Ep 1

楽園を求める者

Ep 3

Ep2.肉親の消息

「まあ、こういうのもたまには悪くないよね」

はしゃいだ声で、綿のたっぷり入った布団に寝ころびながらハールーンが言った。

アーディルの屋敷の客となったアフマドとハールーンは、今まで一度も泊まったことのない宮殿のような豪華な一室に通され、こざっぱりとした着替えの衣服とたくさんのおいしい食べ物が供されていた。

ひょんなことから知り合った大商人のアーディルは彼らに直接利害関係がなく、しかも度量のある信頼の置ける人物だと、二人は判断していた。だから心置きなく客としてアーディルの好意に甘えることができた。贅沢なもてなしに素直に喜んでいるハールーンも、もてなしてくれる相手がアーディルでなければ、決してそんなにのびのびとくつろぐことはなかっただろう。

しかしその豪華な部屋で羽を伸ばし、ゆっくり休んで旅の疲れを癒したその翌日、アフマドはもう朝から外へ出かけようとしていた。

「待って、じいちゃん。おれも行くよ」

「いや、おまえは今日はここで待っていてくれ。捜すのに時間がかかるかもしれんしな」

アフマドはきっぱりした態度でハールーンを押しとどめ、気難しい顔をしたまま、街へ出て行った。

(どうして? 前はおれも〈離れた縁者〉に会わせてくれたのに……)

アフマドが何をしに行ったのか、言わなくてもハールーンにはわかっていた。一族の中には村から出て遠く離れた町に住み、一族の極秘の通商ルートを確保する〈離れた縁者〉と呼ばれる者がいる。シッキリーヤ*1にもルームにも一族の〈離れた縁者〉がいて、彼らが様々な情報を教えてくれたのだ。ここバグダードにも同じように人知れず協力してくれる〈離れた縁者〉がいるに違いない。けれど、今日はどうして留守番なのだろう――

夕方になってやっとアフマドは戻ってきた。帰ってきたアフマドは出迎えたハールーンの顔をしげしげと見つめた。

「なに、じいちゃん?」

「いや、おまえがやけにきれいな顔をしているのでな。湯を使わせてもらったのか?」

礼拝の時、顔や手足はすすいでいるが、それでも始終外にいて長年染みついた垢やほこりで所々黒ずんだ顔をしていたはずなのに、なぜか彼女の顔は今、輝くようにきれいになっている。ハールーンは照れて顔を赤くしながら怒ったように答えた。

「フィトナ姫に無理矢理ハンマーム*2に連れて行かれたんだよ! 女装までさせられてさ。周りの女たちに顔がバレやしないかヒヤヒヤしたよ。まったく、余計なお世話なんだよ、あの女!」

アフマドは思わず笑いながら、もう一度ハールーンの顔を見た。

本当にきれいな娘になったものだ――磨かれた玉のような肌に大きな瞳とすっきりとした目鼻立ちが映え、匂い立つようなあでやかさすらあった。開きかけた花はもう押しとどめることができない。アフマドは思った。

(これではもう外へ出すことはできんな)

小さい頃はかわいい少年で済んでいたが、今はもう少年の姿をしていても目立ってしまうことだろう。バグダードには退廃的な輩も多くいるのだ。目をつけられてはまた面倒なことになる。

黙って考え込んでいるアフマドにハールーンは今日の成果を尋ねた。しかしアフマドは答えなかった。また気難しい顔に戻って考え込んだまま口を開こうとしなかった。

(へんなの、じいちゃん……)

会えなかったのだろうか、それとも何かよくない情報でも知らされたのだろうか。こんな時はハールーンが何を言っても、アフマドは自ら口を開くまで何も語らない。ハールーンはそれを知っていたから、不安な気持ちのまま老人の様子をそっと見守っているしかなかった。

夕食後、自室に戻ってアフマドはようやくハールーンに向かって語りかけた。

「今日は済まなかったな。留守番させて」

「で、会えたの?」

性急なハールーンの問いに老人はゆっくりうなずいた。

「それで、なんだって? おれの父さんと母さんの消息を聞いたんでしょ?」

「ああ、おまえの父さんと母さんは確かに五年前までこの町にいたそうだ。村を出てから二年間ほどルール地方*3を転々とした後、バグダードに来て、職人の夫婦としてこの町に潜伏していた。だが五年前、ジャズィーラへ旅立って以降消息は途絶えた」

「そして約束の地、ルームのカルゴルにも来なかった。やっぱりジャズィーラで何かあったんだね」

アフマドは再び黙り込んだ。

「ねえ、何があったのか確かめに行くんでしょ。ジャズィーラへ。いつ、行くの?」

意を決したように強い声でアフマドはハールーンに答えた。

「ジャズィーラへはわし一人で行く。おまえはここにいなさい」

「じいちゃん! どうして? おれも一緒に行くよ」

思ってもみなかったアフマドの言葉に動揺して、すがりついて声をあげるハールーンに、アフマドは静かに言い聞かせた。

「いや、おまえはもう動かないほうがいい。ジャズィーラへはおまえの両親の消息を確かめに行くだけなのだから、またここへ戻ってくる。アーディル殿は信頼に足る人物だ。ここにいさせてもらうよう、わしから頼んでおく。おまえはここで待っていなさい」

ハールーンは今度は不安な顔になって頼りない声を出した。

「そんな……、じいちゃん、ディマシュクの時みたいに、おれがヘマをするから連れて行けないの? おれが足手まといだから?」

「そうじゃない。おまえのことが心配なんだよ。秘密の期限までは後二ヶ月、もう奴らの手にわしらの秘密が渡ることはなくなった。だが奴らはそのことを知らない。ぎりぎりまでアズラドの娘を、おまえを手に入れようと捜し回ることだろう。占いでも、おまえの星は身辺に気をつけるよう告げていた。わしはおまえを危険にさらしたくない。奴らにおまえを渡したくない。だから安全策を取りたいのだ。ここにいれば人目に付くことはない。だから、わかってくれ」

ハールーンは嫌だと言うように強く首を振った。

「心配なのはじいちゃんのほうだよ! ここんとこずっと旅ばっかりで、また病気が出るかもしれないじゃないか。もし旅先で倒れたらどうするんだよ。おれがいなきゃ、一人じゃ困るだろう? もし……」

ハールーンは顔をゆがめて声を震わせた。

「もし、もう会えないなんてことになったら、どうするんだよ。おれ、そんなのやだよ」

「ハールーン、わしは大丈夫だ」

アフマドは片手を伸ばし、涙がひとすじこぼれたハールーンの頬をその大きな手で包んだ。

「病気のことなら心配いらん。ほんの一ヶ月ほどの旅だ。たいしたことはない。わしは必ず帰ってくるよ」

アフマドの温かい手に自分の手を重ねて、ハールーンは涙に濡れた目を上げた。

「ほんとに大丈夫?」

「ああ、大丈夫だ」

「絶対帰ってくるって約束してくれる?」

「ああ、約束するよ。アッラーにかけて、わしは必ず帰ってくる。もう一度おまえの顔を見るまでは死んだりせんよ」

ハールーンはアフマドの手を自分の頬からはずし、両手で握りしめたままうつむいて小さな声で言った。

「わかった。じいちゃんが必ず帰ってくるなら、おれ、ここで待つよ。言うことを聞いて、おとなしくしてるよ」

「いい子だ、ハールーン」

アフマドがもう片方の手でハールーンの肩を抱き寄せると、ハールーンはサッと抱きついてきてアフマドの胸に顔を埋めた。

「絶対無理しちゃだめだよ」

「ああ、わかっとるよ」

ハールーンを優しく抱きしめて、アフマドはため息をついた。

「すまんな。おまえにはいつも辛い思いをさせて。わしには何もしてやれん」

「どうして謝るの、じいちゃん?」

ハールーンは顔を上げて、アフマドを見つめた。

「おれ、辛い思いなんてしてないよ。じいちゃんはおれを育ててくれたじゃないか。いろんなことを教えてくれて、いつも一緒にいてくれたじゃないか。謝ることなんて何もないのに」

「だがわしは、おまえの祖父であるわしの兄と共に、おまえに重荷を背負わせ苦しい逃亡の旅に連れ出した。おまえは兄たちと死に別れ生き別れ、父母にさえ会うこともできなかった」

「でも、それってじいちゃんのせいじゃないでしょ」

ハールーンは老人の心を慰めるように努めて明るく言った。

「仕方がなかったんだ。みんな奴らのせいだよ。〈楽園の使者〉がおれたちの村に来なければ、おれたちを無理矢理仲間にしようとしなければ、こんなことにはならなかったんだ。おれは奴らを恨んでいるけど、じいちゃんもほんとのじい様も恨んでないよ。むしろおれは嬉しかった。秘密を担うものとしておれを選んでくれて」

ハールーンは自分の頭をアフマドの胸にもたせかけたまま、独り言のようにしゃべり続けた。

「みんなの中でおれが特別扱いされてるのが嫌だったけど、じいちゃんからアズラド家の宝を母さんとおれが守っているんだって聞かされて、おれ、ほんとに嬉しかったんだ。一族のためにおれも役に立ってるってわかって。他人を欺いて生きることだって、一族のためと思えば我慢できるし、だからそのことは気にしてないよ。兄さんたちと別れなきゃならなかったのは悲しかったけど、父さんと母さんは初めからいないものだと思ってたし、会えなくたって平気さ。きっともう死んじゃってるんだよね」

アフマドはしばらく口をつぐんでいたが、やがて言いにくそうに言った。

「おまえの母さんはまだ生きているかもしれん。奴らに捕まっているとしたら」

「母さんが生きている……」

ハールーンは小声でつぶやいた。考えもしていないことだった。

「じゃあ、ますますおれは奴らに捕まるわけにはいかないんだね。あれ、でもじいちゃん、さっき秘密が奴らの手に渡ることはなくなったって言ってたけど、どうして?」

アフマドを見上げるハールーンの瞳を見返して、アフマドは黙ってハールーンの髪を撫でた。そして、ハールーンに対する答えとは違うことをつぶやいた。

「ザカイヤには、おまえの母さんには本当に不憫なことをした。秘密を守るためとはいえ、あんな形で生き長らえて……、結局その犠牲も水の泡となってしまった。わしはすでに鍵の一つを放棄してしまった。宝はもう誰の手にも入らない。ザカイヤももう……」

アフマドは目を閉じてハールーンを抱きしめた。アフマドの心の痛みが抱きしめられたハールーンの胸に伝わってくる。ハールーンは戸惑い、しばらくされるがままになっていた。

「じいちゃん、泣いてるの?」

声をかけると老人はハールーンを離した。

「いや、泣いてはいない。少し色々と思い出しただけだ。さあ、それより今のうちにしておくことがある。おまえの護符を出しなさい」

突然そんなことを言われて不思議に思いながら、ハールーンが護符をはずして取り出すと、アフマドも首から下げていたペンダントを取り出した。そして、ハールーンの手から護符を取り上げ、その手に自分のペンダントを載せた。

「これはもうおまえには必要ない。代わりにそれを持っていなさい」

「でもじいちゃん、その護符に入っている薬はおれの身を守る最後の砦じゃないか。まだ必要だよ」

「この薬は誰かが解毒しなければ、ただ死をもたらす毒薬にしかならない。わしがいない時に、おまえがこの薬を使ってはいけない」

「でも!」

アフマドはハールーンの反論を許さず、きっぱりと言った。

「おまえは死んではいけない。おまえは生きていくんだよ、ハルワ」

本名で呼ばれてハールーンは戸惑い口をつぐんだ。アフマドの口調は優しくなった。

「おまえはこれから、一族のしがらみを離れて自由に生きていくのだ。女として、ハルワとして。おまえが幸せを得て生きていくこと、それがわしらの望みなのだ」

「じいちゃん……」

「もう毒も剣もおまえには必要なくなるのだよ。そのペンダントはおまえの母さんから預かったものだ。それも鍵の一つだが、もう本来の役割は果たさない。だが母さんの形見だ。おまえが持っていなさい」

ハールーンは手に載せられたペンダントを眺めた。鎖に下げられたものは小さな平べったい水晶の玉だったが、よく見るとそれはバラの形をしていて、中に飴色にくすんだ黄色い液体が閉じこめられていた。水晶は中の液体の色を映し、琥珀のような風合いを見せていた。

そのペンダントをハールーンはのろのろと動いて首に掛けた。アフマドはそれを見て満足そうにうなずいた。

「もう、髪も伸ばすか?」

アフマドの優しい問いかけに、ハールーンは自分の伸びかけたボサボサの短髪に手を当てて慌てて首を振った。

「まだいいだろ。まだ二ヶ月あるよ。もうだいぶ伸びちゃってるけど、じいちゃんが帰ってきたらあと一回、髪を刈ってよ。伸ばすのはそれからにする。いいだろ?」

ハールーンの慌てぶりにアフマドは笑みを漏らした。そして慈しみに満ちた目でハールーンを見つめて言った。

「帰ってきたら、最後の床屋だ」

翌朝、アフマドは身の回りの物と携行用の食料を入れた袋一つだけを下げて、旅の門出に立っていた。ハールーンとアーディル、そして知らせを聞いて大急ぎでやって来たユースフとフィトナが見送りに来た。

「アーディル殿、くれぐれもハールーンのこと、よろしくお願いします」

頭を下げるアフマドの手を取ってアーディルは言った。

「しかと承知したよ、アフマド。おまえの言うとおり、彼はこの屋敷から一歩も出さないようにするから、心配しないで気をつけて行ってきなさい」

ゆうべ、アーディルはアフマドの申し出を興味深そうに聞いた。もちろんアフマドが出かけている間、ハールーンを預かり屋敷に閉じこめておくことなど、アーディルには何の問題もなくできることだ。むしろ彼には、なぜそうする必要があるのか、その理由のほうに興味があった。

アフマドの答えは歯切れの悪いものだった。自分たちは追われている、特にハールーンは見つかればさらわれてしまう可能性がある、だからハールーンを外に出さずここでかくまってもらえないか、と。誰に、なぜ追われているか尋ねても、アフマドは今は言えないと口を閉ざすばかりだった。そして、済まなそうに「何のお礼もできませんが」と言った。

「まあ、おまえたちが訳ありの旅芸人だとは、なんとなくわかっていたがね。今は言えないってことはいつか言える時が来るってことなのかな?」

アーディルの問いにアフマドは無言でうなずいた。それを見て、アーディルは笑みを浮かべ、楽しそうに目を輝かせた。

「お礼などおまえたちに期待したって仕方がない。だが、おまえたちの〈訳あり〉は面白そうだからな。わたしの好奇心を満たしてくれるなら、それは幾ばくかの金銭よりよほど嬉しいものだ。ハールーンの預かり賃はその打ち明け話ということでどうだろう?」

「わかりました。全てが片づいたらお話ししましょう」

神妙に同意するアフマドに、アーディルは明るく手を打って答えた。

「交渉成立だな。よし、ハールーンのことは任せなさい。わたしの屋敷にはしょっちゅう客が出入りするから、奥の部屋を使わせよう。わたしに家族ができた時のために用意してある私用のスペースだから客は入ってこないよ。召使いたちにもよく言い含めておくから、心配はいらない」

そんなやり取りがあったとは知らず、ハールーンは今にも泣き出しそうな顔で、アフマドに絶対に無理をしないで、と念押ししていた。

「じいさん、ちゃんと帰って来いよ」

ユースフも冗談交じりに言葉を添えると、意外なほど真剣にアフマドが答えた。

「ユースフ、ハールーンを頼む」

短い言葉に込められた強い意志が感じられて、ユースフは戸惑った。すると、側で聞いていたフィトナが代わりに口を出した。

「お爺様、わたくしたちに任せてください。ハールーンはちゃんとわたくしたちが監視していますわ。危ないことは絶対にさせませんから」

「頼みます、姫様」

アフマドはフィトナに微笑み、最後にハールーンの頬にキスをしてから、出発した。朝もやの立ちこめる通りを老人はひっそりと歩いていく。その後ろ姿をハールーンはいつまでも見送っていた。どんなに固い約束を交わしても胸の不安は消えない。泣き出しそうな顔のまま立ちつくしているハールーンの肩を、ユースフがそっと叩いた。

「大丈夫だよ、ハールーン。じいさんは強い。敵にも病気にも負けたりしないよ」

「うん」

触れられたことを厭うのも忘れて、ハールーンは素直にうなずいた。ユースフの確かな言葉と確かな手の感触が今はとてもありがたかった。


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