Ep 2

砂漠の旅

Ep 4

Ep3.フィトナとユースフ

シャッワール月初めの断食明けの祭が終わり、街の人々の生活はまた普段通りに戻っていた。

だがユースフの生活には多少の変化があった。彼は盗賊退治の功が認められ、祭の際の褒賞で四十人長に昇進したのだ。任務は相変わらず城砦と市内外の守備だったが、相変わらず彼の直属の部下に収まった仲間たちと、相変わらず彼の副官としてお目付役を続けているアブー・サーリフは、彼の順調な出世を我が事のように喜んでいた。

その配属されたばかりの新しい部下たちと共に、城砦の中の広場で練兵を終えたユースフは兵舎に戻ってくると、浮かない顔でアブー・サーリフを呼び止めた。

「アブー・サーリフ、おれ、ちょっと館へ行ってくる」

振り向いたアブー・サーリフはどんよりとした表情のユースフを見て、気遣うように聞いた。

「姫様は会ってくれるのか?」

「すぐに来いだとさ」

アブー・サーリフにため息混じりの答えを返して、ユースフは兜を脱いだ。

「いいなあ、隊長は。幼なじみの特権で、美人の姫様とサシで話ができるんだもんなぁ」

おどけた調子でジャーファルが横やりを入れた。ユースフはムスッとした顔でジャーファルを見て、脱いだ兜を彼に放った。

「そんなにいいなら、その特権、おまえに譲ってやるよ、ジャーファル。おれはもう、あのお姫様には近づきたくないんだ。一緒にいるとロクなことがないからな。今回だって、ハールーンのウードを姫が預かっているから、話を通すために仕方なく会うんだ。そうでなきゃ、面会なんて申し込まないさ。絶対にな」

ユースフは身に着けていた武具を次々にはずし、それらを全てジャーファルに預けると、意外そうに顔を見合わせている部下たちを尻目に、さっさと着替えて館へ向かった。

確かにユースフとフィトナは幼なじみだった。ユースフの父はアミールの腹心、母は奥方の侍女だったので、ユースフの一家はアミールと家族ぐるみの付き合いをしていたのだ。そしてユースフとその弟のムーサーはフィトナとその弟ムハンマドの良き遊び相手だった。二人はユースフとムーサーを兄と呼んでとても慕っていた。

しかし、ユースフの方は、ムハンマドのことはかわいいと思っていたが、フィトナのことはとてもはた迷惑な妹と思っていた。それはフィトナお得意の夢想がしばしば現実の世界を侵し、側にいるユースフまで引きずり込み、彼はその都度ひどく混乱した状態に陥り、情けない状況に追い込まれていたからだった。

彼は何度も悲劇の英雄の真似をして、馬から落ちなければならなかった。痛くもない手足を包帯でぐるぐる巻きにされ、布団に寝かされてじっとしていなければならなかった。他にも数え上げたらきりがないほど、色々なことをやらされた。

それでも彼女に付き合っていたのは、彼女がアミールの大事な娘だからということもあったが、それ以上に、彼女が大粒の涙を浮かべてすがりつくような目で彼を見ると、イヤとは言えなくなってしまうからだった。

アミールの一兵士となってアミールの家族と離れてからは、ユースフは兵士としての分別を持って、フィトナやムハンマドに親しく会うことはしなかった。だが本当はフィトナに関しては、もう二度と彼女に振り回されたくないという思いが強くて、彼女から遠ざかっていたのだった。

アミールの館に入り、召使いに案内されてフィトナの待つ部屋に入ると、ユースフはかしこまって臣下の礼をした。

「まあ、お兄様、わたくしたちの間にそんな堅苦しい挨拶は必要ありませんわ。昔のように普通にしてて下さいな」

フィトナの屈託のない明るい声に、ユースフはこっそりため息をついて顔を上げた。だがブルクーをはずし顔をあらわにしたまま、クッションに身をもたせかけたフィトナの姿を見て、さすがのユースフも驚いた。

子供の頃から顔も身体もふっくらとしていて、少し前に見かけた時は、すでに服の上からでもわかるほど女らしい体型をしていたフィトナだったのに、今の彼女はすっかり痩せて一回り小さくなったように見えた。顔はやつれて、自慢のバラ色の頬も青白く沈んでいる。ただつぶらな瞳だけは、喜びと期待に明るく輝いていた。

ユースフはフィトナの様子から、自分が前から考えていた悪い予想が当たってしまう気がして、不機嫌そうに言葉を返した。

「顔ぐらい隠したらどうです? もう子供じゃないんですよ、姫」

「あら、わたくしは今でもあなたのことをお兄様と思っていますもの。お兄様に顔を隠す必要なんてないでしょう? それよりお兄様、どうして今まで会って下さらなかったの? 確かにあなたはお父様の部下だけれど、わたくしとムハンマドにとっては大好きなお兄様なのよ。妹や弟が兄に会ってはいけないなんて決まりはないはずだわ。ムハンマドだって寂しがっているのよ。お兄様と剣の稽古をしたいって」

ユースフは昔と変わらない無邪気なフィトナに、極力感情を殺して応対した。

「ムハンマド様の剣のお相手には、ちゃんと教育係がいるでしょう? あなた方と親しくしていると、こっちに不都合なことがあるんですよ、フィトナ姫。あなた方に取り入って昇進させてもらったなんて周りに思われてると、いつかそれで追い落とされる日が来るかもしれない。おれだって自分の身はかわいいのでね。用心してるんですよ」

「そういえば、やっと四十人長に昇格したのですってね。おめでとう、お兄様。でもずいぶん回り道なさったわ。本当なら「アミールの槍」とうたわれたウマルの息子ですもの、初めから指揮官の地位でもおかしくなかったのに」

「その親父も元はマムルークで地位と名誉は自分の力で築いたんですよ。兵士にとって、条件は皆一緒だ。おれにだってできるはずです。ウマルの息子だからこそ、おれも親父と同じようにしてるんですよ。その話はもういいでしょう。本題に入らせて下さい」

「ええ、そうね。わたくしもお兄様に伺いたいことがいっぱいあるの。でもまずお兄様からどうぞ、なにかしら?」

「ハールーンのウードのことですよ。姫が預かっているんでしょう?」

単刀直入に切り出したユースフの言葉を聞いて、うなずくフィトナの顔がさらに明るくなり、瞳が潤みだした。

(ああ、やっぱりそうだ)と思って、ユースフは頭を抱えたくなったが、冷静を保って続きを話した。

「あいつ、ちょっと事情があって殿に会うことはできないんだが、ウードは返してほしいんです。あれはあいつの大事な商売道具だから。だからあいつがいつ受け取りに来てもいいように、門番の兵士に渡しておきたいんですが」

「だめよ!」

フィトナは涙に詰まりそうな声で、しかし断固として拒絶した。

「そんな大事なものを門番の兵士に預けるなんて、心配でできないわ! わたくしが確実にこの手でお渡しします。お兄様だってそのほうが安心でしょう? あの方がお父様にお会いになれないのなら、娘であるわたくしが責任を持っておもてなしするわ。いついらっしゃってもいいように、ちゃんと準備をしてお待ちしています」

「姫、あいつはもてなしなんていらないんです。ただウードを返してもらえば……」

ユースフは言葉を呑んだ。フィトナの目に涙がいっぱいに溜まり、今にもこぼれ落ちそうになっていたからだ。げんなりと口をつぐむユースフに、フィトナは言葉を詰まらせながら必死に訴えた。

「そ、そんなこと、お兄様が勝手におっしゃらないで。たとえそれがあの方のお気持ちだとしても……、だとしても、とにかくお父様のもてなしたいというお気持ちを表すことは必要よ。そうでしょう?」

「はあ……」

いまだにユースフはフィトナの涙が苦手だった。反論できずに黙り込んだユースフを、フィトナは了解してくれたものと思って、涙を拭ってから居住まいを正し、姫君にふさわしい態度で宣言した。

「ハールーン様にはいつでもおいで下さるように伝えて下さい。わたくしが責任を持って、ウードをお渡しします」

ユースフもそれに応えるように心を決めて、背筋を伸ばしまっすぐにフィトナを見た。

「わかりました。そんなにそうしたいなら、すればいい。だが、おれをまだ兄だと思っているなら、おれの忠告も聞いてくれ、フィトナ」

ユースフは昔のようにフィトナに話しかけ、フィトナは黙ってユースフを見つめた。

「ハールーンに会うのはそれで最後だ。ウードを渡したら、あいつのことはさっさと忘れろ」

「何のことかしら?」

ユースフから視線をそらし、フィトナはしらばっくれた。しかし動揺は隠しきれていない。そんなフィトナを一瞥して、ユースフは自分のやるせない想いを心の底に押し殺しながら、フィトナに答えた。

「あいつのことが好きなんだろう? ハールーンのことが。まったくとんでもない姫君だ。行きずりのウード弾きに恋をするなんて」

顔を背けたまま、震える声でフィトナは言った。

「ラハマが話したのね」

「ラハマは何も話しちゃいない。おまえの態度を見てりゃすぐわかるさ。いいか、おまえはディマシュクのアミール・アブドッラーの娘なんだぞ。婚約者もすでにいる。あいつは旅暮らしのただのウード弾きだ。おまえがどんなに好きだって叶うはずがないだろう。いずれあいつはこの街を出て行く。おまえも婚約者と結婚する。二人の間に接点なんてどこにもない。早く忘れちまったほうがおまえのためだ」

フィトナは再び涙を浮かべて首を振った。

「フィトナ、これ以上想い続けてたって、おまえが傷つくだけなんだぞ」

フィトナは涙をこぼしながら、激しく首を振った。

「忘れられるものなら、とっくに忘れているわ、お兄様。でもだめなの。どうしても忘れられないの。どんなにいけないと思っても、気がつくとあの方のことを考えているわ。あの方のことが頭から離れないの。ねえお兄様、教えて。どうしたら忘れられるの?こんなにも好きな人のこと、どうしたら……」

泣き崩れてしまったフィトナを見たまま、ユースフはかける言葉を失っていた。それはフィトナの涙のせいではなかった。フィトナが問いかけたことは、自分にも答えの見出せない悩みだからだった。仕方なくユースフはその場から逃げ出すことにした。

「自分の気持ちは自分でなんとかするしかないだろう。とにかく、おれの言いたいことはそれだけだ。これで、失礼するよ」

ユースフは一礼して立ち上がり部屋を出て行こうとした。

「待って、お兄様、ハールーン様のことを教えて!あの方は今どうしていらっしゃるの?」

「そんなこと聞いてどうする? あいつは元気になった。近いうちにこの街を出て行く。それだけだ。もう話すことはない」

そのままフィトナを振り切るように、ユースフは部屋を立ち去った。

(フィトナはあいつと会って、どうするつもりだろう……。あいつは……、あいつはやっぱり、さっさと面倒事から逃げていくんだろうな……)

館の廊下を歩きながら、ユースフは厄介な問題を陰鬱な気分で考えた。本当はハールーンが女であることをフィトナに話せば、彼女は諦めるかもしれないが、それは絶対にできない。結局、このままハールーンは街から逃げ去り、フィトナの恋も自分の恋も終わるのだ――それはフィトナだけでなく、自分にとっても堪らなく切ない、苦しい結末だった。

「どうしたらか……、こっちが教えてほしいよ、まったく……」

苦い気持ちでそっとつぶやいて、ユースフは兵舎への道を急いだ。


Ep 2 ウード Ep 4