ウード弾きの少年 |
ナーキルの屋敷にウードの典雅な調べが流れていた。
〜 おお、ディマシュクよ、ディマシュクよ
おまえの光輝くその姿、麗しき花の顔(かんばせ)をわたしに見せておくれ
おまえの金の杯で、その美酒(うまざけ)をわたしに飲ませておくれ 〜
小鳥のさえずりのように高く澄んだ歌声が、ウードの調べと掛け合いを始める。客人の招かれたナーキルの宴席で、隊商の長ムハンマドがルームで拾って来た老人と少年、アフマドとハールーンがウードを演奏していた。歌っているのはもっぱらハールーンのほうだった。まだ変声期前と見えて、少女の声のような美しいボーイソプラノを響かせて、はやりの4行詩や即興詩などを次々と歌っていた。
ナーキルの客人はまだ30代の背の高い痩せた男で、痩せぎすな顔に細く鋭い陰気な目をしていた。金持ちらしく豪華で派手な上衣を着たその男は、その目をずっとハールーンに向けている。ナーキルが話しかけても、男はハールーンを見たまま上の空で答えていた。
一通り演奏が終わると、ナーキルは二人に労をねぎらって下がらせた。それから客人の顔色をうかがった後、おもむろに席を外し、帰り支度をしている二人の所へ行った。
「なあ、アフマド、おととい話したことなんだが……」
「その話でしたら、お断りしたはずです、ナーキルの旦那」
アフマドが困惑した表情でナーキルに答えると、側で聞いていたハールーンがキッと目を吊り上げてナーキルを見上げた。
「あの客、やっぱりそっちの趣味だったんだ。道理で立て続けに2度も呼ばれるは、やらしい目つきでじろじろ見られるは、ったく、気色悪いったらないね!」
「これ、ハールーン、口が過ぎるぞ」
たしなめるアフマドを無視してハールーンはまくしたてた。
「おれだって、もう芸で身を立ててる一人前の芸人さ。芸一筋に生き、決して身売りはしないとアッラーに誓いを立ててるんだ。誰があんなエロおやじの所に行くか!100万ディーナール*1積まれたってやなこった!! いてて……」
アフマドに耳を引っ張られて、やっとハールーンは口を閉じた。
「すみません、旦那。この子は口ばかり達者で……」
「いやいや、構わんよ。男の子はそのくらい元気でないとな。そうか、誓いを立てているのか。それは困ったな……」
ナーキルは渋い顔になって、言葉を濁した。
「……実はな、バクリーさんはわしの大切な取引先の管理人でね。できれば機嫌を損ねたくないんだが……。バクリーさんは本当にハールーンのことを気に入ってるんだよ。なぁ、ほんの一晩相手をするだけでもいいんだ。それだけでも、おまえたちの稼ぎの1ヶ月分位は軽く花代をはずんでくれるはずだよ」
「旦那、金の問題じゃないんです。誓いを破るわけにはいきませんで。旦那にはショバの元締めに口をきいてもらった上に部屋まで紹介してもらって、本当にありがたく思ってますが、その話だけはご勘弁を」
ナーキルはため息をついた。
「やれやれ、わしもおまえたちのウードが気に入ってるのでね。おまえたちに誓いを破らせるようなことはできんな。まあ、バクリーさんには正直に訳を話して諦めてもらうよ。アッラーにかけて誓ったことだから、バクリーさんも承知するだろう。それにしても、もったいないことだ」
ハールーンの顔を眺めてナーキルは話を続けた。
「おまえは声もいいし、肌もきれいだし、目鼻立ちもくっきりとしていて、なかなかの器量よしだ。おまえならもっと高貴な身分の方だって、高く買ってくれるだろうに」
ハールーンはフンとそっぽを向いた。
「おれはおれの芸を買ってくれる人の前でしか、ウードを弾かないし、歌も歌わない。おれはもう金輪際、あいつの前では演奏しないからな」
「わかったよ、ハールーン。わしは純粋におまえの演奏を買っているからな。また来ておくれ」
ナーキルは優しくハールーンの肩を叩くと、アフマドを心配そうに見た。
「アフマド、おまえさん、顔色が悪いが病気なのかね?」
アフマドは苦笑いして答えた。
「寄る年波には勝てませんでな。旅暮らしが老いぼれの身にこたえまして……」
「老いぼれというほど老いているようには見えんよ、おまえさんは。一度医者に見てもらったほうがいい。ディマシュクにはいい医者がいるぞ」
「なぁに、大丈夫ですよ」
老人はことさら元気な声を出した。
「今日はもう帰っていいぞ。最近、あの界隈は夜盗が出て物騒だからな。気をつけて帰れよ」
ナーキルが言うと、ハールーンが横やりを入れた。
「なんでそんな物騒な所の部屋を紹介するんだよ」
「おまえは余計なことを言わんでいい」
すかさずアフマドはたしなめたが、ナーキルは穏やかに説明し出した。
「あの地区はアミールのワクフ*2地なんだが、夜盗はなぜかアミールの作った施設やワクフ地を狙うことが多くてな。物騒だからとねぐらを替えるやつも多くなって、ワクフ地にある貸し部屋やスーク*3の賃貸料は値下がりしたが、そのせいで他の地区はみな値上がりしてしまったんだよ。わしも悪いと思ったんだが、おまえさんたちが少しでも安い所と言うんで……」
「いいんですよ、旦那。わしら、その日暮らしのもんにはあの安部屋はありがたいです。どうせわしらには、盗られるものなんてこの命とおんぼろのウードぐらいしかないんですから」
アフマドはナーキルから礼金を受け取ると、丁寧に礼を言い、ハールーンを連れて屋敷を出た。召使いがハーラ*4の出入り口まで送り、門を守っている若い衆に声をかけ、二人を外に出してやった。
「ずいぶん厳重な警戒だね」
門を振り返りながら、ハールーンはアフマドに話しかけた。
「ここのハーラは商人が多いらしいからな。自衛するだけのものは持っとるのだろう」
「おれたちの住んでる地区はよそ者ばっかだから、自衛組織なんてないなぁ」
「襲っている連中はどうせ街のゴロツキどもだろう。よそ者を狙ったほうが後腐れがないんだ」
二人はひっそりとした裏通りを、ろうそくの明かりを頼りにとぼとぼと歩いて行った。人通りはなく、ただ夜空の賑やかな星々だけが二人を見下ろし、傾いた半月は家々の屋根の向こうに見え隠れしている。
しばらくしてハールーンは、老人の顔色をうかがうように見上げ、再び口を開いた。
「じいちゃん、無理しないほうがいいよ。明日は寝てなよ。おれ一人でもできるから」
「そうはいかん」
断固として答えるアフマドに向かって、ハールーンは自信たっぷりの笑顔を作った。
「大丈夫だって!まかせときなよ」
「仕事のことじゃない」
アフマドはそう言ってから、がっちりした手でハールーンの小さな肩を抱いた。
「おまえのことが心配なんだ」
ハールーンの顔が見る見るうちに曇った。目だけを暗く光らせて、少年はつぶやいた。
「あのバクリーとかいう変なヤツがいるから?あんなの、別にどーってことないよ」
「あいつだけじゃあない。都会にはいろんなやつがいるし、何が起きても不思議はない。都会とはそういう所だ。くれぐれも油断してはならん。この街は稼ぐだけ稼いだら、できるだけ早く出ることにしよう」
普段、ハールーンには厳しい態度を取っているアフマドが、珍しくハールーンの肩を抱いたまま歩いていた。ハールーンは甘えるように老人に寄り添った。そして、さっきまでの活発な言いようとは打って変わった沈んだ声でアフマドに尋ねた。
「ねえ、じいちゃん……、おれ、いつまでこんなことしてればいいんだ?」
アフマドはハールーンの肩に回した手に、勇気づけるように力を込めた。
「前に教えただろう。来年のサファル月*5までだ。後少しの辛抱だよ」
「辛抱って言ったってなぁ……」
二人は街の真ん中を東西に走る〈まっすぐな道〉と呼ばれる大通りに出た。大きな店やハーンが立ち並び、ジャーミーの界隈に次いで賑やかな場所だったが、今は夜も更けて店は閉まり、ひっそりとしていた。
二人が再び裏通りに入り、自分たちの住む地区へ向かっていた時だった。突然、彼らの住む地区の方から人の怒号、警笛の音が聞こえてきた。二人は顔を見合わせてから、通りの先をうかがった。
「どうする、じいちゃん?静かになるの待ったほうがいいかな」
「いや、警笛が鳴ってるってことは、もう賊は追われてるってことだ。もう行っても大丈夫だろう」
二人は歩き出した。歩きながらハールーンは子供らしからぬ皮肉な笑みを浮かべ、醒めた口調でアフマドに言った。
「旅はめんどーなことが多かったけどさ、都会もあんまし変わんないね」