2. ひとかけらのインド

ルートマップ・INDIA( '81,'83 ) 地図

◇ 夕暮れの感傷

 1983年7月、3度目の海外旅行で、私は再びインドの地を踏んだ。 この時はメインの目的地パキスタンへ入る時と出た時に通っただけだったが、 それでもシーク教徒(1)の聖地アムリトサルと チベットのダライ・ラマ(2)が亡命して住んでいるグラムサラ、 それにジャイプールを回り、全部合わせれば 12,3日位は居た。

 前回と同じくバンコクから、今度は一人でデリーにやって来た。 旅のパートナーで、インド旅行のプロである。 さんが空港に迎えに来てくれて、無事に夜の市内に入ることができた。

 Oさんはインドが大好き。 この時はすでに2カ月もインド中を回って来ていた。 旅行中、彼女から教わることはとても多かった。 私は、インドは大好きだけど決して染まってしまうのではなく、 いつも自分のスタンスからインドを見ているという彼女の旅の姿勢に敬服していた。 人間、染まるのは簡単だけど、好きでなおかつ距離を保つことは、 なかなか難しいことなのだ。

 彼女と旅行していて驚いたのは、リキシヤに乗るにも物を買うにもあまりトラブルがなく、 いつもスムーズにできることである。 前回、こういう場面でトラプってはインド人に腹を立て、イラつき、 インド人不信に陥ってしまったのが嘘のようだ。 自分でやってみると、やっぱり上手く交渉できないので、 インド人は相手をインド慣れしているかしていないか、 素早く見分けて応対しているのかしらなどと考えてしまった。 しかし彼女のインド人とのやり取りを見ていて、要は構えたりせず、 肩の力を抜いて、少々のことでイラついたりせず、楽しくやれば良いのだ (たとえボラれたにしてもだ)ということが解ったので、 後で一人になったときやってみたら、なんとかスムーズにできるようになった。

 それから彼女はどんどん市内バスを使う。 これも前回経験しなかったことだ。 前回は人数も3人だったので、市内の移動は全てタクシーかリキシャだった。 しかしバスを使えば料金は10分の1以下である。 バスマップなど持ってなかったが、バス停で尋ね、バスの中で尋ねながら、 何とか目的地にたどり着いてしまうOさんには、旅慣れた人の貫禄というものがあった。

 Oさんの後にくっついて、デリーからすぐに国境の町アムリトサルへ行き、 陸路パキスタンに入り、再びアムリトサルの町に帰って来たとき、 改めてインド人のエネルギッシュなパワーに圧倒された。 地続きの隣同士の国で、人種的にもそう変わりがないはずなのに、 パキスタン人はインド人よりも数段静かでおとなしく感じる。 なぜインド人はあんなにパワフルなんだろう。

 人に限らず、インドに生きている動物や大地そのものにも人間と同様、 ふてぶてしいはどのたくましさがある。

 アムリトサルからグラムサラまで行くバスに乗っていたとき、 道路の真ん中を何羽かの鶏たちが、何かをついばみながら悠然と歩いているのを見た。 そこへバスはビービーとけたたましくクラクションを鳴らして突っ込んで行く。 一瞬、鶏たちは慌ててヨタヨタと逃げ回り、道の脇に退いたが、 また何事もなかったように悠然とついばんでいる。 バスも何事もなかったように走り過ぎて行った。 これを見ていて、私は何故か、ああ、インドという国は、 きっと世界の終わりが来ても何食わぬ顔で生き残り、 相変わらずパワフルに日々暮らしていくんじゃなかろうか、 なんてことをため息をつきながら考えてしまったのだった。 ふてぶてしいほどのたくましさというのは、まぁこんな感じなのである。

 いつもいつもインドの力強さに圧倒されていたけれど、一方で別の面があるのも感じていた。 それは優しさだ。 雑多な物を全てそのままで包含してしまう、インドの性格が持ち合わせているものだ。 インドで優しさを感じるとき、私の心も穏やかになる。 例えば吹き抜ける風に優しさを感じた時、昼間の狂暴的な暑さから解放され、 和んだ空気に包まれる夕暮れ時。真夜中の激しいスコールに目が覚めた時、 ベッドの中で雷と雨の音を開きながら、何故か優しい思いに満たされたこともあった。

 アムリトサルでインドの凄さを再確認してしまった後 (インド好きのOさんはやっぱりインドはいいなぁー、なんてウキウキしていたけど)、 ターバンに髭面のシークのおっちゃんたちばかりのこの町から一転して、 チベット人たちの住んでいる町グラムサラヘ行った。 グラムサラは山の中の町で、元からチベット人の居住区だった訳でなく、 ダライ・ラマがここに亡命して住んでから、言わば難民村のようにしてできた町らしい。 乾季ならば遠くにヒマラヤを望むこともできる所だが、その時は雨季の最中で厚い雲の中、 それまでの町では雨季と言えど一度も降らなかった雨が、ここでは当たり前のように降った。

 グラムサラはそれまでのインドの町とはまるで違っていた。 強い日差しと乾いた大地、彫りが深くてギョロ目で迫力ある顔のインド人、 毎日食べる火の出るような辛いカレー、それがここにはまるでない。 篠突くような雨、日本のような深い山林、穏やかなチベット人の顔、 チベット料理は辛くない……。 ああ、この辛くないチベット料理がどんなに有り難かったことか!!

 居心地が良いのだろうか、白人のヒッピーたちがたくさん居た。 住んでいるチベット人より多いような感じだった。 見るべき物も特にない、何もない小さな町にたむろしている彼らの存在は、 とても奇異な感じがした。 彼らの存在によって、町の雰囲気はインドでもチベットでもないものになっていた。 私たちは二泊しただけで、グラムサラを離れた。

 アムリトサル経由でデリーに戻ったが、私はデリーを発つ日までまだ間があったので、 デリーに用事があるOさんと別れて、 一人でジャイブールへ行ったO海外で全く一人で行動するのは初めてだったから、やっぱり緊張した。 バスターミナルが解らなくてウロウロしたり、ジャイブールに着いてからも、 ホテルを決める時、リキシャのおじさんとあ−だこ−だとやり合ったり、一人だと大変だ。 まだ夜でないだけ良かったけれど。

 ジャイブールはマハラジャ(3)の住んでいた町。 宮殿のある旧市街は城壁と城門で囲まれ、 建物は赤砂岩で造られているのでピンクシティと呼ばれている。 早速、その旧市街を見に行ったが、人が多くてとても騒々しい街だった。 観光都市なので土産物屋の客引きが物凄い。 甘ちゃんの私などはすぐ店に引き込まれて、あれこれ買わされてしまう。

 夕方、宿に帰るときは、車の渋滞でなく人の渋滞に遭遇した。 リキシャ、人、荷車などが広い道一杯にあふれ、ひしめきあっているのだ。 壮観だったけどとっても疲れた。 街の騒々しさ、商人たちのけたたましさ‥‥‥。 私は独りぽっちで疲れ果て、しょぼくれていた。 一人旅って根性ないとできないんだなぁと思った。 しかし、次の日再び街の中を歩き回り、駅へ行って切符を買ったり、 宮殿へ行って見物しているうちに、そういう状況に段々慣れてきている自分に気が付いた。 独り歩きってそんなものなんだろうか……。

 私の独り歩きはたったの一泊二日で終わり、その夜の夜行でOさんのいるデリーに帰った。

 Oさんとは私がデリーに戻った次の日の夕方、再び別れた。 私はデリーから帰国し、Oさんはカルカッタから帰国するためだった。 駅まで見送りに行った。 Oさんとは女同士、旅の間中いろんな話をした。 教えられたことも多かったし、とても楽しかった。 だから別れはやっぱり寂しかった。

 Oさんを乗せた汽車が汽笛を鳴らしてゆっくり走って行く。 折しも空は夕暮れ。 絵に描いたようなセンチメンタルに浸ってしまった (けど女同士じゃ絵になんかならないか……やっぱし)。

 それだけでなく、2度目のインドの思い出は夕暮れ時のものが多い。 最初に入ったデリーでは、日の落ちた後の、次第に暗くなっていく青い空を見上げて、 ああインドの空は広いなあ、としみじみ思った。

 アムリトサルでは、シーク教の総本山であるゴールデンテンプルに夕方行った。 金色の寺院と沈む夕日がとてもきれいだった。 ちょうどお祈りの時刻で、ハルモニウム(4)とタブラを伴奏に、 朗々とした祈りの歌が夕暮れの空に響き、 池の水面に揺れていた。静かで厳粛で穏やかな、心に染み入るような情景。 しかし、自分はと言えば、たくさんの信者の中に混じっている異教徒の自分にためらい、 とまどいを感じていた。

 ジャイブールでは自称26歳で既に二段腹のおじさん (自称26だがどう見てもおじさんなのだ)に、夕方、 バイクで丘の上の城跡に連れて行って貰った。 孔雀の遊ぶ庭を抜け、崖の上のテラスに行くと、眼下にジャイプールの街が一望に見渡せた。 街は夕日を洛びて輝いていた。 素晴らしかった。 隣にいる人がおじさんではなく、もっと素敵なヒトであればもっと良かったのに……。 帰りがけに見た連なる丘の向こうに沈む夕日も、アムリトサルの夕日に劣らずきれいだった。

 そして再びデリーで、明日はもう帰るという最後の日の夕方、 壷くて短かった旅の最後であるが故に、特別、感傷的な気分で眺めた夕暮れの澄んだ空、 夕もやに包まれた街。 どれも忘れられないインドの優しい思い出だ。

 私のインド滞在は短かった。 だからインドとはああであるとかこうである、などと論じる資格はない。 しかし、結局インドとはと何度も書いてしまった。 まったくもってインドとはそういう国なのだ。 たとえ滞在が3日だろうと1日だろうと、その国の人々に触れ、自然に触れれば、 インドとはと考えずにはいられない国なのだと思う。 そしてほんの僅かでも、そこで考えたこと、感じたことは強烈な光を放ちながら心に残る。

 私が体験したインドは、大きな大きなインドのほんの一部分、ほんのひとかけらだ。 しかし、そのひとかけらは、今もなお心の片隅に、 ダイアモンドのかけらのように明るく光り輝いている。


(1)シーク教
16c初めにヒンドゥー教の改革派として始まった宗教。 イスラムの影響を受け、一神教的で偶像を否定し、カースト的な階層制に反対した。 総本山はアムリトサルのゴールデンテンプル。 教団は軍事的な色彩が濃く、イギリスと戦争したこともある。 その教えにより髪を切らず、ターバンを巻いている。 インド人のターバン姿のイメージはシーク教徒のものなのだ。

(2)ダライ・ラマ
チベットの宗教、政治の最高権力者。 転生によって雑承される活仏とされている。 選ばれた転生者は代々ダライ・ラマを名乗っている。 現在の14世ダライ・ラマは1959年のチベット暴動の際、インドに亡命し、 今日に至っている。

(3)マハラジャ
マハラジャは“大王”の意味。 ムガール帝国時代からイギリス統治時代にかけて、 地方諸国を治めていた諸侯を藩王=マハラジャと呼ぶ。 ジャイプールのあるラージャスターン州にはマハラジャの治めた藩王国が多くあった。

(4)ハルモニウム
インドの楽器。足踏みオルガンをポータブルにしたもので、 足の代わりに手で空気を送り込んで鳴らす。 声楽の伴奏などによく使われる。


★★ 列車の旅で思い出すこと(インド) ★★
ぞうさんタクシー
★★★


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