沖縄・八重山Tour Again その16 浦内川・宇多良炭坑跡をカヌーで行く






5/3/1998 浦内川・宇多良炭坑跡をカヌーで行く

[5/3 ・・・ 西表・上原 → 浦内川 → 星砂の浜 → 上原【泊】(晴ときどき曇りのち雨)]

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西表も6泊目,浦和を出てから11泊目ということで,あちこち活発に動き回るよりは,のんべんだらりんとすることをよしという空気が強くなってきて,まずまず居心地のよい「いるもて荘」にこの日も泊まることになりました(3泊目)。
そうすると,「いるもて荘」の送迎バスを使えば便利ということで,浦内川に出かけてカヌーを楽しもうとなりました。
舟浮湾でやったカヌーが楽しかったことと,カヌーだと浦内川の支流の宇多良川(Utara-gawa)に入って,川の側にあった宇多良炭坑の跡の様子が伺えるかなと思ったからです。

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ひるぎ社・おきなわ文庫「西表炭坑概史」(三木健著)によると,宇多良炭坑は1935年頃から45年(敗戦)にかけて,西表島で最大の規模を誇る炭坑として栄え,付属した炭坑村では,映画館や演芸場まであったということですが,敗戦によって廃鉱となりジャングルに埋もれて,現在は通じる道さえない状態になっています。
ただ,川を遡って行くと当時のコンクリートの橋が簡単に観察されるということで,これを目標にカヌーを漕いでみることになりました。
遊覧船の船着場(浦内川観光)で借りたカヌーは,プラスチック製の舟浮のカヌーとほぼ同じもので,2時間で3,000円だったかな?

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浦内川との分岐点から10分くらいカヌーを漕ぐと,突然目の前にコンクリート橋が現れました。
もう少し遡ったところに大きなヒルギがあるというので行ってみましたが,そちらはどれがそのヒルギなのかはっきりわかりませんでした。
コンクリート橋のもとにカヌーをつけて,橋に上がってみると,欄干には「うたらばし・昭和十年」とあり,橋の上に積もった土の上にも木々が茂っているところなど,50年強もジャングルに置き去られたままになっている迫力がありました。


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宇多良炭坑というと,戦時中の動乱の中の南の果ての島の炭坑ということで,その労働条件は過酷そのものだったそうで,マラリアで病死したりした坑夫は,川沿いの適当なところに葬られ,葬るために穴を掘ると,前に葬った坑夫の骨が出てくるような状態だったということ。
そんなことを考えていたら,うろうろするのもおっかない場所なのですが,天気はとてもよく,群馬さんという連れがいたのが幸いしました(^_^;)
近くには,赤レンガ等の炭坑の遺構もあるとのことでしたが,サンダル履きにTシャツ,短パンという軽装備だったので,これは見送りとしました。

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浦内川に戻り,橋より下流のマングローブのある河原で話をするところによると, 群馬さんは,仕事を辞めて,新しい仕事に就くまでの間,沖縄の離島を中心に1月くらいの旅をしているそうで,今日の午後,西表を離れて石垣・那覇・鹿児島経由で屋久島に向かうという。
南大東島なんて,そう簡単に行けないところにも足を運んでいるところなど,ずいぶん本格的な旅です。

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さらに,このとき群馬さんから「いるもて荘」に泊まってから,3日間でダイビングのライセンス(オープンウォーター)を取って,ファンダイブをやってマンタを見たという話をきき,
「それはいいなあ・・・」と思い付き,私の沖縄での残りの泊数が今日を除いて3泊だったこともあり,
「これはこの機会にライセンスを取ってしまおう」と相成ったのでした(^_^;)
この時点で,黒島2泊のキャンセルと,「いるもて荘」7連泊が決定したのでした。

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カヌーの後もまだ時間があったので,「いるもて荘」の送迎バンに星砂の浜まで送ってもらって,群馬さんと一緒に,3日連続のシュノーケリングを楽しんだのでした(^_^;)
西表島に炭坑があったというのは,私も7年前くらいに知った話で,このことがその後(戦後)の西表島の地域振興に与えている影響(おもにマイナス面で)はかなり大きいものと思われるので,豊かな自然のアピールばかりではなく,最果ての島に炭坑があったということも何らかの形でメモリアルとして,アピールすべきではないかと思う次第です。





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