4.果てしなき大地 - 中国(1)

ルートマップ・CHINA( '86 ) 地図

◇ クチャ滞在

 クチャでは招待所に泊まると聞かされていた。 招待所は一応政府直営だが、ホテルと違って、ただ人を泊めるだけの施設である。 だから部屋にベッドがあるだけとか、バス・トイレ共同とか、あまり快適でない条件が揃っている。 でも私はインドやパキスタンで経験済だから、多少汚くても不便でも平気と思っていたら、 新しくホテルができていて、そちらの方に泊まれた。

 ホテルと言っても、クチャはウルムチなどと比べてかなり田舎なので、ホテルの質はだいぶ落ちる。 部屋数も少なく、平屋建だ。 バス・トイレは付いていたが、タンクの故障で水が出ず、 ちょろちょろ出ているのをバスタブに溜めて使った。 足りない時は、従業員の娘さんたちが、近くの川に水を汲みに行ってくれた。

 クチャに着いたその日の午後、早速スバシ故城の見学に出掛けた。 今はスバシ故城と呼ばれているが、実際には仏教遺跡。 お寺の跡だ。

 マイクロバスで市街地を抜けると、すぐに広大なゴビ灘となり、 北へ向かってしばらく走った後、舗装道路を外れ、ガタガタの道 (というか、ただのわだちの跡)をまたしばらく行くと、砂煙のもーもーとした中に、 土の魂と化した建造物の残骸が見えてきた。 近づくにつれ、それはあちらこちらに建っているのが解り、かなり大きな遺跡のようだった。

 バスを降り、大きな建物の残骸を見上げながら歩いて行くと、 奥の方に半分崩れたストゥーパがあった。 大きな基部の上に、風で削られ、やせ細った塔部がのっている。 このストゥーパの基部からはミイラが出たとのこと。 基部の崩れた所から、テラスのように広くなっている所に上がると、 塔部にトンネルのような穴が二つ並んで開いている。 中は繋がっていて、よく見えなかったが壁画が描かれていた。

 このテラスからあたりを望むと、この場所は川岸で、 かなり広い範囲に崩れた壁や建物の跡が散らばっていること、砂塵で霞んでいるが、 川の対岸にも同じような遺跡があることが解る。 この寺は玄奘の『大唐西域記』に、昭怙釐伽藍という名で出ている。 一つの河を隔てて二つの伽藍がある、と書かれている(1)ので、 間違いなくこの遺跡の事だ。 たくさんの僧が住み、荘厳だったというこの寺は、千数百年余りの時を経て、 無人の廃墟となり私たちを迎えていた。

 ストゥーパの後はさっきの大きな建物の中を見た。 崩れた壁に囲まれた大きな部屋。 一方の壁に三つ大きな龕(2)が穿たれていて、仏像を安置した所のようだった。 講堂だったのだろうとのこと。なんとなく奈良の寺々や仏像のことを思い出した。

 その後、川岸の崖に掘られた石窟を見せて貰った。 トンネル状の穴の横壁に、幾つか短い横穴がある窟だった。 ほとんど何も残ってないが、かすかな壁画の跡や、刻まれた文字などがあった。 窟を出ると、対岸の遺跡に立つストゥーパが、砂塵の中に相変わらずぽんやり浮かんでいる。 晴れていればもっとよく見えるのだろうが、 こんな風に砂塵に煙っているのもまた風情があるもんだ、などと自己満足しつつ帰路についた。

 次の日の午前中、クズルガハ千仏洞へ行く。 昨日と同じ町の西北に広がるゴビ灘の中をバスで行くと、谷の側の台地状の所に、 高い土の塔があった。漢代の烽火台(のろし場)だそうだ。 側まで行くと、かなりの高さで、10m以上はありそうだ。 よく崩れず残っていたものだ。 回りを見渡せば、白黄土色の低い岩山と谷の連なり。 本当に西遊記の幻想的な世界が現実に現れたようだ。 あるいはSFの世界とも言えそうだ。

 谷を降り、クズルガハ千仏洞へ向かう。 谷を挟んで幾つかの窟が見えた。 46窟あるそうだが、そのうちの六つだけ見せて貰えた。

クチャの石窟寺院の一般的なチャイティヤ窟の構造

 岩山の中腹に穿たれたこれらの窟は、3〜4世紀頃のものだそうだ。 チャイティヤ窟(3)と呼ばれる窟は、入るとカマボコ型の天井を持つ部屋になっていて、 奥にコの字型のトンネル状の回廊が巡らされている。 どの窟も仏像は既になく、壁面いっぱいに描かれている壁画も、 剥がされたり傷つけられたり、痛みが激しい。 皆、各自持って来た懐中電灯で照らしながら、壁画を見て行く。 描かれているのは本生図や千仏図(4)、飛天や菩薩の楽舞図、鳥獣図など。 最後に見た第30窟の、回廊の天井に描かれていた飛天の奏楽図は、ほぼ完全に残っていて、 色も褪せてなくとてもきれいだった。

 こんな貴重なものを、私のようななんでもない一般市民にも見せて貰えるなんて、夢のようだ。 つくづく仏縁があったのだと思う。 有り難いことだなぁと心の中で手を合わせた。

 午後はクチャ大寺、亀茲故城、バザールを見学する。 クチャ大寺は町一番のイスラムのモスクだが、あまり古いものではないようだ。 立派なドームとミナレット(モスクの塔)を持つ門を入ると、広場になっていて、 左側に本堂がある。 門はレンガ造りだが、本堂は木造である。門の位置といい、本堂と門のミスマッチといい、 随分変わったモスクだ。

 亀茲故城の遺跡は、林の中に城壁が残っているだけだ。 古の亀茲の町は現在の町の下にあるとのこと。 城壁の上を散策していると、子供達が物珍しげに寄って来た。 目の青い子がいる。 ウイグル族は同じトルコ系のカザフ族と比べて、西方っぽい顔立ちをしている人が多い。 目が青く肌の白い子供や、彫りの深い美しい顔立ちの娘さんをよく見る。

 バザールは小規模ながら、あらゆる日用品、食料品が売られ、賑わっていた。 バザールを歩くのは楽しい。 お店をひやかしたり、屋台の食べ物屋を覗いたり……。 無人の荒野の中で、オアシスの中にだけ人の温もりがあり、 バザールの中にだけ人の賑わいがある。 バザールで人々の熱気に接していると、何故だか元気になるような気がする。 東京の雑踏や人込みの中で、疲れてしまうのとは正反対だ。 ガイドのムラテ氏に人民元(5)を借りて、ネチプール(いくら)という言葉を教えて貫い、 ウイグル族の帽子を買う。 中国で、個人のお店で物を買うのは初めてだ。 うれしかった。

 3日目は一日かけて、キジル千仏洞の見学をした。 また町の西北のゴビ灘を走り、その北にある山の中に入って行く。 低い岩山が連なるその一帯は塩水溝という所で、岩山は全て圧し曲げられ、 斜めになった地層を剥き出しにして、竜の骨のようにとげとげしい山稜がうねり押し寄せ、 聳え立っている。 ここもまた、この世のものとは思われない荒涼とした風景で、 やっぱり孫悟空が飛び回る世界だ。

 そこを過ぎ、またゴビ灘の中を今度は東へ進むと、河が流れていて、 その崖の縁にキジル千仏洞はあった。

 ここはクチャで一番大規模な石窟寺院で、窟の数は230余りだという。 大体3世紀から7世紀にかけて造られたそうだ。 私たちはその中で11窟見せて貰うことができた。 クズルガハよりも保存状態が良く、緑や青の色がきれいだ。 特にきれいだったのは第38窟。 最も古い時代に造られたものの一つで、カマボコ型の天井に描かれた本生図やその下の菩薩の奏楽図、 入り口の上に描かれた交脚の弥勒菩薩など、素人目にも素晴らしいものであることが解る。 ムラテ氏が日本語の本を読みながら、本生国の代表的なものを幾っか説明してくれた。

 他に特記すべきは第76窟。 この窟はドーム天井の小さな窟だが、壁画は天井の一部を残し、 全てきれいに剥がされている。 ドイツの探検家グリュンヴェーデル、ル・コックにやられたと注記してある。 中国ではこういうものは必ず観光客に見せるようだ。 外国が中国に何をしたのか見て下さいと言わんばかりである。

 午後、近くの千涙泉という所へピクニックした。 両岸に石窟が見える深い谷を溯って行くと、谷の奥は断崖絶壁になっていて、 中段から水が幾筋も湧き出ている。 なかなか絶景である。 自分にとっては、そこまで歩いて行ったということが有意義だった。 あの白っぽい黄土色の岩山の深い谷を歩いていると、 自分が三蔵法師になったような気分がした。 実際に肌で感じられるような体験だったのが良かったのだ。

 その夜、クチャの歌舞団の歌と踊りを見ることができた。 古代、クチャの音楽は有名だったそうだ。 昔と今では民族が違うが、音楽好きであることに変わりはない。 アップテンポのリズムと、クネクネした節回しの歌はインドのものに少し似ている。 最後に一緒に踊らされて冷汗かいたが、民族楽器や民族音楽が大好きだから、 こういう催しをやってくれるととても嬉しい。

 クチャの滞在は楽しかった。 特にホテルが良かった。設備は旅行中最悪のものだったが、 最もシルクロードの雰囲気が出ていたホテルだったのだ。 従業員のほとんどがウイグル人だったこともあって、料理はウイグル料理だったし、 建物は平屋で中庭を囲んで建てられ、ちょっとキャラバンサライ(隊商宿)を思わせるものだった。 夜は男の人達が、部屋の前の回廊状のテラスで星を見ながら酒盛りをしていたが、 その話を聞きながら、昔のキャラバンサライもきっとこんなだったに違いないと思った。 今も昔も変わらず、旅人たちはこんなふうに旅の夜を過ごすのだろう。

 クチャ滞在を終え、一つ大きな山を越したという感じで、私たちは再び西へ向かって砂漠の中へ飛び出した。


(1)昭惜麓伽藍の記述について
『玄英三蔵の旅 大唐西域記1,2』(水谷真成訳 平凡社刊)を参照した。

(2)龕
仏像や仏塔を安置するための岩壁に掘られた穴室のことをいう。 石窟寺院や普通の寺院でも仏像が安置してある壁のくぼみを龕といっている。

(3)チャイティヤ窟
礼拝堂のこと。 これに対し、僧房として使われた窟はヴィハーラ窟と呼ぶ。 元来インドの石窟寺院(アジャンターなど)では、 チャイティヤ窟とは仏塔をまつる堂で、形も奥が半円形になった細長いものだった。 その半円部の真中に仏塔が置かれ、人々はその回りを巡って礼拝していたのだ。 その後仏像が出現し、仏教が東へ伝わる過程で石窟寺院の形も変化し、 クチャではこのような形式になった。 しかしトンネルの回廊によって、仏塔・仏像の回りを巡って礼拝する形は残されていることが解る。 それからクチャの幾つかのチャイティヤ窟では入ってまず正面の釈迦如来像 (釈迦の生きている像)を拝み、トンネルの奥で涅槃像 (釈迦の亡くなったときの像)を拝み、更に窟を出るとき入口上部に描かれた弥勒菩薩像 (未来に出現する仏の像)を拝むようになっていて、 礼拝に一つのストーリーを持たせているのが大きな特徴である。

(4)本生図、千仏図
本生図とはお釈迦様の様々な前世の様々な善行を説いたお話(ジャータカという)の図。 千仏図はこの世に現れる千の仏様を一つ一つ描き現した図。 この他に仏伝図というのもあって、これはお釈迦様の伝記を絵解きしたもの。 クチャや敦煌の石窟にはあまりないが、ガンダーラの浮彫り彫刻には仏伝図が圧倒的に多い。

(5)人民元
中国には二種類の通貨がある。 一つは中国の一般市民が使っている人民元(人民幣)。 もう一つは外貨と両替できる専用のお金で外貨兌換券(外匯・ワイフイ)という。 外国人旅行者は外貨から両替するので兌換券しか持てない。 観光都市ではどちらも同じように使えるが、 このとき田舎のクチャでは兌換券が使えず人民元に替えて貰ったのだ。 ちなみに2年後の旅行ではどこでも問題なく使え、 むしろ兌換券を持っていると外貨でしか買えないような高級品が買える利点から、 民間の両替屋(彼らは「チェンジ・マネー?」と寄って来るのでチェンマネ屋と呼ばれる) に付きまとわれるほどだった。 旅行者が人民元を持つと再両替はできなくなるが、安く旅行できるのでチェンマネ屋の商売が成り立つのだ。

キジル千仏洞の千涙泉の伝説

 千涙泉には一つの伝説がある。
昔ある青年がお姫様と恋をして、
王様に結婚を申し込んだが身分の違いで認められなかった。
青年は諦めず何度も何度もお願いして、
やっと千の石窟を掘れたら結婚を認めるという許しを得た。

 青年は石窟を掘って掘って掘り続け、
999窟まで掘ったが最後の一つを掘ることができず死んでしまった。
お姫様は悲しんで千の涙を流したそうな。

 青年の掘った石窟がキジルの石窟で、
お姫様の涙は泉となって今も流れ続けているんですと。

− おしまい −


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