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 秘密な花嫁 


仲秋 憬






「一哉くん……桜が咲いたの気が付いてる?」

 そろそろ0時を回ろうかという深夜。自宅に持ち込んでいる仕事中に一息入れたく

なった一哉が頼んだコーヒーを淹れてきたむぎが、大きめのマグカップを彼の机の端

に、そっと置きながらつぶやいた。

「開花宣言が出たのが三日前。関東では春休み中の週末が見頃になりそうなのは、あ

りがたいな。日本に於いて桜前線の移動状況は天候と共に経済効果を左右する要素が

あるから、確認は怠っていないが」

 一哉がパソコンのモニターから目を離さないまま答えると、むぎが大きくため息を

ついたのが聞こえた。

「もー、なんでそっちに行っちゃうかな。そうじゃなくてさ。お花見に行きたくない

かって聞いてるの!!」

「……花見がしたいのか」

「うん。一哉くんは興味ないの? あたしは毎年桜が咲いたらお花見するの楽しみに

してたよ。……去年は、それどころじゃなかったけどね」

 去年の春には、まだ出会っていなかった二人。

 鈴原むぎは姉の失踪と突然の両親の死に直面していたのだから、年中行事など吹き

飛んでいて当然だ。その事件があればこそ、めぐり逢い、恋に落ちて、遂には結婚し

ようという二人の縁を思うと感慨深い。

 パソコンのモニターから目を離した一哉は、隣に立つむぎにおもむろに向き直る。

「一哉くんが忙しいのはわかってるけどさ……でも一日、ううん、半日くらいなら…

…ダメ?」

「スケジュールの詰まり具合は、お前も大して変わらないはずだが」

「そうだね……忙しい……のは忙しいんだけど……うん……」

 確かに三月から四月にかけて日本は年度の変わり目で、学生にして社長業もこなす

御堂グループの御曹司である御堂一哉は、公私ともに多忙を極める。今年は、さらに

あと一ヵ月ほどで、いよいよアメリカへ生活の基盤を移す予定だ。三月に祥慶学園を

卒業した一哉にとって激動の春と言っていい。

 一哉の人生そのものが大きく変化しようとしている。それは、今、目の前にいる、

まだ十六の少女と出会えたことに端を発していた。最初、家政婦だった少女は、御堂

の後継者である一哉の伴侶になる。当然、一緒に渡米するし、その渡米前には、ごく

内々にとは言え、結婚式を控える身なのだ。

 しかし、元々むぎは、個人的な我がままやおねだりをしない女だ。例え興味を引か

れて行きたいところがあっても、せいぜい特集雑誌を一哉の目の届くところでながめ

ているくらいで、一哉が察して誘わなければ、ろくにデートも成立しない。それだけ、

いつも多忙な彼を彼女なりに気遣っているわけで、自分から言い出すことは本当に稀

なのだ。そんなむぎが花見がしたいと言うなら、何としてもさせてやるのが男の甲斐

性というものだろう。

 それに、渡米前に日本の桜を見ておきたいと言うのも自然な発想だ。

「……わかった。考慮するから待て。仕事や野暮用を調整して、時間が取れたら付き

合ってやる」

「ホントに!?」

「俺がお前に、こんな事で嘘をついて何の得があるんだ。馬鹿」

「一言多いんだよ……一哉くんは。でも嬉しい! どうもありがとう!!」

「時間が取れたら、だぞ。例え駄目でも、悪く思うな」

「うん、もちろん。でも一哉くんがこんな風に言ってくれる時って、いつだって大丈

夫だったもん! ……あっ、もちろんダメならダメで、ちゃんと聞き分けてるから心

配しないで」

「……機嫌がいいじゃないか。感謝する気があるなら、直接、表せよ」

 そう言って強引に引き寄せると、むぎは一哉の言わんとすることを理解したのか、

パっと頬を赤く染めてから、遠慮がちにふわりと軽くキスをして寄越した。

「まだまだ感謝の念が足りないな」

「一哉くんっ!」

 あっさり離してやるのが惜しくなり、コーヒーが冷めるのも構わず、しばらく恋人

の甘い唇を味わい尽くした一哉であった。








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