砂漠の旅 |
ラマダーン月の欠けていく月を眺めながら、フィトナは今日も窓辺でため息をついていた。高殿にある彼女の部屋の窓からは、青白い月がよく見える。その月を見上げるフィトナの顔も同じように青白く、憂いに潜んでいた。彼女の背後では、彼女が赤ん坊の頃から身の回りの世話をしてきた乳母のラハマが心配そうに様子を見ていた。
「姫様」
ラハマは黙っていることに耐えきれなくなって、フィトナに声をかけた。
「あの少年のことはもうお忘れになって下さいまし。何度も申し上げたでしょう? あれはきっと恐ろしいジンだったのでございますよ。あんなに素早くて大胆で恐ろしいことなんて、ジンにしかできっこありません。姫様はジンに惑わされているだけなのですよ」
ラハマに答える代わりに、フィトナはまたため息を一つついた。
彼女はまだ灰色の現実に足を踏み出してはいなかった。現実から逃げ出して、また夢を見ていたのだ。今度の夢は甘く切なく苦しい夢だった――
「姫様、ほら、姫様も覗いてご覧なさいな。月のように美しい少年ですわよ」
「ねえ、まるで、お空のお月様が降りてきたみたいよ」
「まあ、本当にかわいい少年だこと。あんな子が弟だったらどんなによいかしら」
垂れ幕の隙間に殺到している女たちが、ウキウキしながら小声で騒いでいる。シャーバーン月中日の宴が始まる前から、彼女たちの話題は商人ナーキルが連れてきたウード弾きの少年のことで持ちきりだった。
最近、沈みがちなフィトナを慰めようと集まった、取り巻きの少女たちや侍女たちまでがそんな様子なので、フィトナはさすがにあきれて彼女たちを諫めた。
「いい加減になさいな、あなたたち。のぞき見なんて、はしたないわ」
フィトナは美しい少年と聞いても興味が湧かず、聞き流していた。彼女の憂鬱はこの世の全てが色あせてしまうほど深く重かった。しかし、ウード弾きの歌が始まると、そのあまりに美しい歌声にフィトナの心が動いた。
(天使様の声って、きっとこんな声ではないかしら……)と思い、どんな人間が歌っているのか知りたくなった。フィトナは女たちに混じって、垂れ幕の隙間から覗いてみた。
満月が降りてきて、ウードを弾いている――本当にフィトナはそう思った。それほどウード弾きの少年は光り輝いて見えた。衝撃に打たれて身動きできず、フィトナは見つめ続けた。その瞳に映るものはもはや少年の姿のみだった。
それはフィトナが今までに見た中で一番美しい少年だった。強い光をたたえた大きな目とキリッと凛々しい眉、すっきりとした鼻の下には口が形良く開かれて美しい声が放たれている。歳の頃はちょうどフィトナと同じか少し若いぐらいで、若々しい生気が体中からあふれている。
すっかり目を奪われたフィトナだったが、得意の想像力はしっかり働き始めていた。もしあの目が自分を見つめてくれたら、天にも昇る心地がするのではないかしら、と――
アミールが少年に話しかけ、話をフィトナの方へ振ったので、女たちは慌ててコソコソと席に戻った。フィトナはなんとか答えを返したが、心臓が口から出そうなほどドキドキしていた。いくら両手を頬に当てても、顔の火照りは静まらなかった。少年の抱えているウードが元は自分の物だったということを考えると、それだけでとろけてしまいそうな気分だった。
しかしその後の出来事は、彼女の知っている物語以上に不思議で、想像を絶することだった。あまりに突然で、あまりに衝撃的で、彼女は却って冷静に行動できた。考えている暇などなかったからだ。
まるで夢の中にいるようだった。少年はジンのような素早さと身軽さで、アミールに近づき、アミールを眠らせ、自分を虜にした。少年との短い道行き、首筋に当たる冷たい短剣の感触、少年の言葉、自分に向けられた微かな笑み、そして少年は風のように去ってしまった。
全ては夢の中の出来事のようだったが、フィトナにとっては、決して忘れられない出来事になった――
「ジンではないわ。あの方は人間よ」
フィトナはつぶやいて、ラハマの方に向き直った。
「わたくし、あの方とはほんの少しだったけれど、一緒にいたのよ。ちゃんと手には温もりがあったし、人間らしくないところなんてどこにもなかった……。それにあの方はユースフお兄様のお友達なのよ。ユースフお兄様がジンをお友達にすると思うの? あの方は人間です。危険を冒してお父様を助けて下さった勇敢な人間です」
もう何度もラハマに返した同じ言葉を、フィトナはまた繰り返した。今度はラハマがため息をついた。
「ねぇラハマ、ユースフお兄様はまだお戻りにならないの?」
甘えるように尋ねるフィトナに、ラハマは事務的に答えた。
「ヒムスへのお使いを終えた後、北の駐屯地を回っているそうですよ。25日頃には戻られると聞きましたが、ユースフ殿は戻られても姫様にはお会いにならないでしょう」
フィトナは今度はユースフのことでため息をついた。
「ユースフお兄様はどうしてわたくしを避けるのかしら。子供の頃はとても仲良く遊んで下さったのに」
「姫様、ユースフ殿はもう姫様の幼なじみではなく、殿様の一兵士としての分別でお会いにならないのです。姫様ももう子供ではないのですから、その辺のことはおわかりになって下さいまし。ユースフ殿からあの少年についてお聞きしたことは、もうお伝えしたでしょう」
フィトナはだだっ子のように頬を膨らませた。ラハマの言いたいことはわかっている。フィトナにもそのくらいの分別はあった。しかし気持ちがそれでは収まらなかった。確かに、フィトナに会おうとしないまま出かけてしまったユースフは、自分と少年が出会った経緯や、フィトナがとても心配していた少年の怪我が順調に回復していることを、ラハマに伝えていた。
だが、その後の少年の様子はわからなかったし、少年について聞いてみたいことは他にも山ほどあったのだ。フィトナは少年どころか、自分と少年を繋ぐ唯一の人間であるユースフにさえ会えないもどかしさに耐えられなかった。
フィトナの目に大粒の涙が浮かんだ。恋しい人を想うだけで、何もできないもどかしさと辛さに、彼女は何度も涙を流していた。けれど、どれだけ泣いても涙は涸れることがなかった。さめざめと泣き出したフィトナを見て、ラハマも哀しそうな表情を見せたが、しっかり者の乳母らしく、情に流されることなくきっぱりと言い聞かせた。
「姫様、姫様にはアーディル様という立派な婚約者がいらっしゃるのですよ。他の方に恋などしてはいけません。もしこんなことが先様に知れたら、殿様のお立場がどれほど危うくなるか、姫様にもおわかりでしょう? 早くあの少年のことはお忘れになって、アーディル様のことだけをお考えになって下さいまし」
「お願いよ、ラハマ。今はそのことは言わないで」
フィトナはラハマが突きつけた恐ろしい現実を、急いで頭の中から閉め出した。そしてまた、月を仰ぎ、夢想の中に逃げ込んだ。
(ああ、ハールーン様、どうしてあの時、あのままわたくしを一緒に連れて行って下さらなかったの? そうでなければいっそ、あの短剣でわたくしの喉を切り裂いて下さればよかったのに……。そうすれば、わたくしは美しい夢を見たままアッラーの御許へ行けたのに。こんなに苦しい想いをしなくて済んだのに……)
まもなく夜が明けようとしていた。断食前の合図である太鼓の音が聞こえ、すぐに侍女がフィトナの部屋に夜明け前の食事を運んできた。
「いらないわ。食べたくないの」
「姫様、いくら断食月の最中とはいえ、夜もほんの少ししか召し上がらないのでは体に毒ですよ。ちゃんと召し上がって下さいましな」
ラハマは必死に食事を勧めたが、フィトナは憂鬱な表情で首を振り続け、侍女に命令して食事を下げさせてしまった。
それからふらふらと立ち上がり部屋の隅に行き、そこに置かれた美しい細工の施されたウードを抱きしめた。それは元は自分の物であり、思いがけない運命によりハールーンの物となり、あの日館に置き去りにされて、今また自分の所へ戻ってきたウードだった。
(あの方が弾いていたウード、わたくしのもとからあの方の手へ渡ったウード……。これがアッラーのお導きによるご縁でなくてなんだというの。きっとそうよ、あの方だって、最後に少しだけ笑顔を見せて下さったのだもの。わたくしは信じるわ。あの方の笑顔を。このウードが取り持つご縁を……)
フィトナはウードをしっかりと抱きしめたまま、小さくつぶやいた。
「きっとまた会えるわ。そうでしょう? ウードよ」