南の島の廃村と炭鉱跡 '98年若夏

南の島の廃村と炭鉱跡 '98年若夏 沖縄県竹富町網取・宇多良

網取の港です。右手に小さく記念碑が見えます。



1998/5/1〜3 竹富町網取・宇多良

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沖縄の西表(Iriomote)島の西部には,網取(Amitori)という集落があったのですが,くしくも本土復帰の1年前の1971年に廃村となってしまいました。網取を知ったきっかけは,1997年春の八重山への旅(はじめての沖縄)の帰りに那覇の空港で見つけたひるぎ社・おきなわ文庫「崎山節のふるさと」(川平永美さん述,安渓遊地さん,安渓貴子さん編)という書籍からです。
この書籍には,西表島の最西部に1948年まであった崎山(Sakiyama)という集落を中心に,鹿川(Kanokawa;1911年廃村),網取という最果ての集落の話がまとめられているのですが,安渓さん夫妻の丹念な調査の実りもあって,とても面白く出来あがっています。

# 1-2
「崎山の御嶽」,「鹿川村の娘にふんどしを取られた話」,「網取村の海賊船の話」・・・ 浮世離れした話がいっぱい詰まっているこの書籍で取り上げられている崎山,鹿川,網取は,島の中の島というか,陸路のない集落跡です。
簡単に行けないということも冒険心をくすぐり,「次の沖縄の旅には是非足を運ぼう」と,何とか行ける手段はないものかと調べました。その結果,網取については,村の跡地が東海大学の海洋研究所になっていて,定期船が週に2回白浜から舟浮(Funauki;今も陸路のない集落として健在)を経由して運行されているということがわかりました。

# 1-3
往時の網取の生活については,「崎山節のふるさと」の流れで知った,同じひるぎ社・おきなわ文庫の「わが故郷アントゥリ」(山田武男さん著,安渓遊地さん,安渓貴子さん編)という本に丹念にまとめられています(アントゥリとは,網取の地元での呼称です)。
山田武男さんは,本の完成とほぼ同時期の1986年に亡くなられており,「みんなの力で村の記念碑を建てたい,せめて記録にとどめたい・・・」という後書きは,ストレートに心にささる一言です。
網取が廃村となった大きな理由は,子供の教育問題,無医村の不安,陸路が通じる見込みがないなど行政への絶望感にあったとのこと。

# 1-4
意気揚々と出かけた1998年春の沖縄・八重山への旅(14泊15日)は,予想通り西表島に長期滞在(9泊10日)することになりました。
西表2日目は,舟浮湾でカヌーを楽しみながら舟浮に行き,「かまどま」という民宿に泊まったのですが,舟浮港で「しげた丸」という網取まで行くシュノーケリングのツアーを見つけ,「観光ツアーで網取に行けてしまう」という事実に愕然としました。
しかし,お気軽であろうと,行けるかどうかわからなかった網取に行けるということで,西表3日目には宿を船浦港に近い「いるもて荘」というユースホステルに移し,4日目に「しげた丸」で網取に行くことになりました。


# 1-5
祖納(Sonai)から「しげた丸」に乗って,シュノーケリングを楽しんだ後,お昼休み(昼食)に着いた網取の港の第一印象は,「明るい」ということ。舟浮が入江の奥にあって,ちょっと暗い印象があるのに対して,網取は外海(東シナ海)に面しているからなのでしょうか。
小中学校跡に建つ東海大学の海洋研究所は地味な施設で,まわりの大自然と比べるとほとんど存在感はありませんでした。
さて「わが故郷アントゥリ」に印象的に触れられていた記念碑ですが,港の右手に真新しい碑があり,「具体化したんだなあ」と感慨を覚えました。それは「うるち会」という網取出身の方々の組織活動が,順調に進んでいることの象徴ともいえるでしょう。


# 1-6
さて,網取の海岸では「いるもて荘」で同宿となった4人組で,持参のラジカセでサザンを聴きながらの昼食となりました。網取の歴史を考えると,何とも能天気なひとときですが,明るいという第一印象からするとまずまず自然な成り行きです。
海岸から小道を入ったら,網取が集落だった頃からのものらしいフクギの並木にサンゴを切り出した石垣,それとサンゴのかけらをひいた道。建物の跡はありませんでしたが,ちょっと涼しくてよい雰囲気です。
網取は歴史の流れには埋もれず,シュノーケリングやダイビングを趣味とされる方が一休みするポイントとして生き続けることでしょう。

# 1-7
網取行きの翌日(西表5日目)は,体験スキューバダイビングに参加し,これがとても楽しかったので,あちこち活発に動き回るよりは,のんべんだらりんとすることをよしという空気が強くなってきました。
居心地の良い「いるもて荘」にこの日も泊まり,6日目は宿の送迎車に乗って浦内川に出かけて,カヌーを楽しむことになりました。
2日目に舟浮湾で乗ったカヌーが楽しかったことと,カヌーだと浦内川の支流の宇多良川に入って,川沿いにあった宇多良炭鉱と炭鉱集落の宇多良(Utara)の跡の様子が伺えると思ったからです。

# 1-8
西表島西部には,明治から昭和(おもに戦前)にかけていくつかの炭鉱がありました。西表というと,ヤマネコやマングローブといった自然の豊かな島というイメージが強く,1991年に日比谷図書館で西表炭鉱の写真集を見つけたときは,大いに驚いたものでした。
写真集の著者でもある三木健さん著のひるぎ社・おきなわ文庫「西表炭坑概史」によると,宇多良炭鉱は1935年頃から45年(敗戦)にかけて,西表島で最大の規模を誇る炭鉱として栄え,炭鉱集落の宇多良には,映画館や演芸場まであったとのことですが,戦後は資源の枯渇などによって規模は縮小され,やがて廃鉱・廃村となったとのこと。今はジャングルに埋もれて,通じる道さえない状態になっています。

# 1-9
マリユドゥの滝に行く遊覧船の窓口で借りたカヌーは,2時間で3,000円。パンフレットにはカヌーで川をさかのぼると,宇多良炭鉱跡の目印の橋が見つかるとあります。同宿の群馬県の岩崎さんも炭鉱跡に興味があるということで,一緒に出かけることになりました。
船着場からすぐに宇多良川に入り,両岸をマングローブ林に囲まれた川を10分ほど遡ると,目の前にコンクリートの橋が現れました。
橋のたもとにカヌーをつけて上がってみると,欄干には「うたらばし・昭和十年」とありました。橋の上に積もった土の上にも木々が茂っており,廃鉱からおよそ50年,ジャングルに置き去られたままになっているという時の長さが感じられました。

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# 1-10
「西表炭坑概史」によると,宇多良炭鉱は,戦時中の動乱の中で栄えた南の果ての島の炭鉱ということで,その労働条件は過酷そのものだったそうです。「よい働き口がある」という甘言などによって全国(台湾や朝鮮を含む)から集められた坑夫は,狭い納屋(タコ部屋)に詰め込まれて,厳しい炭鉱の仕事に明け暮れ,マラリアで病死した坑夫は,川沿いの適当なところに葬られ,葬るために穴を掘ると,前に葬った坑夫の骨が出てくるような状態だったということ。これを考えると,少々おっかない場所です。
ジャングルの中の探索もしたかったのですが,サンダル履きにTシャツ,短パンという軽装備だったので,これは見送りとなりました。

# 1-11
西表島西部には,他にも成屋,内離(Uchipanari)島といった炭鉱の集落跡があるのですが,今はすべてジャングルに埋もれています。陸路の終点の白浜も炭鉱のためできた集落だとのこと。内離島には西表2日目のカヌーで上陸したのですが,探索する気は起こりませんでした。
島外の資本による炭鉱成立とその崩壊が西表の島社会に与えた影響は大きく,今西表島に住む人は2000人を切っています。
陸路がない集落跡の網取,マングローブ林に埋もれた炭鉱集落跡の宇多良は,豊かな自然というイメージとはやや離れるのですが,足を運んでみると確かに豊かな自然の中にその跡を見出すことができ,そこには行かなければわからない深い味わいがありました。

# 1-12
このときの西表で感じたような味わいを求めて,その後全国あちこちの廃村を探訪することになるのですが,振り返ればこの時点では日本のどこに廃村があるのか,福井県旧西谷村などツーリングで偶然見つけたところや,岐阜県旧徳山村などメディアで大きく取り上げられているところ以外は,ほとんどわからない状態でした。その後の廃村探訪においては,インターネットの持つ力を感じるところです
宇多良炭鉱を訪ねた後は,岩崎さんのお勧めもあって,ダイビングのライセンスを取るため,さらに4泊「いるもて荘」に泊まりました。
西表島では名前も聞かずに別れた岩崎さんと1年強後に再会できたのも,ネットつながりのおかげです。

(追記) その後,ネット仲間の夜雀さんのレポートで,宇多良橋の竣工時期は1959年6月であることがわかりました。



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