はじめに

ウード弾きの少年

Ep 2

Ep1.旅のウード弾き(1)

シャームのほぼ中央に位置する都市ディマシュクは、ムスリム*1によって征服される以前からある古い街で、ウマイヤ朝の時代には首都が置かれていた大きな街だった。アッバース朝の世になって都がバグダードに移ると、イスラーム世界第1の都市という栄華も移り去ったが、それでも衰えたとはいえ、まだまだその賑やかさは他の街とは比べ物にならないほどだった。

荒涼とした砂漠地帯のただ中にあって、この街は豊かな水に恵まれ、美しい緑に囲まれたオアシスで、人と物を引き寄せるのに充分な魅力を備えていた。隊商は絶えず行き交い、マッカ*2への巡礼者たちが集い、そして豊かなこの街の恩恵を求めて、様々な人々――この街で一儲けしようとやって来た商人や職人、ゴロツキ連中、志を立てたウラマー*3、そしてこの街を我が物にしようとする地元あるいは他国の支配者たち――が群がっていた。

実際、この街はいつの世も変わらぬ繁栄を保っていたが、街を掌握する者は次から次へとコロコロ変わっていた。アッバース家が衰えた後、ミスルのファーティマ朝の支配下に入ったり、アッバース家に代わってその支配地域を治めているトゥルク人のサルジューク家が奪い返したり、かと思うとシャームの豪族が間隙を縫って掠め取ったりという状態だった。

現在の支配者はサルジューク家のスルターン*4から派遣されたアミール*5、アブドッラーだった。アブドッラーは武勇に長けた軍人で、サルジューク家のシャーム遠征において連戦連勝だった。彼は反乱の絶えないシャームの平定に最も功を挙げ、主君からシャームの最も重要な都市であるディマシュクの防衛を任されたのだった。

アミールはこの地方をよく治め、統治は6年に及んでいたが、その地位は、実はひどく不安定なものだった。シャームの南半分を領有しているミスルのファーティマ家は、以前のようにディマシュク以北も占領しようと隙をうかがっていたし、街の周辺は常に遊牧民の襲撃にさらされていた。街の中には、異邦人の支配者を追い出したいと考えている有力者たちもいて、いつディマシュクを追われてもおかしくない状況だったのだ。

街の人々は様々な支配者に支配されることに慣れっこになっていて、時々彼らのことをこんな風に揶揄していた。

「アッラーはこのディマシュクの頭を次々とすげ替えなさるが、この街の金銀と珠に飾られた衣にぴったりと似合う立派な頭なんて、そうそうあるもんじゃないさ」



さて、そんなディマシュクの街にいつものように夕刻が訪れ、あわただしく到着した隊商が大きなハーン*6で荷をほどいていた。

「旦那様、ただいま戻りました」

隊商の長が出迎えた主人に挨拶した。隊商の持ち主である主人はこの街の大商人で、名をアブドルアジーズ・アンナーキルといった。

「ご苦労だったな、ムハンマド。ルームの情勢はどんな様子だ?」

初老の年格好のナーキルはがっしりとした体つきではあるが背は低く、若く大男のムハンマドを見上げるようにしている。

「はい、旦那様。ビザンツ人が西のフランク人に援軍を要請して、ルームの地を取り戻そうと画策しているようで、いつ戦が起こってもおかしくない状況です。旦那様はまったくいい時に隊商を出されました。戦が起これば、ルーム内の隊商路の確保は難しくなるでしょう。そうなれば仕入れた鉱石や毛皮、織物の値は確実に上がりますから」

「うむ」

ムハンマドの答えにナーキルは満足そうにうなずいた。その時、街中のマスジド*7から礼拝を呼びかけるアザーン*8が聞こえてきた。ムハンマドはそわそわと揉み手をしながら主人に伺いを立てた。

「旦那様、礼拝に行ってきてよろしいでしょうか?夕方の礼拝に間に合うように、急いで来たのです。久し振りに我が街のジャーミー*9で礼拝をしたくて」

「おお、もちろんいいとも。共に参ろう」

ナーキルはムハンマドに答えてから、作業している人夫たちに大声で告げた。

「おまえたちも礼拝に行ってきてよろしい!! 無事に戻れたことをアッラーに感謝するのだぞ!」

仕事を中断し、三々五々連れ立って歩き出した人夫たちに混じって、ナーキルとムハンマドも歩き出した。ハーンを出る時、ムハンマドは出入り口に座り込んでいる老人と側にいる12,3歳位の背格好の痩せた少年に声をかけた。

「おまえたちも一緒にジャーミーに行こう。この街のジャーミーは初めてだろう?それは素晴らしいものだぞ」

大柄で頑丈そうな体つきの老人がぐったりと疲れた表情をして、白い短い髭におおわれた顔を上げた。その老人を気遣うように見上げていた少年がムハンマドに答えた。

「今日はやめとくよ、隊長。じいちゃん、旅の疲れが出て具合悪いんだ。おれ、じいちゃんについててあげなきゃ」

ムハンマドは老人に近づいて、顔を覗き込んだ。

「大丈夫か、アフマド?」

「はい、少し休めば……」

老人は弱々しい声で答えた。ムハンマドは「大丈夫じゃなさそうだな」とつぶやいて、主人の方を振り返った。

「旦那様、上に空いてる部屋はありますか?」

「ああ、3階の南西の隅の部屋が空いとるな。今、案内させよう。おい、ナスル!」

ナーキルは召使いを呼びつけて、老人と少年を部屋に連れて行くよう命じた。

「とりあえず、ここに泊まるといい。よく休めよ、アフマド。ハールーン、頼んだぞ」

ムハンマドの言葉に少年はうなずき、荷物を持つと老人をかばいながら召使いの後について行った。それを見送って、ムハンマドはナーキルの所へ戻って来た。

「あの二人、何者だ?」

歩きながらナーキルはムハンマドに尋ねた。

「旅芸人です、旦那様。ウード*10を弾き、歌を歌うことを生業としている者で」

「ウード弾き?」

音楽の好きなナーキルが興味深そうに聞き返した。

「はい、ラージクの街で会いまして、クニヤまで同行したいというので隊商に入れてやりました。彼らは陸路ジャズィーラへ向かおうとしてたのですが、その道はとても危険で、老人と子供が二人で通れるような道ではなかったのです。それでわたしがシャーム回りで行けばよいと説得して連れて来ました。なかなか上手に演奏するので、旦那様にも見せたいと思いまして……」

「ほう、それはまた、面白そうなものを拾ったな」

微笑みながら言葉を返すナーキルに、ムハンマドはほっとして笑顔を見せた。

「旦那様もきっと気に入ると思いますよ。アフマドの具合がよくなったら、さっそく演奏させましょう」

二人はそれから話題を商売の話に転じて、アザーンが鳴り響く街の雑踏の中へ消えていった。


はじめに ウード Ep 2