3.仏陀とイスラムの国・パキスタン

ルートマップ・PAKISTAN( '83 ) 地図

◇ あこがれの国

 私がシルクロードの国々を旅行したいと思い始めたのは、高校2年か3年の頃だったと思う。 その頃は僻地専門の旅行会社が、 シルクロードツアーと称してアフガニスタンやイランを回ったり、 アジア大陸横断と銘打って、トルコからインドまでバスで走破するツアーなども、 よく新聞広告に載せていた。 大学生になったらアルバイトしてお金をためて、 こういうツアー旅行でアフガニスタンへ行こうと考えていた。 しかし、私が高校を卒業する年、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻し、 旅行できる状態ではなくなってしまった。

 大学生になって世界旅行研究会というサークルに入り、いろいろな旅の情報を聞くうちに、 それではせめてアフガニスタンの隣の国、パキスタンへ行ってみたいと思うようになった。 お寺へ行って仏像(特にお顔のきれいな像)を見るのが趣味となったのもその頃で、 よく奈良へ仏像を見に行っていた。

 仏教はインドからシルクロードを通って日本に伝わっている。 仏像もまた然りで、アフガン以東のシルクロードの道筋には、 たくさんの仏教遺跡や仏像が残されている。 特にパキスタンには、最初に仏像が造られた所と言われるガンダーラ地方から多く出土した ガンダーラ仏(1)があり、このガンダーラ仏はヘレニズム文化(2)の影響を受け、 ギリシャ彫刻のように美しいお顔をしているので、私としては是非、 本場で本物を見たいという願いがあった。 それと同時にパキスタンは、当時学んでいたイスラム文化へのあこがれも充分に満たしてくれる場所でもある。 自分の親しんでいる物(仏教と仏像)のルーツを探し、かつ、 自分の知らない異文化(イスラム)に触れる……言わば一挙両得ができるのも、 東と西の接点であるパキスタンならではである。

 念願のパキスタン行きが叶ったのは、1983年の夏。 旅のベテランOさんがインド旅行の帰りにパキスタンへ寄りたいと言うので、 デリーで合流して一緒に行くことになった。 イスラム圏での女性の一人旅(3)は、 絶対に危険だからやめるようにというのが当時の鉄則で(多分今もそうだと思う)、 Oさんという同伴者ができたのは全くラッキーだった。 鉄則を破ってまで一人で行く勇気はまるでなかったし、Oさんが行くと言ってくれなければ、 ありきたりのツアー旅行で満足するより他になかった。 実際は旅行が決まってからも、デリーでちゃんと落ち合えるかどうか確証はなかったので、 もし会えなければパキスタンは諦めようと覚悟して出掛けたのだった。 幸いOさんと無事に会え、計画通り、あこがれの国へ足を頼み入れる事ができた。

 陸路で国境を越えるのは初めての経験だった。 デリーから国境の町アムリトサルまで列車で行き、そこからバスで国境まで行く。 道は突然、ゲートで仕切られていて、その前でバスを降ろされる。 国境通過は徒歩で行うのだ。

 ゲートをくぐり、道の脇にあるイミグレーション・オフィス(出入国管理事務所) で出国のスタンプを押して貰い、パキスタンに向かって広い道路を歩いて行く。 すぐそこが国境かと思っていたが、実際はそのゲートから国境まで、まだ大分距離がある。 300m位はあっただろうか、炎天下、汗はグラダラ、荷物は肩に食い込み、随分長く感じた。 やっと国境に辿り着くと、そこには1m位の間隔をおいて、赤い門と緑の門が向かい合っている。 INDIAと書かれた赤い門を出て、国境線をまたぎ (道路に線が引いてあったような気がするが定かではない)、 PAKISTANと書かれた線の門を入れば、もうそこはパキスタンである。

国境(ワガ)にて・ポーターたちと

 国境線を越えること自体はえらく簡単であっけないもので、 仰々しく門が向かい合っているのが滑稽に見えるはどだ。 しかし、パキスタンの門を過ぎると、 そこに立っているのはイスラム風の見事なターバンを巻いた番兵で、 ここからはイスラムの国だぞ!ということを誇示しているように思える。 そして国境での手続きを終え、バス乗り場に来てみると、 それまでインドで見慣れていた車アンバサダーはトヨタやスズキにとって代わり、 茶店にはカンパコーラ(4)ではなくペプシが売られている。 ギンギラギンに飾り立てられたバスのフロントガラスには、アッラーフ(5)と書かれた額。 たった一本の線をまたぎ越えただけで、まるで違う世界になってしまうのが不思議だった。

 このあたりのインド人もパキスタン人も人種的には同じだし、 緑の大地だって変わらないはずなのに、人の顔も風景までも違うように見えてしまう。 国境線は人為的に引かれた線だけど、計り知れない影響力がある。 しかし島国育ちの私にとっては、国境の概念が感覚的にどうもよく解らない。

 バスでラホールの町に入った。バスの中で、ああこの道はアジアハイウェイの一部で、 アフガニスタンやイランにまで続いているんだなぁ、 なんてロマンチックな気分に浸っていたが、町に入れば宿探しetc.という現実が待っている。

 町の感じもインドと違ってイスラム一色である。 アラビア文字で書かれた看板。 膝まである長いシャツにだぶだぶズボン=伝統的なパキスタンスタイルの男たち。 ベールを被った女たち。 町の真ん中に鎮座するモスク。 私たちが町を歩けば、ひまそ−にぶらぶら歩いている若者たちが、 必ず好奇の目で振り返り、口笛を吹く。 それはもちろん、私たちが美人だからという訳でなく、 ただ外人の女が珍しいからに過ぎない。 無論余り良い気はしない。

 バードシャヒモスクというムガール朝に建てられた立派なモスクを見物に行ったとき、 モスクの塔の階段でOさんは早速痴漢に遭った。 話には聞いていたが、やはりパキスタンはそういう国なのだ。 予備知識はあったから幻滅はしなかったけど、 あこがれだけでは旅行できない現実というものに、 気を引き締めなければと思わされた事件だった。

 夕方、外で食事をしているとき、近くのモスクから流れる、 礼拝を呼び掛けるアザーン(6)を聞いた。 不思議な節回しの付いたその声は、たそがれてゆく高く澄んだ空に昇っていった。 そのイスラムの国ならではの情景に、私の心はまたもや現実を離れていた。 やはり、あこがれだけでは旅行できないけれど、現実だけでも旅行できない私であった。


(1)ガンダーラ仏
ガンダーラは現在のパキスタン西北部ペシャーワル県あたりの古名。 ペルシャ、バクトリア、クシャーン朝等の支配を受けていた。 クシャーン朝の頃、インドから伝わった仏教文化とギリシャ人によってもたらされたヘレニズム文化との混交が行われ、 それまで造られることのなかった仏陀の像がギリシャ彫刻風に造られるようになった。 この1c〜5cにクシャーン朝下のガンダーラ地方で造られた、ギリシャ風の容貌を持つ仏像をガンダーラ仏という。

(2)ヘレニズム文化
ヘレニズムは広義にはギリシャ精神を指し、狭義にはアレクサンダー大王の東征と、 その部下たちがその領地を分割統治した時代の文化を指す。 この場合は広義のギリシャ文化を言う。 ギリシャ人の文化はアレクサンダー大王の東征によって、 各地の文化に影響を与えながらそれらに吸収された。 ガンダーラ文化もその典型的な一例である。

(3)イスラム圏の女性の一人旅
イスラム社会においては、性に対する考え方が非常に厳格で抑制が強い。 男女が席を同じくすることは全くなく、男性は家族以外の女性にみだりに接触してはならないし、 女性が外出するときは、肌を出さず顔を隠すようにしている。 結婚は親の決めた相手とし、自由恋愛もままならない。 したがって、そうでなくても情熱的なあちらの若い男たちは抑圧された状態にある訳で、 そんな中に肌もあらわな異国の若い女性が一人で飛び込んで行けば、 やはり危険と言わざるを得ないでしょう。 でも、そこの所をよく心して、一人で無事に旅行している女性を私は何人も見ましたけど……。

(4)アンバサダーとカンパコーラ
アンバサダーは純インド産の大衆車。 カンパコーラはコカコーラのインド版。 インドは輸入に頼らない政策を取っているらしく、国内の車は全部国産車。 世界各国で飲まれているコカコーラも輸入していない。 しかしカンパコーラのマークはコカコーラのマークを似せて作ってあり、 なんとなくおかしい。

(5)アッラーフ
イスラムの唯一神の名。通常アラーの神と言われているが、 イスラムではアッラーフという言葉が神を意味し、アッラーフ以外の神は存在しない。 イスラム世界ではクルアーン(コーラン)の第一章や、アッラーフ、 ムハンマド(預言者マホメットの正式な呼び方)と書かれた掛け軸や額がよくお守り代わりに掛けられる。

(6)アザーン
礼拝の時刻を告げる呼び掛けのこと。 モスクの塔の上に呼び掛け人が登り、肉声で呼び掛けるものだが、 最近は塔にスピーカーを取り付けて、拡声している所がほとんどのようだ。


戻る (C)Copyright 1998 ShinSoft. All rights reserved. 次へ