3.仏陀とイスラムの国・パキスタン

ルートマップ・PAKISTAN( '83 ) 地図

◇ 花の都

 ラホールから夜行列車でペシャーワルへ行った。 パキスタンでは列車よりバス輸送の方が盛んらしく、 駅も列車もインドより整備されてなくて、薄汚い感じだった。 一応、レディース・コーチ(女性専用車)があって、 女ばかり詰め込まれた客車に私たちも入れられたが、 既に座席も通路も人が一杯で、通路にわずかな隙間を見つけて座り込むしかなかった。

 一晩中、すし詰めの列車の中で身動きもできず、 揺れる度に回りの太ったオバサンたちにもみくちゃにされ、 子供の泣きわめく声やオバサンたちの怒号は止む事なく、さながら阿鼻叫喚、 とても眠れたものではなかったが、 それでもほんの少しうとうとしてる間にようやく夜が明け、 途中のラワルビンディに着いた。 乗客の大半はここで降りてしまい、私たちはやれやれといった感じで空いた席を確保し、 夜半の睡眠不足を解消する体勢に入った。

 ラワルピンディからペシャーワルまで、列車はガンダーラ平原の中を進む。 寝不足で疲れていたけれど、もうここはガンダーラなんだと思うと妙に興奮して眠れず、 目は窓の外の風景を追い続けた。 風景は、何もない平原が続いたり、丘陵地帯を抜けたりと、 普通の人が見たら面白くも何ともないものだったが、私にとっては特別だった。 今まで本の中だけの世界だったものが、今現実に目の前にあってそれを見ているのだ。 どうして興奮せずにいられようか。

 ペシャーワルにはお昼頃着いた。 窓が開けっ放しだったので、砂ぼこりで真っ白になってしまった。 インドよりは乾いているという感じだ。

 通りすがりの日本人の紹介で、日本人旅行者の常宿といった感じのカイバルホテルに落ち着いた。 建物の3、4階がホテルで、しかも4階の真ん中が吹き抜けになっていて、その部分は天井もない。 3階も4階も、天井がない部分を囲むように部屋があり、4階の吹き抜けに面した一角がテラスになっている。 随分ぜいたくな造りだが、夕方、テラスでチャイを飲み、 暮れゆく空を眺めながら涼んだりしていると、誠に気持ちの良い所だった。

 ペシャーワルは歴史の古い町である。 紀元1〜2世紀に最も盛んだったクシャーン朝の王都で、当時はプルシャプラと呼ばれていた。 当時の遺跡は現在の街の真下にあるので、発掘調査などは行われていないそうだ。 そのことは前に本で読んでいたので、街を歩きながら、 この足の下に一体どんな遺跡が眠っているのだろうと考えたりしていた。 プルシヤプラとは“花の都”という意味だそうで、 きっと花と緑に囲まれた華やかで賑やかな都だったのだろう。 しかし今は何の変哲もない、のんびりとした田舎町で、新市街の大きな並木の群やかな緑と、 旧市街のバザールの賑やかさだけが、昔もこんなだったのかしらと思わせるものだった。

 新市街にある博物館を見てしまえば、市内観光は終わりで、後はもっぱらバザール見物に時間を費やしていた。 旧市街にあるキッサ・カワニ・バザールは名の知られたバザールで、人出も多く、 その奥の方は入り組んだ細い道に店が立ち並び、いろんな店を覗きながら人込みを縫って歩くと、 気分はすっかりシルクロード、♪ちょっと振り向いてみただけの異邦人〜♪なのだ。

 ここには3日間通って、写真を撮ったり、買物をしたり、お茶を飲んだりした。 買ったのは真鍮の皿やつぽ、石の置物等だが、人出が多い割には店は静かで売ってやろうという熱気がない。 インドやネパールでは店の前を歩いていると、「ヘロー、ジャパニ」と呼び入れられることが多いし、 値段の交渉が折り合わなくて店を出ようとすると、引き戻されて再交渉なんてこともザラだが、 ここではまけろと言っても全然まけてくれない。 まけてくれないなら、いらないと言ったらそれっきり。 インドのように、じゃあいくらにするから買え、なんて事にはならなかった。 この違いは国民性の違いなのか、彼らが観光客ずれしてないからなのか、 それともただ単にこちらの粘りが足りなかっただけなのかよく解らない。

 それにしてもインド人とパキスタン人の違いというのは確かにある。 インド人が概して陽気でエネルギッシュなのに対して、パキスタン人はおとなしい。 悪く言えば陰湿と言えなくもない。 もちろん、短い滞在の間に感じた印象なので、本当の所どうなのかは解らない。

あるチャイ屋の店先

 チャイ屋にはよく行った。 バザールのあちこちにあり、大きなサモワール(1)が どん!と置いてあるのが目印である。 チャイは普通、香料入りのミルクティだが、ここにはカワ・チャイと呼ばれる緑茶があった。 ほうじ茶のような茶色の普通のお茶だが、砂糖と香料を入れて飲む。 日本茶とは全く別の趣である。

 お茶の葉は中国から輸入されるらしい。 カラコルム・ハイウェイ(2)開通後、中国との交易は盛んらしく、 陶器のカップは中国製だし、中国製のトイレットペーパーが売られているのには感心した。 山を越え、谷を渡り、はるばるやって来るこれらの品々には、 確かに現代のシルクロードというものを感じさせられた。

 ペシャーワルから西へ向かうと、カイバル峠を越えてアフガニスタンに入る。 古来、多くの旅人が行き来し、アレクサンダーも玄奘三蔵(3)も通った道だが、 アフガン内戦後は閉ざされ、峠を越えることはできない。 行けないと言われるとかえって行きたくなるもので、 カイバル峠のある西の山の向こうに沈む夕日を見て、 あの山の向こうがアフガンなのに今はあまりにも遠いなあ、などと嘆いたりして、 アフガンへの思いは募るばかりだった。 せめてもの慰めは、ペシャーワル旧市街にあるアフガン・レストランでアフガン料理を食べ、 アフガンの雰囲気を少しだけ味わえたことだ。

 ペシャーワルは現実の世界となったが、そこから先はまだ本の中だけの世界のままであった。 いつか現実の世界として目の前に現れてくれる時が来るだろうか……。



(1)サモワール
ロシア風の大きくて丸っこい形の金属製の湯沸かし器。 ペシャーワルのバザールではサモワールが目立っていたが、 他の町にもあったかどうか記憶が定かでない。 しかし、ロシアの支配も影響も受けてないはずのこの町に、 なんでサモワールが普及しているのだろう……。

(2)カラコルム・ハイウェイ
パキスタンのラワルピンディからインダス河沿いに北上し、 カラコルム山脈を抜けて中国のカシュガルに至る、全長約1200kmの国際幹線道路。 中国とパキスタンの交易のための重要な幹線道路であり、我々旅行者にとっては、 往古のシルクロードを忍ばせる観光道路でもある。

(3)玄奘三蔵
中国の唐代の僧。 27才の時、仏法をインドへ行って得ようと決意し、 当時唐では外国への旅行は禁法だったが密かに出国、西行し、西域諸国、 インド諸国を歴訪し、インドで学問を修め、16年後に唐の長安に帰り着いた。 彼の旅行の詳細は、自身が記した『大唐西域記』と彼の伝記である『大慈恩寺三蔵法師伝』に記されている。 孫悟空の出てくる『西遊記』は玄英の伝記を元に後世に作られた作り話であるが、 『西遊記』によって玄英の名は広く知られるようになった。


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