ……でも面白くないよ。理屈じゃないもん。こんな気持ち

……それがヤだったから……ごめん……」

「そうだな──それは俺にも理解できるぜ」

「一哉くんが?」

「俺に嫉妬を教えたのはお前だろ」

 むぎは目を丸くした。

「こんな花見しかさせてやれなかったが、お前を見せびらかせるいい機会だと思って

少し調子に乗った。……できればずっと秘密にして独り占めしたい気持ちもあるが、

それは、かないっこないからな。……だから忘れるな。御堂一哉を本気で悩ませるこ

とができるのはお前だけなんだから」

「……うん」

「よし。じゃあ、もうこれで充分だ。いい加減抜け出して、今度は俺にお前の花見を

教えてくれ」

「えっ……でも、まだパーティお開きじゃないでしょ? おじいちゃんも、まだあっ

ちで……」

「元々、出る予定じゃなかった。これでもかなりお飾りになっていたから構わないさ。

行こうぜ」

「どこへ?」

「俺の部屋からだって夜桜は見える」

「えーっ!?」

 強引にテラスから庭に連れ出してしまえば、かつての自宅だ。

 人の目の届かないところを通り、部屋に戻るのも、たやすいものだった。

「一哉くんてば、歩くの速いよ! あたし着物で草履なんだからさ……」

「しょうがないな。ほら来い」

 一哉が何気なくむぎを抱き上げると、振袖の袖がふわりと翻る。

 他人が見れば、可憐な蝶々をさらっていく悪い男にでも見えるかもしれない。

 一哉は妙におかしくなって、あわてるむぎに構わず、笑いながら二階の自室へ向

かった。

「一哉くん下ろしてよ!」

「草履がつらいんだろう? 暴れると落とすぜ」

「家の中なのに! ダメだってば!」

「大声出すなよ。誰か探しに来てもいいのか?」

 仕方なさそうに黙り、うながされて一哉の首に腕をまわすむぎに満足すると、一哉

はさっさと自室の寝室にむぎを抱き入れた。

 彼が部屋の前まで来ると、側にいたメイドは顔色ひとつ変えずに扉を開ける。

「今の人、み……見てたじゃない!」

「使用人は詮索しない。気にするな」

「……するよ!」

「その内、慣れれば問題ない。部屋の中まで入ってこないさ。そんなことより、もっと

大事な事がある」

「……何よ」

「ひとついい忠告をもらったから、実践しようと思う。お前の協力が必要だ」

「ふーん……」

 一哉はベッドにむぎを下ろすと、自分もその横に座って、おもむろにタキシードの

上着を脱ぎ、ネクタイをゆるめた。

「ちょっと、一哉くん?」

「愛する者と喧嘩になったら……」

 一哉が微笑むとほとんど条件反射的にむぎの頬が桜色に染まるのは、いつ見ても楽

しい。こんなに愛しいものが、この世にはあるのだ。

「仲直りできるまで寝室から出ないこと、だそうだ」

「べ、別に喧嘩まではしてないでしょ!」

「似たようなものだ」

「あたしの、お花見はっ?」

「後でゆっくり教えてもらう。今はこっち」

 後は強引に帯を解き、あちこちの紐をゆるめていくと、彼女は振袖に遠慮したのか、

それほどの抵抗はなかった。

 広いベッドに肌襦袢姿の少女というアンバランスに、どこか興奮もして、一哉にして

は性急に事を運んだ。むぎの白い胸元をきつく吸うと、赤い花弁のような跡がついた。

「どうせ見るならこっちの花がいい。この花は、これから先もずっと俺だけの秘密だ」

「一哉くんのバカ……」

「馬鹿はお互い様だといつも言ってる」

 こうして一哉は自分だけの花に夢中になる一夜を過ごしたのだった。








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